「あ、あれはオーストラリアンフォーメーション!」
誰かがそんなことを叫ぶ。
総一郎と一子はコートの中で一直線になる形、前と後ろでそれぞれ構えていた。サーブは文学TEAMだ。
流石の総一郎も相手が相手なので深い呼吸で精神を統一する。
「テニスじゃねえぞ……」
そんなツッコミを一人口に出して気持ちを落ち着かせる。中々無かった、人に応援されるということ。新鮮な気分と共に今の環境に感謝する他ない。そして一子がこれほどまでに身を削っていることに対して、少しでも報いてやろうという気持ちが彼の中に先行していた。
「集中だ、一子。見るのではなくて感覚で受けろ、冷静になるのはその後だ」
「……はい」
後ろに振り向く必要はない。総一郎は思わず背筋を張ってしまう――その獰猛、まるで自分の背中に腹を空かせた獅子がいるようで。
余計な口数は一子の集中を逸らしてしまう。総一郎はもう一度深い呼吸を、更に深く、深く――深く意識の底に潜った。
(やけに上手く入ったな、慣れてきたのか?)
滲み出る静の穏やかな気。まるで身を纏う湯気だ。
その領域に入るには時間がかかる、それは嫌というほど実感してきたことだろう。そんな彼だからこそ違和感があったのだろう。だが周りから見ていた手練れはそんな彼の状態を見て驚愕していた。
「ほう……また一つ上に段階を引き上げたか。揚羽様との――いや、まさしくあれは小僧の努力、それの賜物か」
「ほっほっほ。頑張っておるようじゃな」
「とても洗練された気ネ、前戦った時から成長した、嬉しいヨ」
「凄いですね……私達も頑張らなくてはいけませんね」
「まゆっち……ああ、あそこからまだまだ伸びられるんだ、僕だって」
「……義経も精進しなくては!」
「あーあ、総一がまた遠ざかっていく。ま、燕さんがいるから無理か……」
ヒューム、鉄心、ルーなど名だたる達人たちが明確に成長した雛を称賛。そんな中一際喜びが大きかったのは勿論百代であった。
「おい燕、凄いぞ私の好敵手は。まさか負けないよな」
「落ち着いてモモちゃん。絶対とは言い切れないけど勝つよ」
「そうだよな、そうだ。なんたってあんな「綺麗」な気を纏えるんだ」
「フフフ、そうだね」
「ああ、それに――自慢の妹が頑張ってるんだ、負けるわけない」
試合開始の笛が響く。
♦ ♦ ♦
ラリーは思ったよりも続かなかった。これはどの試合をとっても言えることだ。やはりディフェンスの負担が大きい分、オフェンスの攻撃力と正確性が高いと不利になる。故にいかにディフェンスがボールを受けるか、それが今回の勝敗を分けていた。
そして準決勝第二回戦の試合は文学TEAM優勢で進んでいた。一セット目は文学TEAMが先取、現在二セットも文学TEAMが十六対十四でリードしていた、これを取られれば根性TEAMの敗退が決まる。数字だけで言えばそこまでの大差はないかもしれないが、問題は一セット目の結果だ。
二十一対十で文学TEAMの圧勝が少なからず観客に衝撃を与えていた。
「根性TEAM苦戦していますね、タイムアウト間にどうにか立て直してもらいたいところですが、ヒュームさんこの試合運び、どう思われますか」
「あの娘はよくやっている。だがそれを生かせん小僧が悪い、これに尽きる」
「確かに塚原君の動きが悪い様に見える……何かあったのだろうか」
文学TEAMの圧勝と共に驚きを与えたのは総一郎の不調。試合前まではあれ程完璧とも言えた気が乱れ始めたのと同時に点に差が付きはじめた。その原因を知る者は総一郎と燕を除いて誰もいないだろう。
(まずいなー、完全に飲まれてる。向こうも気が高まって溢れ出てるし、総ちゃんの気が洗練されればされる程逆効果になってくる……厳しいか)
「悪い、一子……」
「うんうん、気にしないで。初めの勢いがあればまだ取り返せるよ……それにしてもどうしたの?」
「……よし、一子俺をひっぱたけ」
「ええええ!……いいの?」
「どんとこい!」
「じゃあ――」
喧騒の中に静粛、その中に響いた破裂音。実際は破裂などしていないのであるが、ある意味では彼の何かが弾けたかもしれない。
「しゃあああ!」
と、取りあえず総一郎は叫んでみた。
(思ったよりなんも変わんねえな!)
タイムアウトも終わり、コートに戻る。そうすれば総一郎の眼前にはある意味天敵、冗談ではなく天敵の彼女、葉桜清楚。またの名を項羽。そんなことは彼女にとって関係のない事だろう、何故か分からないが正体は隠され、恐らくは封印されている。
だが、総一郎としてもそんなとこでいつまでも躓いている訳にはいかなかった。自分の為に戦っているわけではない、勝利を望むもの、後ろで身を削り自分に全てを託してくれている友であり弟子である一子。それを蔑ろにはできない。
「清楚さん」
「!?……な、なにかな」
「どうも、塚原総一郎です。自己紹介が遅れました」
「あ、はい。葉桜清楚です。あの……なんかごめんね、迷惑かけてるみたいで」
その一言を聞いて総一郎は絶句した。
仕方ないとはいえ自分が彼女を避けていたのは事実。それを咎められることはあっても謝罪されることはない。だが彼女はまず思ったのだろう――自分が悪い――自分が何かをした――と、また反対に総一郎という人間の話を聞いて彼が無暗に人を無視する人でないことも知っているのだろう。事実、清楚はよく人に塚原総一郎という人間について聞いていた。
避けられるのは重々承知で、だがそれでも仲良くしたいと。
総一郎の奥底から湧いて来たのは闘志とそして怒りであった。
「俺、清楚さんの事嫌いじゃないっす。好きっすよ、人間として。だからこんで燕やモモちゃんとご飯でも行きましょう、奢りますから」
「――――うん!あ、でも奢るのは私、先輩だから!」
「……はい!」
力強く総一郎は返事をした。心は晴れ晴れ、そして――一瞬だけ、いや、それで充分と言えるほど強烈な殺気が解説席、ヒュームの下へ向けられた。
「……ふん」
「……はっ」
吹っ切れた彼の、彼等の戦いは続く。
♦ ♦ ♦
「さあ、第三セットの始まりです。第三セットは十五点マッチとなっています。いやーしかし根性TEAM、見事な逆転劇でしたね」
「一子さんのレシーブ技術には驚かされる」
「小僧もようやく戦力になりだしたな」
土壇場で盛り返した根性TEAM。三セット目は十五点マッチとなるが、勢いは確実にそちらに向いていた。それでも向こうは負けられない戦いに変わりはない。何せこれは天王山、勝った方が総合優勝となる。
「ごめんね旭ちゃん。私が決められないばかりに……」
「ううん、清楚は悪くないわ。元々ここまで来たことが凄いのだから」
負けを覚悟したかのような弱音に旭は首を振った。まさしくそうであろう、悪いのは清楚ではない。そう彼女は考えていた。
もし、自分が本気を出せたのなら――と。
自身の謎に気が付いているのはそう多くないだろう。総一郎と数名。その中でも旭の正体に気が付いているものは一人としていないはずだ。旭には正体を明かせぬ、已むを得ない事情がある。
だが――と考えてしまったことに、旭は少しばかり高揚を覚えた。
(お父様、怒るかしら……駄目ね)
サーブを打つ彼女の姿はどこか儚げ――寂しげに見えたと総一郎は思った。
終わってみれば十五対十。根性TEAM、総一郎と一子。そして二年F組の勝利であった。苦戦を強いられた試合運びとなったが、二人の周りにはF組のメンバーが集まって喜びを噛み締めている。
反対に三年S組は意気消沈――とは行かず。二人称えながら涙を流している清楚を慰めていた。またあれもこの学園の集大成の一つ。学年の違いでS組にすら違う色を付ける。総一郎はそれを温かいものだと感慨深く思いながら――
——その闘志に向けて宣戦布告を切った。
「さーて、対決なんて久しぶりじゃん?」
「まーっていたぞ、総一」
「私も久しぶりだね、総ちゃん」
「悪いけどうちには今大会ナンバーワンリベロ&セッターがいるんで、負けないから」
三人の視線は一つの場所へ集まる。
「ふふ、そうだな。見せてくれ私にお前の成長した姿を」
「――――望むところ!」
♢ ♢ ♢
川神ビーチバレー決勝。
水上体育祭の最後にふさわしい舞台となったのは他でもない。武神こと川神百代、納豆小町こと松永燕の武神小町TEAM対と塚原家当主こと塚原総一郎、武神の妹で今大会もっともホットな少女こと川神一子の根性TEAMが対決。誰もが息を呑む対戦マッチとなった。
根性TEAMのオフェンスは総一郎、ディフェンスは一子。そして武神小町TEAMのオフェンスは百代、ディフェンスは燕。前者のチームはお墨付きの布陣であるが、後者の方はそれ以外が無いとまで言える当たり前である。
パワーの百代とテクニックの燕。
対して根性TEAMはここに来て戦力の均一差というところに綻びが出てくることとなる。
「……」
一子の居る位置、その左側には大きく抉れた地面。幸い砂であるためすぐに元に戻すことは可能であるが、問題点はそこにない。一子が一歩たりとも動けていない点にある。
十二対十二。勝敗の行方という点ではまだまだ拮抗している展開ではある。だがそれは今のところ百代、総一郎の両者が必ず点を決めているからでしかない。それが崩れれば負けに繋がる。
「一子……」
「大丈夫、取る……だから必ず決めて」
集中力は切れていない。反応できていないわけではない。
一本に的を絞り、一子は集中力を高めていた。
「燕、取れないか」
「いやあ、流石としか。今までの試合が嘘のようだね……でも」
「でも?」
「百ちゃんには悪いけど、必ず勝つ試合になると思うよ」
「……どういうことだ?」
燕はその問いに只微笑むことしかできなかった。それは腹に抱えた黒いものではなく、人の限界を知っているからでしかない。
「あああああああああ!」
ボールが高く上がる。そのボールはまた落ちるが、それを彼女はそのままにはしておかなかった。もう一度高くそして軽く、押し出すようにして彼にそれを託した。
「任せられた!」
コートの右側から左の端まで飛ぶ、するとそこには呼吸が合ったように空中にボールが漂っている。
総一郎はただ腕を振り下ろすのみ。
「決まったああ!怒涛の三連続得点!一セット目は武神小町TEAMでしたが二セット目は根性TEAMがまさに根性でもぎ取りました!」
井上の実況と共に観衆が沸く。総一郎と一子の片腕のハイタッチは何とも言えない、人の涙腺に語り掛けてくるものがある。
「一子さんのファイトは凄い、加えてそれにこたえる塚原君もカッコいいと義経は感涙の極みだ」
「――ああ、だが……」
ヒュームが口を濁した。初めの頷きは心から一子に称賛を与えるものであったのだろう。だがその後に続く言葉は決して穏やかなものではなかった。それは義経も同様、言葉こそ輝いているものだが、表情は険しい。
それは徐々にどの生徒にも分かるほど明白な事実であった。
「―――――――はあ――――――はあ――はあ」
一子は総一郎とタッチしたままその手を握り続けていた。いや、握り続けていたのは総一郎の方だった。
汗で前髪はずぶ濡れ、髪から汗が滴っている。息は途切れ途切れ、呼吸するのがやっと。恐らく総一郎が腕を離せば倒れてしまう。気丈に振舞っている足は心なしか華奢に見えた。
「はあ……はあ……」
「……一子」
「まだやれる……」
「一子――」
「――まだ……やれる!」
信念の籠った瞳であった。光が見える瞳というのはこの事だろうか。今燃え尽きてもよい、こんな試合ですら身を投げ打つ覚悟がある。壁を越えた者同士がする本気のスポーツについていくだけ。それに命すらもかけなければいけない。
それが一子の選んだ茨道の現状であった。
誰も止められる者は居なかった。
「ワン子」
「……お姉様」
「私にお前の限界、見せてくれ」
「……はい」
コート変わり、三セット目。点数変わって十五点マッチ。
百代と燕、総一郎にも勿論疲弊は感じる。いくらスポーツとはいえ、遊びとはいえ、彼らがそれを本気でやっていることに違いはない。そしてそれに食らいつく一子の疲弊具合は火を見るよりも明らかであった。
理由は簡単。今までも全力で試合に当たってきた、それが壁越えであっても。そのツケが決勝戦にきている。そして現状相手のオフェンスが百代で為だ。全神経を集中させて一手に絞りそれを見極める。それにかかる準備はただそこに居るだけに見えても多大な労力を要する。
いわば完全なガス欠。初めから無理な話ではあった。
一因は総一郎にもある。準決勝で無能を晒した彼の尻拭いをしていたのは彼女だ。いくら覚醒していない清楚とはいえ攻撃力は相当なものであっただろう。ボールに手を当てて弾く程度では済まされない、踏ん張って返さなければ通じない。
そして百代はそのパワー型の最たる相手だ。
九対九。一子は自分のターン以外全く動いていなかった。サーブすらもただ上げるだけ。ただ一点、ただ一点を目指していた。
「悪いね」
そう一子は聞こえた。すると自分の横に大きな衝撃が伝わる。
十対九。自分たちの方に点数が入るはずの場面。それだというのに点数は相手の方へ入っていた。
「狙ってやがったのか」
「まあ、私も馬鹿じゃないんでね」
燕と百代の姿が一子の目に映った。
圧倒的な姿、総一郎の後ろも守れない。
到達できない壁の向こう。
気が付くと点数は十四対十三、武神小町TEAMのマッチポイントだ。
自分がサーブを打つ、ひょろっとした何でもない玉だ。誰でも取れる。だが帰ってくるボールは世界中でも何人取れるか分からないような剛速球。先ほどまでは全神経を使い、どうにか何度かそれに食らいついた。
だが今では並のボールですら取れないような状態にいる。歩くだけで、酷いサーブをするだけで、何とか相手からのサーブを取るだけで。
視界にあったのは黒髪の何かが飛び上がる所、それは総一郎だったか、それとも百代だったのか。一子には分からなかった。
ただ動いたのは体。動力は良く知っている気と最近覚えた気。そしてボールを受けた右腕の痛み、そして歓声。
覚えていたのはそこまでだった。
「ワン子!」
百代が一子に駆け寄る。燕も同様だ。ただ突っ立っていたのは総一郎、救護のルーも駆けつけてきた。
「返事をしろ、ワン子!」
「百代、落ち着きなさイ!問題はない、ただ意識を失っただけダ!安静にすればすぐ目を覚まス」
「――っ!」
静まり返った砂浜に見かねた鉄心が一言「選手気絶の為、武神小町TEAMの勝利!最後まで健闘した両チーム、そして川神一子に拍手を!」
すると思い返したように喧騒は元に戻った。どこからも全員を称える拍手、そして一子を称える声が相次いだ。
「すっげえ根性だったぞ!」
「かっこよかったぞ!」
「俺と付き合ってくれ!」
「お嫁さんにしてください!」
完全に気絶している一子には声は届かない。だが百代はそんな声を聞いて少し安心したのか笑みが零れていた。
反対にF組は喜びにあふれては居たが殆どの者が涙を流していた。
「よく頑張ったぞワン子!」
「感動したワン子!」
「犬……お前に恥じないように生きよう!」
「ワン子……えらいえらい」
「泣かすぜワン子!」
「皆お前のことを誇ってるぞワン子!」
ファミリーを筆頭に担がれるワン子に称賛が与えられる。解説席の義経は完全に大号泣、弁慶がそれを肴にしている。ヒュームも珍しく称えてはいるものの、少しばかり浮かない顔を見せていた。
「どうしたの、総ちゃん」
総一郎は運ばれる一子を只見るだけ、燕に心配そうに声を掛けられ初めて意識をこの水上体育祭に戻した。
「い、いや。何でもない……おめでとう、燕」
すると総一郎は足早にそこを去っていった。
♢ ♢ ♢
長かった水上体育祭。
総合優勝二年F組。MVPは誰もが予想しなかった――本人を除くF組のメンバーは予想済みであったが――大和が栄冠に輝いた。本人は度肝を抜かれていた。どうやら一子か総一郎が取るとばかり予想していたらしい。確かに点数への直接成果は少ないが、その手腕は間違いなく確かなものであった。
そんな体育祭、波乱の幕開けとしては上々なものであった。
と、全てが終わり。打ち上げも後日へ持ち越された日の夜。河川敷でただ一人総一郎は暗い顔で佇んでいた。
彼が頭を悩ませている原因である一子は数時間後に意識を取り戻し、様々な人に称えられ、特に百代、鉄心、ルーに褒められたことが嬉しくて仕方がなかったらしい。一つ疑問に思ったのがその場に総一郎が居なかった点だろう。
総一郎はそれらを纏める全ての懸念に眉間の皺を寄せていた。
「危険なものではあるな、儂はそれで死んだ者を知っておる」
「……俺も重々承知している。あの場で気が付いたのは俺と、あとはヒュームさんくらいか」
総一郎は彼の中に眠る老人、卜伝と会話していた。
「本来は相容れない二つの気、それが同時にあれば……それは危険だ」
「……あの一瞬。百代のボールを受ける時に感じた気がそれならば――対処しなければならない」
夏の生ぬるい風が吹く、陰湿な、ジメっとした風。
「最悪、武という道を絶たせねば―――――斬ってでも、一子を」
その言葉はかつての人斬りとは違い、どこか不安と嫌悪ではなく、使命感と信念によって構成されていたかのようにも聞こえた。
なんだか意欲が沸いてるぞ