けーねの喋り方がとっ散らかっているのは許してください。場と相手に応じて使い分けるタイプっぽいですし…
颯爽と雲間に飛び込んだ霧雨魔理沙であったが、彼女が古都を模した光と波の戦場に辿り着くことはなかった。
彼女は今、ふたたび渦巻く雲の外縁を浮遊し、つい先程自らを戦場の外へと弾き出した者と相対している。
「……もしもーし。私の
「…………」
「無視かよー。まーともかく、お前じゃ話にならん。雲の渦はジリジリと里から離れつつあるようだが、迷惑には違いない。上司を呼んできてくれ」
白いのははっきりと舌打ちした。
「うわ、ますます眼光が鋭くなったぞ」
「こわーい」
「怖いなー」
魔理沙は身を捻り、箒に相乗りしていた少女Cの首根っこを捕まえて下界へとリリースした。
「あ〜れ〜。夢路では
落下していくかわりにフリルの袖を羽ばたかせてふよふよと何処かへとんで行く少女Cを尻目に、魔法使いは数十メートル彼方の空中に浮く相手の姿をいま一度観察した。
編笠に無垢の修験装束、紅い袴。里にこのような格好の奇人は──まあいないでもないが、どうやら女性らしいそのシルエットや、乱気流のすぐそばを苦もなく低速で飛行しているさまから見れば正体は想像がつく。山の見張り天狗の一党にこのような出で立ちの者が居たのを魔理沙は覚えていた。名前は覚えがない。
髪とか上衣とか、全体的に白っぽいのでここでは白いのと呼ぶことにした。とにかく、
(やだねぇ天狗は。カイシャとかチームなんてもんはここいらじゃ流行らないんだぞ)
人間にとっては当たり前のこと──この場に居る霧雨魔理沙が人類の代表として相応しいかどうかはさておいても──だが、いわゆる「妖怪の山」という存在そのものが非常な厄介であるため、その一構成員であろう目の前のわんころ天狗に突っかかっていく気も、どうも起きない。
無駄に(射命丸文のように)武芸達者なヤツ、(射命丸文のように)性格の悪いヤツ、(射命丸文のように)とんでもなく悪知恵の回るヤツ。かの天狗がどのタイプであろうと、その行動には必ず「組織性」と「裏」がある。
めんどくさいからとミニ八卦炉のツマミを回してしまえば、翌週にはとんでもない醜聞が満載のチリガミが里にばらまかれたり、霧雨魔法店の屋根や洗濯物がありとあらゆる種類の鳥のフンにまみれるかも判らない。
よって、出方を考える必要があった。魔理沙はぬーんと唸って数秒顎に手をやる。
天啓か、悪知恵か。
「……お前の上司もさぁ、アレだよな」
「……」
「誠意がないというか、
目の前の低気圧を指さしながら言ってみる。心なしか、三角形だった白天狗の目尻が下がったような気がした。
「天狗連はソシキってのを大事にしてるだろ? うん、ほかの木っ端妖怪には出来ない、高尚な造りだ。でも、
「うん」
「う、うん?」
危うく箒からずり落ちそうになる魔法使い。帽子の角度と体勢を立て直して前を見ると、白いのは若干こちらに近い位置へ移動していた。既にその手に得物は握られておらず、曇りのない眼が魔理沙の顔面に向けられていた。
「我らの山で最も信用ならないのは管狐。その次が射命丸文だ」
「お、おう。すごい信用だな……」
「霧雨殿や博麗にも再三ご迷惑をおかけしているはず。代わってお詫び申し上げる」
「えぇ」
「──しかし」
この距離なら顔を上げた白いのの表情がぼんやりとだが読み取れる。いうなれば信念とか、決意とか、「殉」とも呼べる類のものが端整な眉目の間に宿っていた。
勘弁してほしかったが。
「平時の鼻つまみ者とはいえ、有事には奇兵。此度の事案のほぼ全権が射命丸に委ねられているのです」
「言うなあ」
「どうも。よって──如何に我らが射命丸文を白眼視していようと、やはりこの場で彼奴の邪魔立てはさせません。お引き取りを」
魔法使いはわざとらしくがっくりと肩を落としてみせた。
「わかった、わかったよ。ここはお前の顔を立てよう──だが、私とてこのまま手ぶらで帰るわけにもいかないんだ」
「私と一戦交えたくば」
「ちがうちがう。ただ、ちょっと訊いときたいことがあるんだよ」
「伺おう」
内心ではしめしめと舌を出している。労せずしてここまで譲歩を引き出せれば大したものだ。
そしてこの問いこそが、本命。
「屋根の上で私たちの会話を聞いてたろ。お前の視点から見て……文が私たちに伏せていたことはないか?」
白いのの眼のかたちは再び、対峙していた時の三角形まで眇められた。敵意に依る仕草ではない。
魔理沙はこの尖兵の実直さに賭け、愚直を利用しようとしていた。
「……ふむ」
「ヤツのことだ。嘘は吐かんだろうが、情報を伏せておくことでこちらを手玉に取ろうとしている、なんてことは十二分に考えられる」
「……」
「不公平じゃないかね。私は仕事を引き受けたんだ。覚えているか? 文は『自分の策がハズれた場合、妖怪の山が主導するニセ異変が起こる』とか言ってたよな。私はその解決を依頼された、ビジネスパートナーとも呼べるはずだ。仕事仲間にロクな情報を渡さないのが天狗党のやり方なのかい?」
長い、沈黙があった。
魔法使いの舌先三寸程度に、かの者は揺らいではいない。
揺らぎはしないからこそ、矜持が此処へ
「……わかった。私の知る範囲内でも──二、三、霧雨殿にお伝えしていないことがある」
少女はふっと息をついて微笑んだ。本心からの笑みだった。
「助かる。話してくれ」
「ときに、先んじてお伺いするが」
「……?」
不安、微々たる恐れ、後悔。
続く言葉に、魔理沙の中でそれら全ての萌芽がじわりと花開くこととなった。
『最後に博麗霊夢が神社の外に出たのは
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(さて、どうしたものか)
射命丸文はブラウスの胸ポケットから紙片を一枚取り出し、羽扇と共に手の中へ握り込んだ。写真機は既に首のストラップへ提がっている。
迫りくる弾雨の最も美しい一瞬を文字通り「切り撮る」愛用品は今、彼女の足元の床、そして左右を囲む光の壁に対して用をなさない長物と化した。そう直感的に受け入れていた。
状況は、この
空を見上げる。左右に聳える光壁の果てに、雲も太陽もない、かといって夜ですらない暗黒がどこまでも広がっている。明らかに、先ほどまで居た雲の中よりも大きく拡張された空間に文は囚われているようだった。
(天地の概念はあるようね。しかし、壁を飛び越えたとて、真の意味で見越すことができるかどうか)
眩く輝く床に触れないよう少しだけ宙に浮きながら、文は自分が取るべき行動パターンを幾つか思い描いた。拓けているルートは前後と頭上のみ。いずれかに進むか、このまま待つか、もしくはこのスペルカードそのものの破壊を試みるか。手段は大別して三つに分けられるが──
「はあ。悩むまでもなかったわ」
即ち、前進であった。
光の大路をひたすらに、気まぐれに角を折れながら進む。かの都を模した碁盤の目を、文はひたすらに駆け巡ることを選んだ。
中途、道の横合いからぬっと光の大玉が顔を出してくることも幾度か──がしかし、それらの鈍重な振る舞いは到底、古今無双を自称するこの韋駄天を踏み躙るには能わない。
「影と光に怯えて逃げ惑う民草。眺めるぶんにはさぞかし愉快だったのでしょうねぇ」
いずこかで聴いているに違いない
「ご覧の通りのお望み通り。私もこわーい化生から逃げるので精一杯でございます。それで……いつまで続けるおつもりですか?」
突如として、視界の両端がぐにゃりと「溶けた」のを認識した文は両腕を大きく前へ広げて急制動を掛けた。素早く左右を見れば、光の壁のそこかしこが不定形に滲み、歪み、ぼこりと浮き出ている。
(何か飛びだしてくる? ──否)
次の瞬間には答え合わせが済んでいた。
光の都が牙を剥く。
大路を構成していた壁や床が全て、一瞬にして無数の光弾へと「解される」。光弾は整然と並んだまま、上へ、下へ、右へ、左へ行進し、苛烈に交差し──そして何事もなかったかのようにお互いを溶け合わせ、元の大路へと姿を還らせた。そうして修復された九条の往来を、またもや巨大な光球が縦横無尽に、虱潰しにするように徘徊し始める。
美しく幾何的に終始した、空間を埋め尽くす飽和攻撃。はじめから
……射命丸文は、未だ幻の大路にひとり佇んでいた。上衣とスカートは少しずつ焼け落ちて肌が露出し、首から提げたストラップの先で写真機が黒煙を上げている。しかし撃ち墜とされてはいない。
左手が上がり、鼻先と顎をひと拭いした。
「不覚」
ぽつっとそう呟いて灼けた写真機を見下ろす彼女を、乾いた笑い声が包み込んだ。上空から届くは古都を震わせるような残響。
「ふん、気色悪い避け方しやがって。疾いばかりではないな」
「──光であり、波であり、粒である、と。外つ世では光をそう解釈しているそうですね。観測されるまでは二つの状態が混沌とも呼べぬような重複となっているのだそうで」
ストラップを外し、煤けた写真機のファインダーを覗く。
「まあ、どのみち河童に鋳治させるつもりでしたからよしとしましょう。何がおっしゃりたいのかは概ね判りましたし。貴女はやはり、正真正銘根っからの『鵺』なのですね」
「そう。だが『鵺』とは何だ? 最も純粋な『不明』を表す言葉か? 答はまだ遠いね」
「……だからこそ、私は去る冬の襲撃と向き合うに際して、貴女を真っ先に思い浮かべたのです」
返ってきた沈黙が、鵺に何らかの動揺があったことの証左だ──などと、文は思い上がりはしなかった。まだ足りない。無限の解釈をこちらに要求してくる怪異を破るためには、其が自らを定義し、発露し、表現するように仕向けるのが最も手っ取り早いやり方だと彼女は踏んでいる。
(であれば、やはり挑発の一手のみ)
「イイ事を教えてやろう。在りし謎は三つ。然るに残るはわずか一つだ。解せよ、天狗」
消えゆく鵺の哄笑を背に、再び光弾が文を襲った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「霊夢? ──まあ最近里じゃあ会わないけど。でも、宴もこのひと月で二度あったし、少なくとも三日おきくらいには神社に遊びに行ってるから別に変わったところは──違う、違うな」
霧雨魔理沙はゆっくりと指を折り数えるように一つ一つ記憶をたどり始めた。
(一昨日。鯨呑亭へ雪冷え呑みに行こうって誘ったけど断られた。五日前。遊びに誘おうとしたら夏精どもが押しかけてきて、結局夕暮れまで神社で弾遊びしてた。その前……去年の梅酒呑みながら歌留多して……その前……)
やがて顔を上げた彼女の表情にはえも言われぬ影が差していた。
「……かなり長い間、あいつが神社以外の場所にいたのを見た覚えがない。連れ出そうとしたときは断られてる。お前たちの認識ではどうだ?」
白いのは軽く頷き、懐から何やら帳簿のような物を取り出した。
「確認されている限りでは少なくとも『四十日間』余り。尤も、これは我らが記録を取り出してからずっと、という意味であって正確な日数とは言い難い」
「…………」
「
魔法使いは帽子を取って顔を拭い、髪をかき揚げた。至近に迫る暗雲の撒く細雨が彼女の額や喉元を濡らしている。
「……つまり、アイツは何か理由があってあそこに留まり続けている。少なくとも新聞記者ふぜいには言えないような、何かのっぴきならない事情を抱えている、と」
「ええ。では、それは誰の入れ知恵に依るのでしょう」
「──八雲紫。茨木華扇。八意──」
「その
帽子を目深に被り直した魔理沙は口をへの字に結び、鼻から長く重たい息を吐いた。
「最悪……じゃないかな。すると何だ? また戦争でも始まるってのかい? 相手が誰なのかも判らんというのに」
「ご用心召されよ。差し当たって、この郷里のそこかしこで報告が上がっている不審物──そう、模倣体が持つ潜在的脅威は未知数だ」
「けっきょく、あれ以来里の周囲じゃそんなものが現れたって話は二度と聞かない。まさか、お前らの山で何かあったのか?」
「見てもらったほうが早いな。念写だが、写真がある。伝えていない情報の一つというのがこれだ──ああ、かたじけない」
白いのから何やら数枚の紙切れを受け取った少女Cがてくてくと空中を歩いて魔理沙のもとにやってきた。サンキュな、と受信してそれらを覗き込む。
「これは──」
どこか、断崖を写したカラー写真だった。一面に白っぽい岩肌が続く、高さ百丈では済まなさそうな絶壁。所々に突き出す岩棚にしだる蔦や灌木の類以外には生物の気配もない、天然自然というものが牙を剥きだしたその現場という風情の風景である。
岩棚のひとつに、芥子粒ほどの小さな影が写り込んでいた。
「背負い鞄と作業服っぽいな。河童か?」
「違う。山の技術屋、守銭奴の山童です」
「どっちでもいいだろ……」
「アイを大事にねー」
出題者でもない少女Cによって、残念賞のセミの抜け殻が魔理沙のポケットに突っ込まれる。魔理沙は一枚目の写真の角度を変え、矯めつ眇めつ観察したがそれ以上の情報は透けてこなかった。山童だか河童だかしらないが、山の妖怪が一匹、白昼堂々断崖でなんかしている。それだけの写真だった。
「二枚目を」
促されて写真を
それ以外は、何一つ変わっていなかった。
崖の中腹に佇む影さえも。
「……コイツ何してんだ? 一日ずっとここにいたってことか?」
「半日もひなたぼっこなんてすごいねぇ。山童って紫外線の勉強もしてるの? それともヨーガとか?」
「結論から言うと、『何もしていなかった』。三枚目以降は……嫌になったら、見るのをやめていい」
魔理沙は三枚、四枚と写真を見た。五枚目を彼女がめくることはなかった。少女Cが代わりにちらっとその役を引き受け、首を傾げて問う。
「わー。生前鳥葬ってやっぱ苦しいのかなぁ」
「……趣味悪いよ。やっぱり今回の異変の首謀者とは絶対に相容れない。少なくとも私は」
「山童の首領に問うたところ、そのあたりはそもそも戦略的にも資源的にも価値に乏しすぎて足を踏み入れる意味がないらしい。また、山童衆に欠員はないとも言っていた。やはり、そやつは殖やされた個体なのだ」
うーむと唸る魔理沙。模倣体が、偽物が現れるのは百歩譲って良いとする。それらが何もせず、生き物らしい行為すら放棄してただ佇んでいるだけ、というのが酷い。既に模倣され、見つけ次第潰すつもりでいるというアリス・マーガトロイドの偽人形なども、発見されないまま捨て置かれていた場合はこのように朽ち果てるまで森の何処かに立ち尽くしていたりするのだろうか。その光景を思い浮かべると確かに不愉快極まりないというべきか──
しかし、何のために?
「狙いがわからん以上は最大限の警戒を、か」
「そう。既に我らの山はこれを宣戦布告と受け取った。そう思ってくれていい。今後は河童どもを中心にしてこの模倣体の捕獲、検体、実験なども行われるだろう。現状何もしていないからといって、『
「おもしろーい。私もちょっかいかけてみようかな? 黒幕さんに頼んだらお姉ちゃんのコピーとか作ってくれたりして。そしたらね──」
ここまで来てようやく、魔理沙の頭の中で一つの道筋が成立した。あるいはその可能性について考えたくなかっただけなのかもしれない。
「──『何かができる』ようになった大妖怪や霊夢
の模倣体。それが実現したら」
白いのは深刻に頷いた。
「推測にすぎないが……おそらく博麗殿が動かない、動けない最大の理由だ。結界の力が最も強まる神社周辺に留まるという防衛策が功を奏しているのかは判らないが、現状『それ』は現れていない。この推測が正しければ、おそらく今後も彼女が外出することはないだろう」
「賢者どもが黒幕の尻尾を掴むまで、か」
「左様。しかし、その間我々にも出来ることは──」
唐突に言葉が途切れた。
「──お喋りが過ぎたようだ」
「お、どうした? 消されるのか?」
「知りすぎ? 消す? 消す?」
何処からともなく大鉈を取り出してペロペロ舐め始めた少女Cの袖口にセミの抜け殻を返却しつつ、魔理沙はヘラっと笑ってみせた。不安も多々あるが、内心では逸り沸き立つ心を抑えきれずにいる。ことと次第によっては、月の仙霊相手に大立ち回りを演じて以来の大がかりな異変になるかもしれない。しかも博麗の巫女は神社に釘付けと来ている。
情報どうもありがとう、という心根で魔理沙は白いのを見やった。しかし下っ端天狗は自分の情報漏洩や同胞による監視を恐れているわけでもなさそうで、単に下方の地上を見つめていた。
「霧雨殿。この雲渦はもう大通りから四町は離れつつあるが、この辺りの地上には何がある?」
「え、こっちは麦とか豆とかやってる畑くらいしかなかったと思うけどな。あったって農具入れてる掘っ立て小屋とか……」
つられて見下ろすと、下方にはどうやら草原が広がっているようだった。どう見ても穀物畑には見えない青草の海がうねり、ちぎれ飛んでいる。
「草っぱらじゃないか。はて」
そこで唐突に思い出した。里の西方、農地に囲まれたとある一画には──
「そうか。
「人の耳には届くまいが、蹄音と嘶きが聞こえるようだ。はぁ、射命丸め……この嵐はどうやら牛馬の群れを巻き込んでいるぞ」
最後の言葉が終わらないうちに、霧雨魔理沙は箒の柄を下方へ九十度翻して急降下を開始した。少女Cもまた魔法使いの背中のリボンにしがみついて追従し、去り際に手を振る。
「面白いこと教えてくれてありがとー。じゃあね、
そうして一人と一石はあっという間に雲の渦の下へ潜り込み、『白いの』の視界から去っていった。
残された者はくつくつと忍び笑い、編笠を脱いで指で回し始める。その頭頂には確かに小麦色の狐耳が一対揺れている。
「さーて、あとは犬走どのと射命丸様に任せて帰るとしますかね。時間あるし、あぶらげとお団子でも買おうかな」
その表情は淫靡な薄笑い。懐から絹の巾着を取り出し、中の小銭を数え始めたところで
「ああ、河童のエレキはこれだから品がない。『応答』っと……」
その
『私です。──はい。ほとんど即興でしたが、霧雨の娘については首尾よく。ああ、そちらからも見えますか。射命丸様にも困ったものですね。報告はご本人からお受けください──もちろんです。直帰いたしますので、その時分には必ず。ええ。承りました。飯綱丸様』
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「どうぞ。ふー、なんでこういうお祭りごとの屋台って尽く値段が釣り上がってるんでしょうね」
着いたばかりでまだ息が荒い小鈴から、薄い焼き物のカップを受け取って覗き込む。冷たく、とろみのある白濁した液体が独特の甘い香りを放っていた。独特というのは『据え』が二割、魅力が八割。発酵しているのか?
少しの勇気を支払って口へ流し込むと、鼻の奥を刺激するようなクセはありつつも柔らかな味わい。この土地で飲んだ液体の中では一番甘かったかもしれない。
「ハレとは、市とはまあそういうものです。財を散らし、枯れたケを潤す程には特別な場でなければならず、それ故に集まる需要、いわば狂乱というものも加味すれば……あの的屋のあくどさは別問題だが」
上白沢女史が忌々しげに居並ぶ群衆と商売人たちを睨んでいる。
僕たちは相変わらず里の外縁に渦を巻く暗雲を眺めていた。ここに着いた時よりも人出は更に増していて、今では何やらダイハチ車や移動式のヤタイなんかがどこからかやってきて商売を始めている。僕の手中の甘い汁や、小鈴と上白沢さんがつまんでいる白ダンゴもそいつらから買ってきたものだ。
確かに暗雲は相変わらず時々カラフルに光っているから見ていて飽きないし、段々里から離れて行っている以上は危険ではもうないのだろう(魔理沙も飛んでいったことだし)。だからといってこんなにノンキしてていいのか? ゴーストやモンスターの蔓延るこの地と同じように、この町の人達もまたちょっとイカれてるんじゃないのか? そんな事を考えている僕だって、お祭り騒ぎの雰囲気にのまれてすっかり見物客の一員になってしまっている。
やはりあのような『戦い』は僕の領域に在り得ない概念なのか?
僕のそばでは小鈴と女教師が「ハレ」とか「ケ」とかいう聞き慣れない概念について話し合っていた。聞いた感じ「ハレ」は今のことっぽいが「ケ」がよく分からない。帰ったらまた勉強だ。ガキじゃあるまいにと思わないでもない。でもどんなジャンルでもいいから自力で前に進むのをやめない、っていうのも大事な話だ……特に今のような、全てにおいて行き詰まった時には……
「この飲み物にも神様が関わってるんだろう」
二人の会話が途切れたところで僕は器を掲げてみせた。
「食べ物でも──その、『仕組み』にでも、何にでも神様がいるっていうのがここのルールなら、市場の神様ってのもいるの?」
「八百万神。ふふ、だが幻想郷では名前をあまり聞かないな。おそらく貨幣や経済といったものが未熟だから、その神も力が弱いのだろう」
「商いって言ったら恵比寿様や大黒様ですけど、強いと逆に顔出してこなさそうですもんねぇ」
「エビス……その二人は阿求の家で聞いたことあるな。強いと戦う必要がないってことか?」
「概ねそうだな。既に汎く篤く信仰されている神々は、存在感を示すために力を大っぴらに振るう必要がないんだよ」
教師をしているというだけあって上白沢女史の物言いは明快だが、判ったような判らないような。要は「金持ちケンカせず」みたいな話なのか? 妖怪は何人か見てきたが、この地で言うところの「神」──概念に宿る精霊のようなものらしいが──にはまだ面識がないからピンと来ない。
薄っすらとだが、僕の中にある『
主は確かに万物を造りたもうたかもしれない。けれど、目覚めてから目の前に現れ、そして心を通り抜けてきた人格たちが、事象が──ただでさえ希薄な僕の中の『神』を少しずつ拭い去っていってしまったような。無理に理由を付けるなら。
少なくとも彼女たち自身は、主の創造物ではない。ある種冒涜的な考えのような気もしたが、今の僕にとってはそれが最も自然な考え方だった。超常から平穏の日々まで、ここでは何もかもが並び立っている。
こんな考え、かつてのジョニィ・ジョースターが聞いたらどう思うだろうか。彼の持っていたかもしれない敬虔さの方向と強度こそ、八百万の神々との距離よりもよほど遠くに去っていった過去の失くし物だ。今のところは。
器を仰ぎ、発酵汁(ついに名前を聞き損ねた。アルコールは感じない)の澱を口の中に落とし込む。数百ヤード向こうまで遠ざかっている暗雲の向こう側から太陽が僕の目を射すくめた。
そんなに睨むなよ。僕の身体だってそろそろ全部この土地の糧で構成されててもおかしくない頃だぜ……
誰にともなく言い訳をしたその時、辺りの群衆がにわかにどよめき出した。思わず件の暗雲に目をやるが、相変わらずうねり、輝きこそしていても別に先ほどまでと変わったようには見えなかった。
騒ぎは前列の人びと、つまり最も前で雲を見物していた人たちの方から始まっているようだった。車輪をそちらへ進めようとしたが、当然上白沢女史の動きのほうが早かった。人垣を膂力(だと思う。僕の車椅子を片手で留めた時といい、大柄とは言えない体躯で凄まじい力だ)でずんずんかき分けて見えなくなる。厄介事ならああいう土地の実力者に任せたほうがいい。僕は一旦動きを止めた。
団子の串を咥えたままで小鈴も首を傾げている。
「どーひたんでほうね」
「何て?」
「んく。ここでもそこそこ風強いし、あのへんの田畑の稲や大麦は倒れちゃってるかもですけど……」
その続きは観衆の悲鳴に近い喚声の塊に押しつぶされて聴こえなかった。
衝突音。木が砕けるような破壊音。続けて僕の眼の前にいた人々が一斉に、壁が崩れるように左右へ退避した。視界が拓けた次の瞬間に僕の目に飛び込んできたのは、往来から巻き上がりもうもうと立ち込める土煙と──その中心に仁王立ちし、両手で何かを必死に押し留めている上白沢慧音のおぼろげな姿だった。
口々に喚き立てる人々の声をもつんざく、低い獣の唸り声──
「なんだ? どういう──」
「わー! 退がりますよ!」
背後からどうやら小鈴らしい声がして僕の車椅子は十ヤードばかり急激にバックした。危うくずり落ちそうになるところを堪えてもう一度前を見る。
往来の光景は一変していた。土ぼこりの中、道の両端に並んでいた屋台が幾つか潰れているのがわかる。逃げてきた群衆の下敷きになって横転したのだろうが、その中の一つは構造ごと真っ二つに割れていた。
元凶の──破壊者の姿もそこにはあった。
大牛だ。体高
そして、地面に半分足を埋めそうになりながらもその頭を抑え、ただの一人で動きを押し留めているのが──
「先生!」
「先生!」
金縛りに遭ったようなその場の空気がようやく動き出す瞬間。皆が口々にその役職の名を口にした。道の端で縮こまっていた者たちの中から数人の男が小走りに駆け寄る。しかし──仕方ないことだが──誰もが牛の制圧方法など知らないようで、がっぷりと牛の頭首を抱えて地面にねじ伏せようとしている銀髪の小さな女性に助力できる様子はない。縄だ、いや布で目を覆え、と怒号が飛び交う。何人かが屋台の残骸から暖簾を引き剥がそうとしたその時だった。
「青藍!」
「あいよ!」
無事な屋台の一つから小柄な女の子が二人走り出てきた。ハンチング帽を被った一人が投げた瓶らしきものを、もう一人の青い髪を三角巾にひっつめた方がキャッチし、その中身を大ぶりな注射器に注意深く注ぎ込む。
「牛にとっての適量とかわかんないけどとりあえず喰らえー!」
太すぎる針がそのまま牛の首筋に突き立てられ、唸り声がいっそう高く張り上がった。後足で蹴飛ばされた注射器持ちが「ぐえー!」と緊張感のない悲鳴を上げながらゴロゴロと往来を転がっていく。何か分からないがあれは多分大丈夫そうだ。
僕たちは固唾を呑んでことの成り行きを見守った。十数秒間、嘶きと唸り声は弱まりながらも続く。やがて上白沢女史が脚に込めていた力を緩め、体勢を立て直していく。
大牛が軽い衝撃音とともに転倒し、そのまま鼾をかいて眠りについた時、安堵の息がそこかしこで溢れる。
上白沢──いや、「先生」もまた大きく息をついて額の汗を拭う仕草をした。こちらを振り返った彼女の衣服は長時間の格闘の結果ところどころが裂けていたが、大きな外傷はないようだ。感嘆の声と拍手に包まれながらも、得意そうな様子ひとつ見せずに声を張り上げた。
「早駆けに自身のある若い者は医者を。ちっ、町の反対側だな──担いできてくれ。ありがとう。三人くらいで行って。薬礼は私持ちだ。よし。動くのに支障が出るような怪我がある方は、動かずにその場で待機してください。それから、牛馬の世話をしたことのある者は少々手を貸してほしい。その他の動ける者は屋台を起こしてやってくれ。こうなっては弾遊びの見物なんざしてる場合じゃない」
彼女が周囲に指示を出すだけで、名指しをされたわけでもない人々が自分の役割を自ずから知って動き出す。たしかにその声には傍観者であることを許さないような、そんな引力がある。僕だって足がこうじゃなかったら──
「うーむ、コリャ長者のところで飼うとったベコだないか。こんなばかはほかで見んわ」
「あれだろう、今は向こうのマキバにおったはずだ、あの嵐がおっかなくて逃げてきたんじゃないか。刺さっとるのは柵だな」
真にこの土地の同胞であったなら。
「薬で寝かしたんか? 起きんかな」
「腕とかもげてても一服で十二時間寝ちゃうような鎮静剤を十人分ぶち込んだんできっと大丈夫ですよん。ねぇ青藍、量は……あれ? 青藍? おーい」
「青い方の団子の嬢ちゃんなら向こうに吹っ飛んでったよ」
「いっそくたばってればいいのに。青藍ー、どこー?」
自分の足で歩けたなら。
「木っ端は抜くなよ。血が噴き出る」
「水汲んで来ましたよー」
「本屋のお嬢じゃんか。あすこで家内が怪我人集めとるだに」
「はーい」
昏倒した牛に集る人々の横を通り抜け、壊れた屋台の前に座って頭を掻いている青髪三角巾に「あれ、今日はもう閉店ですか?」などととんでもない事を訊いている編笠姿の女を尻目に、僕は車輪を進めた。
あと十数ヤードで、長屋街と農地を隔てる門塀の前。その向こうには一直線に続く農道と……その上空に渦巻く黒い雲。
僕が決して辿り着くことのない場所。
「おーい……!」
少し遠くで誰か……女の子が誰かを呼んでいる。
お荷物は大人しく屋敷に帰るべきだろうか。救護や片づけが出来るわけでもない。当然上空のあの戦いに関与できるわけでもない。前にも後ろにも、僕の仕事はない。
(……だったら、どうして前に進んじゃったんだろうな)
暗く、冷たい笑みが頬に刻まれるのを他人事のように感じている。こっちは危ないばかりでしようもない。さあ、踵を返して帰ろう。あの屋敷の書庫には、山ほどの本が覚えるべき言葉を湛えて待っている。今日はいろんなことがあった。
「ジョニィ」
僕はゆっくりと上を見上げた。
手を伸ばせばぎりぎり届きそうな高さに──箒にまたがった彼女が浮いていた。
「牧場の柵が壊れてたんだ。あれに怯えて、馬が何頭も逃げたよ」
顔を見るのがどうしようもなく怖かった。
「私じゃうまく追い立てられなかった。やっぱ餅は餅屋だな」
「……」
「よう、
恥と気迫の間に開く、これが唯一、僕に残された道。
「昔取った杵柄、もっかい取るかい?」
朗らかな声に応え、無謀にも僕は前へ、上へと手を伸ばした。
次回タイトルは「スカボロー・フェア」です。