「久しぶり、詩乃のん。元気だった?」
詩乃が母と一緒に上京してきてから一週間が経つ。地元にいた頃とは違うことの多さと慣れない環境に詩乃は圧倒されるばかりで、待ち合わせの駅前に姿を現した詩乃の顔には疲れが残る。
「都会は怖い。こんなに人が大勢いるなんて、思わなかった」
「それはまぁ、地元と比較すればね」
昔からこの環境で暮らしている明日奈にとっては日常であっても、都会に出てきたばかりの人間には非日常である。特に電車、混雑具合は笑い話にもならないレベルだ。
「学校まではどうやって?」
「徒歩で通えるから、それは大丈夫。あの混み具合は心が折れる」
通学途中に傍を通る駅には毎朝これでもかという人数が集まっている。やって来る車両の中にも人は乗っているのにどうするのだろう、と思っていた先で人の波が吸い込まれていくのを見た詩乃は驚いたものだ。
「ねぇ、乗車率とは100%が上限ではないの?」
200%の乗車率とは何なのだろうか、願わくば知らずに済ませたい詩乃である。
新学年が始まって最初の週末、折角だからと待ち合わせた明日奈と詩乃。まだまだ不慣れな詩乃を案内するという名目の息抜きであった。
「詩乃のんはどこに行きたい?」
「人の少ない場所」
「あ、あはは………他には?」
特にない、と返されて困る明日奈。ただ詩乃の方も上京したばかりなので何があるのか知らず提案できないのだ。あーでもないこーでもない、と考えた末に出たのは次回以降の繋ぎを得ること。
「じゃあ環状線に乗って一周しよう。ランドマークや特色を解説するから」
「分かった。楽しみにしてる」
そうして始まった東京見物はまさに珍道中。詳しくない場所やそもそも知らなかった駅などもあって決して充実した解説にはならなかったが………全く退屈しない時間だったのは確かだ。
「はふぅ………疲れたー」
「お疲れ様。なかなか楽しかったよ」
タメになったかは微妙だけど、と詩乃は笑う。喋り通しだった明日奈が喉の乾きを訴え、下車駅の手近な場所に入ったのだ。百円の飲み物を頼み、手に持ってテーブル席へ。
こうしてファストフード店に入ることも明日奈にとっては新鮮な体験だった。そもそも友人と休日に遊びに出掛けること自体がなく、友人とここまで喋り通したこともなかった。人の評価を気にする学校では常に肩肘を張って生活を送っているためだ。
だがそれは、事情は違えど詩乃も同じ。殻に
加えて小学生最後の年となると、学年の中でも個々人の位置付けはほぼ決定されている。固定化した付き合いをしているこの時期の少年少女達、その中に分け入って参加して自分の居場所を作るというのは、通常の子供でも難しい。詩乃ならば言うまでもなかった。
母親達に心配をさせたくない、けれど打ち解けるのは難しい、詩乃はそんな葛藤を抱えている。実際に尋ねてみれば「それはそれで別に構わないだろう」とでも言ってくれるのだろうが、そうは言っても………というのが彼女の心情な訳で。
「つまるところ、私が納得できるかどうかの問題なの」
「友人ができるかはさておいて、何かしたかってこと?」
「そう。今のままだと私、こっちに来ても何も変わってない」
詩乃のんも色々考えてるんだねー、そう返しながら明日奈も考える。自分はどうか、と。
つい先日、明日奈は父から婚約が破棄されたことを知らされた。
「父さんなんて大嫌い!」
「あ、明日奈………」
お陰で暫くは明日奈の機嫌が超低空飛行、ただでさえ会話の少なかった結城家から火が消えた。
彰三からすれば娘の将来を考えてのこと、それこそ「よかれと思って」の決定なのだが、当人からすれば余計なお世話もいいところであった。
男女としての好意があったかと聞かれれば答えに詰まる、けれど好意自体は間違いなくあった。そもそも出会ったきっかけが婚約であり今まで何かと関わってきたのも許嫁という関係があったからだ。その
今までのように会って話すことが当たり前の関係を失って、今後どうすればいいのか。ぽっかりと出来てしまった空白を、どうやって埋めたらいいのか。
新しい婚約相手はすぐ見つけるから安心してほしいと言った父とは以来、顔も合わせていない。
別段、会うことを禁じられている訳ではなく、ただ会うための理由が一つ消滅しただけだ。だがそれは理由がなければ会えないことの裏返しであって、そういう
「これから詩乃のんの家に行っていい?」
「構わないけれど、目的は私じゃないでしょう?」
「い、いいのよ詩乃のんも目的だから。たまたますごーさんも同じ場所にいるってだけで!」
「仕方ない。夕食の準備を手伝うこと、それが条件」
任せなさい、と胸を張って席を立つ明日奈。勢い込んで部屋に上がり、冷蔵庫を前に硬直し、詩乃の手伝いをして、須郷達と共に食卓を囲む。友達の家に遊びにいくのは普通のことだから、と理由を見つけて明日奈がちょくちょく訪れるようになって、新しい日常の形として四人が受け入れられるようになって………今年のお盆はどうしようか、なんてことが明日奈の頭にのぼる頃。
2021年のある日、明日奈の祖父母が亡くなった。本当にあっという間だった。
☆ ☆ ☆
二人は続けざまに、まるで示し会わせたかのように旅立っていった。近頃は少し具合が悪い、仮にそんな連絡に飛んで帰ったとしても間に合わなかっただろう程に。ならば悲しまずに済むかといえばそんなことはなく……死に目に会えなかったことを、明日奈は強く悔いていた。
2021年のとある日のこと。祖父母の葬儀と遺品整理のために明日奈達は宮城を訪れる。
寒村、まさにその表現が適当な風景を、故郷とする京子はどう見ているのか……少なくとも好意的な目はしていない、と明日奈には感じられた。ただそれは明日奈にしても同様で、祖父母のいないこの家は大事なピースが欠けたように色褪せていた。
だが、どこを見ても
だからこそ京子が「この家を処分する」と言ったとき、まさかという驚愕に襲われたのだ。
「仕方ないでしょう、私達でここを維持することは不可能なんだから」
各部屋を見回り、簡単な確認を済ませて集合した居間。明日奈と彰三に京子は語りかけた。
「どうして? どうしてそんなこと言うの、母さんはお祖父ちゃん達が嫌いなの?」
「違うわ、単純に論理的な帰結がそうなるというだけ」
「答えになってない、母さんはどう思ってるのか聞いてるの!」
にらみ合う二人、旗色が悪いのは……京子の方だった。
「この家を相続することになるのは私、なら処分方法も私に決める権利がある」
言い放つ京子に
ルールによる厳然たる壁、それは大人が子に道理を示す際の印籠だ、一切の抗弁を許さない。
厳しい
かつての自分と同じだった。両親の言葉が整然としていて、自分の言葉が説得性を持てなくて、悔しさに身を焼かれて涙を堪える日々。そんな情けなさを脱却したいと願った自分は、また同じ状況に陥っている。何も変わっていない、それは詩乃だけではない、明日奈もだった。
これまでは。
こんな情けなさを……明かしたとき、彼は何と言ったか────情景と言葉が甦る。
「ちょっと待ってて!」
居間を出て、急いで目的のものを探す明日奈。自分にできないことは他人を頼っていいのだ、と祖父母の部屋へお邪魔して、予想通りに見つけられたソレを抱えて母の元へ。
「何、この……アルバム?」
「そう、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが大事なものだって見せてくれたの」
去年の夏、法事の関係で里帰りできなかったときのことだ、と。そう聞いて僅かに父母への罪悪感がよぎって、京子は振り払おうとしてアルバムをめくり────
「これ、は……私?」
そこに残された自分の軌跡を目の当たりにした。
新聞の切り抜き、雑誌のページ、ネットの記事を印刷したもの、それらは全て、京子が学者として築いてきたモノの証。中には京子自身にすら見覚えのないものもあり、並大抵の労力ではないことが
「お祖父ちゃん、知ってたんだって……母さんが出自を本家から悪く言われて傷付いていること」
目を見開く母、伝え聞いたことの正しさを明日奈は悟った。そして
「それを知る父さんが親戚の色眼鏡を払拭するために仕事へ打ち込んでいることも、ギスギスした空気を嫌ってわたしが一人で宮城の実家に行こうとしたのも……二人は知ってた」
──出自を変えてやることは、残念だけど自分達にはできない。できればもっといい所に生んでやりたかったけれど、こればかりはどうしようもない。
──けれど京子は自立して強くなった、ならば自分達はその姿をしっかりと覚えていよう。
「お祖父ちゃん達がこのアルバムをここまで続けられた理由、母さんだけは忘れないで」
ページを次へ、次へとめくる京子の脳裏によみがえる事績の数々。既存の概念と変わらないと散々にこき下ろされた最初の頃から最近の、つい先日に寄稿したばかりの記事にまで及んでいて。
当時の悔しさや喜び、苦しみや誇らしさが色を伴って甦る。二人の親はこれを見て何を感じていたのだろう、そう聞いてみたくて、けれど聞くことはもう、叶わない。
「きっとお祖父ちゃん達、死ぬつもりなんてなかった。言っていたもの、この家を守るんだって」
娘が強く生きている姿は嬉しかった。昔から聡明で出来た子だったから、きっと己の手で未来を掴み取るだろうと信じている。けれど途中で疲れて、少し休みたいと思う日がくるかもしれない。
「最後にしてやれることを、自分達は生きて、生きて、生き抜いて、娘の故郷を守るんだって」
二人の想いは孫の言葉を経て……娘に届いたのだった。
☆ ☆ ☆
「実際、どうするかは悩ましいのよ」
「うぐっ」
京子の態度が多少は軟化した後も、根本的な問題は解決していなかった。
この僻地にある家を保持していくことはとても難しいのだ。棚田は生産性に難があり、交通の便も悪い。誰も住まない家は朽ちるのが早く、ご近所に頼むにも人が少ない上に高齢で難しい。こればかりは
京子とて、残せるものなら残してもいい、程度には感じ方が変わっていた。ただ手段がないことにはどうにもならない。明日奈も頭を悩ませるが良案は出ず、お手上げ状態だったのである。
「なぁ、一つ提案があるんだが」
と、ずっと静かだった彰三の声に振り向く二人。完全に存在を忘れられていた彼は、自信なさげに考えを明かす。
「ウチが手掛け始めた仮想空間技術があるだろう。そこに家を残してはどうかと思うんだが」
顔を見合わせる二人。その手があったかと喜ぶべきか、早く言えよと叱るべきか。考えた末にため息を吐き、より詳しい話を彰三にさせるのであった。
★ ★ ★
「はぁ、それで僕がモデリングを担当しているという訳ですか」
「そうよ。あ、そこの梁の部分、ちょっとズレてるわよ」
病院行脚も一段落した僕をレクトで待っていたのは仮想空間の製作依頼。宮城の実家をVRの形で残したいということで、暇を見つけては京子さんが出来を確認しにくるのだ……仮想空間内まで。彰三さんや明日奈も見に来たことはあるのだが、京子さんの頻度は頭五つくらい飛び抜けている。
「京子さん、チェック厳しいですね。やっぱり実家って思い入れの強いものですか?」
生意気言ってないでさっさとなさい、なんて言う彼女の顔は熱を帯びていたのだった。VRでは感情の制御が難しいからね。
「それにしても明日奈が説得に成功するとは……母親としては娘の成長も嬉しい感じで?」
「いいから口より手を動かしなさい。柱のキズはもっと深いし色も濃かったわ」
やはり仮想空間は感情の制御が……そろそろ真面目にやらないと不味そうだ、うん。僕のにやけているのも丸わかり、京子さんがキレかけているのも見て取れる。VRは不便なこともあるらしい。
「まったく、明日奈は誰を見て育ったのかしら」
「母親じゃないですかね……顔、にやけてますよ」
「んなっ……覚えておきなさいよ」
実際、明日奈はかなり京子さんの影響を受けている。父や祖父母、或いは僕や詩乃も含まれるだろうが、彼女の冷静さと頑固さは母譲りだと思うのだ。そう考えると……
「京子さんもお祖母さんに似てるところがあるんですかね。昔はどんな風だったんですか?」
「…………あんまり、面白い話じゃないわよ?」
そうして語られる昔の話は子供の頃から始まって、自分の時はあんなに厳しかったのに孫は猫可愛がりするのだ、と憤慨するところまで止まることなく実に楽しそうで。やっぱり誰かに聞いて欲しかったんだなぁ、と感じたのだった。