凍結してる間に鈴奈庵が完結し、整数原作が四つくらい出て、反則探偵が始動し、里に怪しげな居酒屋が出現し、七部がアニメ化され、紅魔郷のリメイクが決定しています。
アレですね。世界を売った男。そのうちボウイの話もすると思います。ジョニィはアクセルロウですけど。
森から帰ってきた日以来一週間が過ぎた。
あの夜から僕は夢を見ていない。
彼らはどこへ行ってしまったのだろうか。今日の朝は目が覚めた瞬間から、一週間ぶんの不安が無形を為して枕元に積もっているふうに思えた。ずっしりと重たい何かが、確かに僕の頭を押さえつけているようで、しばらくはまぶたの上、額にその嫌なオモシを感じていた。自分でもびっくりするぐらいに緩慢な動作で額に手を当てては、そこに何もないことを確認して目を閉じる。開く。閉じる……開いて……
部屋には東からの陽が強く差し込んでいる。魔理沙の言ったとおり、もう雨の季節は終わったらしい。近頃は朝から肌にまとわりつくような熱気が部屋にこもっていて、それで僕は目が覚めるとすぐに布団から自分自身を追いやらざるをえなかった。でも、今日ばかりはすぐに起き出す気分にならない。
薄目を開いて、障子が畳に落とす影を眺めながら、ふと僕は一週間前に魔理沙に言われたことを思い出した。僕の記憶は焚き火の残滓で、確かに身体のどこかにはあるけれど、無理に引き出そうとあがいたってどうにもならないとか、そういうネガティブな考え。分かってる。それはまったく逆で、彼女はむしろ前向きになれ、と言ってくれたんだ。でも、この胸の内にあるものを諦めきれない僕にとっては、彼女の言葉は大きな逆向きの矢印を描いて見えている。
都合のいいことばかりを望んでいたってどうにもならないけど、このジョニィ・ジョースターにはとりあえず、寄り添ってくれる人がいる。それも「僕の思い通りにならないからこその、善き理解者」になってくれるかもしれない人たちがいる。
十分に恵まれ、また祝福されていることを理解している、いや理解しようとしているのに、今の僕は半分くらい現実から目を背けていて、過ぎ去った不明瞭な記憶の中の人々を見ようとしていた。それが歯がゆくてならない。わかっていて、割りきることができない自分が憎くもあった。
「自分は?」
「彼女たちは?」
「ジャイロ・ツェペリは?」
「ジョニィ・ジョースターは?」
この一週間というもの、こうして自分の内面にあるものをひとつひとつ取り上げてはもとに戻し、取り上げては戻しを繰り返していた。一つを振り払えばまた一つが浮かび上がり、一つ確かめれば他方のビジョンは淀みに沈んでいく。 頭の中にそんな淀みを並べることに嫌気が差して、今まで起こった出来事を紙に書いてみたこともあった。しかし、薄い藁半紙につたない文字でつづられたそれらの箇条書き、あるいは短文の連なりは、僕の憂いを緩くかき回すだけで、眺めているうちにかえって淀みは深くなった。
一方で夢の日記は用をなすことなく、部屋の一角で薄い埃を被っているに違いなかった。
僕は布団から半身を起こした。
視界の隅で黒い影がむくりと立ち上がり、そのまま動かなくなる。障子越しの淡い陽光のなかへぼんやりと浮かび上がるその影はどこか気だるげで、その持ち主のままならない身体のことを考えるたびに、僕は暗澹たる気分になるのだった。
中庭に面した廊下の、鏡面のように磨き上げられた床板には、庭の中央に立つ楓の木の葉が形作る木漏れ日が白く輝いていた。最近は廊下に出るたびに何か粘質の空気を感じる。空は今日もただっぴろく晴れているというのに、僕は頭のどこかで「鬱陶しいもの」を受け取っていた。
車椅子の車輪がごりり、ごろりと床を痛め付けているかのような音をたてて進む。気にし始めると止まらない、不快な不快な音……
音ばかりを気にして進んでいるうちに、いつの間にか僕は母屋の端、廊下の突き当たりまで来ていた。左に行けばあの子の書斎のある離れへ着くし、右に行けばそのうち玄関に出る。どちらにも僕の気は進んでいなかった。しかし今さら寝室に戻る気にもなれない。
しばらくうじうじと悩んだ末に、ぼくは車椅子の向きを右へ変えた。何かしらの用事があったとしても、今彼女の存在にすがるのはとてもではないが許されることではないように思われた。
嫌いな車椅子の音色を尾に曳いて、僕は行きたくもない外を目指して長い長い廊下を進んでいく。こんな時に限って使用人たちの気配も遠く、蒸し暑いはずの空気は奇妙な冷感を伴って僕を包み込んでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
◇◆◇◆◇◆◇◆
「ぐぇー、暑っつ……」
里の往来に一つ投じられた声がある。
すでにかの青年が稗田屋敷の一角で目覚めてから、一刻ほどが過ぎている。
夜半に一刻ほど降った雨のせいか、この日の里はうだるような暑さの支配する場所となっており、今にも地べたから蜃気楼が立ち上りそうなほどの熱を孕んでいた。そんな里の一角、往来に面した小さな貸本屋の軒下から、先ほどの一声は生じている。
「あぁ暑い。お天道様はついに私を見放したもうか……amen、いや素麺食いたい。重畳重畳」
暑さのせいか、やや錯乱の度合いが見られる声の主は麦穂色の長髪を垂らした小柄な少女、霧雨魔理沙である。軒下に設えられた木造りの長椅子に、背をのけ反らせて天を仰ぐような格好で腰掛けている。暑さに辟易して伸びきった彼女の身体の傍らには、盆に乗った硝子の水差しと湯呑みが置かれていた。
「変なこと言ってないで、気を抜くと頭の中身がよけい茹だっちゃいますよ」
あきれ半分、からかい半分の鈴の音が背後からひとつ。
「おう、今にもミソが沸々言いそうだ。葛餅を詰め替えないと」
「氷はもう切らしちゃったから井戸水の温度ですよ」
「一家に一台、河童を脅して氷室でも作らせるべきかもねぇ。しかしアレはエレキで動いてるらしいんだよな。霊夢に武甕槌命でも降ろしてもらうか。いやめんどくさいから湖の氷精でも引っ張ってきて強制労働させたほうが」
はいはい、と小鈴は介護人の心根で濡れ手拭いをハーフボイルドまで仕上がってしまった魔理沙の額に載せた。無敵の少女の特権と、中年が日暮れに湯船へ沈む際の発声が見事に渾然一体となったような悦の音色があたりに余韻を持って広がっていく。往来にあまりひとけがないのは幸いであった。
「【判別不能のうめき声】、午前中からこれだもの。決めた決めた、皆で沢にでも行こう。こんな日に学問や仕事に精を出したら頭が愉快になってしまう」
「あ、いいですねぇ。出る日を教えてくれれば店なんか一日閉めちゃいますよ」
「今日は出ないのか」
「昼間から人んちの軒下で葛餅と麦茶しばいて遊山を企てられるほどの暇はないかも」
「お前、お前ね、嫌なところが阿求に似てきたね」
「えー、やだやだ。似なくていいとこばかり」
魔法使いほどではないにせよ店番も少々
そのままぐだぐだと管を巻いているうちに沢への遠出の話はどんどん無謀なスケール感へと膨らんでいった。
知り合いの涼しげな者をドシドシ呼ぼうということで、氷精を餌に冬妖怪を釣り出す岩戸ごっこであるとか、里にちょくちょく現れる庭師の半身を借りて冷製クッションにしてやろうとか、紅魔館の日陰者たちをこの暑さの中に連れ出し、へばっている(こればかりはそんなわけあるかい、と正気に戻る小鈴であったが)ところを眺めて楽しもうとか、およそ品格に欠ける内容の計画が十分近くにわたって披露された。
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忸怩たる僕の自意識と似て、今日の往来の土は人肌にほど近い熱気と湿り気を帯びていた。しかし、畜生、屋敷の中よりも数段上の蒸し暑さだ。この国の家屋と建造技術はこういう湿気と戦いながら培われたものに違いない。
屋敷から百ヤードも行かないうちに「帰ったら車輪をしっかり洗わないとな」なんて考えている。ああ、当然だが手も泥だらけだ。義足はともかく、この車椅子については一考の余地がある。
無い記憶の掌篇を集め始めてはや半年。僕と一緒にこの世に出現したというこの車椅子にも、あの鉄球と同じように隠された物語があるのではないかと思って肌身離さずそばに置いてきたが、今のところコイツが引き金を引いた記憶というのはない。気がするが……
とにかく、今の僕はあらゆるシーンで移動手段の高望みをせざるを得ない状況だ。里の外に出るからにはやはり「馬」を買わねばならない。屋内や路地では今までどおり車椅子を使わないとだが──それにしたってもっと軽量で、ある程度無茶が利くような丈夫さと……そう、泥や犬のフンなんかで手を汚さないように大小の車輪を二重に誂え、径の小さい方を回すような工夫が欲しいところだ。
どこか西の方で……ゴゥゥン……と鐘が鳴る。その余韻が消えていく晴れた空を仰いで一つ溜め息をこぼしてみる。ただでさえ自立すら出来ない僕は、今こうしてナケナシの金(
一人では生きていけないという当たり前の事がこんなにも歯がゆく、惨めで、そして最後にはどこか心地よいものだなんて到底認められない。
泥のことはまあいい。異邦の土地で誰かの厚意にすがりついてどうにか生きていくのを恥じる心も、大した問題じゃない。星を戴いてあんなにも力強く照る灯台を前に、俯いて立ち止まるような時間こそを僕は疎むべきだ。
君が慈悲深くもこっちを向いてくれてるうちに、文字通り這ってでも食らいついてみせよう。百数十年前、ジョニィ・ジョースターがジャイロ・ツェペリに対してそうしたように。
それにしても気分は晴れない。何か変わったものでも食べに行ってみようか?
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「くちゅん!」
大の大人に遠隔で食い付かれているとはつゆほども知らないが、虫の知らせのようなものは霧雨魔理沙とて受け取っていた。
「暑がったりくしゃみしたり毒吐いたり器用なことですね」
「あー? お前の抜け毛がふわふわ舞って呼吸器に悪いんだよ」
「『最近活動内容が地味な魔法使い、夏なのに呼吸器を患い長期休養へ』で飛ばすか……」
「聞いたか小鈴。デマゴギーの貴重な生誕シーンだ。ゴギー」
「ゴギ〜。
ところは変わらず鈴奈庵の軒下であるが、登場人物が一人余計だった。ハンチング帽に白い半袖ブラウスの若い女性。この季節において普段の渋色のジャケットやネクタイはそれこそ余計な代物であろう。
クールビズ世に憚りて幾星霜、山の中間管理職……兼、社会派ルポライターの射命丸文が、今や軒下で葛餅を相伴に預かっていた。
「烏の行水は時を掛けないのがウリだろうに、もう三分は経ったよ。疾う往んでくれ」
「小売へ挨拶に来ただけでこの言われよう。鈴奈庵さんも啄木鳥に集られて災難ねぇ」
「暑いしちょっと水撒きますね」
これには二人とも同時に「「手厳しいなぁ」」というような内容の言葉とともに椅子から飛び退かざるを得なかった。啄木鳥が体重のない者の如く軽やかに身を翻す一方、烏の方は柄杓の水が宙を舞っている間軒下から消失し、飛沫が水たまりとなった後に再出現するという無駄な曲芸を披露している。
「……それで、近況だけどね」
中空から落下してきた爪楊枝と小皿を事もなげに掴み取り、再度葛餅を啄み始める記者崩れ。魔理沙はいつも通りに「誰がお前の自分語りを聞きたいと言ったんだ」などと混ぜ返してやろうとして、口を噤んだ。射命丸文が纏う空気は数瞬前とまるで異なっていた。経験則上、このモードに入った文は──端的に──あくまで霧雨流の表現に則るなら──非常に面倒だ。
急に報道者の矜持を眼差しと所作へ満々と漲らされても困るのである。
「……聞こうか」
「どうも。先に言っておくけれど、ここ数ヶ月の私の立ち回りはかなり慎重を期していたからね。今から話す事柄の大半は記事にしていない」
「そういえば、春先から発行ペースが落ちていた気がしますね」
「へぇ」
販売者として、乱読家として毎号目を通している小鈴と違い、魔理沙は文々。新聞の中身が三流タブロイドであるのか信頼に足る情報源であるのか、いちいち確かめてやるような気概をそもそも持ち合わせていないのでこういった反応にはなる。そんな不精の鼻先に素早く紙束が突きつけられた。
「とりあえず二ヶ月分のバックナンバー。薄いでしょう? 刊行回数は去年の六割ね」
魔理沙は一瞬くしゃみのストックを鼻の奥に求めたが、あいにく不在とのことで、おとなしくその
おおかた、何の話がしたいのかはわかっている。その話題だけ拾ってやればいい。
「えーと、三月頭、『山姥は見た! 里襲撃の首魁、マッドな蜘蛛妖怪で確定か?』飛んで四月……『蛍妖怪は語る! 季節異変が生態系にもたらす影響と謎の虫妖怪』……読むのやめていい?」
「いいわよ。五分の事実に四割の想像を加えて五割五分の連想ゲームで塗り固めた、デタラメだもの」
「……」
「その心は?」
沈黙する魔法使いに代わって小鈴が問う。記者はハンチング帽で喉元を扇ぎながら流し目でちらと見返した。
「大天狗衆の一人に許可を戴いて、この話題に関する情報を統制しています。私を含む数人の天狗が協同して携わっている長期プロジェクト下においてね」
「隠蔽してどうなる? 不安を煽るだけじゃないのかねぇ」
「隠蔽ばかりが統制じゃないってば。黒幕が再度出てくるつもりがないのなら──」
挑発するまでよ、と。
「自分の意図したところを勝手にねじ曲げられて貶められるのは誰だって嫌なはずよ。ああ、本文の言葉遣いもちょっとずつ過激にしてあってね、『尻切れ蜻蛉の異変』とか『企図のわからぬ一発屋』とかとか。長期連載にして『真相を追っている』感を読者に演出しつつ、可能な限り首謀者を茶化そうというのがこの記事群の骨子ってわけ」
「……もしかして結構キレてる?」
いやー、と記者は頭の後ろで腕を組んだ。どこか面白がっているようでもあったが、あくまで傍観者としての熱のなさ、それゆえの鋭利さ、無責任さがブレンドされたような、悪性の笑顔とともに。
「怒っているのは
んまーそういうわけで私の役目は挑発ってわけです。
そう文は締めくくった。
「この罠に掛かれば素直に叩く。掛からない時は──私は同僚と掛からない方に賭けたけど──そうね、山としては一つフェイクの異変を起こして先方の出方を見ることになるでしょう。その時はどうかよろしくお願いしますね、霧雨魔理沙殿」
魔理沙は鼻を鳴らし、麦茶を首の角度の限界まで呷った。
「ふん、だからお前たちは気に入らない。猟師気取りはいいが、せいぜい謎の首謀者とやらに寝首を掻かれないよう気をつけるんだな。ああ、ついでにそのフェイク異変とやらが起きたら、お前の上司ごと八卦炉で山賊焼きにしてやろう」
「息をするように当記者への脅迫が! ──ふふ、貴方のようなヤンチャも含めて、搦手への備えはもう厚くしてるのよ。ねぇ、私のプライベートセキュリティさん?」
射命丸は得意気にニヤつきながら軒の天井を見上げた。釣られて魔理沙と小鈴も上を見上げるが、ちょっと湿気た色をした組木がうんともすんとも言わずに普段通りの姿を晒しているだけである。
「んー? 寝てるのかしら。せっかく出張料も落としてもらったのに」
天狗がそう言い終わるかどうかといった瞬間、軒のひさしから小さな銀色の閃光が飛来、発言者の足先からわずか一寸の地面にざっくりと突き立った。陽を反射して煌めくのは、掌に収まるほどの小刀である。
笑顔もそこそこに固まってしまった元テングの天狗の足元から、魔理沙の目配せを受けた小鈴がいそいそと小さな凶器を回収し、柄に結わえ付けてあった細長い紙片をほどいて読み上げる。
「ひらがなで『だまれ』と、大変な達筆です」
「……」
「あ、屋根の上から手が出てきたぞ。なに? このペーパーナイフ返してほしいの? ほいほい。よかろう。いい品だが私の趣味じゃないからな。これからも上司と文具は大事にするんだぞ」
「…………」
軒からひょっこり出てきた剣ダコまみれの手と和やかな言葉を交わし、魔理沙は小刀を返却した。手はするりと屋根の上へ帰っていく。
「まあなんだ、寝首を掻かれんようにな」
「……今の私は抛磚引玉の謂わば磚。しかし磚と云えども羽付きですからね。さて、他に何か聞いておきたいことは?」
「明るい話題がいいな。なんか楽しいイベントごとはないのか」
神速の捨て駒はそのかたちのいい顎にコンマ八秒だけ手をやった。
「幽霊楽団の太陽の畑公演がもうじき開催ですね。本紙の最新号をご購入の上、付属の応募券を葉書に貼付して投函いただければ抽選で五名様にA席が当たりますよ」
「悪ぃ席とかもあるのか?」
「さあ?」
「小鈴、もうすぐ正午だし、いっぺん店閉めるだろ。氷屋行こうぜ」
「いいですねぇ」
「ここは奢らせていただきましょう」
「ついてくんなよ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
決意したとて今は一人。あまり遠くに行ける身体ではないけれど、家々の間から覗くヤナギの枝葉を目指して進むうちにたどり着く運河沿いの小道は僕を奮わせるのにピッタリのコースだ。表通りに比べるとひと気が少なく、家々の裏口や物陰には何かが起きそうな気配がある。
行動し続けなければならない。なら、今は緊張が必要だ……紅い館や森の入り口で味わった、あの胸のすくような冒険を思い出しながら、堀の縁まで慎重に近づいていく。くすんだ碧緑色の水面が静かに横たわっている。海がないというこの土地において──水はやはり、あの霧のかかった湖に続いているのだろうか? 例えばボートを浮かべて流れていけば、紅い館への道すがらに遭った不定形の暗闇のような妖怪が待ち受ける領域に辿り着くのだろうか?
そういった非日常、危険のあるスピーディーな世界があまりにも遠い。確かにここは非日常への遍路沿いなのかもしれないが……
出し抜けに、微温い風が額を撫でる。無風の今日。僕は反射的に顔を上げた。
……運河の対岸、僕から斜め向かい四十ヤードほど離れた堤の上に人が立っている……
染めていないアサかモメンの着物。立ち姿からして若いし、印象としては女性だが、頭巾のようなものを被っているから人相までは分からない。しかしあれは僕を見ている。好奇や憐憫、不審の視線にはもう慣れたが……いい気持ちはしない。僕はふたたび自分の膝元と目下の水面へ視線を落とした。その辺の石を拾って水切り遊びでもしてやろうか? 少なくともただここに佇んでいるよりは、僕への関心を薄れさせることができそうだ。
……ドボン……
落ちた。
僕はどういうわけか身動きできないまま、そのくぐもった水音の余韻を聞いていた。
いつの間にか額に滲んでいた汗が一筋の流れになって眉間を流れ落ちていく。今の出来事は何か不自然だ。さっきまであれほど待ち望んでいた何かが起こったのか? しかし、四十ヤードは遠すぎる──何故か?
撃てないから。
僕はほとんど発作のように顔を上げた。
自分の首を川へ落っことしたというのに、対岸に立つ女は変わらず
静寂。
静寂。
気づけば、膝のうえで何かが震えている。薄ピンク色のぼんやりとしたシルエット──久々に逢えたね。僕の爪の妖精。その小さなヒレで頭を抱えてうずくまり、怯えに屈している。
ほとんど気だるさにも似た金縛りの感覚に鞭打って、僕はふたたび対岸を見やった。
ああ。
どこかでセミが鳴いているのに気づく。
うだるような湿気と仄かな熱が、音が、生の実感が肌に帰ってくる。そうして腕の動かし方を思い出し、顔の汗を拭った僕は長い長い息をついた。
戻ろう。境界のこっち側へ、今なら優しくも引き返せる。
次回、ぬえちゃん受難編(たぶん)です。