ネムの声で脳内再生よろしくお願いします。
ネムは手頃な石を拾うと、満足げに頷いた。手の中にすっぽりと収まり、十分な硬さと重さを確かめる。尖った石の先端を指でなぞり、これなら文字が書き易そうだと頭を縦に振る。
この世界に転生してわかった事がある。
――転生であると結論付けたのには、もちろん理由がある。
一つは、この世界が自分の知っている世界――鈴木悟が生まれた世界――とは余りにもかけ離れていたからだ。
大気の汚染、水質の汚濁、土壌に汚染などが見られず、自然が有りのままの姿で残っている。そして、文明レベルが非常に低く中世ヨーロッパの開拓村を思わせた。
さらには付近の森―トブの大森林――には、ゴブリンやオーガといったモンスターも数多く存在すると聞く。
これだけならば、ユグドラシルのサービス終了と共に、新しいサービス――ユグドラシルⅡとも言うべき――が開始した可能性も視野に入れるだろう。
しかし、本来ならばゲームとしては有り得ない出来事、顔の表情の変化や匂い、そして、生理現象などが普通に存在したことで、その可能性は限りなく低くなった。
そして、ユグドラシルでは絶対に行えなかった行為、18禁に触れる行為が行えたのである。
姉と名乗る少女に「む、胸を触ってもよいかにゃ?」と言った時の顔は、今でも忘れることは出来ない。
次に考えたのは、仮想現実が現実になったという可能性である。
だが、これは直ぐに却下することが出来た。
鈴木悟は、少女であった。
ちがう、現実の鈴木悟はもちろん少女ではなく社会人であり平均的な一般的な何処にでもいる普通の男である。しかし、ユグドラシルの終了と共に少女となっていたのだ。
転生であると帰結するのは、至極当然と言える。
勿論、単純な転生と考えるのはいささか短絡的であるといえる。
転生というには余りにも世界が変わり過ぎていた。何より、モンスターの存在は鈴木悟の現実世界には存在していない。過去や未来の世界に飛ばされたというよりも、全く別の空想世界に迷い込んだ、そんな気分だ。
ゲームではない
見知らぬ世界、不慣れな環境、現実世界で培った常識がまるで通用しない現実。そんな中で、彼を最も驚かせた事実、それは……。
湯浴みの時に、ちっともドキドキしなかったんだよなぁ。
俺、今の姿は女の子なのに……。
どこの世界に、自分の体をみて興奮する人などいるのだろうか?
まぁ、いるだろうが鈴木悟はそんなナルシストではなかった。
少女の体を見ても何の興奮も背徳感も感じないのは何故か。鈴木悟は大人の女性にしか興味が無いノーマルである。心理的あるいは外的プロテクト。または肉体と精神の同一性による変化によるものなど。
多種考えが及ぶが、自分の感覚を信じるならば、それが自身の体であるという感覚こそが正しいのかもしれない。
とすると、もう一つの可能性に行き当たる。
それは、全く馬鹿げた考えであった。だが、納得のいく考え……。
自分は少女で世界は元々ファンタジーで、鈴木悟こそが有りもしない空想の産物なのではないか……。
いやいや、其れこそ有り得ないだろう。
どんなに終わった世界だとしても鈴木悟として生きた時間は本物であると断言できる。何より、あの輝かしいユグドラシルでの想い出が偽物であるはずが無い。
思考が堂々巡りする。まるで回し車に乗せられたハムスターにでもなった気分だ。
これ以上は幾ら考えても答えは出ないか。
まずは、わかった事を纏めようと、判明したことを地面に書いていく。
私はネムという名の小女である。
地面に『ネム』と書く。
私にはエンリという名の姉がいる。
地面に『エンリ』『姉』『胸が柔ら』と書き、『胸が柔ら』を消す。
ここは、カルネという名の村である。
地面に『カルネ村』と書く。
さらに『モルダー』『紳士』『トブの大森林』『エ・ランテル』『リ・エスティーゼ王国』と続く。
「先ずは、ここに行ってみるべきだよなぁ」
エ・ランテルの文字を石の先端で突く。
カルネ村より徒歩で2日程の距離に、城塞都市エ・ランテルがある。
周辺で最も規模の大きい都市だ。得られる情報もここ、カルネ村とは比較にならないだろう。
しかし――
「これだもんなぁ」
凹凸の無い自分の体をペタペタと触り、ため息をつく。
少女となったこの体では、とても行けない距離だ。
地面を石の先端で叩きながら思案に暮れると、不意に、影がさした。
「何してるの?」
「うおおおおおぉ!!」
ごろごろと地面を転がり文字を消す。
後ろから覗き込んだ姿勢のまま、笑顔のエンリが立っていた。
両手に空の水壷を持ったまま下を向いているためか、顔に影がさして陰影を作り、笑っているようには見えない。
「お絵かきしてたの」
「もう、こんなに汚して。私は水を汲みに行って来るからネムはお母さんのお手伝いをしなさい」
水壷を脇に置くと、ネムを両腕で抱えあげて立たせて砂埃を叩いて落とす。
はーい、と返事をするとその場から逃げるように家に向かった。
朝早く、太陽が顔を覗かせ始めたばかりの時刻だ。
空は明るみ始め、青と朱に色を染めた頃の早朝の水汲みは、エンリの仕事であった。
家に置いてある大甕を一杯にするには三往復はかかり、大抵は、水汲みが終るころには朝食の準備が終わっている。
ネムが家に入ると母親はオートミールの鍋に火を通して掻き混ぜているところだ。
昨日と同じだ、と鼻白む。ネムは、オートミールが余り好きではなかった。
初めて食べた時は、初めて見る料理でどんな味がするのだろうと好奇心に心を躍らせたものだが、淡白な味つけでお世辞にも美味しい物ではなく、何よりその食感が苦手であった。
それと、野菜を炒めたものが食卓に準備される。
突然、母親の手が止めて玄関の方に目を向ける。
微かにだが、悲鳴の様な音が聞こえた。
駆けるような足音が家に近づいてくる。
母親はネムにこっちに来るように手招きをし、その手をつかむと緊張した面持ちで玄関口を注視する。
「みんな無事か?」
ネムの父親は戸を押し開けると、急いで家の中に駆け込んだ。
周囲に視線を巡らせ息を整えながらエンリが居ないことを確認する。
「エンリは、エンリはいないのか?」
「ええ、まだ水汲みに行ってから戻ってきてないわ。いったい何が」
「分からない、騎士が、鎧を着た男達が突然切りかかって来たんだ。モルダーさんがやられるのが見えた。あの人、ミトちゃんを庇って、最後までいい人だったよ……」
ミトちゃんとは、この村で知り合ったネムよりも4歳ほど小さい女の子だ。
金色の髪に鳶色の瞳をした、将来は人目を引く美人になるだろうと思わせる、可愛らしい子だ。
「と、とにかく急いで支度をしてくれ!エンリが戻り次第、森に逃げ込むぞ!」
「ええ、分かったわ」
慌しく動き出す両親を尻目に、ネムは呆然と立ち竦んでいた。
なんだ、何が起こっている。
これはこの村では日常茶飯事で起こるような事なのか?
いや、それにしては慌しすぎる。
まさか、俺が転生したことと何か関係があるのか?
どうする?どうすればいい?
騎士の姿で思い浮かぶのは、リ・エスティーゼ王国と反目し合う、バハルス帝国の存在である。
リ・エスティーゼ王国の隣国であり、毎年、侵略戦争を仕掛けている国だ。
例年に漏れず多くの若者が戦争に駆り出され、カルネ村でも、必ず帰ってこない者が何人かいると聞く。
ならば、今回の襲撃はその延長線上の、バハルス帝国による国力の低下を狙ったものだろうか。
「お父さん、お母さん、ネム!」
エンリが叫びながら扉を開けて家に駆け込む。全員の視線を集めた。
胸を上下させ、荒げた息を整えようと大きく息を吐く。家族の安否を確認してその顔は綻んでいた。
「エンリ!無事だったか!」
安堵した顔でエンリに近寄ると、父と母はエンリを抱きしめる。
そして硬い表情で頷き小さく声をかける。
「逃げるぞ。このまま村を突っ切って森まで走ろう」
四人は頷き玄関口へと向かった。
だが、全てが遅すぎた。
乱暴に蹴り開かれた扉の隙間から影が差し込む。
全身鎧を身に纏った騎士が、日の光を反射して輝くロングソードを持って立っていた。
騎士は、
両親とエンリは息を呑むと体を硬くした。
ネムは、騎士を見ながら小さく首を横に傾げる。
その光景が、まるで恐ろしくないのだ。
手には刃渡り90センチ以上のロングソードを持っており、鋭利に研がれ磨かれた刀身によれば、人の体を両断することすら簡単に行えるだろう。
金属で出来た鎧が全身を覆っており、その姿はどのような攻撃も通じないのではないかと思わせる。
だが、目の前の騎士が大した強さには思えなかったのだ。
ネムはこの時、ユグドラルでプレイしていた頃の、
相手は前衛職で一人だ。しかも、こちらを見下し余裕を出してる。各阻害系対策どころか魔法詠唱者に対する対策も不十分だろう。もし、ゲームならば、俺ならばどうするか。
思わず苦笑する。
先ずは即死効果を狙った魔法を、それも、たとえ
何気なく右手を突き出し、握り締めるように横に捻る。
「<
目の前の騎士がびくんと体を震わせ、そして、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
一瞬、世界との接続を感じた。まるで世界と繋がって力が流れ込んでくる感覚、いや、内側から込み上がる力が世界に流れ出る感覚だろうか。その手には、確かに魔法が発動した感触があった。
「え?」
声が漏れる。
モンスターがいるのだから魔法もあるかもしれない可能性は考えていた。しかし、今使った魔法はユグドラシルの、つまりはゲームの魔法である。
ここはゲームの世界なのか?ならば、仮想現実が本当の現実になったという考えこそが真実なのだろうか。
何より、この体で九位階の魔法が使えるのならば、もしかしたら誰でも使えるレベルの話なのかもしれない。
魔法の感覚が残る掌を呆然と眺めながら思案していた考察は唐突に打ち切られる。
ふと視線を感じ、横を見ると信じられないものを見るように目を見開いたエンリが真っ直ぐネムを見ている。
続いて地面に倒れた騎士を見下ろし、再び視線をネムへと戻す。
「……え?」
その呟きは、暗に貴方がやったの?と訴えてくるようで、バツの悪い居心地の悪さを感じる。
まさに、こっち見ないで、という心境であった。
次回『死の騎士』
土曜か日曜に更新できればと思います