水色の子かわいそう
何者かが自分の頬をつんつく啄いている。
それに気づいた多々良小傘が跳ね起きるように目覚めると、彼女に集っていた数羽の小鳥が一斉に飛び立った。戦場から文字通り放り出され、雑木林の木々をぶち抜いて落下するうちに衣服にくっついたよく分かんない虫とか実っぽいモノを食べていたそれらをぷんすか見送ったあと、小傘は改めて自己の置かれた状況を確認した。
木々に囲まれた、苔の生すちょっとした空き地である。小傘が行き倒れていたのはその中央、こんな林には似つかわしくないほど大きな倒木のすぐそばだった。ちょっと考えてみて、彼女は二つの推論に至る。ただの雑木林といえども終端のあたりは例の「魔法の森」と呼ばれる樹海のえりあに接している。ひょっとするとここが魔法の森の最前線みたいなとこなのかな、という呑気な自然観察。そして、あと一尺でも落下位置が横にズレていたら頭からこのきちゃない倒木に突っ込んでいたという冷汗モノの予測。
ぷるぷると頭を振って雑念、土埃、葉っぱ、虫の類を振り落とし、忘れ傘は頭上を見上げた。樹冠に少々穴が空いているが、アレは自然のものかそれとも落っこちてきた自分がぶち抜いて出来たものか。ともかく夏の午後の陽射しが燦燦と漏れていて眩しい。
静かだった。蝉や鳥の鳴く声すらほとんど聞こえない。
「……終わったのかなぁ……」
風にざわめく木々の音さえない晴れ。ということは、もはや上空の嵐渦巻く戦場は衰えつつあるか、もしくは自分が相当遠くまでぶっ飛ばされてしもうたのだろう。苔に胡坐して小傘はしゅんとした。何にせよ、もう鵺と天狗にとってこの身は無用の長物と相成ったのだ。
分不相応の大冒険は終わり、またしょうもない鍛冶屋兼大道芸人兼付喪神兼ベビーシッターとしての日々が始まるのである。
大きなため息をついた。もう吃驚が主食のバケ傘と化して何十年も経つが、要らない子扱いされるのは何度経験してもやはりつらい。巫女や魔法使い、あとは子守として育ててやった恩も忘れた十代前半のヒトの子などはしょっちゅう「え、なんでこいつまだ居んの」的な冷たい視線を寄越すので近頃は避けているくらいだ。
せっかく大妖怪の鵺と鴉天狗に鍛冶技術や声、
ぱん、と両膝に手のひらを打ちつける気合と共に小傘は立ち上がった。傍らに落っこちていた
「あぇ?」
返り見れば、拳大の鈍色の球体が苔の上をゆっくりと転がっている。一瞬固まった後、彼女はその正体に思い当たる。
「あっ……あー、あーあ。せっかく会えたのに渡せなかった」
件の多々良謹製(一応名目は修繕だが)バチバチ鉄球である。せっかく受注主が稗田屋敷から出てきていたところに遭遇できたかと思えばこの有様。自分の不運を呪うばかりだ。
時々弱い火花を発しながら転がっていく鉄の球──苔に住む芥子粒のような虫が「バチバチ」の犠牲になっているのだろうか? ──を、小傘はゆっくり歩きながら目で追った。預かり物ゆえもっと慌てて追うべきなのは承知していたが、単に怠かった。もう今日は帰って寝たかった。
礫や小枝の間を小道に見立てて、ぐらぐらと苔を転がっていく球。
「……?」
小傘は顔を上げた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……?」
霧雨魔理沙は頭上の雲塊を見上げた。相も変わらずに灰黒色の綿壁のような質感で天蓋と化しているそれが、先ほどまでとは何か──『変質』したように思われた。東西の魔術のいずれにも該当しない術で編まれた雲ゆえに一般的魔法使いの勘は利きづらいとはいえ、霊力の圧ともいうべき感覚が徐々に減衰しつつあることを彼女は察したのだった。
「文のやつ、ずいぶん手こずったな。迷惑極まりない。これだから醜聞屋は」
ともあれ、このまま終息すれば里の危機は去ったと見てよかろう。魔理沙はふっと安堵らしき息をついた。
これ以上視界が悪くなることはない……残る問題の解決にも近づいている。ふたたび十五、六メートル下方の地上へ目を遣れば、駆ける馬の背中らしき影が三つ、おぼろげながらも既に彼女の視野に入っていた。
身を捻って後方を確認する。三つの影を追っているとおぼしいもう一つの影。
(……ホントに乗れてるー。いやはや)
信じ難いというか、魔法使いとしてはただ頭を振る他なかった。乗馬なんぞ実家を出奔する前に背の低い仔馬で数度やったきりだが、落とされないよう膝と腿と鐙を使って必死に自分を固定しようとした覚え以外に何もない。あんなものに脚の自由が利かない人間が乗れるなんて!
ふと、この数ヶ月で彼──ジョニィ・ジョースターから得た印象が思い出された。今まで見たどの男とも異なった、奇妙で微弱な引力の持ち主。
穏やかな水面からときおり覗く価値観の荒廃、希薄でとぼけたユーモア、半身不随という障碍が振りまく──引け目。それらすべてが形作っていた彼に対する理解のほとんどが、今は別の物と化したように感じられる。
妖怪神仙の類の権能は天井知らずの幻想郷。しかしヒトはどうしようもなく弱い。その中でも一段と制限された存在であるはずの彼が、今こうして自分の後を確かに追いかけて来ている。
霧雨魔理沙としては、それがなんとなく嬉しくて仕方ないのだった。根拠のない自信が湧いてくる。そう、自分だって今まで魔法の研鑽の上で幾度となく壁にぶち当たってきたが、だいたい越えてきた。
雑貨屋のガキんちょが空を飛びながら光線を撃ちまくれるようになった。半身不随のくたばり損ないが馬を乗りこなした。なんだ、人間の限界というものは想像よりもずっと遠くにあるじゃないか、と。
(ま、自立できるんなら、いつまでも面倒見てやる気はないがね。なんか恥ずかしいし)
はっはっは、とカラ笑いした魔法使いは箒の柄に引っ掛けたカンテラを外して手に提げ、左右にフラフラと揺らしながら高度を下げ始めた。狂奔していた三頭の馬たちの速度は明らかに落ちている。雷鳴や風雨の収まりつつある今なら、
「雲は晴れるぞ! ジョニィ! ここからどうする!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
どうすべきなのだろうか。
視界は確かに走り出した時よりもずっとマシだ。それにつれて僕たちも速度を上げている。おそらく一ハロン十七秒といったところか。
僕は手綱を握り込んで少しずつ下へと腕を垂らした。馬の、この緊張度合いならおそらく、引っ張るよりもそうしたほうがスロー・ダウンの意図が伝わるだろう。
既に三頭の馬たちの背が視界に入っている。最初に魔理沙の箒にぶら下げられながら見たときは、完全に慄いてパニックに陥っているように見えた。しかし今は不安、緊張、戸惑いの方が大きい走り方のように見える。きっと自分たちがなぜ逃げているのか分からなくなったのだろう。
僕の馬が後ろから迫っている音には気づいているだろうか? さっきの魔理沙の叫び声は少々不用心だ。頭上の雲からはもはや遠雷のような轟きしか聴こえてこないとはいえ、急に彼らの感覚の中へ入れば無用のリアクションを招くかもしれない……
「アレ、もうお馬さん見えてるじゃん。捕まえなよ。ゴーゴー♪」
「ひとりで三頭を捕まえる良いアイデアが浮かんだらね」
相変わらず何がしたいのかも、何を考えているのかも全くわからない名無し悪魔が、僕の背中をバシバシ叩きながらケラケラ笑っている。好き放題だ。その時ふと思い立った。(気に入らないが)コイツを利用できれば話は簡単じゃないか?
考えろ──この少女は何か特殊だ。ここに及んでも顔が、声が、言葉の数々がうまく思い出せない。この土地の怪物、妖怪はただ見た目が際立っているとか、力が強いばかりじゃなく、妙な「能力」を持っていることが多いらしい──そう、あのレミリア・スカーレットが僕の精神を覗き、介入してきたように。
「ほら、どうするの? 魔法使いさんも待ってるよ。『じょにー!』って。変な鳴き声だったねぇ」
「──君は何を待ってるんだ?」
クソっ、考えろ! 前を走る三頭、その最後尾まではあと六馬身もない。こちらは抑えていても絶対的なスピードが違いすぎるんだ。このままだとあと二十秒もすれば僕は彼らの横に並ぶことになる。三頭の精神状態は依然として未知数だ。僕の跨るこの馬が彼らのリーダーであるという推察も、しょせん僕の願望に過ぎない。下半身の助けがない状態で、精密に、彼らと致命的な接触を起こさずに馬体を寄せることができるのか?
不安と──ここに来て、一度は消したはずの恐怖がどっと押し寄せてきた。あの運河と同じだ。今、ここに生死の境目がある。何気なくこなし、消化している「身体の記憶」。しかし、少しでも踏み外せば二度と戻ってこられないかもしれない。鐙に置いた足の感覚さえないというのに、どうやって僕はここまで来てしまったんだ──
錯綜する僕を、彼女は。
「うーん、やっぱりお兄さんが落っこちるの観たくってさぁ」
楽しんでいた。
僕は……僕は、何かを叫んだ気がする。
後ろに回した手のひらで
そう、下へではなく「前へ落とした」。
どうだ、万事は落下なんだろう? お望み通り、またも落ちてやったんだ……発作的な速度で思考する僕の周りで、何もかもがスロー・モーに流れていく。そう、瞬発と収縮だ。ついに思考が恐怖に追いついた。走る馬が「縮む」瞬間。「伸びる」瞬間。そこへ合わせて、この不随の身体を落っことしてやる。
効果は直ぐにも現れた。ものの一完歩で、僕たちは時速にして一マイル以上加速した。背後のお化けは「おおー?」なんてマヌケな声をあげてる。
ああ、急に無理をさせて悪いね
「──ジョニィ!」
気づけば、僕たちは既に逃げる三頭の側面に取りついていた。既に三頭は僕たちを視認している。その証左として──乱れた足取りの疾走が、少しだけ緩んだ。それに比して僕の跨る馬の、漲りゆくファイト。間違いない。彼こそが
「ジョニィ!」
行け。
そうだ、僕とお前の仕事は一つ。行って、追い越す。それだけだ。この群れをどうやって止めようか? 横へ手を伸ばしてタテガミを引っ掴んだりして、それからどうするつもりだったんだ? バカバカしい。全ては最初から決まっていた。我を失っている三頭に、お前が勝てばいい。先頭に立って率いるのが誰かをもう一度思い出させてやれば、ペースは僕たちが握ることになる。
背後に乗っている奴の「力」のことなんて、いっそ忘れてしまえばいい。
行け。
並んだ。
行け。
僕たちのラストスパートが最高速に達したその瞬間だった。息さえ塞ぐ霧を引き裂き、僕の耳目をも貫いて、まるで落雷のようにその
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……?」
こんなところにどうして
いや、なんとなくそう定義しただけで、この一尺五寸ほどの洋装の人形にはもっと適当な名前があるのかもしれない、と多々良小傘は首を捻った。こんな上等な手芸品がこの郷に流れ着くことはそうそうないものだから、知識も言葉も見つからない。
洋人形といえば、魔法の森に棲んでいるという金髪の魔法使い(ところ構わず怪光線をこっちにぶっ放してこない、上品な方)が時たま見せに来る人形劇が印象深い。
小傘も何度となくわっぱどもに交じって鑑賞させてもらっている。しかしあれは糸と布で拵えた、可愛らしいでふぉるめ・きゃらくたー。こっちはなんだか真に迫った感じの目鼻立ちで少々気味が悪い。目も当然縫い目や釦ではなく、ギョロッとした精巧な硝子細工がはまっていた。あとは、青いふりふりのお洋服。少々泥土で汚れている。
そんなことよりも、異様なのはこのシチュエイションである。腐敗臭漂う湿気た林の落ち葉のうえに、ぽつねんと人形が立っているのだ。
そして、その人形の足元に鉄球は留まっていた。
なんとはなしに辺りを見回す。ひょっとしたら誰かがゴミ捨て場代わりにしている場所なのかもしれない。あるいは外の品物が流れ着くことで有名な無縁塚のように、どこかから失せ物が集まってきてしまうような性質の場所なのかも。しかし、見る限りではそういったガラクタの類など一つも見当たらず、ただ──うだるような熱を帯びた湿気の中で、腐り落ちた大木のそばに立っている自分が際立つだけ。
それほどに、静かだった。
拒まれている。そんな気がした。
小傘はふんすと鼻息を吐いた。どうしてこんなことを考えているのか自分でも判らない。周囲に強そうな妖怪や神の類の気配があるわけでもないのに。
とりあえず落とし物を回収せねばならない。
前へ一歩、踏み出すと──
人形が、びくりと身じろぎした。
ぎぎぎぎ──とぎこちない関節の動きで足を、手を震わせ、動かす。そして終いに、首を斜め上へ捻り上げるように小傘を見上げた。夜明け前の玻璃のようにあおく光る目が、小傘の眉間を空虚に射すくめる。
一般的な妖怪である小傘をして引きつった笑みを浮かべさせるような、お粗末な動作であった。
「あ、あはは。呪い人形かな? それとも付喪神の一年生?」
そのどちらにせよ、人体というものを全く知らない
しばし、己の中の教えたがりと葛藤したものの、結局はさっさとねぐらに帰ろうという結論に達する。
「……おーっとっと、落とし物はっけーん……」
わざとらしく声を上げ、ひょこひょこ三歩歩み寄る。洋人形の足元に落ちている鉄の球を拾い上げようと屈み込んだ。
その途端、またも発作的な動きで人形の身体が動いた。小傘がアッと息を呑む間もなく、
爆竹のような破裂音と共に青白い火花が炸裂した。
「!!!」
今まで幾度となく自分の手を弾き飛ばしたそれに倍するド派手な音と光に、哀れ傘妖怪は思わず尻餅をついた。破裂音と光は──鳴り止まない。嵐の鳴らす雨音の如く連打され、激しく明滅する視界の中、彼女は洋人形が鉄球を抱えたまま離さじとうずくまっているシルエットをかろうじて認識する。
数秒の後……その絹糸の毛髪が、青いミニチュアのドレスが、けたたましいエネルギーの奔流に耐えかねてか……発火した。またたく間に全身を炎に包まれた洋人形は、それでも鉄球の上に覆い被さって動かない。
此は我が物なるぞ、とばかりに。
「──やめて! 離れ──」
咄嗟に叫んだ小傘の声を、鼻腔から流れ込む異様な臭気が塞いだ。
燃える人形から発せられる、生髪と肉の燃えるようなにおいが空き地を満たしつつある。
【*** *】
焼け焦げて縮んだ声が、この世のものとは思えない不明瞭な断末魔をひり出す。あの人形は肉と人毛で出来ていたのだ。気づいた時には既に、小傘は立ち上がって
目の前でうめき声をあげながら黒い燃え滓になっていく、奇形の嬰児から目を離すことができない。しかし──
(立ち去らなければならない)
根拠もなく、小傘は直感した。周囲に妖力や魔力の源のようなものはない。否、むしろそれらが感じられる地まで逃れるべきだ。この場所は
火は、いくらかの黒煙と燃え滓を残してついえた。
自分の貌から表情が抜け落ちていくのを、小傘は無感動に認識していた。上着の裏からミトンを取り出して嵌め、黒焦げた肉と繊維の織りなす炭塊の中へ手を突っ込む。
……焼け跡から取り出した鉄の球には煤汚れ一つなく、木洩れ日を還して鈍く光るのみ。それでも、足元で燻りゆく肉塊よりもよほど「生」の気を感じられるのは何故だろうか。きっと自分が拵えたモノだからに違いない。
何ゆえこんなモノを
林の全てが蠢いた。
木々の間から、枝葉の影から、倒木のうしろから、青々とした下生えの垣間から、
何もかもが一斉に、傘妖怪の感覚を侵犯した。すなわち足音、羽音、呻きとも喚声ともつかぬ音の塊。腐りゆく血肉と蒸れた草葉の強烈な臭気。平衡感覚を失調させるほどの……鼓動にも似た……大気のふるえ。
それらを引き攣れてやってきたのは──無数の視線。
棄てられていた。
彼らのその、腐れた顔の、垂れ下がった眼球。肉の削げ落ち骨の見える脚。膿み、湧き、爛れた腕。黒く乾いた臓器が垂れ下がる腹の空洞。
一つ残らず、彼女を見据えていた。
「あ」
露にひかる苔のうえ。
朽ち木の枝のささくれの。
腐れ病の蔓延る彼らが、
人形が。 女が。 男が。 赤子が。 案山子が。 鹿が。 猪が。 狐が。 山狗が。 穴熊が。 栗鼠が。 鼠が。 野兎が。 鼬が。 蝮が。 蜥蜴が。 金蛇が。 家守が。 雨蛙が。 山椒魚が。 白鼻芯が。 猿が。 狢が。 土竜が。 蝙蝠が。 山猫が。 熊が。 四十雀が。 鵯が。 雉が。 鶫が。 鳩が。 鷹が。 鶉が。 郭公が。 鴫が。 啄木鳥が。 百舌が。 梟が。 鷦鷯が。 燕が。 雀が。 烏が。 鳶が。
いちめんにわらっていた。
わらっていた!
「ひひ」
彼女もまた、笑っていた。
歯を剥き出し、目を見開いて笑っていた。
みんな忘れているだけで、この表情の使いみちは本来『それ』なのだから。
小傘は、何の取り柄も持たぬ小童妖怪である。
理を曲げるような
泡沫のような人間を縅しながら、格上の怪異から目をつけられぬよう地道に生きてきた。
「ひひひひひ」
でろりと垂れた舌から顎へと唾液が滴る。
前後左右、そして頭上を遺骸らに囲まれて逃げ場を失った時。ここが己にとって終の虎口と、彼女自身が定めた時。
多々良小傘は──暴発した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ジョニィ」
ぼくは双眼鏡を下ろして声のする方を振り向いた。
脚がぼくのすぐ側に一対立っている。見上げると、お馴染みのテンガロンハットを被った長髪痩身の男がヘコんだタンブラーをこちらに差し出していた。白んだ朝の光に踊る土埃の、むせ返るようなニオイの中でもはっきり分かるくらい濃いコーヒーの香り。
「悪い」
受け取ったその温かさを両手で包み込む。そうだ、コーヒーだ……ずいぶん久々にこれを飲むような気がする。残ってた豆を全部挽いちまって、渡河を控えた今日の朝に飲もうってのが計画だった。つまり三日ぶりのはず。はるかな年月を堪えてきたように感じられるのは、ichi-jitsu-sen-shuの思いってやつだろうか。
……
「ピッチが狭まったハナシだが、スキャンして診てみた。スロー・ダンサーはどうも左腎臓にダメージがあるぜ。まあトシだな」
「そっか……」
「血の巡りが改善すればある程度までは良くなる。早めに気づけたのはやっこさんにとっちゃ幸運だ」
ぼくの馬乗りとしての『カン』は運なんかじゃない。そう口走る代わりにコーヒーを一口すすって沈黙に替えた。かの馬を授かったぼくの幸運。ぼくに選ばれた初老の馬の幸運。サンディエゴの海岸でこの男に出会った幸運。一つとて欠ければ、今のぼくは在り得ない。
──道を東へ。
……父に棄てられ、また父を棄て、兄を喪い……職と名声さえ失ったまま、萎えて動かない脚。
使えるものは何だって使ってここまで来た。騎手時代に稼いだ金の残りで……いわば「然るべき犠牲」を払い、ジャイロ・ツェペリの力を利用し(人聞きが悪いって? まあ聞いてくれよ。ぼくも今じゃあ彼にとって都合のいい男であるはずなんだ)、馬を頼り……風と星を背に、毎夜荒れ野を行く。先人の遺した
「飲み終わったら出発だ。向こうでお前の馬診てるから、なんかあれば呼べ」
「ああ」
「鉄は打ち替えたか?」
「ああ……」
足音が去っていく。
正直、半身不随となった人間が残りの生涯で越えるべき障害としては多すぎるくらいの「一線」を越えてきた。結果としてぼくの手の中には、或る「力」が宿ることとなったわけだ。
あとどれくらい進めば、ぼくは『幸福の一線』を知ることになるのか? 分かりやすいじゃあないか。この腕の中の力は互いに引き合う。どうせゴールは東の果てだ。ぼくが全て「一線」を乗り切るか、どこかでしくじってくたばるかに関係なく、その頃には全てが片付いている。力はかの地に集うだろう。
──河を渡り、河を渡る。
台地に構えたぼくらの野営地から見晴らす、くすんだ碧の荒野を分かつように……空と同じ色の河が……ぼくの眼下へ横たわっている。敬意を欠いたまま挑めば、あまりにも呆気ないやり方で命を奪い去っていく鉛色の死線だ。河沿いに百マイル行ったって橋ひとつ架かっちゃいない。
水そのものに意図はない。これまで渡ってきたどの川も、「飲んだり洗ったり溺れたりするのはすべてぼくたちの自由だ」と言っていた。都市に住んでいた頃は分からなかったが──水は
ぼくは腕を上げ、両手の指で長方形を象った。ミシシッピでの一件以来、何を見てもこのしるしを思い出す。しかし、これを使って自然を「解釈」するのは間違っている気がする。在るべくそれは在るだけ。では、なんてこった……ぼくは最終的に意図さえ手放さなければならないのか? 自然そのものに『なる』ということか?
そりゃ困るな。何としても、もう少し前へ上へと転がらなきゃならない。
とりとめのない思考の泡がぱちんと弾けた。視界の端、半マイルほど先の川辺に、何か真っ黒い「群れ」が進入してきたからだ。双眼鏡を額にあてがえば、それは──
ぼくは悪態をつき、舌をやけどしながらクソみたいに素敵なコーヒー砂糖を飲み干した。ウマいよ。ウマいけどね。
「ジャイロ!
そのへんの砂をかき集めて焚き火に投げつけている間に彼は既にテントを畳み終わっていた。
「お前さんもわかってきたな。ワニでもヘビでもいいが……あの河に何が棲んでいよーと、それはバッファローどもに気を取られてオレ達を狙うヒマがなくなる。後に続けば浅瀬を選べるしな」
「十発しか撃てなくなった。イヤでも節約する方法を考えるよ」
「クスリでも塗りゃもっと早く生えるかもよ? キズ軟膏いる?」
「それメチャクチャクサいんだよ。要らないし、使った後は近寄らないでくれ」
「テメー……」
ぼくは笑いながら手元の双眼鏡を傍らの
日記帳?
タンブラーの水気を切ったところではたと手を止めた。日記帳? この旅の中で
袋に手を突っ込んで、件の革表紙を探り当てる。はて、そもそもどうしてこれを日記帳だと思ったのだろう。なだらかな粒感が心地よいそれに指を滑らせる。背表紙──奇妙だ。これはぼくの
背後で声がした。
「『捨て』るか?」
……耳の奥の、旧いどこかで……
……汽笛がぼうっと鳴った……
(