自らの呼吸が体内で木霊している、荒い荒い呼吸のみ聞こえてくる。卜伝の反応は無い。刀を体から抜こうとしても力が無いのかどうやっても抜くことが出来ず、少しずつ焦りが芽生えてきた。もし卜伝が生きていればすぐにでも自分は殺される、もう力が残っていないのだ、むしろ刺さっている刀を支えに立っているようなものだ。
呼吸が荒くなる――
「見事」
その言葉はまるで呼吸器のようで自分の心臓が少しずつ収まっていくのを内外で感じた、卜伝は崩れ落ちる総一郎を支えた。
「お主の勝ちだ、総一郎――」
馬鹿な――自分は倒れ掛かり、相手は心臓を突き刺されているというのにピンピンしているではないか。
「――よくやった」
「生涯七度目の傷が致命傷とはな」
卜伝は胸から血が流れることを気にも止めず総一郎に背を向け歩き出した。すると奥にある掛け軸をとる、そうすれば大太刀が二本。全く同じの得物だ。
「見事じゃろ」
打って変わって満身創痍の総一郎は言葉を発する事が出来なかった。喋る気力がないのもそうだが、ここでは絶句という言葉が似合う。
初めて刀が美しいと、凄まじいと感じた。まだ鞘に収まっている段階だというのに何故こんなにも気持ちが昂ぶるのだろうか。その答えは自身の心に、そして卜伝はそれを言葉にする。
「これは二本ともお前の刀になる物だ。どうだ初めて侍として戦った後の刀は、愛おしかろう。特にこれはお前が使うために生まれてきた刀だぞ」
卜伝を倒した者の為に作られた刀、結果的な話だが確かに総一郎のために作られた刀と言える。
総一郎はその言葉、自分が侍として戦い、そしてそれを愛おしく思えるその事が嬉しくて仕方なく、そして十六年間がフラッシュバックした。
そして全てが弾けるように嗚咽が体内で木霊していく。卜伝には侍の嗚咽を聞く趣味などない、つまりそれは総一郎だけが聞くことのできる懺悔と感謝の混じり混じった物、故に彼の体内でしか聞こえないものだった。
「さあ、受け取れ」
卜伝がそれを手渡すと総一郎は交差する様々な思いを抱きながらその刀を二本共抱きしめた。
「では行くか」
「・・・何処にだ」
卜伝は少し微笑んで出口で振り返って言う。
「そりゃ山の頂上、儂の墓標じゃ」
塚原山は晴天なり。その名の通り塚原山は総一郎が来た時とは違い雲ひとつない晴天。木々の間から見たとしても一目でわかる、塚原山が総一郎の勝利を讃え、卜伝の花道を作っていた。
そして何故か総一郎の体力は少しずつではあったが 回復していっている、神聖な場所である塚原山にそういう効果があってもおかしくはない。
だが、反対に卜伝は少しずつ弱って行き、ついには腰が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。
「すまぬな」
頂上まで行かねばならないので今現在は総一郎が卜伝を背負っている形だ。
「ま、足腰の悪い爺さんを背負ってるようなもんだ。足腰の悪い爺さんは登山なんかしないけどな」
「ぬかせ」
二人は先程まで殺しあっていたとは思えぬほど笑顔を交わしている。異質であろうか、異常であろうか。二人にとってそんなことは些細な話だった。
命を交わしたのだ、盃よりも深く強い結びつきだ。
「そうだ総一郎」
「なんだ開爺」
「刀に名前を付けてやれ」
「名前?別にいいだろ、無銘ってのが名前だ」
「そうはいかん、敬意を払うのであれば名前を付けるべきだ。刀は自分の命そのものだぞ」
そう言われて総一郎は少し黙った。
「雨無雷音」
「素晴らしいな、刀が喜んでおる」
怪訝な雰囲気を卜伝に向けながら総一郎はもう一本の方を考えた。
雨無雷音──その意味を理解できるものはそう多くはないだろう。恐らく一部の塚原関係者と燕、そして卜伝のみ。
雨無く雷音は鳴る。一見詩的だ、つまり卜伝との戦いで刀を抜いた時の雷音を模したようにも思える。だが、違う。
──今は亡き村雨にこの雷音を捧ぐ。
卜伝の喜びはそこからも来ている。名前に深すぎる意味をもたせたこともそうだが、真っ先に自らの師にこの刀を捧げた総一郎に嬉しさを感じた。戦う前には感じられなかった気持ちだ。
「もう片方はどうだ?すぐには思いつかんか?」
総一郎「いや・・・」と濁したまま押し黙った。流石の卜伝もそれ以上を悟ることは出来なかった。
「まあ、まだ時間はある。人生は長いぞ」
何百年と生きてきた卜伝の言葉に確かに説得力はある、だがそれと同時に卜伝は今から死ぬのだ。
「そろそろ頂上か」
「そういえば頂上に墓なんかないぞ、あるのはでかい石だけだ」
「ああ、それは儂用の石だ。お前が儂の墓を作れ」
「まじか」
それは巨大な石だ。確かに頂上にただあるのであれば不自然さを覚えなくもない。
近くの木陰に卜伝を降ろすと総一郎はその岩の前に立った。
非常に大きい石。既視感があった。明確に思い出すことは困難な記憶。まさしくそうだ、村雨や卜伝の意志をその石に投影してしまった。
「凄いな」
「何がだ」
「全部さ」
雨無雷音と名付けた大太刀ではなく、まだ無銘の大太刀をゆっくりと総一郎は引き抜いた。そして目を瞑ると。
(なんだか研ぎ澄まされる・・・無我なんてものじゃない、もっと大きな精神の・・・)
ぱっ、と目を開く。次の瞬間その剣先が岩に触れると斬ると言うよりも弾け飛んだ。
岩は大きな刀の形をしてその刀身には「塚原卜伝、ここに眠る」と、そしてもう一つ刻まれていた。
「其我一振」
「総一郎・・・」
「我の其の一振り──この刀の名は貴方と塚原に捧げます。それはつまり自分の物でもあるというこの刀に対する愛着を指す」
卜伝は振り返った総一郎が自分と其の後ろにいるであろう「塚原」という者たちに笑顔を向けた姿を見ると急激に力が体から抜けていくことを感じた。悪いものではない、快感に似た気持ちの良いものだ。何百年と生きてきた業の深い死にしては神も優しいものだ、卜伝は遠のく意識の中最後に一言だけ総一郎へ託した。
「精神の宮殿だ」
「?」
「無我の境地、其の上、極みを超えた超人が昇る高みだ。それは階段を上ることも下ることもできる、奥へ進むことも、落ちていくこともできる。だが、歳に合わぬ卓越した精神はお主の苦悩となる。その時は儂を頼ることだ」
「爺さん・・・」
総一郎の顔はそれを悟った表情だ。
「総一郎・・・また会おう、そして──有難う──」
卜伝は総一郎の手が自分の頬に触れたのを確認してその意識を本来は数百年前に時代の戦士と共に逝く筈だった彼処へ飛ばすのだった。
「安らかにお眠り下さい、必ず私も其方へ参ります」
総一郎は自分の瞳から一粒の涙が流れることに気が付かなかった。
♦ ♦ ♦
「いっちにっちいっぽ、みっかでさんぽ」
山の下りは辛い、登りよりもだ。疲れた体、疲弊した足にとってその重力と足裏にかかる負担は相当なものだ。
しかし総一郎の足は軽かった。かなりの速度で山道を下っている、だが何度も転んで既に泥だらけだ。まるで初めて登山をした子供のように。
丁重に卜伝の亡骸を埋葬してから下山している現在はもう少しで夕暮れを迎える。未だ試験は続いているのか辺りに動物の気配はまだない。
下山して一時間程、少し先に街が見える。目の前の森に遮られ塚原邸はまだよく見えないが、二ヵ月振りの下界を前にして心拍数が上がっていく。会いたい人に会える高揚感とあの人に会ってどうすればいいのか分からないという罪悪感、二つが下山よりも彼の心臓に負担を掛けていた。
そして──視界に──
少しだけ下界を振り返ろう。
総一郎がいない二ヵ月間、燕は学校が終われば毎日塚原山の入り口に通っていた。そして絶対に自分よりも先に信一郎はそこにいた。できれば自分も彼よりも先に来たい、だがそれは禁止されている。
雪が降る、雨が降る。それでも燕は通う、そして必ずそこに信一郎はいた。傘もささず、袴を着てそこに立ち尽くしていた。
「奴よりも先にはこれぬぞ」
「お爺さん」
かなり強い雨の中気づけば燕の隣には純一郎がいた。
「信一郎はずっとあそこにいるのだ、だからお嬢さんはどうあっても先に待つことは出来ない」
「ずっと……!?」
燕は視線を純一郎から信一郎へすぐに移した。この一ヶ月の記憶遡ると確かに同じ場所から信一郎が動いていないこと、良く見れば服すら変わっていないことにようやく気が付いた。
「懺悔だろうな」
「……」
「今まで息子を苦しめ、そして今現在その息子は最も苦しんでいるはずだ。だから、少しでも同じ気持ちでいたいのだろう」
燕はこの二ヵ月程で勿論理解していた、この二人が総一郎に対して自分以上の愛情を抱いていることを、だが抱いているだけだ。抱くしかない。自分はそれを向けることが出来るがこの二人は抱くことしか出来ない。それがいかにもどかしく辛いのか燕だからこそ嫌と言うほど理解できた。
「だが――」
そう言って純一郎は傘もささず信一郎の方に歩き出した。
「だが、信一郎。それはお前だけが背負う必要はない。どれ、少し儂にも分けてみよ」
「父上……」
「信じよう、そして帰って来たら……」
「抱きしめてあげてください」
二人の横に燕は並んでいたそして笑顔で言う。
「あ、一番初めに抱き付くのは私ですけどね」
三人は一斉に笑う、お腹を抱えるように三人の声は響いた――そして急激に雨が止んだ。
「雨が」
「止んだ……!」
「父上!」
信一郎は叫んだ。純一郎頷き、燕は山へ視線を向けた。
♦ ♦ ♦
こちらは晴れているというにこの入り口を挟んでどうやら向こうは雨の様だ。何だか向こうに靄がかかりその先が良く見えない。一歩一歩が少しずつ重くなっていく、山から出るにつれ疲労感が押し寄せてきた。
そして向こうの雨があがると同時に途轍もない太陽が靄ごと自分を照らす。良く前が見えない、だがそのまま歩いているそこを抜けた感覚が体を突き抜けた。山の声援が体に染み渡る。森が揺らぐ、葉が鳴く、気配が増える、そして──
「総ちゃん!」
愛おしき声がその重さと大差なく自らの体に来る。総一郎は衝撃を逸らすように一回転した。
「ただいま……燕の香りがする」
「え、やめて。おじ様たちもいるから!」
燕越しに見るその先にはやつれた二人の姿がある。その顔には息子の生還を喜ぶ顔とそして不安があった。
「親父、爺ちゃん。やったよ俺、ほら」
腰につけた大太刀を見せると信一郎は総一郎へ駆け寄った、それに総一郎も応えるがそのまま信一郎に抱き付く形で倒れる。
「やったよ俺」
「よくやった……! よくやった……! 良く帰って来た……! 良く生きて帰って来た……!」
その言葉を聞くと信一郎の啜り泣きと視界に映る涙を両目から流す純一郎を見てそのまま意識を手放した。
それから二週間、皆美や燕が付き添うが一切、総一郎は目を覚まさなかった。
一度医者にも見せたが「酷い過労ですね」と深刻な顔をされた。勿論不安になる皆美と燕だったが「ですが臓器に異常などはありません、塚原さんのことは良く分かっていますので安静にするのと適度な点滴で目は覚ますと思います。その代わり起きた時に少し体の機能が落ちていると思います」と明るい顔で言われて安堵する。冷静になると「落として上げるなんてひどい医者ね!」と憤慨していた。
そして二週間過ぎ、総一郎は目を覚ます。
「なんだっけ」
一時的な記憶障害だった。絶句する者も多かったが、二時間後には「母さーん、腹減ったー」とベッドに寝ながらであるが食欲を見せるようにもなった。だが、両足で歩くのに一週間ほどかかった。
そしてその間に純一郎、信一郎、総一郎の会合は行われた。その内容を知る者は三人以外一人もいない。だがわかる、その後の三人の姿を見れば。純一郎と信一郎にぎこちなさは見られるが総一郎の反応は全く変わった。食事を共にすることもあれば稽古するようにもなった。その様子に一番感激を覚えたのは皆美だった。食事時に三人が話し笑っている姿をみると突然人目も憚らず泣いてしまった。水脈が窘めてどうにか落ち着きを見せるが、その姿に三人は皆美への負担が壮絶なものであったと悟った。
試験は終わったがまだ塚原継儀の発表はまだ行われていない。各所への通達をする前に様々な準備と手続き、儀式の手順などを総一郎は覚えなければならない。それ以前に総一郎の体力がかなり落ちていることが大本の原因だ。三十分歩くだけで相当の疲労感に襲われてしまう、生活するだけでもかなり深刻な問題であった。
そんな中リハビリを兼ねて総一郎は燕と共に例の河原へ来ていた。
「くえー太陽が気持ちいいな」
「うー」
河原の方で二人は十三時の太陽に照らされていた。
「体動かねぇー」
「どうしようかねー」
体を伸ばして太陽に叫んでいた。
「ねえ総ちゃん」
「あー?」
「私も川神行くから」
「なんでー?」
「武神を倒しに行きます」
「あいつ強いぞー」
「今私より弱い奴に言われても説得力ないよー」
総一郎は言葉に詰まってしまった。せっかく卜伝に勝ち、雨無雷音と其我一振を授かったというのに何故自分はこんなにも弱いのだろうか。二ヵ月も戦っていたからか? そうだ、疲れているんだ。
だからといって燕よりも弱いというのか。いや、燕は弱いわけではない、壁を超えた存在である。だが、技巧派で兵法家である自分と技巧派で戦略家である燕の相性で言えば明らか自力の強い自分が有利である。しかも卜伝に勝ったことは紛れもない事実、二ヵ月前と比べ数段実力は違う。
では、何故ここまで自分は弱いというのだ。
「総ちゃん」
燕の呼びかけで総一郎は現実へ引き戻された。ゆっくり右に首を動かすと少し微笑む燕の顔がこちらを向いていた。
「私はどこにも行かないよ、だから総ちゃんはどこに行ってもいいんだよ」
きっかけはその言葉だ。何度も思考した。一体思考している時、自分がどこに居るのか。その言葉で初めて気が付いた。
宮殿にいた──
「暗い……」
明かりはある、薄暗い鬼火のような青い光が壁らしき物から発せられている。だが暗い。二メートル先の視界は暗闇だ。
「これが俺か」
一つ思い出した言葉「精神の宮殿」──卜伝が残したものだ。推測するにつまりは総一郎の心、精神領域を表した仮想世界とでも言おうか。今まではどんなに精神を静めようとこのような場所を覗くことは無かった。
「俺が精神を覗くとき、また精神を俺を覗いている──とでも言えばいいのか? 俺が覗きだして初めてここが現れた……」
あの時、卜伝と最後の一振りを交わした時、あの時の感覚を思い出す。全てがゆっくり動いていた、全てが観えた。無限の時を過ごせるようだった。あれが即ち精神の宮殿であるというのならば、この景色のように曇ってはいないはずだ。しかし靄ではなくはっきりと暗闇が広がっている。
何故、総一郎は今になってこの宮殿を認識できるようになったのだろうか。
「燕──鍵か!」
燕の言葉、自分の精神の主軸となる人物の言葉が鍵だとすればあとは考えるだけだ。そしてそれを探すだけだ。
「そうか」
ある程度歩き出したところで思想に耽っていた総一郎は見えぬはずの辺りを見渡した。するとどこが正面かもわからない状況で後ろを振り向いて言うのだ。
「ずっと居たのか爺さん」
「ここは儂の家だからな、元だが」
そこに明かりがつく、扉だけが見えるように青い灯が赤に変わった。扉に総一郎が触れるとそれが開く。すると透き通った光が一面に広がった。太陽ではない、むしろ海のようだった。
そこには階段もあれば崖もあった、しかしまだ玉座はなく、その先には扉が存在している。
「ゆっくり開けていけ」
「だが……」
「戦えば嫌でも開く。だからこそ平穏な時間はゆっくりと、だ」
総一郎はゆっくりと目を開けた。
♦ ♦ ♦
「次は新七浜~新七浜です」
懐かしいシュウマイの匂いがしてきそうだ。生憎またもや景色を見ず寝過ごした総一郎は一度溜息をついてから荷物を持った。
新七浜から行くのは久しぶりに来る川神、自分の支えとなる人間が何人もいる──いや、この地自体が自分の支えになっている。
「君」
「はい」
そんな矢先見覚えのある警官が総一郎に声を掛けた。
「それ真剣――君はあの時の」
「ああ、その節はどうも」
「またここで会うとは思わなかったよ。刀が二本になってるし……流石、新当流総代かな」
「ご存知でしたか」
「まあ、昔から剣道をやっていてね。よかったらサインお願いできるかい? 警察でも結構有名人なんだよ君は」
「ええ、いいですよ」
警官が手帳とペンを出すが総一郎は「ここでいいんですか?」と聞く「構わないよ」と警官は笑い飛ばした。
「ありがとう、頑張ってね」
「え、はい。頑張ります」
そう言って警官は去って行った。
「……」
総一郎は思った。
「いや~川神に帰って来た実感が湧いたぞ」
固まった背中を伸ばして総一郎は学園へ向かうのであった。
次から本編に戻ります。