朝。朝も朝である。今日は土曜日、総一郎は朝の八時から島津寮の温泉に浸かっていた。本来は由紀江との決闘が組まれている日であるが、予想以上の疲労で「無理」と戦闘態勢の由紀江に申し訳なさそうに布団の中から這い出た状態で謝っていた。流石の由紀江もポカンと口を開けていた。意識を取り戻していつものように「そ、そうですか!大丈夫です、私も万全な状態がいいので!」と気にしていないようでもあったが、彼女にも少しばかりの落胆があったようだ。
そんな中一番落胆し、心苦しい気持ちに囚われていたのは他でもない総一郎であった。
「マジで申し訳ないなぁ」
当日のドタキャン。しかも昨夜にアレだけ啖呵を切っておいてこれである。情けないにも程がある。この温泉も大和の力添えがなければ来れなかった。
「総一郎。大丈夫か?」
大和が心配して風呂場に入ってきた。
「まあ、一人で動けるぐらいにはなったかな」
「そうか。着替え置いておくからな」
由紀江が総一郎の様子を見に来たのが六時。温泉に入ったのが六時半。かれこれ一時間半も湯船に浸かりっぱなしである。
流石に筋肉もほぐれ、湯船から出てソファでのんびりしても良い頃合いである。そう思って居間へ行ってみると、由紀江がこちらを見て気まずそうに、そして何故か燕が居た。
「なあぜえ」
「そんな風に言われるなんて、シクシク」
「根詰めているようでしたので僭越ながら呼ばせてもらいました」
ドタキャンした人間に対する事とは思えない計らいに今度は総一郎の口が塞がらなかった。流石の由紀江でも怒ると思っていた。
そして根詰めているという言葉が何よりも総一郎には響き、燕の顔が眩しく見えだした。
「さて」
と、燕はソファから立ち上がった。
「デートするよん♪」
決闘をすっぽかしてデートと言うのも気が憚れるが、由紀江自身が燕を呼んでいたので少し気が楽。よく考えてみれば燕とこちらでデートするのも初めて。最近は決闘で総一郎も忙しく、燕もそれを邪魔しないようにビルの上から刀を投げるぐらいの事しか出来ていなかった。確かに休息が必要なのかもしれない、総一郎はそう思って口を開いた。
「どこ行くんだ?ホテル?」
「俗物的すぎる発言だね、やっぱり納豆が足りてないみたい」
「納豆は毎日食ってるよ、燕の写真がのってる松永納豆を」
「それは僥倖、僥倖」
そんないつも通りの二人が向かった――燕が総一郎に一任され、足を運んだのはペタスモール湘南である。川神よりは少し遠いところにあるが、神奈川最大級の複合商業施設である。服や雑貨は勿論、映画館や電機屋も一通り揃っており、恐らくここで買えないものはないだろう。
「よし、松永納豆は売ってる」
「珍しいことにこのモールは九鬼が関わってないんだよな」
「ここに出資してる片瀬さんと私知り合いだよ。何故だか片瀬の御嬢さんには嫌われてるみたいだけど……」
「へえ。甲高い声で何か気に障るようなこと言ったんだろ」
「地味にひどい事言うね……」
食品売り場からエスカレーターで上がっていく。まずは二階から、ファッション系が主に並ぶ二階は女性物が多いが、店によっては女性物と男性物の両方を扱っている所も多い。
因みに燕は全く変装をしていない。川神学園で知れ渡ってから殆ど全国的に広まってしまった。
この世界的ファッションチェーン店であるGARAPにはいるなり何人かの客と店員がこちらに視線を向けてきた。張本人の燕は総一郎の左腕に絡みついている。総一郎は一刹那だけ「めんどくせえ」と思ってしまった。そして良く感じてみると自分に対する視線も多い。男性からは敵意、女性からは生温いもの。川神学園が世界の縮図であることを理解した。
「たまにはこういうのも着てみたら?」
総一郎は身長が高い。ガクトよりも数センチ低いが体格は筋骨隆々ではないので何にでも似合う。なので今燕が勧めてきたロック調のTシャツに色付きの薄いシャツという、高校生かちょっとばかり若い社会人が着る服でも着こなしてしまう。ハットなど被れば人生お茶の子さいさいである。
総一郎はそのチョイスに「ふむ」と考えだした。
彼の普段の服装は和服と洋服を混ぜたようなものだ。一見奇抜だが和服の色気と洋服の甘美さがマッチしている。そしてそれを着こなしている。袴にベルト、上はガラガラのシャツと和服の上着が訳の分からないことになっている。どうすれば着こなせるのか――燕も大和も百代も会うたび全員が思っていた。
ガクトはタンクトップを着てもダメであるが、総一郎ならば大丈夫。
ガクトが総一郎と同じ服装をしてもダメだが、総一郎ならば大丈夫。
そこにあるのは真理であり。気が付かないのはガクトだけであった。
その後金の許す限り総一郎は夏物の服を買った。燕の物も二人で選んだり、夏と言えば水着なので海を買ったり――もちろん、燕に内緒で買うプレゼントは抜かりがない。
三階へ行くと大型雑貨店や飲食系の店も増えてくる。そこでは主に燕の買い物となった。総一郎は部屋に小物を置かないからだ。不要な押し付けはしない、燕も良く理解して代わりに自分の我儘を通すのだ。総一郎が荷物を持ち、燕に付き合う。別に苦にもしていないが総一郎もそれで燕が喜ぶのであればまさに僥倖であった。
後はクレープなんかを食べ、各々の行きたいところに二人で行く。映画見るか――と終わればもう午後四時である。
そのまま二人は江の島へ足を運んだ。
磯の香り、夏独特の風から感じる気持ち良さはその展望台から見る景色に比例した。
「おお、凄い綺麗」
「解放感あるよな、京都と違って」
「仕方ないでしょ、あっちは山とか建造物も合わせて景色なんだから」
「はいはい、分かってます」
人もいない。燕は風で揺れる髪を抑える。総一郎は前かがみで手摺に持たれながらも燕の言葉に笑みを絶やさなかった。
「疲れた?」
「疲れた」
リフレッシュに来て疲労が溜まっては意味が無い。だが二人ともそれがただの疲れではないことを理解している。二人の夕日に照らされた笑顔が証拠だ。
「さーて、シラスソフト食って帰るか」
「げ、あれ、美味しくないよ」
「恋人同士で食って不味いっていうのもいいんじゃない?」
「……流石に意味わからないよ?」
総一郎は「置いてくぞー」と常人ではあり得ないスピードで駆け下りて行った。
♦ ♦ ♦
湘南という所がどれほど治安の悪いところであるか。新参者の総一郎と燕にはよく理解できていなかった。
そこは弁天橋の近くにある砂浜。帰ると言っても多少寄り道していた二人は見事に喧嘩に巻き込まれていた。
「川越田総本部毘沙門天、総長の玉井川だ!てめえら江乃死魔だな!」
「いえ、違います」
「ああん!嘘ついてんじゃねえよ!彼女連れて歩きやがって!」
「嘘ついてないデス」
何故か族と間違えられた総一郎に隠れた燕は怖がる振りをして大爆笑していた。
「何笑ってんだてめえ!」
(あ、ばれた。てへ)
(お前なあ……)
燕の行動がバレると火に油というよりはもう油に火を着けてダイナマイトを近くに置いたようである。
とにかくことを大きくしないように善処しようとした総一郎であったが、既にもう十人ほどの不良が二人を囲んでいた。
(もうヤケだ、燕こちらからの攻撃は無し、その代り向こうの攻撃は全部避けろ)
(了解だよん)
燕が頷くとすぐに玉井川という男の拳が総一郎の眼前に迫った。
――遅い――素直な感想。壁を超えている人間としては当たり前だ。ガクトよりも遅いのではないかと感じる。燕の方にも不良が二、三人。流石は不良の国、女であっても族であれば容赦はない。もしかすれば百代のように強い女が居るのかもしれない。先程言っていた江乃死魔という族の総長が女性であればそう考えてもおかしくはない。無論、総一郎も燕も不良の攻撃を受けるつもりは一切なく、女であろうが男であろうがこちら側からも同じことであった。
警察が来るのを待つ。二人は武術家としてもそれを待つ他ないのだ。
数分すると向こうの息が上がりだした、こちらは何もかも乱れている所はない。だが向こうが興奮してアドレナリンの多量分泌、それによって疲れがマヒしていることも分かっていた。だからと言って何をすることもないが、そこで乱入者が現れた。
「うるせええんだよ、このクソがああ!」
豪速球が唐突に打ち込まれたかと錯覚するほど鋭い一撃が不良共に浴びせられた。そしてもう一人そちらもかなりの怒気を孕んで残りの不良は海の藻屑と消えて行った。
一人は獰猛な牙を持つ青髪、見るからに動の気を纏う女性、そしてもう一人は栗毛で鋭い目つきとは裏腹に尋常ではない美貌を持つ、こちらも動の気を持つ女性。そしてもう一人、遅れてやってきた赤神のツインテールは息を切らしている。どう見ても不良であるが風貌だけな気がしなくもない。燕が小声で「あれ片瀬のお嬢さんだよ」と呟いた。
そしてその三人が少し引き気味の総一郎と燕に視線を向けていた。
「何者だ」
「不良に絡まれていた一般人です」
「ああん?あんな立ち回りしておいて何が一般人だ」
「いえいえ、この不良さん達が弱いだけで」
「あ。この女は納豆小町よ!アイドルのくせに武術家で負けなしとかいうチート野郎!」
「こんな弱弱しい私を野郎なんて、シクシク」
「止めろ、ツァーリボンバーに引火するな!」
「舐めた口ききやがって!」
総一郎はここに居る三人が湘南を張っている三人であることを直ぐに理解した。片瀬のお嬢さんは大した実力が無いようであるが、轟々と動の気を垂れ流しているこの二人と対等であることから大器であることが伺える。
だが問題はこの二人である。壁越えは無いが少なくとも壁越えが可能な能力を持っている。今でこそ一子と同等と言えるが一昔前であればそれもどうだかわからない。原石で壁を超えている辰子と違い、多少才能の面で落ちたとしても適切な修行を積めばこちら側に来ることは間違いない。
ただ、ここまで動の気を解放していれば純粋な武人になることは難しいだろう。釈迦堂のようになるか、もしくは武人になる前に辞めるだろう。
総一郎がこの二人の実力を測ったのと同時にまた二人も総一郎と燕の実力を測っていた。彼ほどではないが本能的にかなりの実力者であることを悟ったのだ。
「オーケーオーケー。俺は一般人ではない、剣術家だ。後ろに居るのは俺の彼女で武術家だ。俺達は君らが今吹き飛ばした奴に因縁を付けられた、どうやら江乃死魔という組織に間違えられたらしい、心当たりは?」
二人の視線は片瀬のお嬢さんへ視線が集まった。
「……あ、あたしの組織よ」
「そうか。まあ、それは良い。それで俺達は帰宅途中だったわけだ、できれば帰りたい」
「関係ないね」
風というよりは雷鳴。素人には瞬間移動に見えても総一郎には見える、早いのも分かる。彼が動かなかったのは燕が前に出たからであった。
獰猛な表情をした青髪の拳をいとも簡単に燕は受け止めていた。もちろん反撃はしない。
それがあり得ないことだったのだろう、いつの間にか増えていた何人かが「あの腰越の一撃を……!?」と呟いていた。
「悪いけどこっちは一般人に手は出せないから勘弁してちょ」
「……はっ」
腰越と呼ばれていた女はすぐに引いた。
だが、面倒なことにもう一人、栗毛の女が「へえ」と前に出てきた。遠くの方で「愛さん!」「辻堂さん!」という声が聞こえる。青髪が腰越、栗毛が辻堂、赤髪が片瀬。名前が分かったからなんだと思うが、その時総一郎は初めて百代の気分を味わった。
様々な不良に絡まれて手を捻るだけで相手を沈めてしまう。面倒でもあり、怖いもの知らずな彼らの気質は心地よくもある。
フフ――総一郎の溢した笑いは果たして相手にとってどうであっただろうか、総一郎は前に出た。
「――分かった、俺が相手してやる。かかってきな」
「ちょ、ちょー」
「へーきへーき。なんかあれば百代に感化されたって言えばいい。それに明日の予行練習だ」
今日はよく眠れそうだ――総一郎は今までではあり得ないような感覚に囚われていた。
戦うことが疲労回復につながるなど――
♦ ♦ ♦
帰路は軽かった。
島津寮には戻らず、毎度の如く何故か久信が家に居ないので松永家へ。由紀江に感謝のメールと明日の決闘の細部を詰めた。その後もう一人に電話をしていたが誰かは分からない。
燕と二人きり、内緒で買っていたプレゼントを渡し、ブルジョアの総一郎は寿司の出前を頼んでいた。
「ガクトとワン子が羨ましがるだろうな」
「意地悪男」
「ま、ワン子なら食べさせてもいいが」
「浮気男」
「いくらでも言いたまえ、寿司を食いたくないならばな」
「よっ太政大臣!よっ悪代官!よっイケメン!」
「悪代官……?」
誉め言葉ではないものを貰ったがそれでも総一郎の機嫌はすこぶる良かった。
あの後、腰越と辻堂が挑んできたが、一撃も喰らうこと無く相手を翻弄した。苛立つ二人を煽るように「ほれほれ」と呟いていたが、遂に二人は息を切らし、最後は総一郎が二人を海に沈めた。
礼儀として名を名乗ったが、果たして川神に来るかは分からない。
ともかく総一郎の足取りは軽く、機嫌は良い。
明日のリフレッシュになったかな――燕は安心して納豆巻きを頬張るのだった。
「松永納豆の方が美味いな」
「松永納豆の方が美味しいね」
テラスモールにDQNの友達と行ったんですけど、やることは無いですね。
辻堂さんでは真琴さんが一番好きです。後は良子です。