Armored Core farbeyond Aleph 作:K-Knot
今年も寒くなった。飽きもせず降りしきる雪は生命などという物をバカにしているかのように簡単に命を奪っていく。
(今……俺いくつだっけ……)
仕留めたリスを肩に担いで歩きながらガロアはぼんやりと考えていた。
ざくざくと雪に小さな足跡が残っていく。
(ああ……、13か……次で14……俺はいつまで生きるんだろう)
何を目的で生きているのかも分からないままとりあえず獲物を狩って食っている。
(畜生共は繁殖すりゃいいんだろ。人間もそうなのか?)
だが繁殖しようにもメスもいないし、そもそもよく分からないと考えながら歩いていると何かが見えた。
人の姿だった。珍しいが全くないわけではない。一人のようだがなるべく関わらないか、殺すかしておいた方が身の為だ。
そんなことを考えながら木の影に隠れると、運が悪かったのかそれとも自分が悪いのか分からなかったが沿って地面に刺さっていた枝を踏んで折ってしまった。
しまった、と考えるのとパキッという高い音が辺りに響くのは同時だった。
「!?」
(ちっ)
銃を取り出そうとして手にリスの死体を持っていることに気が付く。
銃を取り出すのが一歩遅れてしまった。
「待って!」
(……?)
いきなり攻撃されると、それしか頭になかったガロアはその人間の意外な行動に動きを止める。
「お願い! 何か食料をください!」
「……?……??」
分厚い服を着ている上に顔も煤けてやつれていたためよく分からなかったがそれは女性だった。
少なくとも野生の獣や野盗のような敵意が感じられずに銃を降ろす。
「……? 子供……? どうしてこんなところに……?」
(女だ。一人でこんなところで何しているんだ)
年齢はよく分からないが年寄りという訳ではなさそうだ。
だが少なくともガロアよりは身長は高い。
(どうしようか)
食料を下さいと言っていた。手には肉もあるし、水筒も保存食もあるが当然渡してもメリットはない。
かといって放っておいて家までついてこられるのは避けたいが、殺そうにも一撃で仕留めなければ力で劣るのだから思わぬ反撃を喰らうかもしれない。
何よりも貴重な鉛玉を消費したく無かった。
「ここで何をしているの?」
(こっちのセリフだ。ここは俺の縄張りだ)
弱っているのは明らかなのに大人としての尊厳を失わないように見栄を張って、最初の接触よりも少々上から話しかけてくる。
少しだけ不快な感覚がした。
「……! まさかここに暮らしているの?」
身に着けた銃やクロスボウ、リスの死体に気が付いたのか、そんなまさかといったような声をあげてくる。
(女だ……繁殖……? この女と……?)
生物の三大欲求のうち、性欲だけはよく分かっていなかった。種としての義務が子孫を絶やさないことだというのは分かっている。
じゃあ今ここでこの女に銃を突き付けて繁殖の為に犯すのかと自分に問うが、腹が減った時には面倒でも料理をするといったような突き動かされる感じは全くしない。
(きもちわる………)
結局そんな気分には全くならなかった。あまりにもくだらない。
「一人……? お父さんは? お母さんは……?」
(帰ろう)
そんなことを聞かれても自分には答えられないし、答える術もない。
もしも自分一人だと知れば豹変して襲い掛かってくるかもしれない。
「待って!」
「……」
今度は冷静にショットガンに手をかけられた。
銃に手を付けたのを見て明らかに女の表情は変わった。
「お願い……もう何日も食べていないの……。何か……何か食べるものをください。動物を捕まえようとしても出来なくて……」
(なんだよそれ。だったら死ぬだけだろ……くだらねぇ……。でも……どうしよう……)
二つの選択があった。殺すか、食料を与えるか。
先ほども弾は使いたくないと考えた。手にした食料以外にも家に帰ればある。
もう一度考え直すがこの女に家まで着いてきてほしくない。
それに、自分のような子供に大人が頭を下げてお願いするのはどんな気分なんだろう。そう思うと引き金を引く気になれなかった。
「あ……! ありがとう……! ありがとう!」
「……」
自分でも馬鹿だなと思いつつも、リスの死体を放ってしまった。
これで寒い中外に何時間もいたのがパァになってしまった。
「! 待って、お願い!」
ガロアが踵を返して去っていくのを見た女は必死にガロアを呼び止める。
その理由はガロアには全く分からなかった。
(殺すぞ)
いらいらとしながら近くの木の枝を折り、雪に『BE GONE,AWAY WITH YOU』と書いて枝を投げ捨てる。
「……! で、でも、だってあなた」
「……」
その女の額に照準を合わせるのになんの戸惑いも無かった。
これ以上一言でも食い下がろうとすれば女の額には向こうが見通せるような穴が空くだろう。
「ご、ごめんなさい……」
(ふん)
弱い奴は結局死ぬのに、馬鹿馬鹿しい。そう思いながらガロアは女がついてこないのを確認してからも念には念を入れて足跡を消しながら家に帰った。
その夜、雪は止み空にこれでもかという程の流れ星が流れた。
流星群の一つ一つもこの眼はよく見えた。
夜空はもう一つの海のようで、自分には願いが一つもなかった。
次の日。
(あーあ。やっぱりな)
森を歩いていたらとてつもない血の臭いがしてそちらに赴くと目を背けたくなるほど凄惨に食い荒らされた女の死体があった。
(……熊にやられたな)
喉笛を食い千切られた女の目玉は抉られており、ギザギザに裂かれた腹の傷痕から犯人を察する。
生きようが死のうがどうでもよかったが、人の味を覚えた熊がこの辺りに出現してしまったということは覚えておかなければならない。
しかしそう考えると昨日の行動はまるっきり間違いだったという事になる。
(……! あ……)
はらわたを掻き分けて懐を漁ると昨日投げ渡したリスがそのまま出てきた。
何か手を付けた様子もないし、ライターや火をつける道具も無かった。火も起こせなかったし生で食う勇気もなかったようだ。
どちらにしろ死んでいたという事だ。気まぐれに助けてみようとしても結果は同じだった。
(当たり前だ。俺が誰かを助けられるような人間だったら……スミカさんや父さんを……)
自分は何も救えない。ただ殺して生きていくだけだ。
そう自分に言い聞かせながらガロアは森の奥に消えていった。
うだるような暑さの体育館の中、向き合うセレンが声をかけてくる。
「お前の才能を信じている。今日も手加減はしない。来い」
その言葉には愛情に裏打ちされた厳しさがあり、その目は自分の未来を一切の曇りなく信じてくれている。
(クソッ、もう俺のほうがでかい! 俺のほうが力が強い! なのに……どうして勝てるイメージが浮かばねえ……)
すでに身長はセレンを抜かし、体重に至っては男女の身体のつくりの違いからか10㎏以上の差がある。
それでもまだまだ勝てる気がしない。もうこの人に師事してから2年。シミュレーションでは負けなしなっても現実では一度も勝てていない。
機械に乗って勝ったからなんだというのか。後ろめたさなく、清潔に、完璧に打ち負かさなければ結局意味がないのだ。
(ここでこの人に勝たないと意味がない……! 俺があの森の王だったのに……! この世界の広さは……どうなってるんだ、クソッ)
体格の差を考えるのはずれているのかもしれない。そんなことをいえば昔自分の数十倍の体重の動物を仕留めているのだから。
「来ないならこっちか、!」
(ここだ!!)
呼吸が聞こえる。一瞬の油断、構えを解いたとき独特の呼気だ。
放たれたローキックは脚を刈り、セレン程度の体重のものならば地に手をつく……はずだ。
「蹴りの時に腕を上げて視界を狭めるな。常に相手を視界に収めろ」
だがなんなくローキックは回避され、放たれていた見えない角度からリバーブローが直撃する。一瞬痛みで動きが止まり、吐き気を堪えると口の端から唾液が零れた。
(くっ……)
身体を小さく屈めて腕で急所を全て咄嗟にガードしたが、それがミスだと気が付くと同時に指摘された。
「『防ぐな』。何度も言った」
その言葉を言いきる前に金属のように固められた貫手が腕に向かってきた。
(つっ!! いってぇ……)
身体にダメージが残るから防がないで避けろ、と常々言われている。
二の腕を掠めていった貫手は皮膚を抉り飛ばし大量の出血をもたらした。恐らくは動脈が傷ついたのだろう。
どの技も超一流だがセレンの貫手は最早このレベルにいる者が他にいないだろうと思えるほどの位置に達している。
どこで受けても衣服ごと貫かれ身体に傷がつく。爪で切られているなんて日和った攻撃では無く、本当に指先の力と速度で肉を抉り飛ばしているのだ。
どこで受けても傷を負うし今度はそこが急所になる。肉が露出したところに刺激を与えられる痛みは筆舌に尽くしがたい。
一体どれほどの時と鍛錬を経ればこのような威力になるのだろう。
セレンに聞いてもどう努力しても10年以上はかかるから無理だときっぱり言われてしまった。まだ20歳にもなっていないセレンがその言葉を言う時点でどんな人生を送ってきたのか想像するのも難しい。
(この!!)
シャツを引き千切り、その勢いでセレンに叩きつける。上手く行けば絡まり動きが止められるかもしれないし、服を掴まれる危険性も減る一石二鳥の攻撃。
しかしあっさりと躱されてしまった。だが、セレンが距離をとった隙に出血している二の腕にただの布切れになったシャツを巻きつけて止血する。
止めてこないということは致命傷ではないのだろうが、このままでは数分で動けなくなる。
逆にセレンが止めてきたときは本当に危ない時だ。以前掌底を食らった時に、痛みはそれほどでもなかったのにその場で訓練を止められたことがあるが、後で検査をしたら肺に骨が刺さっていた。
「服を脱ぐと痛いぞ」
セレンが踏み込んでくるのに合わせて顎にフックを放ったが、前蹴りで止められてしまった。
呼吸の裏をかいているのに、対応されてしまっている。
「卑怯な手を使っても構わんぞ。それでもお前はまだ私には勝てない」
(……もう知らねえぞ!!)
その言葉を受けて、即席の包帯をずらして腕に力を込めると血飛沫がセレンの顔にかかり、目つぶしとなった。
三本貫手で目を狙う。これが決まれば失明はせずとも数秒は動きが止まる。たった数秒、それでも数秒あればいくらでも攻撃のしようはある。
「あまいな」
二年も一緒にいたから行動が読まれていたのか、それとも分かりやすいのか、見事に避けられた。目の下を僅かに切ったがそれだけだ。
これが額だったら出血で視界が阻まれて後の戦闘が有利になったのだが目の下では大して意味がない。
(予想通りだ!)
ガロアの狙いはさらにその奥、頭の後ろでふわりと流れる黒髪だった。
卑怯なのは百も承知だが、そこを引っ張れば次の攻撃は直撃させられる。
相手が女であることを利用した攻撃は後ろめたさを残すがそれでも。
「狙いは良かったが最初の眼の動きで分かっていた」
決まった、と思ったら伸ばした腕が掴まれていた。
人食い鮫が本気で捕食するとき、横向きで噛みつくということを思い出した。
大きく視界を横切るように広げられた脚は防御よりも速く首に完璧に絡まる。
お手本のような三角締めは頸動脈を締め上げて速やかに意識を薄れさせていく。
組み技や絞め技を警戒して服を脱いだのに意味がなかった。もうここから返す手段はない。
(また負けか……クソ……)
あらゆる手を、卑怯な手を使っても正攻法で叩き潰されて勝てなかった。
この敗北は心に『絶対に勝てない』という現実を刻み込む。
だからこそセレンは後腐れなく勝つために真っ直ぐ強くなれというのだ。
正々堂々と誇りを持った戦いこそ『完璧な』勝利となるのだから。
(ちくしょう……また勝てなかった……)
ぎりぎりと締め付けてくる脚の向こうからセレンの冷ややかな青い目がこちらを見ていた。
暴力では無く武、後ろめたさのない本物の強さを湛えた光が映っている。
(経験じゃ勝てねえのは知っている……何でもくれてやる、だから力が欲しい……力が……金では買えない……過去は意味がない……出来る努力は全てしている……一体俺にはあと何が差し出せるんだ……くそ……力が……)
薄れた意識の中で最後に認識したのは自分が膝をついたことだけだった。
もうあと数カ月かなぁ。
そうセレンが繰り返すようになった。
自分でも分かる。確実に力がついてきた。もうそろそろ戦場にでてもいいタイミングだろう。
今日もセレンはそんな言葉を嬉しそうに、でも少し寂しそうに何の変哲もないファミレスで呟いていた。
「コーンスープとってきてくれ」
そう言ったセレンは右目に眼帯をしており、頬は痛々しく腫れている。
コーヒーカップを中指と親指で持つなんていう風変わりなことをしているのはセレンの利き手の人差し指がへし折れているからだ。
(わかった)
頷いた自分もセレンに負けず劣らずボロボロだった。
左肩は脱臼しているし、首の包帯の下ではまだ肉が抉れており、何か衝撃を与えればすぐにでも出血するだろう。
細かい骨もぴきぴき砕けている。それでも、いつの間にかあれだけ遠かったセレンと五分ほどの強さになっていた。
はたから見たら自分達はどう見えるのだろう。
若い男女がボロボロでファミレスで食事をしているなんて普通に目を引くはずだ。
まぁ、どう思われようと自分の人生には関わってこないのだから、どうでもいいことだ。
これだけわらわらと人がいても自分とは全く関わりのない人間なのだ、どいつもこいつも。
そう思いながらカップに自動でコーンスープが注がれていくのをぼんやり見ながらもう一個カップを手に取った。ついでに自分の分も注いでいこう。
こんなに簡単に食事って出来る物なんだ、と何度も繰り返し思っている。森での暮らしの方がまだ長いから未だに慣れない。
こぽこぽ音を立てながらコーンスープが機械的に注がれていくのを眺めているガロアの耳にそのとき、かき消されそうな程細いがそれでも間違えようのないセレンの声が聞こえてきた。
(!!)
首がちぎれ飛ぶほどの速度で振り向きセレンの座る椅子の方を見ると一人の男が声をかけていた。
そう言えばいつだかに言っていた気がする。『お前と一緒にいるようになってから男から声をかけられることがなくなった』とか。
ざわざわとうるさい喧騒を掻き分けてその二人の会話だけがガロアの耳に届く。10mは距離はあるが、そんなに離れた場所の音を気にするなど久々のことだった。
「やっぱそれって彼氏からの暴力でしょ? イケないと思うんだよね、俺はそういうの」
「……」
セレンは何の反応もしていないが、明らかに不機嫌だった。
最高にキレたときはあの人は無表情になるとガロアは経験から知っていた。
「偶然とはいえ、見ちゃったからさ、その怪我とか。助けなくちゃみたいに思って」
(理に適っているな)
そう、動物の群れでも一部の優れた雄が雌を独占する。
そっちの方が種を残すシステムとして優れているからだ。
雌が求めているのは子孫を問題なく育てられる環境と守ってくれる相手だ。
どこまでどれだけ進化しても自分達も所詮人間畜生。だからあのアプローチの仕方は間違っていない。
『今の雄の元では求める庇護は得られていないだろう? だから乗り変えろ』と言っているわけだ。
いつかはセレンも普通に男を見つけ幸せになるべきだし、そうなればいいと思っている。
なのにガロアはその会話を聞いてここ数カ月の中で一番イライラしていた。
「いやいや、童話のお姫様も王子様との出会いは運命じゃなくて偶然なんだぜ? 偶然を運命って呼んでいるワケ。ローマの休日だって言ってしまえば出会いはナンパさ」
「……」
男のアプローチの仕方は理屈としては間違っていないのだが、てんで的外れのことを言っているということには気づいていないようだった。
自分とセレンの関係は『庇護』で繋がっている、それは確かだ。だが逆なのだ、男の思うそれと。
(……そうだな。人生は突発的な偶然で出来ているな)
自分とセレンが今こうして繋がっているのだって全くもって何かの偶然以外の何物でもない。
みしみしと音を立てて握っていたカップにヒビが入った。
「なんなら今からそいつんとこ行こうか? その暴力男のところ」
男がセレンの手に何気なく手を触れるのと、ガロアの握っていたカップが砕けて弾け飛ぶのは同時だった。
「消えろ」
当然の結果として男はセレンに一蹴された。
いや、レジまでぶっ飛ばされなかっただけでも運が良かったのかもしれない。
「お、お客様! 大丈夫ですか!?」
「……」
突然手の中でカップが砕けたようにでも見えたのだろうか、店員の一人が声をかけてくる。
自分は口が利けないことをジェスチャーで示してから、バツの悪そうな顔で歩いて行く男を目で追う。
(あっ)
足早に歩く男の足がのろのろと歩いていた老婆の杖を蹴ってしまったのが見えた。
男はそれに気が付かずにトイレに入っていく。
わざとでは無い、偶然だ。それは分かっている。
(そうだな、人生は突然の偶然から出来ているな。お前は正しい)
老婆の杖を拾って散らばった財布を手渡して、お礼を言われるのも最後まで聞かずに肩をいからせながらガロアはトイレへと駆けこんだ。
セレンが待っていることももう頭にはなかった。
(突然、偶然に街の女を好きになるかもな)
トイレに入ると鏡の前で髪をいじっている男がいた。
(偶然婆さんを転ばすかもな)
いつからそうなのかはもう覚えていないがガロアは昔から自分の中で爆発する怒りを内側で上手く処理することのできない人間だった。
まるで野生の獣のように獰猛で、だからこそあの森でも生き残れた。そしてそれは未だに変わっていない。
「ぐっ? えっ?」
(偶然変な男に締め上げられることもあるかもよ)
まさかいきなり襲われるなどと夢にも思っていなかった男の首を掴み、ガロアはそのまま向かいの壁に男の身体を叩きつけた。
「なっ、ぶぶぶ……、何っ」
唐突のことに男はどう抵抗していいのかも分からないようだった。
首を強く掴んでくる腕を引っ掻くがガロアには全く通じない。
(あんなに美人で若いんだ。いずれは……。だがお前に100年セレンを幸せに出来るか? ダメだな)
「ひっ」
言葉を口にできないガロアの射殺すような視線に男は先ほどまでの強気な発言もなかったかのように震えた。
(あの人は、あの人だけは幸せになるべき人だ。一夜の共だとか訳の分からんことは他の雌共と好きなだけやればいい)
男の目から光が消えた。ぎりぎりと締め付けられ頸動脈のルートが塞がれてしまい落ちたのである。
それと同時にガロアも手を離した。
(死ね)
そのままトイレの床のタイルに顔を打ちつける前に、腰を落としたガロアの掌が男の腹部を打ち抜いた。
気絶から強制的に目覚めさせられた男は襲い来る吐き気に逆らえずに中身をぶちまけようとするが、
(ここで吐け)
男の髪の毛を掴んで個室の便器の中に突っ込む。
びちゃびちゃと吐瀉物を吐きだしながらもなおも抵抗してくる男をガロアは頭の中の細かい血管がぷちぷちと切れ続けるような怒りに任せて便器に押えつけた。
そのうち便器の縁が男の首にはまり、そのまま強く押えつけられたまま息が止まってしまい男は再び気絶した。
言葉巧みに近づくよりも余程動物的な__雌を取られることに対する根源的な怒りだった。
「遅い!」
「……」
たかだかコーンスープを二杯ついでくるのに五分もかかった事にセレンは少し怒っているようだった。
いや、多分この怒りはそれだけではないとガロアには分かっていた。
先ほど男に一瞬触れられていたセレンの手に恐る恐る手を伸ばす。
「? ゴミでもついてた?」
自分が傷だらけなことは全く気にしていないかのようにセレンが不思議そうに声をかけてくる。
その傷を付けたのは自分なのに。
だが知っている。この世界には怪我をして血を流すよりもよっぽど痛いことがあるということを。
「お前がいない間にデザート来たぞ。ほら、お前も食べろ、甘いもの。いらない? 食べないと」
(いずれは俺のそばから……でも俺……この人がいないとまた一人ぼっちだ)
憎い奴をこの手で殺すまでの命でいい。
それだけが願いだったのに、いつの間にかセレンの幸せという新たな願いが増えていることに気が付いたガロアは、その先を想像して怖くなってしまった。
手に触れたまま押し黙っているガロアをセレンはいつまでも不思議そうに見つめていた。
100話だけど暗い