京都ではここまでの原っぱはあまり見かけなかった。川はあっても多馬川の方が大きい。
良いのは山位である。
ここは工業地帯付近にある木に囲まれた謎の草原地帯。釈迦堂の家の近くにあるので恐らくは修行場なのだろう、辰子と戦うためにルー戦の次の日にわざわざここまで呼ばれた総一郎であったが、一向に辰子は現れなかった。
彼是二時間、総一郎は日が傾き終わるまでそこに立ち尽くしていた。
辰子戦の立ち合いには亜巳が来ると聞いている総一郎だが、そもそも亜巳すらもこない。記憶をたどり彼女の職種を思い出してみるが、思い出したところでこの時間に亜巳が来るわけがないという結論に至った。大きく肩を窄め息を吐くが、今日に限って天も釈迦堂もいないのでこの場で時間を潰すしかなかった。
この後に辰子と戦うことになるならば間違いなく日が落ちた後、今ですら日が落ちて無いとは言い辛いというのにあと五分もすれば誤魔化すことは難しくなる。
時が経つに連れ総一郎は一つの不安を覚えた。夜の決闘には慣れている――思い出したくはあまりない――が、問題は自分ではなく辰子の方である。対戦相手に辰子を指名した総一郎がそう思うのは少しおかしいが、実際辰子の実力を彼は測り損ねていた。途轍もない原石、動の気を持つ者としては世界でも類を見ない程強大である――と、考えてはいるものの、一体どこまでの実力があるのか、どれほどのもの隠しているのか、完全に感じることは彼でも難しかった。総一郎は百代でもキツイと踏んでいる。
つまり総一郎はこの夜の中、しかも大して明かりもないこの原っぱで辰子はどこまで戦えるのかそれが心配であった。
「あれ、辰子お前……今日総一郎と決闘じゃなかったっけ」
梅屋のバイトから帰宅中の釈迦堂は何故か親不孝通りをフラフラ歩く青い髪の辰子とばったり出会った。釈迦堂としては間違いなく「何故こんなところに居る」という表情であるが、辰子の方はまるで意味を理解していない。眠そうに首を傾げている。
「警備のバイトだったんだ~」
「いや、亜巳が立会人でお前が俺の前に戦うっての今日じゃなかったか?」
「あれ、そうだっけ? じゃあ急いで戻らなきゃね」
「亜巳はどうした」
「仕事だよ?」
約束の時間が四時過ぎ、今は八時。四時間ほどが経過している、釈迦堂は総一郎に同情するのだった。
♦ ♦ ♦
総一郎が漸く愛刀に手を駆け始めたのは更に数時間、深夜に掛かる十一時のことであった。釈迦堂家が全員帰って来たのはいいがなし崩しに夕飯の状態へ移行していく、呆気にとられながらも総一郎は長時間待たされたせいで腹が減っていた。
辰子の手料理だというのでご馳走になったが気が付けば十時を過ぎていた有様だ。
夕飯の理由以外にも立会人の亜巳が帰っていないことがあったが、総一郎微かな疑問を抱く。釈迦堂では駄目だったのだろうか、寧ろ立会人としては最高の部類に入る実力者、亜巳に特殊能力でもあるのか、それとも律儀な人間なのかもしれない。
「総一」
「なんすか」
「まあお前の方が間違いなく強いが――万が一おちるなよ」
釈迦堂は総一郎が愛刀に手を掛けたその時に不吉なことを囁いてきた。師匠なりの揺さぶりだろうか、それとも総一郎の見立て通り内なるものがあるのだろうか。
眠そうに立っている彼女とそれを注意している亜巳。
間違いなく総一郎は幾つかの要因のせいで気が緩んでいた。
「じゃ、始めるよ」
「辰姉まけんなよ」
「辰姉、総一郎何てぶっ殺してやれ!」
「う~ん~」
やれやれ、総一郎は純粋な天の様子を見て一瞬体の力を抜いたが、いつも通り軽く息をすって筋肉を強張めた、愛刀である雨無雷音に気を込めた。
「はじめ!」
と、亜巳が声を掛けると総一郎は飛び出した。小手調べの為か、得体の知れない辰子の本性を暴きだそうとしたのか。
それが悪手であったことは明白だ。
気が緩んでいた。穏やかな時間を短い間に過ごし過ぎた為、辰子が未だ戦闘状態に入っていない不自然な状態に気が付かなかったのだ。
「本気出していいよ、辰」
プツン――幻聴か、それとも実際に聞こえたのか。ダムが決壊したように溢れ出る気を、自分の間合いで感じた総一郎は戦慄するほかなかった。自分の間合い、そして相手の手が届く範囲、陣地の奥深く迄入り込んでいた彼は物理と気のカウンターを顔面に甘んじて受けてしまった。
幸い宮殿は発動している、威力は三割減で抑えられたが如何せんクリーンヒット。辰子と距離が空いてから分かること、気の総量は異常であるが実力で言えば壁越え初期程度、ヨシツグより上に間違いはないが、総一郎が苦戦する相手ではない。しかも相性も良い。
それでも顔面への攻撃を許したのは気の緩みにほかならず、今思えば遅刻や団欒などは意図していないとしても塚原卜伝が取るような心理戦に他ならない。
直撃の代償は総一郎の戦力四割減、脳震盪により精神の宮殿を使えるほど集中力を高め、精神を安定させるには三十分は必要であった。
百代の瞬間回復や頑丈な体を持つ者、動の気を暴走させるような辰子であればあの一撃でここまで苦労することもないが、壁越えの者であっても防御力に自信がない者もいる。ボクシングで言えば一発TKO、柔道で言えば一本勝ちの様な一撃が辰子の放った一撃と同等だと考えてもおかしくはない。
多少揺れた視界、今はもう治まってきているが、総一郎は初心の初心、明鏡止水と無我の境地に己の剣技を落とし込むことに決めた。
いつまでも両者の距離が縮まらないことがある筈もなく、まず初めに辰子が動き出した。総一郎は勿論それに準ずるが如く対応する、後の先を一度は極めた彼ならば今それを鋭く研げば最も後の後に近い者にもできる筈。
しかし辰子は後ろに歩き始めた、その先には沢山の木が生えている。
(……分かりやすい動を持つ者だな)
額から右の眼がしらの横を通って汗が垂れた。分かりやすい動の気、思い出すのは今まで殺してきた剣客のなかに居た、死に物狂いで斬りかかってくる辰子と似た動の気を持つ男。刀が折れたと思ったらその男は後ろに走り、自分の二倍はある石をこちらに投げてきたのだ。焦ってその時は自分の刀を落としたがこちらも死ぬ気はないのでどうにか倒した。
辰子は生えている木を二本引き抜いて総一郎の方へ振り返る。
(二年後は軽く壁越え上位だな)
そう無駄な思考に耽りかけていたのは辰子が全く別人の形相をこちらに向け、五分以上が経った時だった。大振りでしかないが一撃喰らえば顔面とは比べものにもならない破壊力を持つ武器。避け、避けきれなければ斬る、だが無尽蔵に木はある。辰子から離れれば木が飛び道具になり、近づけば斬馬刀の五倍のような近接武器が襲い掛かる。
ルーとは違い近接戦、しかも技の数で対応する勝負ではないと総一郎も勿論理解していた。ならば一閃で決める、それしかないのは明白であるが、殺さぬ限り辰子は止まらない。川神院や釈迦堂ならいざ知れず、辰子に死を覚悟させるのは無理だ、しかもこの現状がなにであれ格が下であるのは事実であり、そんな相手を殺して倒すなど意味は全くない。この戦いは総一郎に纏わりつく呪い滓を取り除くのが目的だ。
(……あれか)
思い出した――それと同時に彼は構えた。切っ先に左指を添え、刀は出来るだけ後ろに引く。牙突の形である。
だが、このまま放てば辰子は死ぬ、これは心臓を貫く必殺である。
そうだ、狙いは別の場所でありただ近づく為の移動でしかない。獰猛な攻撃をかいかぐり、辰子のこめかみ横を狙わなければならない。十分引きつけ出来うる限り集中力を高める。普段はこれほど簡単なことはないが、気を緩めれば視界がブレるこんな状況では至難の業である。
「ゔわわあわああああ!」
辰子の咆哮が総一郎の感覚を研ぎ澄ませる、今まさに大木が彼に襲い掛かろうとしているのだ。
(そこだ)
屈伸も見えずホバー移動したような残像が残った。
ただ一つだけ確かに見えたのは右肩が前に出る動作だけはどんな人間にも見えただろう。
「辰姉!」
天が叫んだ、つまり総一郎を視認できた証拠であり、辰子に危険が迫ったことの表れである。
真横から見れば総一郎の刀が辰子の頭を貫いているようにも見える、だが刀は見事にこめかみを掠っていた。
だがそれがどうしたのか。辰子の素手が届く間合い、突き刺した刀は一度引かねばならぬ。辰子は好機とかではなくただそこに敵がいたので手を伸ばした。言い方は緩いが一般人から見れば豪速で掴みかかっているようにしか見えない。
「ばーか」
総一郎は辰子に聞こえるぐらいの声で呟いた。
何故自分が馬鹿にされたのか、何故この間合いで自分よりも余裕な調で呟いたのか。直ぐに分かった。
辰子の腕は刀を手放した総一郎の両手に掴まれていた。
雲林院流脱剣術「大太刀代わり」
つまり背負い投げである。相手の腕を取り、大太刀を振るうが如く投げる。
辰子は地面に叩きつけられると次の行動を封印されるように息が出来なくなっていた。総一郎の右足が自分の首を圧迫していたのだ。
「近接の練度ではつーちゃんに劣るんだけどね」
辰子は落ちる寸前に暴走状態が解け、そのまま眠りについていった。
♦ ♦ ♦
「はっ、楽しみにしてるぜ」
釈迦堂の見送りで総一郎は帰路に就いた。
脳震盪の後遺症はなく、ただクラクラする頭を抱えながら島津寮に着く、既に深夜二時である。
幸い誰も起きては居らず、シャワーだけ浴び、忍び足で部屋に戻った。
布団の中に入ると先程の出来事が鮮明に過った。拙い戦いをしたものだ――そんなふうに思いながらもそこまでの悔しさはない。だが、今までにはない高揚感が芽生えだしていることにも気が付く。
ルーと辰子、まだ二人しか戦っていないが、努力家のテクニックと天才の粗削りなパワーという正反対の猛者を経験した。一戦目は己と相手に実力差がありつつも苦戦し、二戦目は実力差故の慢心に苦戦した。
百代から言われた通り「相手の実力を限界以上に引き出す体質」というものが働いていることも彼はこの二戦で実感している。そして自分の弱体化、肉体的なものではなく、あの河川敷で本気を出した時の気持ちや、卜伝と戦った時に沸き上がった生存本能というものがまるでなく。更には単純な高揚感というものが無い為、それ自体が己の実力を押しとどめている。
だが間違いない。
「……楽しかった」
水上体育祭が迫りつつあるそんな水曜日の夜の事であった。
辰子戦から二日後の金曜日。脳震盪の後では流石に体調が優れない総一郎は三戦目の相手である弁慶へ延期の申し入れをする。金曜集会には出れなくなるが、頼んでいる傍らこれ以上延期もできない、この後の対戦相手もいるので、ファミリーに「ごめん」と罪悪感に駆られながら多馬大橋近くの河川敷へ急ぎ向かった。
この時にファミリーから声援を貰ったのはすごくうれしかったらしい。
目的地に着くと弁慶は勿論のこと、義経と与一、そしてチラホラと九鬼従者部隊が野次馬が集まらないように周りを囲んでいた。
すると総一郎の進行方向に二人のメイドが待っていた。
「ロックンロール!」
「どうも」
「あ、ステイシーさんと李さん」
偶然そこに居た、というよりも恐らく二人は総一郎の為にそこに居たのだろう。二人とも武装しているが敵意が無いのでそういうつもりではないようだ。
「この周りは九鬼の従者部隊が百人態勢で囲んでいます」
「だから気兼ねなくやっていいんだぜ!ってことを伝えるために待たされてんだよ、ファック!」
「ああ、なるほど。じゃあ後でハンバーガーとシュウマイ奢りますよ」
そう微笑んで降りていくと後ろから「ロック……」「シュウマイ……」と小声が聞こえるがその時既に総一郎は臨戦態勢であった。
その視線の先にはセコンドに二人を付けている弁慶であった。
弁慶と義経は総一郎に気が付くとすぐに声を掛けようとする。だが流石は武士娘、与一も合わせ直ぐ臨戦態勢をとり、弁慶以外の二人は橋の上まで移動する。
二戦を経た総一郎を見た義経、彼女は直近で彼を最も知る存在であろう。
「あれが塚原君……前とは全く違う」
「ああ、纏ってるオーラが違う。前はもっと禍々しく霞んで見えていたが……今は地獄の業火――いや、もっと強大な、まるで超新星のようだ」
与一の言葉はまだまだ続いていたが義経は違う視点で総一郎を凝視していた。
弁慶への助言、果たして正しかったのだろうか。総一郎の癖や慢心、スピードとテクニックが主体の義経とは違い弁慶はパワーとテクニック、スピードを兼ね備えた中衛型の人間、しかも見てくれはパワー主体でありそれを生かすための二つである。一撃一撃の重みが違う弁慶であれば数発当てることも可能だ。義経はそう考えていた。
だがそれはあくまでも前の総一郎である。
そして当人もそれを理解していた。
(あーこれは主に聞いていた総一じゃないね。というか印象違いすぎ、これは気を引き締めないと瞬殺されるね)
錫杖をブンっと一振りしてから弁慶は握り直した。
(だらけ部にあるまじき真剣な眼差し……ま、それが総一の良いとこか。頼まれたからにはやるさ、私なりにね……!)
どこから聞こえたわけでもない開始の合図は二人のぶつかり合いによって始まった。