ソードアート・オンラインの開始時刻は13時だが、直後はログインが集中することを予測したアーガスではリソースの集中を決定した。システム全体の稼働を14時から始めると告知し、あえて当日のログイン可能時間を最初の一時間に限定するという手段に出た。
SAOの魅力がβテスターや雑誌取材により加熱する中で発表された「ナーヴギアの性質改良」により更なるクオリティー向上を期待した人々は熱狂、連日連夜の報道は留まることを知らない。
それに伴いナーヴギアの問題も周知されていく。例えば外部からの無理矢理なロック解除、これは実はとても危ないことだ。不正規な取り外しでデータが飛ぶだけではなく……VR空間で直前まで動き回っていた脳の認識と現実世界で静止していた肉体が
さて当日、茅場先輩がデスゲームを実施することはないだろう。
「人死にが出れば、表立って仮想空間の未来に関わることはできないからな」
「その言い草だと死ななきゃ安いって風にも聞こえるんですがそれは」
やり取りを思い返して嘆息する。あの人、約束は守るのだが基本的に言質を与えないのである。人死にもバレなきゃいいと言われなかったことを喜ぶべきか、それ以外の危険を嘆くべきか?
そんな具合なので念のために明日奈の予定を確認しておこうと思ったのだ。
「明日奈? お見合いがあるって愚痴ってたよ」
「あー……そうか」
「ねえ、いいの?」
「見合い? それ自体はいいんじゃないか?」
彰三さん達なりに考えてのことだろうし、明日奈も嫌なら断るだろう。詩乃もユウキもソフトは持っていないと言っていたし、この分ならば問題はあるまい。
★ ★ ★
「明日奈……すごーさん、全然気付いてなかったよ」
『そっか……そっかぁ、へぇ……』
冷え冷えとしたビブラートを利かせる通話相手にどうしたものかと瞑目する詩乃。朝食を終えて自室に戻り、明日奈との電話を楽しもうとしていたのだが……連絡事項がとにかく問題だった。
詩乃からすると明日奈が彼に向ける感情は複雑にも程がある。許嫁という関係にあったことは嫌ではない。だが許嫁という枠組みにあることは他人に規定されている印象がして嫌だった。かといって許嫁でなくなっても構わないかといえば違い、繋がりの一つが切れることを怖れてもいた。
彼女が物語を──伸之曰く茅場晶彦と考えた創作を──ねだるのも、ただ単に創作として興味があるのではなく話している相手が大事なのだ……詩乃はそう把握していた。少なくとも詩乃自身はそうだったからだ。仮に同じ話を全く同じ調子で祖父が語ったとしても興味は沸かなかった。楽しそうに話している彼の姿を間近で感じられる時間こそが安らぎを生んでいたのだから。
その気持ちが分かるからこそ詩乃は面倒だなぁと思いつつも──他にもライバルはいるんだけどなぁと思いながらも──明日奈の悩みを聞くのだ。
「それでお見合いは今日なんでしょ? 相手は?」
『京都の……本家が選んだ人。よく知らない』
「あぁ、例の実家」
何度か顔合わせしたことのある彰三が肩身の狭い思いを強いられる、詩乃には想像もつかぬ光景。そんな実家から勧められては話もせず断ることなど不可能だろう。親戚関係が破綻する。
『だからね、サボっちゃおうと思って』
「ええ? 流石にそれは…………いえ、盲点かもしれない」
でしょう? と同意を求める明日奈。両親には断れない話を御破算にしようとするならば、それこそ子供の理由が力を持つ。ドタキャンとまでは行かずとも、両親に言い訳を与えられるのだ。
両親が明日奈の婚約者を早く決めたがるのには、実はこうした本家の横槍を防ぐ狙いもあった。
「じゃじゃ馬な娘ですいません、とか彰三さんに言わせるんだ?」
『きっと母さんに似たのよ。だから仕方ないわ』
冗談めかして言ったことに笑い、ひとしきり愚痴った後にやって来る話題はソードアート・オンライン。人気の一言で表しきれない程の注目を、比喩でなく世界中が向けていた。
伸之や彰三から開発状況についての話はちょくちょく耳にしている二人のこと、更には昔から聞いてきた物語の世界が具現化するとあって興味は
『詩乃のんは買えなかったんだっけ?』
「うん。流石に高かったし、お願いするのも気が引けて」
『詩乃のんのおねだりなら聞いてくれると思うけどなぁ』
詩乃があまり目に見えて甘えてくれなくて悩んでいる、そんな相談を京子にしていたとバラす明日奈。私への当て付けだったのかしら、なんて母さん怒っちゃって、などという話は耳から耳へ。
詩乃も詩乃で距離感に悩むことがあるのだ。自分が母を守らなければ、と早熟することを強いられた頃と比べ、今は同居人もいる上に母の容態も回復傾向にある。だが詩乃からすれば子供らしさとは何ぞやとなる訳で、果たしてどこまでがOKなのか一つ一つ確かめている最中なのだ。
『あ、もう昼前だ。そろそろ切るね』
「分かった。それで午後は?」
『仮病を使って自宅にはお手伝いさんだけだし、兄さんのソフトを借りようと思って』
提携をしているとはいえアーガスとレクトは別会社だ。敵情視察にでも行くつもりだったのだろうか、兄の浩一郎は折角買ったSAOソフトを試す間もなく出張して行った。
『だから一足先に堪能して、詩乃のんには感想を聞かせてあげるから』
「……そう言われると、私もやりたくなる」
『だからお願いすればいいじゃない』
いい、のだろうか。厚かましいと思われないだろうか。他人に拒絶されることに敏感な詩乃としては、我が儘を言って嫌われたらどうしようという感覚がどうしても抜けないのだ。
『どうしても難しかったらわたしも手伝うから』
「うん。ありがとう、明日奈」
『どういたしまして、じゃあね?』
ぷつり、と切れた通話。そろそろ昼食の準備を始めよう、そう考えて詩乃は自室を出てキッチンへ。脂っこいものを好む同居人は詩乃が注意しないと不摂生を始めるのだ。油断をすると肉や揚げ物ばかりとなりかねない……詩乃が魚を主菜に据えることが多いのはそういう理由だった。
★ ★ ★
「ソードアート・オンライン? やりたいのか?」
こくり、と頷く詩乃の姿にどうしたものかと一瞬悩み……別にいいかと結論付けた。
「高いから、迷惑かなって」
「子供に変な気を遣われて嬉しい大人はいないの、覚えておくこと」
「変なって……」
もし僕が正式に詩乃の義父になっていたならば、もう少し距離も縮まりやすいのだろう。
だが詩乃が僕の養子になるということはつまり、彼女の母と僕が見た目上は夫婦になるということだ。人間としては好きだ、嫌いな人間と共同生活など送れる訳がない。弱りきっている精神の中でも娘を想えた心の強さは尊敬に値するし、好ましいと思う。
けれど彼女は旦那さんの死を見届けて壊れてしまったのだ。つまりはそれ程に彼への想いが強く深かったということで、だからこそトラウマにまでなっている。心の整理など着いていないだろう。そこからの回復も叶わない内にそういう関係になることは、僕には出来なかった。
詩乃の気持ちは薄々察してはいるけれど……今の僕と詩乃の関係は父と娘、に似たものという非常に曖昧な状態となる。
ただ詩乃に必要な父の役割を果たすことに迷いはないので──果たせているかの判断は迷うが──行動は今日も変わらない。
「ソードアートという位だから剣技が全面に出たゲームになるぞ。戦う相手はモンスターだけじゃない、プレイヤーも含まれる」
あの事件から数年、詩乃は大人に対しても特段の怯えを見せることはない。けれど戦いとなれば話は別だ、VRが詳細に再現する相手の表情や感情はリアルに迫り来る。当然そこには心理的な負荷が発生することになる訳で、果たして詩乃は大丈夫なのかと、心配になる。
「心配しすぎだと思うけど……無理そうなら他の楽しみかたもあるだろうし」
「まぁそれもそうか。初回版は流石に手に入らないけど、次のロットを予約しておこうか」
「うん……ありがと、心配してくれて」
タタタッと走り去ってしまう詩乃を見送り、リビングのテレビをつける。日曜午後の番組はどれも似たように気の抜けたもので、僕は見るともなしに眺めていたのだ……久々に暇な休日だ、と。
だがそんな休日は。
『──たったいま入った情報です』
僕を
『着用中のナーヴギアを外そうとしたところ、小さな破裂音と共に焦げるような臭いが──』
一瞬にして、崩れ去った。
★ ★ ★
これは一体、どういうことなのか。降り立ったアインクラッドの中、全てのプレイヤーがそう疑問を抱いていただろう。或いは困惑か、それとも悲嘆か、落ち着いている者など一人もいない。
『プレイヤー諸君、私の世界へようこそ──私の名前は茅場晶彦、今やこの世界で
私の世界とは何なのか。唯一の人間とはどういう意味なのか。混乱したままの聴衆を、影のアバターは見下ろしていた。赤く染まった空の下、透明な壁に囲まれた虫籠の中を観察するように。
『諸君はメインメニューからログアウトすることが出来ないことに、既に気付いていると思う。これは不具合ではなく、ソードアート・オンライン本来の仕様である』
広場に囚われた約一万人、その中に冷静な思考を保てている者がどれだけいたのか。
プレイヤーのHPがゼロになれば……ナーヴギアが高出力マイクロウェーブを発生させ現実の脳を焼く。外部的解除が試みられても同様に。あらゆる蘇生手段は失われ、ログアウトするためにはゲームクリア……第百層までの攻略が必要となる。充分に留意して攻略に励んで欲しい、と。
終わる演説、現実の姿となるアバター、解ける硬直、怒号と悲鳴が木霊する中で行動を開始できたプレイヤーは数える程。それは動けるに足る理由を有していた者、主にβテスターであった。
数少ない行動者の中で、更に珍しい非βテスターは数人しかいない。その中に彼女はいた。
「うわぁ…………いやいやまさかそんな」
結城明日奈──プレイヤー名Asuna、彼女はあくまで「創作」として聞いていた状況が現実のものとなっていることに軽く目眩を覚えた。
彼は予知能力でも持っていたのだろうか、と疑ってしまう程の一致はまさしく悪夢としか言いようがない。とはいえ本来は何の手がかりもなく始めなければならなかっただろうことを思うと喜ばしいのは確かで、判断に困るところだった。
まぁ話をするのは帰ってからだ。そのためにはさっさとクリアしなければならない。
「とにかく、どこまで信用できる情報なのか確かめないといけないんだけど……」
何度も口酸っぱくして言われた言葉──他人の情報を鵜呑みにしてはならない、都合のいい情報だけを見ないよう気を付けること──は脳裏に焼き付いている。だからこそ己の情報がどこまで通じるかを情報を持つ者、βテスターに聞かなければならなかったし、その者の持つ情報も正確かどうか──本サービス開始にあたって変更されていないか──確かめなければならない。
さしあたっては情報源になれるプレイヤー、できれば女性がいると良いのだが……狂騒の中を縫って歩き、広場にいる中で目についたのは金褐色髪の子だった。
「あの、もしかしてβテスターの方ですか?」
「……どうしてそう考えたんダ?」
「この状況でフレンドリストやマップを見られる余裕があったようなので」
「…………にゃハハハ、参ったナ。そっちこそ随分と余裕が満ち溢れてるじゃないカ」
アスナです、以後よろしくと告げられた女性プレイヤーは口元を引きつらせていた。
★ ★ ★
あの後、事態は混迷を深めた。報道は不確かなことを流しただけ、連絡を取ろうにも茅場先輩は行方不明、先輩不在のアーガス社はてんてこ舞い、そんな中で詩乃から「明日奈がログインしている」と聞いた僕は彼女を伴い結城家へ。
夫妻はいないがお手伝いさんは残っている。彰三さん達に連絡を取るように頼んで明日奈の私室へ、足を踏み入れた先には──ベッドに横たわり、ナーヴギアをかぶった彼女がいた。
時刻は既に四時を回る。今頃はまだ明日奈もアスナとして、楽しく遊んでいる頃なのだろうか……そんな予測は何の役にも立ちやしない。苛立ちに己の膝を殴りつける。
何故こうなった……いや、それは後だ。今後どう動くべきかを思案しろ……病院への移送態勢を磐石にすること、サーバーやナーヴギアの維持に全力を尽くすこと、それ位しかなかった。
いや、まだ何かあった筈。思い付いたのは原作における須郷が三百人を拉致した方法。
サーバー本体、カーディナルシステムへの安全なハッキングは無理と考えるべきだ。では何故そこからプレイヤーを奪えたのかといえばSAOがクリアされた際のログアウト処理中だったからで、サーバーの防壁が意味を成さない「外側」だからだ。
個人のナーヴギアとSAOのサーバーは中央集権の構造でもありハブ構造でもある。二者の間には回線が存在していて、それ自体は民間の物と変わらない。そのどこかしらに細工を施して「ログアウト信号」を原作ではインタラプトしたのだとすれば……高出力マイクロウェーブを発生させる信号をインタラプトすることだって可能な筈だ。
だが分析に、検証に、実験に、どれだけの時間がかかるか。どれだけのプレイヤーがその間に命を落とすか。そもそも信号を解析するためには実際に観測する必要があって、それはつまり……誰かに死んで貰わなければならない、ということだ。
「…………あの、すごーさん」
「なんだ、僕は今後の対策を考えるので忙しいんだ」
「対策? どうして?」
「決まっている、明日奈を助けるためだ」
「そんなに明日奈が大事?」
「当たり前だ!」
僕が全ての働きかけを決意したきっかけ、それが明日奈だ。彼女と出会わなければ僕は酷く自己中なままに生きていただろう。血液製剤もメディキュボイドも詩乃のことすらも見棄てて、クズのような人生を過ごしていた。
「明日奈は僕が変われた恩人なんだ、死なせてたまるものか」
「だってさ、明日奈。そろそろ目、開けたら?」
「え?」
あ、あはは……なんて苦笑しながら目を開ける明日奈は、当たり前だが生きていた。固く握っていた手に視線が来たので離して──起き上がらせるよう詩乃に背を押されて手を貸した。
聞かれていた、のだろう。気恥ずかしい雰囲気にもなるが、今はそれより大事なことがある。
「明日奈、ゲームの中では何があったんだ?」
「最初はどうなるか心配だったけど、終わってみれば楽しかったわ」
「えええええ」
「それより責任とってください、すごーさん」
にっこりと笑顔を見せる明日奈は何の冗談でもなさそうな態度で、だが冗談としか思えないことを言い切った────まだ四時を回ったばかりだぞ? たった数時間でクリアって、アスナさん強すぎじゃない? あと責任って何のことでしょうか。