Armored Core farbeyond Aleph 作:K-Knot
あまり笑わない子だった。
というよりもいつもむっつりしている顔、という感じだった。
ツリ目でへの字口、おまけに大人しいのでほとんどの大人は気難しい子だと勘違いしていた。
実際遊園地に連れて行っても父の肩の上でむっつりしながらパレードを見ていたし、ソフトクリームを食べても、美味しいとは言う物の全く笑ってはいなかった。
しかし両親はこの子はよくよく物を見ているから笑う暇が無いんだ、賢い子なのだと確信していた。
遊園地に連れていった三日後、クレヨンでがりがり描き上げた絵は、あの時のパレードと寸分違わぬ模写であった。しかも自分が掴まっている父の頭まで描いてあるというおまけつきである。
意味のある言葉を喋るのも早かったし、本もすらすらと読んですぐに覚えた。
この子は賢い子なのだと、両親が確信するに足る理由はそれこそ数えきれないくらいあった。実に将来が楽しみな子であった。
国家解体戦争により一家の故郷であるデンマークも漏れなく戦火に包まれた。
が、彼らの住んでいた土地が特に島国であったこともあり、大きな混乱は無く首都が制圧されるだけでインフラに大したダメージを与えることも無く非常に速やかに支配者の交換は終わった。
その一帯はレオーネメカニカに管理されることとなったが、一家の父がレオーネメカニカの社員であったこともあり、暮らしは変わることなく…いや、むしろさらに裕福になった。
「ウィニー、何を見てるんだい?」
その日、スヴェンは庭の木に足をひっかけぶら下がったまま動かない4歳の娘を見て何となく声をかけた。
「かぜ」
「風?見えないだろう、そんなもの」
木の上にいる娘を見ながら当然の答えを返す。
あれ、そういえばどうやってこの子はあそこまで登ったのだろう。
「見えるよ。木がうごいているもん」
「へぇ。ほー…」
確かに木の枝の揺れを見れば風の動きが見えるとも言えるのだろうが…それを風を見ていると言い切る娘はやはり天才だろうか。
それとも親バカなのだろうか。
「見ててどうなんだ?」
「せかいがうごいている」
「…そうだな」
何を言っているのかさっぱりわからないが、ここで否定するのはよくない。
分かったようにおごそかな顔をして腕を組みながら頷いていると、ウィンはくるりと空中で一回転しながら着地した。
「……!」
「おなかへっちゃった」
「ウィニー、危ないから高いところに登ったり降りたりしちゃダメだよ」
根っからのホワイトカラーの自分は空中で回転どころか木の上に登ることを考えただけで鳥肌物なのに、つくづくこの子は神に愛されている。
でも、危ない物は、危ない。
「…はーい」
「…お土産があるよ」
「ほんと?たのしみ」
と言う娘の顔はどう見たって楽しみだという顔ではない。
どちらかというと嫌いなおかずを食べなさいと言われた顔に近い。
(あんまり家にいないからなぁ)
連日朝から晩まで出勤し、時には日曜日も働きに出るが、それでも世間の他の者に比べれば遥かにマシな暮らしをしていることは間違いない。
それでも変わらずむっつりとした顔をしながら部屋に入る娘に妻は『嬉しそうな顔しちゃって』なんて声をかけており、未だに娘の表情の細やかな変化が読み取れないのはやはり少し寂しい。
休暇が増えればいいのだが、国家解体からまだ一年も経っていない今では休めば休むだけ世間の歪みが加速度的に増えるからそうもいかなかった。
「わ。なにこれ?ぜんぶ私の?」
「そうだ、全部おまえのだよ」
「あなた、どうして?他にもお人形とか」
「わたしはこっちの方がいい。ありがとう、お父さん」
「ほらな、ウィニーもこう言っている!」
「もう…」
50冊以上ある本の山の前で変わらずむっつりしている娘を見て妻のミアは少々呆れている。
「……」
実を言うと、本が大当たりということを知っていたのではなかった。
1歳辺りから急激に言葉を覚え始め、貪欲に本を読むようになっていたウィンはついに父の書斎の本にまで手を出し始めた。
組成式の辞典なんか見て何が楽しいんだろう、とは思ったもののまあいいかと放っておいた自分が間抜けだった。
幾つもの難解な本の中にカバーだけ変えて紛れ込ませていた…いわゆるポルノブックもまじまじと読んでいたのだ。
それもかなり終わりの方まで。慌てて取り上げたが、自分のせいなので怒るわけにもいかなかった。
何よりもむっつりとこちらを見上げる娘の顔ははっきりと悲しそうであったから。
本が読みたいなら読ませればいいんだろ、と書店でランダムに本を選んで買ってきたという訳なのだった。
いつの日かあのポルノブックの意味を知った時にウィンは自分を軽蔑するだろうか。それとも忘れているだろうか。…賢い娘は多分忘れていないだろう。
それでもあの下劣な本達を手放せない自分が悲しかった。
「……」
(ミア、ウィンは何を読んでる?)
娘の部屋をそっと覗いている妻の後ろから小さく声をかける。
(…え…と…ファンタジー大図鑑…?かな…)
(へぇ…意外だな)
ウィンが初めに興味を持って読み始めたのは現実にはいない生物や伝説の出来事をまとめた図鑑だった。
その下に置いてある化学入門書を読むものだと勝手に思い込んでいたし、そういう期待も無かったと言えばうそになる。
(…確かに楽しそうだ)
だが、むっつりと唇を曲げながらも時々眉をあげたりほんのすこしだけ笑う姿は実に楽しそうだった。
買ってきてよかったと言い、妻の肩をそっと叩き部屋に戻る。明日も仕事なのだ。
一年のうち7分の6も働いてるなんて正直嫌になってくるが、帰れば娘の成長と妻の嬉しそうな顔を見ることが出来る。それだけでも働く価値はあるとむにゃむにゃ考えながらスヴェンは眠りに落ちていった。
(……)
その夜。
(あった。むずかしそうな本の中にはかならずあるんだ)
父も母も世界も眠る丑三つ時。
ウィンはそっと目を覚まし父の書斎に忍び込んでいた。
『こ、これは俺のじゃないんだ!勝手に入っていたんだ!捨てておくから貸しなさい!』
『……』
そう言いながら取り上げられた女の人の裸が載った本。
絶対に捨てていない。そう確信したウィンは溢れる好奇心に従い再びその本を手にしていた。
ぺら
(……うわ)
ぺら
(……うへ)
ぺら
(…きれい)
さっきまで読んでいた本もとても面白かった。
この本に載っている女の人は…そう、セイレーンとかマーメイドとかと同じくらい綺麗だ。
ぺら
(でもお母さんがはだかになってもこんなんじゃないな…)
直球に失礼な感想を抱くのも子供だから仕方がないのか。
勿論ポルノブックに載っている女性だって撮影にあたって修正されたり光加減を調整したりと時間をかけてるものだし、普段から身体を磨いているのだがそれがウィンには分からない。
ぺら
(……)
好奇心は眠気に飲み込まれる朝方まで収まらず、朝食の時間に卑猥な本に埋もれて眠る娘の姿を発見し、激昂しながら怒鳴り散らかす妻に頭も上がらずスヴェンはその日会社に遅刻した。
「おーい、またウィンが本を抱えてがり勉してるぞ!!」
「ケニー、こいつ人より本が好きなんだよ!」
「やーい!」
「……」
何がやーいなのか。
小学生になったウィンは三年生になっても特に友達を作らずにずっと図書館にいた。
あまりべらべらと喋る方でもなく常にむっつりしているとなれば、自然と出来ていく人の輪からあぶれてしまうのも子供なので残酷だが仕方がないと言える。
今日も今日とて帰り道にやんちゃ小僧のケネスとその取り巻きの男の子たちによくわからない言葉で馬鹿にされるウィン。
「……」
「なんとかいえよ!ウィン!」
ケネスが指でちょいちょい、と合図をする。
「ほら、おいかけてみろよ!」
「あっ!」
その合図と同時に男の子の一人が本を奪って走り去ってしまう。
図書館から借りた本なのに!
「……」
「お?怒ってんの?怒ってんのウィン」
そろそろ悪ガキどもは気が付くべきであった。
いつもむっつりしているウィンの顔がむっつりを越えて憤怒の仁王の顔になっていることを。
図書室でもからかわれ、教室でも消しゴムを投げられ、廊下で髪を引っ張られ、トイレまで追いかけられて。
もう限界だった。
「待てこ…!きゃあ!!」
走って追いかけようとした瞬間にケネスにスカートを捲られた。
「白!!」
その瞬間、頭が穿いているパンツよりも真っ白になりスカートを押えるよりも先に後ろにいるケネスに手が出てしまった。
「こん…のぉお!!」
バッコォォンッッ!!
「アバアアッッ!?!」
「…あれ?」
確かに思い切りぶん殴りはした。でも、せいぜい鼻血が出るくらいだと思っていた。
しかし現実のケネスは滅茶苦茶に回転しながら血と白い…歯を巻き散らかし3m以上も吹っ飛んでいた。
「すいませんでした!!本当にすいません!!」
夜。父親に手を引かれケネスの家までウィンは連れてかれていた。
「いやいや、聞けばこちらがからかいすぎたという話ですし…」
「女の子相手にいじめなんてうちの息子が悪いですよ、それは」
「……」
ウィンの頭に手をかけ何度もぺこぺこと頭を下げる。
ケネスの両親はそういっているが、当のケネスは粗悪品のスイカのように頬が大きく膨れ歯が何本も欠けている。
正当防衛、しかも一発だったと何人の子供が顔から血の気を引かせながら証言していたが信じられない。
「せめて治療費だけでも…」
「いいじゃないですか、歯もそのうち生えてきますから」
「女の子にぶっとばされて治療費をいただいたなんて恥ずかしすぎるじゃないですか?ねぇあなた」
夫婦はもういいから、と笑顔で言ってくれているがそうですか、それではと言って去るにはケネスの顔は痛々しすぎた。
「もうヒいよ、おイさん」
「え?いや、でも…」
それまで黙って見ていたケネスは一歩前に出て口のあちこちから空気を漏らしながらそう言う。
「フィン、ホれもわるハった。ホめんよ」
「…うん、ごめん」
父に何度も頭を下げさせられながらも終始むっつりしながら口を閉じていたウィンはその時初めて謝罪の言葉を口にする。
「だからさ…ヒにしないで、あヒたからホれらと普通にあホぼうぜ」
「…うん」
むっつりとしかしはっきりとウィンは頷く。
親としても全然友達と遊ばない娘のことは気になっていたのだが。
「いやはや、真っ直ぐに育っていらっしゃいますね…ケネス君は」
「これくらいで拗ねるような育て方をしていませんから」
「よかったらこれから仲良くしてあげてください」
「いや、こちらこそ…本当にすいませんでした」
あまり遅くまで頭を下げていても迷惑だろう。
赤黒いケネスの顔を見るとかなり気が重いが、背を向けウィンの手を引いた。
「フィン、またあヒたな」
「…うん」
その後、家に戻り夕食も済ませ、ウィンを座らせ向き合う。
「ウィニーお前な…」
「……」
「ウィン!あなたね…歯が十二本も折れていたのよ!」
珍しく娘に声を荒げる妻。
ここは男親の自分が騒ぐより任せた方がいいかもしれない。
「せめて二本までにしておきなさい!」
「……」
「ちょっと待て」
全く論点の違う思いもよらぬ妻の主張にずっこけながら突っ込む。
「あら、これくらいの年ごろならケンカするぐらい元気な方がいいじゃない」
「ウィニーは女の子なんだぞ」
「私はこれくらいの年ごろはいつも男の子とケンカしていたわ」
「……」
もう長いこと一緒にいるので違和感が無くなっていたが、
がりひょろ研究者の自分とどうして付き合っていたのか、と自分でも疑問に思うほどミアは活発な女性だった。
とはいえやはり男の子と殴り合い…しかもあんな怪我をさせてしまうなんて親としてはとても容認できない。
「お父さん?」
「ウィニー…あれ、本当に一回しか殴っていないのかい?」
「うん。飛んで行っちゃった」
「スヴェン、そんなに凄い怪我をしていたの?」
「…ああ。少々信じがたいが…。ウィニー、それが本当なら…明日、近くにキックボクシングのジムがあるからそこへ行こう」
「べつに人を殴りたいわけじゃないんだけど、お父さん」
「いいじゃない、ウィン。行ってきなさい。折角強いんだからもったい無いわ」
「…わかった」
借りてきた本、読みたいのにな。
そう思いながらもウィンは、ケネスを殴り飛ばした右こぶしがじんじんといつまでも熱を帯びているのを見てまぁそれもいいか、と納得した。
「お風呂入る」
「ああ」
がらがらと風呂場の扉を閉めてスカートも下着も全部まとめて籠に入れる。
「…うん。やっぱり違う」
風呂場にある洗面台の鏡に映る自分の姿を見て独り言ちる。
見事に割れた腹筋、流し込まれた鋼のような二の腕、極端な密度となり一見普通の細さの背筋、指を押し当てても全く指が沈むことの無い太腿。
「…他の子はもっと…ほそいけど丸いのに…」
テストも常に百点であり、何をやらせてもすぐに出来てしまうので運動も一番であったのは当然の事なのだろう、と両親の感覚は麻痺していた。
このくらいの年ごろの女の子なら、いや、男の子でも、痩せていても多少は脂肪がついて丸みを帯びておりまだ筋肉の発達がどうのなどと理論を語れるような身体をしているはずがなかった。
普通に服を着て歩いている分にはウィンも痩せ型の女の子であり、小学校に上がるとともに一人で風呂に入り始めたので両親も気が付くことは無かった。
だが…ある時期を境に栄養は全て筋肉に吸収されるようになり、運動するでもなく日に日に締まっていく身体。既にウィンの身体は体脂肪率7%を切っていた。
自分で気が付いたのはプールに入るときに他の女の子の身体を見てからだ。
それからだんだん自分の身体は何かおかしいのではないか、と思い始めていた。
そしてその疑念は今日、確信へと変わった。
天からウィンへのギフト。それは頭脳ではなくその肉体にあった。
これから鍛えていけばあらゆるスポーツで超一流になるであろうその肉体を、今日のウィンは結局『変な身体だなぁ』と思うだけで終わってしまった。
「ハれ?」
「あ」
次の日。
父に連れられてキックボクシングのジムに来たウィンは丁度着替えている最中のケネスに会った。
「み、見んなよ」
「…その身体で強いの?」
恥ずかしそうに上半身をケネスは隠しているが、ぶっちゃけ見れるような箇所がどこにもない。
「こら、ウィン!」
「フ、フるへー!これでも同い年の中じゃ一番フよいんだぞ!」
いきなり失礼かました自分を父は軽く頭をはたいたが、その時後ろから背の高い男性がやってきた。
「入会希望ですか?」
「あ、はいそうなんです」
「コーチ、ホれ、こいつに昨日ぶっとばされたんだ」
「え!?この子にか?!」
「あ、いや、本当にその件は…」
と、父は何故かコーチと呼ばれた大男にまで頭を下げる。
「いやいや、ケニーはジムの同年代の中で一番強い子なんですよ!」
「ふーん…本当だったんだ」
「名前は?これから一緒に頑張ろうな」
手を差し出す大男から一瞬だけ目を逸らし辺りを見渡す。
リングの中で殴り合う人達。
軋むサンドバッグの音。
汗のにおい。
何故だろう。初めて来たのにここが自分にとって居心地がいい場所だと言い切れた。
「…ウィン・D・ファンションです。よろしくお願いします」
五年後。十三歳になったウィンはこの日、他のジムから来た十五歳の少年と非公式の試合をしていた。
加減は要らないから思い切りやってくれと釘を刺したうえで。
「シっ!!」
「ぐぁ…」
2ラウンドの1分31秒。
こんな女の子に本気もクソもあるかとしかけられた舐めた攻撃を全てさばき首筋にハイキックを一撃。
その一撃で相手の少年は鼻血を噴きながら白目をむき昏倒した。
「タ、タンカもってこい!」
「アーニエルがやられるなんて!」
泡を吹き白目を剥いた少年が運ばれていく傍ら、静かにリングを降りる。
「よくやったぞウィンディー!」
「お前やっぱりすげえよ!」
「ありがとうございます、コーチ」
「あ…」
相も変わらず普段からむっつりとはしているものの、
あの日ケネスをぶっ飛ばして以来何人も友達と呼べるような存在が出来て、よく笑うとはいかないまでも時々唇を噛みながらはにかむようになっていた。
その姿は普段の強さにおよそ似つかわしくない可憐な少女のそれであり、大人たちは将来絶対美人になると太鼓判を押し、ケネスはたまにウィンが笑うたびに顔を赤らめる。
「ウィニー、おめでとう」
「父さん」
非公式の試合であり、休日でもないのに父は仕事を切り上げ見に来てくれていたようだ。
「お父さん、見ていましたか!今の試合!この子は凄い選手になります、いやもうなっていますよ!」
「いやいや…お恥ずかしい」
肉体のぶつかり合いなど生まれてこのかたしたことの無いスヴェンにとって今の試合はなんとなくすごかったんだろうな、くらいしか言えない。
だが、コーチはその理解の無い男に身振り手振り今の試合が如何に凄いかを教えてくる。
「彼はウィンディーより16kgも重いんですよ!身長だって20cm以上高い!その首元まで脚をあげてもバランスが崩れない体幹の強さ!思い切りの良さ!身体の柔らかさ!一撃の破壊力!
全て一流の格闘家に必須の条件なんですよ!見てください…この脚を!神がくれたとしか思えない…!」
「……」
「は、はぁ」
見てください、と言われても普段から見慣れている娘の脚を見てもどうとも思えない。
確かにまじまじと見ればあちこちに傷がつきながらも光を反射して輝くその脚は金属のような筋肉が詰め込まれており、世界を転覆させたあのネクストの機能的な脚の造りにも似ている。
とは言え、普通に娘の脚だ。
「おじさん、もっと他のスポーツもやらせるべきだぜ!この前の体力測定の結果見てないのかよ!」
「いや、うん?見たよ。凄かったよね」
「凄いなんてもんじゃないんだって!全部一番なんだぞ、男子も入れて!走り幅跳び7mってどんだけ凄いかわっかんないかなー」
「人のことを化け物みたいに言うな」
「あてっ」
まるで自分のことのように喚くケネスの頭をウィンは小突く。
ただ父はおろおろとしている。
「父さん、今日はご飯…」
「ああ、今日はご馳走にするって母さんが言っていたよ」
さらに仕事が忙しくなった父はとうとう日曜日以外は家で夕食を取らなくなっていた。
そのおかげで裕福な暮らしが出来ているし、キックボクシングを続けていられるのだと思えば文句など言えようはずもないがそれでもやはり寂しかったのだ。
その夜。
「コーチはああ言っていたが、お前はどうしたいんだ?」
「…何を?」
「まだ将来の事は早いんじゃない?」
「そういうことか…」
父は今日コーチやケネスから捲し立てるように言われたことについて思うことがあったようだ。
ウィンは別に両親と話さない方では無いし、思春期の女の子特有の特に父親に対する苛烈な反抗期を迎えてもいなかったが、それでも避けている話題が二つあった。
一つは自分の恋愛のことである。
「もう十三だしな。そろそろ考えてもいいだろう?」
「……ちょっと待ってて」
そしてもう一つは将来についてだった。実は考えていることはあった。
が、それを言い出せば母はともかく父がずっこけることは間違いないと思っていたので言い出せなかったのだ。
「これ…覚えている?」
「これは…昔買ってあげた…」
ボロボロになったその本は、大きな三日月の下で雄々しく飛ぶペガサスが表紙に描かれており、大きく「ファンタジー大図鑑」と書いてある。
「…ウィン?」
「ど、どういうことなんだい、ウィニー」
「そういうことなんだ、父さん、母さん。私はここに書かれているような不思議を探しに行きたい」
「……」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ。本気なのか?」
母は神妙にこちらを見て、父はおろおろとしながら尋ねてくる。
「本気」
「待ってくれ、お前は勉強もスポーツも一番で、他のなんにだってなれるんだぞ」
「だからだよ。だから退屈なんだ父さん。勉強もスポーツも…まるで私の想像の外を出ない。埋まらないんだ…」
「……」
「で、でもそんなことの為に普通の生活を捨てるのか。それにそこに書いてあることだって人間が創った物なんだぞ」
「普通の生活が尊いってのは分かるんだ。でも、同じくらいそれを捨てたいんだ…私は。それに…全てが全て嘘なの?私にはそうは思えない」
ぺらぺらとページを捲る。偶然開かれたそのページを父に見せた。
そこには焼けこげる街の中で争う人々の頭上を飛ぶカラスの姿が描かれていた。
「見て…例えばこの…ダークレイブン…黒い鳥。世界中で語り継がれているこの伝説がまるっきり嘘なの?同じようなもの、似たような物じゃなくて、世界中のどこでも黒い鳥という名前で伝説になっているんだ。本当にそんな偶然があり得るの?」
「もしデタラメだったらどうするんだ、ウィニー」
「それを確かめに行きたいんだ。…いや、それを確かめに行く過程にこそ価値があると私は思っている。その時きっと私の胸は焦がれた感情に満たされている。そんな気がするんだ」
「…う」
そのページを開いたのは偶然なのかどうかはわからないが、黒い鳥。
レオーネメカニカの研究者のスヴェンは何度も耳にしていた。
そして確かに世界は何度も文明が破壊され再生されたとしか思えないような、そんな無視できない証拠も挙がっているのだ。
いや、むしろその証拠から生まれた伝説が黒い鳥と言ってもいいのかもしれない。
鍛えられた身体で世界を巡り優れた頭脳で伝説を紐解く。なるほど、考えてみればそれならばウィンに出来るだろうし、きっと満足するだろう。
何よりも、つまらなそうにむっつりとするのではなく心からの満開の笑みをその顔に広げられるのだろう。
「世界がこんなに広くて、人間がこんなに小さくて、こんなに風が吹いているのに全て嘘ってことの方が信じられないんだ、私は」
この世界にはどれだけ浸かっても満足しつくせない物がある筈だ、そうだろう、と静かに…それでも激しい光を湛えた目で父を見る。
「ウィニー…」
「さ!あなたも、ウィンも!ご飯食べ終わったんだし片づけてね!まだまだ先の話なんだからいいじゃない」
「「母さん…」」
真剣な顔で母を見るその顔はやはりその父にしてその娘ありと言えるくらいに雰囲気や表情が似ている。
「……」
むっつりと表情を戻し、皿を台所へと運んでいると急に母がその自分によく似た顔を寄せてこっそりと話しかけてきた。
(私はあなたの夢を否定しないわ…ウィン)
(母さん…!)
(ただし…もしその夢を追いたいのなら…)
(……?)
(あなたが退屈と決めた全てに勝ち続けなさい、わかった?)
そうだ。もし勝ちもしていない現実に、一番でもいない何かを退屈と呼ぶのならばそれはただの逃避でしかない。
勉強の出来ない者が「こんなの何に役に立つんだ」と言ったり、運動の出来ない者が「部活動でスポ根なんてくだらない」と言うのと何も変わらない。
もしもそう言い切りたいのであれば、全てに打ち勝った上でその言葉を口にしてこそ、それは次のステージへの言葉となる。
(わかった、母さん)
自分だけの夢を追うために母から出された課題。
一番であり続けること。それは理不尽な厳しさなどではなく、当然のことだと少なくともウィンは思った。
父も母も、別に自分に何もかもをこなす超人になれと思っていたわけではなかっただろう。
だが、それでも。父が作り母が守るこの普通、日常を退屈だと言い捨てたいのならばそう言える人物でなくてはならない。
その日を境に何をしなくても一番のウィンは何をするにも一番であるために研鑽を重ねるようになり、どんな分野でも最早彼女の陰を踏む人物もその地域にはいなくなっていた。
「お前のことが好きだったんだよ!」
「…は?」
高校生活も半分以上過ぎたある日、どういう腐れ縁なのか高校まで同じだったケネスに帰り道、そんなことを言われた。
「……?」
「いや、違う違う、お前に言ってるんだ」
それは私に言っているのか?と心底疑問に思いもしかして後ろに誰かいたりして、と振り向くとそんな事を言われる。
「どういうことだ」
「お前のことが好きなんだ!付き合ってくれ、ウィンディー」
「嫌だ」
言い切り再び歩き出す。
「あ、え、ウっソ!?もう終わり!?ちょっと待ってくれ、ずっと好きだったんだ」
「ずっと?」
歩みを止めない自分につんのめるようにしてついてくるケネス。
「小学校の時からだよ!」
「私がジムに入っていたころからか」
「違う、ずっと前!初めて会った時からだ!」
「お前私のこといじめていたじゃないか。あれで好かれると思っているのか」
「…う、いや…」
「それにお前の左側の歯をほとんど叩き折ったんだぞ、私は」
「いやー、あれは痛かったな…」
「それじゃ、私はこっちだから」
バスを降りていつも別れる道でいつも通りに曲がる。
「待ってくれ、話を聞いてくれ」
「聞いたぞ」
ケネスは真っ直ぐ自分の家の方へ行かずについてくる。
私の家まで着いてくるつもりなのだろうか。
…ストーカーの歯を折っても罪にはならないのだろうか。
「好きな奴でもいるのか!?」
「いない。……?」
聞かれて、ふと足を止め思い返す。
小中高と、自分が会話する女子も、他のグループの女子も話題の中心はいつも一緒だった。
だれそれが好きで、だれとだれが付き合っている。よくも飽きもせずに続けられるものだと感心していたが、
そういえば自分は好いた男がいた試しがない。母から「好きな男の子は出来た?」と聞かれても常に「いない」と答えてそのうち答えるのも馬鹿らしくなってしまった記憶が蘇る。
「じゃあ俺の何がダメなんだ!」
「何がって…」
金髪に緑の眼、少々面長だが整った顔ではあり(何回もボコボコにしているのによく整ったものである)、背も高く相変わらず続けているキックボクシングもかなり強い方だとは思う。
勉学も浮ついてはおらず、自分も通っている地元で一番の高校でもしっかり授業についてきている。
学校で群れたりチャラついているのは気に入らないが、誰かを虐めているようなことは無く、むしろカツアゲされているオタク学生を助けたりと女子の間からも評判はかなりいい。
そういった意味では別に人間的に嫌いではないし、頻繁に一緒に帰ったりしているが、そういえばなんでこいつのことを好きにならなかったのだろう、自分は。
…よくわからないが、これだけプラス要素がそろっているのに好かなかったなのならばそれは多分…
「全部?」
「ズコーッ」
自分で効果音を出しながら盛大にずっこけるケネス。
別に嫌いなわけでは無いのだが、好きという訳ではない。ただただ友人としか言えない。
「くそう…ウィンディー」
「もう私の家なのだが」
とうとう家の前まで来やがった。
「俺は絶対あきらめないからなああ!!」
天を仰ぎ叫ぶその姿は…………………………………………近所迷惑だった。
「…でね、本当にケニーったらしつこいのよ!別れたはずなのに未練がましいったら!」
と、迷惑そうに言うその台詞には多分に自慢が混ざっている。
「へぇ」
「夜中まで電話してきて…家の前に来て…あり得なくない!?」
「そうだな」
(絶対あきらめないんじゃなかったのか。まぁどうでもいいけど)
高度約10000m。
リンクス戦争による汚染度の爆発的な上昇により一時期は100億を越えたその人口は約三割ほど減少し、人類は尻尾に火のついた鼠のように慌てながらこの巨大な飛行機を作り上げ空へと非難した。
やはり被害は目も当てられぬほど甚大ではあったが、それでも人類の宝である学者や貴重らしい政治屋達は優先して詰め込まれたおかげでクレイドルでの生活は何一つ困ることは無い。
レオーネメカニカの管理職についていた父のコネもあり、危げなくクレイドル04へと移住したファンション家だが、
クレイドルへの持ち込み荷物は一人トランク一個というルールの元、思い出の品も家も全てを置き去りにしてここまで来ていた。
「でね、他の男子が心配してくれてさ、…ねぇ、聞いてる?」
「聞いているよ」
クレイドル内にある大学のカフェテリアで延々とつまらない話を聞かされている。
自分は何をしている?
全てが人により作られ、人により完結していくこのだだっ広くて狭苦しい空間で私は生きているのか。
明日も明後日もここで作られた空気を吸い、ここで作られた食料を口にして。死ぬ日まで。
(まるで巨大な棺桶だ、ここは)
幼い頃の夢はもう叶わない。
地上は汚染され誰も降りようともせず、人に作られ人だけが暮らすこの飛行機には一つも幻想は乗っていない。
ただ塞き合う人だけだ。くだらない。20歳になった自分は全てを持っているようで何も手にしていない。
「ジェシカ!ここにいたのか!」
「ケネス!あなたとは終わったはずよ!」
(くだらない)
目の前で寸劇を繰り広げる二人にただ溜息しか出ない。
いつから世界はこんなにつまらなくなったのだろう。
「俺たちは運命の二人だろう!」
「違うの!あなたはあなたの幸せを探して!それが私の幸せでもあるの!」
「もうやめておけ…一度終わったのになぜ付きまとう」
(これ以上醜い会話を私の前で続けないでくれ、キレそうだ)
別にこの女の為では無い。何よりも脳細胞がプチプチと死滅していきそうな会話を聞かされている自分の為にウィンは怒っていた。
「ウ、ウィンディー…」
「そうよ!もう終わったじゃない!」
「一度手に入った物が手から離れたら誰だって惜しくなるだろう、人間なら!」
こいつはこんなに鬱陶しい奴だったのか。
必要以上に親しくならないで正解だったようだ。
「物って…私は物なの!サイテー!」
「ああ!待ってくれジェシカ!」
「……ようやく静かになったな」
わざと追いつけるような速度で走るジェシカを追いかけるケネス。
死ぬまでこの棺桶でやっていてくれ。
(一度手に入れたもの…か)
何気なく踏みしめていたあの大地。
何気なく受けて髪を梳いていったあの風。
草の匂い。太陽の光。雨。雪。虹。
もう二度と手に入らない。でも、出来るならもう一度…
(ああ、そうか…)
自分はあの大地に焦がれている。
人だけではなく生きとし生ける物全てが織りなし成り立つあの地球に。
(不思議を見つけに…神話…黒い鳥…)
嵩張るから一冊だって持ってこれなかった。
勿論あの本も地上に置き去りだ。
(そういえば…勝手に神話なんてのは空想の世界の話、過去の話だと決めつけていたのは私だったのかもしれない…)
冷静に考えてみれば、ほんの一握りの選ばれた人間だけが操れる巨人を駆り、たった数十人の人間が世界を転覆させ、あまつさえ地球をも沈めんとしている。
こんな状況がお伽噺でなくちゃなんなんだ。数百、数千年後の人間はその話を聞いて信じるだろうか。
今、この瞬間の世界が。ネクストなんてものが動いている今この時代こそがいつか神話となるそれなのではないか。
「……!」
詰め込まれた才能に似合わぬ波立たぬ日々。
退屈を煮詰めたような空飛ぶ棺桶の中で薄いビニールを被せられ続けるような息苦しい狭い世界。
(…戻ろう、地球に。あそこが私の居場所なんだ。あの世界を取り戻そう)
ガシャアン!
「今…なんて言ったんだい…」
その言葉を口にしたとき、口をあんぐりと開きながら父は持っていたグラスを派手に落とした。
「私は地球に降りる。リンクスになる」
「……」
母はただ黙って聞いていた。
「待ってくれ…大勢死んだんだぞ…他でもない、その汚れた地球で!」
「ここにいても私もいつか死ぬんだ」
「お前の…お前の才能が…神様から与えられた才能が…何をやっても完璧なお前があの地獄へ行くのか!?」
「才能があっても無くてもここでは意味なく死んでいくだけだ。でも地上なら死ぬ意味と生きる理由が見つかるような気がするんだ」
「……」
「バカを言うな…バカを…」
「ウィン…」
「母さん…」
母は自分の気持ちをよく理解してくれていた。
それでもやはり止めたいのであろうことはその目から流れる涙で十分に分かる。
物心が付いてから、母に普通以上の苦労という苦労をかけた覚えはない。
自分は手のかからない娘だったと自覚している。今、自分は一気に親不孝を叩きつけているのだろう。
「本当にあなたにとって人間だけの世界は退屈だったのね」
「母さん…父さんも…愛している。ここまで育ててくれてありがとう」
むっつりと曲がっていた口は何時しか自然に笑えるようになっており、
不愛想な自分がここまで成長できたのはこの両親の元であったからだろう。
「分かった…。聞きなさい」
「…うん」
「来週、インテリオルの施設に行ってAMS適性の検査をしよう。父さんが口をきいてやるから…」
「…親不孝な娘だよ、ごめん」
「…いい。自分の思う娘の幸せと、本当の娘の幸せが違っただけなんだ。ただ…」
「……」
「そこで適性が無かったら、ちゃんと大学に行って卒業するんだぞ、いいな?」
「…ああ」
ただの勘。根拠を問われれば何となくとしか言えない。
でも自分はきっとその才能がある。
創造主とか、神とかそういう何者かに選ばれている人種なのだろうと、その確信だけはあった。
果たして私にその才能はあった。
それも飛び切りの…少なくともインテリオルの所属リンクスよりは完全に上の才能が。
父は…母も、ただ泣いていた。
地上に降りる私を見送るとき、目を腫らしながらも笑って送ってくれた。
その笑顔が私の見る最後の両親の顔だった。
コジマを持たず、作らず、持ち込ませず。
コジマ汚染によってあやうく滅びかけた人類がそのルールをクレイドル空域に作っているのは当たり前のことだった。
コジマの塊のネクストなどもっての外、リンクスも当然立ち入れない。
そもそも全人類に一握りしかいないリンクスがそこらに転がっているはずがないのでそんなルールは公表されてはいなかったが。
つまり、リンクスになった私はもう二度と空へと戻ることが出来なくなったのだ。
まあ元々地上からクレイドルを自由に行き来する体制すらまともに整っていなかったが。
とにかくもう、両親とも会えない。そういうことだ。どこかで両親はそれを察していたのかもしれない。
最後に笑顔で送ってくれて良かった。
おかげで今でも思い出す両親の顔は笑っている。…目は腫れているけど。つくづく私は親不孝な娘だ。
高いAMS適性を持った私をインテリオルのリンクス養成所は大喜びで地上に降ろし迎えてくれた。
久しぶりにその身に受ける地上の風は随分と乾いており、寂しげであったがそれでも私の満たされぬ心を鮮やかに攫っていった。
だが、地上でも待ち受けていたのは退屈だった。
既にリンクスになることが確定していた私は特別なカリキュラムを受け、他の生徒と混じることはほとんど無かった。
混じったとしてもやはり自分は何をしても一番で、特別なカリキュラム自体も特に危げなく進んでいった。
22歳、リンクスになった私は初めて人を殺した。
『家族がいるんだ、やめてくれ!!』
テロ組織の鎮圧という名目だったが、私の目にはどうもそうは映らなかった。
必死に生きている、ただそれだけに見えたが見逃すことは許されなかった。
なぜ『人類はほとんど全員空に飛び立った』と言われているのにこうも世界中で人が生きているのだろう。
…後の世界にはそんな事実は無かったことにされ伝えられるのだろうか。
地上もやはり息苦しかったが、それでも空にいるよりはマシだった。生きながら死んでいるという悲しみの息苦しさではなく、生きる為にもがき苦しんでいるという息苦しさだと分かっていたからだ。
自分が今、歴史を生きているという感じがした。
何十回目だったか。ランク12となっていた自分にあるミッションが舞い込んだ。
『大型ミサイル基地破壊』
そんなものテロ組織が所持していることがばれた時点で破壊される理由としては十分だったが、
なによりも優先して破壊されるべき理由があった。
そのミサイルが向いている先がクレイドルだったのだ。
それがクレイドル04に向けられていると知った自分は怒りに任せるままにその基地を徹底的に殲滅した。
だが、気づいてしまった。
残骸となったノーマルが幾重にも重なり、施設の全てが真っ赤な炎に飲まれている。
蚊ほどの効果もないアサルトライフルで撃ってきていたちっぽけな人間も残さず抹殺した。
「………あぁ…」
『ミッション完了だ。帰投しろ』
その当時に契約していた女性オペレーターがなんの感慨もなく淡々と告げる。
「少しだけ…寄り道をしたいんだ。頼む。ほんの二時間でいい。依頼金の半分をやるから」
『…まあ金さえ貰えれば文句は無い。ちゃんと帰って来い』
「すまないな」
礼を言う最中に通信が切られたがまあいい。どちらにせよ、金の繋がりだ。
「……」
システムを通常モードに移行し、リンクを切る。
全速力で行けばここから20分もかからない。
今までどうして行こうという気にならなかったのか分からない。
どうして今行こうと思ったのかもわからない。だが、行かなければ。生まれ故郷へ。
「………」
雲が矢のように後ろに飛んでいき徐々に太陽が近づいてくる。
時速2000km。まさしく神話に語り継がれるような…人類には過ぎた代物だ、このネクストという物は。
「………企業じゃなくて、クレイドルを狙っている理由…」
地上に住んで早二年。
空にいては決して分からなかったこの感情。
自分達が地上を這い回っている中あの馬鹿でかい飛行機の中では人間が悠悠自適と暮らし、ただ上に来るだけで太陽を独り占めし光を奪い去る。
それだけでも怒りと嫉妬を煽るのには十分だ。
かつて歴史上にこれほどまでにはっきりと差別が目に見える形になっている時代があっただろうか。
でもそれだけでは攻撃にまでは至らないだろう。
もう一つ、あるはずだ。地上のいる人々が堪えきれない怒りをため込む理由が。
かつてのデンマークの首都、コペンハーゲン。
生まれ故郷にウィンはやってきた。
「……やっぱりか…」
人と水路、カラフルな煉瓦の家が並んだその街は、川は枯れ果て道路は荒れ、家は崩れその地面の殆どが砂となっていた。
あそこを曲がると自分の家だ。
ネクストに搭載された汚染計測器がレッドゾーンを示している。
「…はっ…はは」
そこだけ切り取られたように昔のまま…なんてことがあるはずは無く、かつて走り回った庭に草一本生えておらず、
木は折れ、家は完全に砂となっていた。
「…当たり前だ…あんな馬鹿でかい物…」
それに乗って浮かんでいると、そこが大地だと勘違いしていると気づかない、考えられない。
あんな巨大な物が重力に逆らっていくつも浮かんでいる方がどうかしている。
「…地球を…食いつぶすほどのエネルギーがいるんだよな…」
クレイドルを浮かべる為にさらにコジマ粒子をぶちまけ地上の人の苦しみはさらに深まり空の人々は何も気づかずゆったりと暮らす。
こんな理不尽があるのか。
いいや、それよりも。
「砂に…全部砂になっちまった…」
肥大した人間が生きていくためだけにこの地球も、そこに存在したのかもしれない幻想も全て砂になっていく。
さらさらさらさらと地球が育んだ何もかもを食い潰し砂にしていく人類。
もう、自分が取り戻したかった地球は存在しない。
今更取り返しても、地球は最早全ての人の重みには耐えられない。
この世界は死にかけている。そして危い。
「結局…降りてきても私はただ死ぬだけか…」
ネクストの手で家だった砂を手に取るが大雑把なネクストの手の隙間から全て零れ落ちて風に飛ばされてしまう。
「父さん…母さん…ごめん…」
あの制止を聞いておけばよかった、あの涙に絆されてしまえばよかったという後悔は何の役にも立たず時間はただ前に進む。
なら、せめて。せめて家族は守ろう。優しくて、面白くて、大好きだったあの家族を。
回り回ってたどり着いたその決意。
有り余る才能をその身に受けても結局やることは『家族を守る』という父と母と同じ行動だった。
「…ディー!ウィンディー!!」
「…!…う…またか…」
帰って泥のように眠りレイラに叩き起こされる。
それがこの頃の常だった。
そして何度も見る過去の夢。
私は…後悔しているのか、ずっと。
「ミッションが来てるわ…ORCA旅団の本拠地が分かったって」
「………」
「ウィンディー…?」
「行きたくない…」
いつもへの字口で強気な表情で胸を張って歩いていたウィンが、ベッドの上で膝を抱えて俯いている。
「な…ねぇ、どうしたの…?」
「この戦いの結果はもう決まっているよ…」
「ちょ、どういう」
「勝っても負けても!私が死んでも生き残っても皆死ぬ!なら私が戦う意味なんてあるのか!?私は…私は、あんなものに乗っても結局家族も守れない…」
「………」
「もういいだろう…?休ませてくれ…」
「よく…わからないけど、これは企業のマッチポンプだってこと?」
「いや…ああ…そうなのかもな…」
「だったら行って、ウィンディー」
「な…」
死んで欲しくない、頑張り過ぎないでと普段からしつこく言ってくる彼女からの意外すぎるその言葉。
「私は…どうせ死ぬんなら、ウィンディーが諦めた世界よりもウィンディーが戦った世界で死にたい!分かっているよ…この世界は汚れすぎている。私もきっとその一つなんだよね…」
レイラが首筋にかかる髪をのけると鈍色に光るジャックが見えた。
「…う」
「私もリンクスだったんだよね、多分。きっとこの世界が腐っていく手伝いをしていたんだ。でも今更やり直したくても私にはもう力も記憶もない…。でも、ウィンディーなら…お願い。
行って、ウィンディー。最後まであなたの正義を貫き通して!その為にあの機械に乗って人を数えきれないほど殺してきたんでしょう!?今更折れるなんて許さない!」
両手でシャツを掴み縋るように叫ぶレイラの目からは大粒の滴が零れ落ちる。
「…そうだな…。私は…殺してきたんだ…」
涙をそっと拭いその手を握る。あの時家族の涙に絆されておけばよかったという後悔がまた頭に入りこんでくる。
今、自分はこの涙を止める為に動くべきなのかそうでないのか。どちらが正解なのかは分からない。
「沢山…沢山殺してきたんだ…私の行く道が正義だと信じて…」
なぜか、自分がまきこんだあの傷だらけの空っぽの少年の事が頭に浮かぶ。
彼は今も痛む身体に鞭を打ちながら戦っているのだろうか。
「そうだ…私が…私が始めたことなんだ。逃げてはいけないんだ…。レイラ…」
「うん」
「行くよ。準備は出来ているな?」
ベッドから飛び降りシャツを脱ぐ。
「大丈夫!さぁ、顔を洗って着替えてきて!」
「よし!」
折れかけた心に火を灯し我が道を行く。
築き上げた屍の山を踏みしめながら。