「……? こんなところに……」
メイドは固く絞られた雑巾を動かす手を止めて、目を壁に寄せる。よく見ようと
光を吸い込むかのような石材で作られた暗色の壁は、所々に走る金色を発する鉱石の混ざり物による模様が作る絢爛な雰囲気を飲み込み、総じて重々しくも美しいという印象をもたらす。
そんな壁の一箇所に今メイドは深刻な視線を送っていた。
「傷だわ……!」
ナザリック地下大墳墓の第九階層。
ロイヤルスイートと呼ばれるこの階層であっても最近は多くの人影がある。最近は時と場合によってシモベたちによる警備の巡回があるからだ。
そうなれば(例えシモベ達が気をつけていても)当然埃などが持ち込まれることになるが、それによる汚れを許すメイドたちではない。僅かな汚れやチリであってもたちどころに掃除され、常に美しく保たれている場所――それが第九階層というこの世で最も聖なる場所である。
しかし。
「しかもこんな、アインズ様の居室にほど近いところだなんて……!」
ここの美しさを守り、敬愛して止まない主に僅かでも心地よく過ごしてもらうことを願うばかりのメイドにとっては許しがたい出来事。
今磨いていた壁は直線に続いていた通路の終わり近くで、そのまま右へと折れる通路だ。傷を発見した壁に沿って曲がればすぐにでもアインズの部屋である。その曲がり角すぐ側の壁に目立つ傷が付いていた。高さはメイドの視線のほぼ真横といった所だろうか。
ナザリックの一般メイドにとっての掃除とはまさに戦場。それに相対する彼女たちの気合は並大抵のものではない。
掃除はそれぞれの指定箇所におおよそ3~5人のメイドが班として割り振られ、その責任で作業が行われるのが通常であった。例えば「至高の御方々私室:ぶくぶく茶釜様:5名」とか「レメゲトン:3名」などといった具合である。
これらの仕組みはメイド長であるペストーニャによって指示されたものを下敷きにしている。「指示通りに」ではなく「下敷きに」と表現される理由は、現在も更なる効率化、高成果化を目指して改良がメイドたちから意見や案を募って活発に進められているからである。
ちなみに最近メイドたちの間で交わされた掃除関連の議論は、定番の「掃除巡回の頻度を如何にして上げるか」や、拭き掃除に新たな潮流を生んだ「拭き掃除は至高の御方の視線の流れを意識すべき」とか、よくある質問の「空中に埃が浮かぶリスクをいかに小さくするか」といったもの。
まあそもそもの話、掃除の手を抜くメイドなどナザリックには元から一人としていないのだが、その上で繰り返された改良の結果として現在では別の者の目で掃除の出来のダブルチェックは当たり前、場所によってはトリプルチェックまで行われるようになっている。
そうした献身の果てに普段であれば顔が映り込む程に磨き上げられる場所。そんな場所の壁に目立つ傷、まさに看過できない事件であった。
「手が止まっているわよ……? どうしたの?」
「ちょっとこっち来てここ見てくれない?」
「何があるの? ……! なんてこと……! 傷だわ!」
「そうよ! しかもよく見ると平行に三本もあるのよ! 幅は無いけど1本は特に深いの!」
走り寄ってきた眼鏡を掛けた別のメイドまでもが壁に近づいてその箇所を凝視する。覗きこむその顔には既に怒りとも悔しさとも言える表情が浮かんでいた。
後からやってきたメイドが眼鏡のブリッジを指で押し上げながら口を開く。
「前回の掃除ではこの報告は上がっていないわよね」
「聞いてないわ」
「ということは、前回のローテーションから今までの3時間の間に、この傷をつけた者がいるということになるわね……」
「……最近巡回するようになった警備が武器をぶつけたとか、じゃないかしら」
「なになに? 何が起こったの?」
この班の最後の一人も何事かに気がついて走り寄ってきた。ショートヘアの活発そうな印象を受けるメイドである。
二人のメイドは疑惑の内容含めて状況を説明する。が、最後に来たメイドは思案げだ。
「うーん? でも最高度の警戒体制は解かれたんじゃなかった?」
「え?」
「あっと……警備の話は私たちに直接関係がないから、聞いちゃっただけの話なんだけど……セバス様とペストーニャ様がそんな話をしていた……ような……」
「聞いたのはいつの話?」
問われたメイドは額にしわを寄せるようにして自分の記憶を探り始める。考え込みすぎて頭を抱えた結果ブリムが少し曲がってしまったが、それを隣りにいた最初のメイドが何も言わずに直す。
「確か……昨日の朝食のすぐあと……」
「じゃあ、この傷は警備が原因じゃないわね。だとすると一体……?」
三人揃って難しそうな顔で考えこむ。天井から降り注ぐ
「私たちメイドの持ち物ではこの壁に傷をつけられるとは思えないわ」
「ひょっとしてあの執事助手がやらかしたとか?」
「だったら言いつけて吊るしあげてもらいましょう」
「それいいわね!」
ここでの執事助手とはナザリック内で「ある意味有名」なエクレア・エクレール・エイクレアー執事助手である。彼も至高の41人によって創りだされた存在なのだが、しばしば「ナザリックを自分が支配する」といった野望を口にしたり、そのための離反の誘いをしたりするので一般メイドには結構嫌われている。
まあそういう風に振る舞えと創りだされた結果なのだが、だからと言ってそんな戯言を聞いて気持ちの良くなる者などいないのだ。例えその姿が愛らしいイワトビペンギンの姿であっても。
メイドたちはあの無駄に飛び出た頭の羽毛のせいで傷がついただの、蒸し焼きにして脂を絞って燃料にしましょうだのと言いたい放題言い始める。
が、あまりに脱線し始めた雰囲気を危惧してか、眼鏡をかけたメイドが咳払いを一つして場を鎮めた。
「まあそういう話はともかく……可能不可能で考えるとすると、階層守護者の方がこちらに来られた時に付いた傷、なのかしら?」
「気が付かないうちに、とか? ほら、コキュートス様とかは大柄でトゲトゲした体をお持ちだから……」
あの恐ろしくも逞しい姿であれば、確かに壁に傷をつけることも容易だろう。気が付かずにそうしたことが起きても不思議ではない。まあ実際にトゲトゲした体かといえばそんなこともないのだが、凍気を纏った
「でもコキュートス様って、今はずっと外に出られているのではなかった?」
「そうなの?」
「しばらく前にそんな話を聞いたわ。それに考えてみれば、私たち以上に階層守護者の方々がこんな壁に傷をつけるような不敬をするとは思えないわ」
「それもそうね……。もちろんメイドの誰かがやったという可能性もあるわけだし……」
「……この件は後回しにして、掃除を終わらせましょう。後で報告の時に改めて犯人の割り出しと責任について問えばいいわ」
「補修の方法もね。でも今は、仕方ないわね……」
傷を最初に発見したメイドはまだ目の中に消えない怒りを宿していたが、掃除を中途半端なまま放置して不敬をやらかした犯人探しを始めるわけにもいかない。彼女たちはただのメイドであってそんな事をする立場にはないからだ。
しかし、それぞれが雑巾を持って持ち場に戻ろうとする中、ショートヘアのメイドだけがその場から動かずにいた。そしてポツリと呟く。
「これひょっとして……アインズ様が……とか……」
呟きを耳にした二人のメイドの足がピタッと止まる。
そしてギギギギ……という音がするような動きで首を回して、声のした方に視線を送る。
「ほらたまに……お急ぎになられている時に、小走りになられて……こう、勢いよく角を曲がる時につい、手を伸ばされて……なんて……」
独り言じみた言葉が続く。
「そうするとあの、美しくも鋭い指先が、壁にあたって」
実演するかのように指先を壁に伸ばす。
「……まるで壁の角を掴むかのように……一番力の入る人差し指、中指、薬指が食い込んで……」
偉大なる主の動きをなぞることに畏れ多さを感じたのか、それとも至高の存在がつけた傷に直接触れることにためらいを感じたのか、ショートヘアのメイドの指先は壁に触れないように動いて過去を描く。
「アインズ様の居室はすぐそこだし……だとするとこの場所をアインズ様が、力強く触れられたということに……」
「………………」
先ほどとは違う目つきをした二人のメイドが再び壁際に戻ってきていた。
「待って! もしそうだとすると、こ、この傷って補修とかしていいのかしら!?」
「至高の御方が残された傷だとしたら、補修なんて話以前に、歴史遺産のような扱いで保存されるべきなのじゃないかしら!?」
「どうしよう! もしそうだったらどうしよう! こんな時どうするかなんて指示ないよね!?」
途端に慌て出す三人のメイド。そこに最初のメイドが別の爆弾を落とした。
「そっ、それに、アインズ様のその、お体の一部とか、匂いとか、が……」
「!!!!!」
口には出さない。畏れ多くて口に出せないといったほうがいい。しかし彼女たち三人は想像してしまった。極限と言っていい敬意を捧げ、役に立てるのであれば自らの命を投げ出すことすらも少しもためらわない御方の――残り香のような――。
ゴクリ。
誰かの喉が鳴った。別に何が起こったというわけではない筈なのにその場の緊張感が加速度的に上昇していく。状況としてはアイドルの帰ったあとの楽屋に入ったら飲み残したお茶のペットボトルを同時に発見した熱狂的ファン三名、といった感じだろうか。
誰も見ていなければとんでもない行為に走りそうな三人であった。
しかし、その何事か起こりそうな雰囲気は通路の端から涼し気な声によって打ち消される。
「あら、そんなところで何をやっているの?」
メイド三名はそれまでの空気をふっ飛ばして、一気に姿勢を改めた。そして声のした方向に身体を向けると全員が同時に頭を下げる。
「ア……アルベド様」
白を基調に設えられた美しいドレスの裾を乱すようなこともなく、優雅な足取りで守護者統括であるアルベドが三人のメイドに近づく。掃除の手を止めていたとは言え別段何か悪いことをしていた訳でもないにも関わらず、三人のメイドは教師にいたずらしている所を発見された生徒のように縮こまってしまっていた。
「い、いえ、私たち三名でこちらの掃除をしていたのですが、その……」
「そんなに緊張しないでいいのよ。別に怒っているわけではないのだし」
アルベドはメイドたちに慈悲深く優しいという印象を持たれている。守護者統括の立場でありながら誰にでも優しく理知的に接するからだ。
まあ時々至高の御方が絡むと冷静さを欠くという噂もあるが、それすらも含めて好ましい存在として認知されている。現に今も手を止めていたメイドを責めるのではなく、口元には柔らかい笑みを浮かべて優しく促していた。
「はい……その、こちらの壁に……」
三人のメイドは本能的にアルベドの顔色を伺いながらここでの話を報告するが、アルベドの表情には特に変化がない。
そもそも壁についた傷をメイドたちが憂う気持ちからして至高の御方を崇拝する気持ちあってのこと。守護者統括という立場からも、アルベド個人としても好ましく思いこそすれ不快に思う理由は何処にもないのだろう。アルベドからすれば「下々の者」とすら言えるメイドの内面まで慮って適切な判断をしてくれるところが、アルベドが「慈悲深く思慮深い」とメイドたちに評価される
事実、この壁の傷の話がアインズによるものではないかという推理をした辺りに差し掛かっても、アルベドは特に表情を変えたりしてはいない。それを不敬な行為だと責めるようなこともない。
アルベドは一通りメイドたちの話を聞くと、やはり変わらず穏やかに話し始めた。
「……そうね、このままにしておく訳にもいかないけれど、いまここであなた達に出来ることは何もないわ。代わりに私が受け持ちましょう。場合によっては鍛冶長に壁を張り替えてもらうことになるかもしれないけれど、あなた達が心配することは何もないわ」
「あ、ありがとうございます」
「あなた達のお陰でここが美しく保たれているのだし、それは至高の御方のために私も望んでいることでもあるわ。だからそんなに畏まることはないのよ」
「はい。ご配慮に感謝いたします!」
「ふふ……まあいいわ。とにかく掃除に戻りなさい。いつもと同じように綺麗に磨き上げるのよ? ただしこの傷のある一角だけは掃除してはダメよ」
「はい!」
三人のメイドはアルベドに対して揃って返事をすると再び掃除を始めるべく散っていった。しかしアルベドだけはその場に残り、件の傷跡に目をやりながら何かしら考えるようにしばらくじっとしていた。
しばらくして、メイドの一人が掃除を終えて顔を上げた時にはアルベドの姿は消えていた。立ち去る所を目で追いかけたメイドはいなかったが、物音を立てずに歩く普段と違って急ぐような足音がしたことだけを覚えているという。
・
傷跡はその日のうちに壁を張り替えることによって元通りの美しい姿を取り戻した。しかし外された壁用の石材は忽然と消失したらしい。
時を同じくして守護者統括が板状の何かを私室に運び込んでいる姿が目撃されたりしたのだが、それを関連付けて語るものは別段居なかった。そもそも壁の補修なんてものは巨大な拠点を維持管理していく過程ではしばしば発生する大したことのない出来事だし、守護者統括が私室に何かを持ち込んだところでそれが何だというのだろう。
ただまあ――なんとなくその石材が紛失した理由と持ち去った人物が分かってしまった者達はいた。彼女たちはその人物を少し羨ましいと思いつつも口には出せず、それどころかこれは何かマズイことを知ってしまったのではないか? と少しばかり怯えたという。
石材を持ち去ったと覚しき人物が前よりそのメイドたちにちょっとだけ優しい気がするのがなおさら怖い――とかなんとか。まあナザリック地下大墳墓ではわりとよくある話ではある。