魔法少女リリカルなのは ~響き渡るは紅の音色~ 作:Granteed
響也が初めてキバへと変身してから、既に二週間が経過していた。その間もなのはの“探し物”を巡る戦いは続き、遂には響也達が住む海鳴市の街にも被害が広がっていた。そんな少しだけ騒がしくなった世界とは無縁の空間。海鳴市のはずれにあるこじんまりとした山の中、青々と茂った草木に囲まれて、響也はそこにいた。
「もう一つ食べる?」
文明の色が欠片も見えない景色の中で、ビニール袋から新しい林檎を取り出す。旬からは外れているが、真っ赤に完熟している林檎はとても美味しそうに見える。それを、目の前にいる親友の口へと放り込んだ。
「美味しい?」
親友の口に対して小さすぎる林檎はあっという間に砕けて飲み込まれていく。そんな少量でも十分味わえたようで、響也の問いに対して親友は喉をごろごろと鳴らして満足の意を表した。
「シュー、この間はありがとね」
彼の名前を呼んで、傍らへと座り込む。響也が礼を言っているのは、先日行われた、市街地での戦闘の事だった。
「大きかったよねぇ。もしかしたらキャッスルドランより大きかったかも」
なのはと共に撃退した、あの宝石によって生み出された怪物。この世界にいるどんな魔族とも違う音を持った、未知の生き物が奏でる旋律は、響也の中の楽譜にくっきりと刻まれていた。
「……いつまで続くんだろうね」
鼻先を擦りつけてくるシューの顎を優しく撫でながら小さく漏らす。一度目はまだ良かった。二度目は規模を小さく抑える事が出来た。しかし三度目はそうはいかなかった。あれ程巨大な敵が出てくるとなれば、自分一人の手には到底負えない。事実、先日の戦いでは大事にならないように叔父が裏で警察や報道関連に手を回したらしいし、多くのファンガイアにも手伝ってもらった。如何に次狼達が手伝ってくれると言っても、巻き込んで傷つけたくはない。
「シューはどう思う?」
もっと撫でてくれと言わんばかりに、上目使いで犬にも似た細い鳴き声を上げる親友に問いかける。林檎の果汁で汚れている口を拭くためにお気に入りのハンカチを取り出そうとポケットに手を入れるが、その中には何も無かった。
(そう言えば、あの子に渡したままだ)
金の髪と赤みがかった瞳を持つ少女。親と同じく人見知りをするモカがすぐさま懐いたあの少女の事を、響也は思い出していた。彼女の事はすぐに思い浮かべる事が出来た。少ししか触れ合っていないのに、何故こんなにも記憶の中に焼き付いているのか。それは彼女の心が奏でる音楽が原因だった。
「あんな音、初めて聞いたよ」
「グゥ……」
「……今度会ったら、聞いてみようかな」
「グル?」
響也の独り言に疑問を露わにするシューの首回りをさすってやる。人里から遠く離れた山中では、響也の耳に届く音楽は普段と比べて圧倒的に少ない。一先ず心の中に浮かぶ懸念を隅に追いやりいつもより静かな世界で、響也は親友との時間を心行くまで堪能していた。
持ってきた林檎を全てシューの口に放り込んだ後は、そこらの木の枝を拾っては投げ、拾っては投げを繰り返す。投げる度に大地が震える程の轟音を立てながらシューが走り回り、口に木の枝を咥えて戻ってきた。そうして十数分程遊び、木々の間から降り注ぐ陽の光の色が橙色に変わる頃、響也が大きく伸びをする。
「シュー、家まで送ってくれる?」
「ガウ!」
元気な声を返した親友は早く乗れと言わんばかりに頭を低くする。地面すれすれに在る頭に腰を落ち着けると、シューが頭を上げた。
「それじゃあ、お願い」
返事の代わりに、ふわりと響也の体が浮遊感に包まれる。あっという間に眼下の景色が遠ざかり、先程まで巨大だった木々達が爪楊枝程のサイズに縮んでいった。手を伸ばせば届きそうな白い雲の下で、シューと響也はゆっくりと空を飛んでいく。
「ごめんね、最近遊びに来られなくって」
「グル」
「早く終わらせて、一杯遊びたいよね。あ、そうだ。お母さんが帰ってきたら、アップルパイ作ってもらって、一緒に食べよっか」
アップルパイ、という単語を聞いて、シュードランが小躍りするかの様に体を震わせる。勿論乗っている響也は揺れに揺れ、慌てて尻の下にあるシューの頭を叩いた。揺れが収まってから、上体を倒してシューの頭と密着させる。
「……あれ?」
段々と、眼下の景色の色が緑から人里の香りがする色へと変化する。もう少しで我が家の上空へと到着する段になって、響也の耳にとある音が届く。シューに停まるよう指示を出してその音に耳を傾けると、よりはっきりと音の正体が分かった。
「シュー、今日は家じゃなくて、あの辺で降ろしてくれる?」
「グウ?」
「うん、着陸はしなくていいよ。もうそろそろ夜だから、この暗さだと人に見られる事も無いだろうし」
「ガウッ!」
響也の言葉を聞き入れたシューは緩やかに降下していく。温い夜風を感じながら、響也は下から聞こえてくる音に耳を傾けていた。あの時と抑揚すら変わらない音楽。単調な音符を並べているだけで、音楽と呼べない様な稚拙な旋律。だが、その音に込められている音は、聞こえてくる物とは正反対な程激しかった。
「ギャウ!」
「うん、ありがとう。下に人は……あの子以外いないね」
体を乗り出して地上を見る。音を確認する限りではあの少女以外に人間はいないし、その少女の視界に入らないように上手く着地すればさして問題は無いだろうと踏んだ響也はシューの頭の上で立ち上がった。降りる場所への目算を付けて、シューにもう少し高度を落としてもらうと、片足をシューの鼻先に掛ける。
「それじゃあシュー、またね」
別れの挨拶を最後に、黒に染まりつつある空へと自分の体を投げ出す。もう何度も繰り返してきたその動作に恐れは全く無く、寧ろ顔に当たる風の感触を楽しんですらいた。十秒にも満たないスカイダイビングは、響也が地面に音も無く着地する事で終わりを告げる。あの少女が座っているベンチとは反対側、少し開けている芝生に上手く着地すると二、三度服を叩いて汚れを落とす。
「……」
その少女は虚空を見つめたまま、身じろぎもしなかった。もう遅い時間だ。現に、公園の周囲には家路へと着いている人間がちらほらといる。そんな時刻にも関わらず、十数メートル先にいる子供はベンチに座ったまま、ぼんやりと前を見つめている。
「……え、ええっと、君?」
「……?」
後ろから近付いてあと数歩、と言う所で響也が少女に声をかける。予想していなかったのだろう、両肩をびくりと震わせてから少女はおずおずと後ろを向いた。
「あ……」
「こ、今晩は」
一人座っていたのは、モカを助けてくれたあの少女だった。金色の髪も、紅色の瞳も、何一つ変わっていない。喪服にも似た黒い長袖のワンピースを着た少女は、響也をみてぺこりと頭を下げた。響也はぐるりと前に回ってから、少女と正対する。
「あ、あの時の怪我、もう大丈夫?」
「うん。手当してくれて、ありがとう」
響也もベンチの空いていた隙間に腰を落ち着けると、横目で少女を見つめる。右手で左腕を摩る少女は、響也の視線に気づくと首を傾げた。
「貴方はどうして、こんな所にいるの?」
「へ、あ、あの、ついさっきまで友達と遊んでて、それで家に帰る途中に、君を見つけて──」
「そう」
自分から聞いたのに途中から興味をなくしたのか、少女は響也から目線を外して再度虚空に目をやる。会話が途切れてしまった響也は何とか場を繋ごうと必死だった。聞きたい事は沢山あるのに、言いたい事が一杯あるのに、何故かこの少女の前では上手く言葉が出ない。その原因は明白だ。それは、目の前にいるのが他の誰でもない、彼女だから。
「……き、君はどうしてこんな所にいるの。家の人は? 何してたの?」
「何も……何もしてない」
「え?」
「する必要が無いから。私には、やらなくちゃいけない事があるから。それ以外は、何もしなくていい」
「そんな事って……」
「……つぅ」
唐突に、目の前の少女が苦悶の声を上げる。不思議に思った響也が少女の音楽を聞いた後、驚きで目を見開く。袖を捲ろうと慌てて腕を伸ばすが、響也の指が左腕に触れると、少女の顔が一気に歪んだ。
「もしかして、怪我……してるの?」
「別に、大した怪我じゃない……」
しかし、彼女の表情がその怪我の酷さを物語っていた。響也の指が触れる度に顔をしかめ、小さな痛苦の悲鳴が漏れる。少しばかり逡巡した後、出し抜けに立ち上がった響也はむんずと少女の右腕を掴んだ。
「だ、ダメだよ!怪我してるなら、手当しなきゃ!!」
「あ」
いつもの彼からは考えられない強引さでそのまま少女を立ち上がらせると、一目散に駆け出した。夜の街灯で照らされる道をひたすら進んでいくと、一軒の喫茶店に到着する。夜にも関わらず、店の駐車場は沢山の車で溢れかえり、店の窓からは眩しい位の光が漏れていた。響也は少女の手を引いたまま、店の扉に手をかける
「あの、ここ“closed”って──」
「大丈夫!」
閉店と言う意味の札を無視して、扉を引く。転びそうな勢いで中に入った二人を出迎えたのはコーヒーの匂いと、スーツを纏った十数人程の大人たちと、ただ一人アロハシャツを着た中年男性だった。
「あれ、響也ちゃん。どしたの、その子誰?」
「響也様じゃありませんか。今日はどちらにいらっしゃったんですか、探したんですよ」
「マスター、救急箱ってある?」
投げかけられた言葉を無視してずかずかとカウンター席に近づいて少女を無理矢理座らせる。目の前でコーヒーを煎っているカフェ“mald’amour”のマスター、木戸 明は常連客である少年の頼みを訝しみながらも、ちょっと待っててねと言い残して奥へと引っ込んだ。
「ごめんね、ちょっと見せて」
「痛っ……」
少女の左腕を覆っていた袖を半ば強引に捲る。ぞろぞろと響也たちの周りに集まっていた客達も、この場に連れてきた響也も、奥から救急箱を手に戻ってきたマスターも、少女の左手を見た瞬間、息を呑んだ。
「これ……」
少女の左腕は手首から肘の辺りに掛けて、赤い線が深く刻まれていた。日常を過ごしているだけではまず目にしないであろう裂傷は、周囲の人間を凍り付かせるには十分だったが、そんな硬直状態からいち早く復帰したのはマスターでも響也でも無く、荒事に慣れている大人達だった。
「はいはい響也様、ちょっと退いてて下さいね」
大人の中から出てきたのは、艶やかな黒髪を肩口で切りそろえた女性だった。切れ長の目を走らせて、少女の傷をさっと確認する。響也の手から少女の手を奪うと、人差し指を腫れ上がった箇所に押し付けた。
「痛い?」
「はい……つぅ!」
「じゃあ、これは?」
「いいえ」
医術の心得があるのか、女性は時には指を押し当て、時には腕を挟んで、何度か少女に質問を繰り返した。しばし沈黙に包まれるカフェの中で、おずおずと響也が女性に尋ねる。
「か、風見さん……どう?」
「……秋場、3号車の中から包帯とガーゼ、後必要な物持ってきて。マスター、救急箱下さい」
「おう」
名を呼ばれた男が部屋から出ていき、風間と呼ばれた女性がマスターから救急箱を受け取った。風間は手早く消毒液を取り出すと、置いてあった紙ナプキンを纏めて取ると、少女の腕の下に当てる。
「ちょっと沁みるわよ」
「あ、あの、風間さん。それで……」
「ああ、ごめんなさい響也様。怪我の具合ですが、この程度ならば手術の必要もありません。出血こそ派手ですが、大事には至らないかと。恐らく傷も残りません」
「よ、良かった──うわっ!!」
へなへなと体から力を抜いた響也はバランスを崩して、そのまま椅子から転げ落ちてしまう。音を立てて床に尻餅をついた一瞬後、部屋を笑い声が包み込んだ。
「あーもー響也様。何やってるんすか」
「お友達の前なんだから、最後までかっこつけなきゃ」
「ご、ごめんね」
周囲の大人の手を借りて、響也が元の席へと座り直すのと同じタイミングで、秋場が戻ってきた。風間は彼から細々とした物を受け取ると、いつまでも周囲に群がる大人達に向けて手を振る。
「ほらほら、いつまで集まってるの。さっさと自分の席に戻りなさい」
うーい、などと適当な返事を返しながら、大人達がぞろぞろと元いた席へと戻っていく。がやがやとした喧噪が戻りつつあるカフェで、響也は風間が少女の怪我を処置する様子を見ていた。
「……はい、これでおしまい。傍目には派手だけど、それ程深い傷じゃないから安心なさい」
「あ、ありがとう、風間さん」
風間が離れた時には、少女の左腕は包帯に包まれていた。一回り膨れ上がった左手を抱きながら、少女は自分の席へと戻っていく風間に向けてぺこりと頭を下げた。ようやく落ち着いた店内の中で、響也は少女へと意識を向け直す。
「よ、良かった。そんなに酷くなくて」
「あ、あの……ここって」
「僕のお父さんの知り合いの人がやってるお店。閉まっててもやってる事があるし、僕は普通に入れるんだ」
「ち、違くて、その……」
「あ、も、もしかして家の人とか心配する? ご、ごめんね。もしかしたらさっきのも、家の人を待ってたとか……」
「そ、そうじゃなくて」
「じゃ、じゃあ──」
「こ~ら、響也ちゃん」
こつん、と水が入ったコップの縁が響也のこめかみにぶつかる。二人揃って顔を向けてみると、マスターがそれぞれ片手にコップを持って穏やかな微笑みを浮かべていた。
「一人だけで喋らない。相手は女の子なんだから、そうやって自分だけ喋っちゃダメでしょ?」
「あ……ご、ごめんなさい」
「ちゃんと相手の話も聞いてあげなさい。あと、謝るなら僕じゃなくて、そっちのお嬢ちゃんに」
「ご、ごめんなさい」
「う、ううん。別に……」
二人の前に、コトリと音を立てて水の入ったコップが置かれる。その後、さも当然と言った様子でマスターがメニュー表を差し出してきた。何の躊躇いも無くそれを受け取る響也の横でまだ状況を把握しきれていないのか、少女は狼狽の色をその顔に浮かべている。
「今日はどうする?」
「えっと、オレンジジュース二つと……あと、オムライス2つ」
「ふた、つ……?」
自然な流れで二人分の注文をし終えた響也の横で、少女がまたもや疑問の声を上げる。少女の言葉の意味を理解し、咀嚼するのに数秒の時間を要した響也は、そこでようやく慌て始める。
「も、もしかして、食欲無いとか……で、でもここのオムライス、僕もお父さんもお気に入りでとっても美味しくって、もし良かったら、食べて欲しかったんだけど……」
また一人で喋り出そうとしていた響也が途中で言葉を止めた。先程のマスターの言葉が聞いているのか、ちらちらと視線を少女に向けている。その行動の意味を理解した少女はたどたどしく言葉を紡いだ。
「ご、ごめんなさい。そういう意味じゃなくて、その……いいの?」
「何が?」
「だ、だって、ご飯って……私が一緒で、いいの?」
「や、やっぱり、だめかな……」
「う、ううん。私は、その、いいけど……」
「オレンジジュース二つに、オムライス二つね。ご注文ありがとう」
二人のやり取りを見守っていたマスターがわざとらしい口調で確認の言葉を口にしながら、奥へと引っ込む。そこでようやく一息ついた二人は、互いの目を正面から見つめた。そのまま数秒、今度は少女の方から響也へと言葉を投げかける。
「そうだ、これ」
何か思い出したかのように、傷ついていない方の右手でポケットから取り出した物を響也へと差し出す。それは先日、少女に貸したあのハンカチだった。わざわざ洗ってくれたのか、綺麗な折り目がついている。
「あと、教えて欲しい……貴方の名前」
「あ、あれ……言ってなかったっけ?」
こくりと首を縦に振って、自分の意思を伝える少女。響也は数度深呼吸を繰り返して息を整えると、彼女の名を呼ぼうと唇を動かした。しかし、いつまで経っても口は上手く動いてくれない。原因ははっきりしていた。緊張でも、困惑でも無い。ただ単純に、響也の記憶の中に、目の前の少女の名前が無かったのだ。
「えっと、君の名前も教えて貰っていいかな?」
「うん。私は……フェイト」
「フェイト……」
今まで代名詞でしか呼んだ事の無かった少女の名前を口にする。その名前は驚く程すんなりと自分の中に入り込み、躊躇いなく口に出来る程、響也にとっては自然な名前だった。
「それで、貴方の名前は……」
「あ、ごめんね」
そこでようやく、自分の名前を口にする。それは祖父から受け継ぎ、父による祈りが込められた、この世界でたった一つの、自分という存在を形作る大切な欠片。彼女にそれを届ける為に、周囲を取り巻く音に負けないように、はっきりとその名を口にする。
「僕は響也……紅 響也。これからよろしくね、フェイト」
桜の花が春風に吹かれ、桜色の花よりも緑色の葉が目立つようになった四月の後半。何でもないただの平日の夜。この時、この瞬間が、今まで出会ったどんな人間とも違う音を奏でる少女の名を、将来を夢見るヒトに非ざる少年が呼んだ、初めての時間だった。