西洋からやってきた7曜の魔女パチュリー・ノーレッジ。
主の親友でレミリア様が認める賢者。二つ名を動かない大図書館。
彼女は私の育ての親の1人で口数が少なく、感情をめったに表に出すことがなく、初対面の相手はもちろん顔見知りのレミリア様や美鈴にさえ必要最低限の会話しかしない。
彼女が気難しいという訳ではなく、ただ極度の人見知りで口下手ということらしく、それは本人にも自覚するところのようで子供の私相手に必死に会話の練習をしていたことを今でも覚えている。
ただ幼少の私にはパチュリー様が怖かったらしい。
だって無表情で小難しい話を淡々と続けられるんだもの、子供だったら怒られているものだと勘違いしてもしかたないでしょう?
会話で私の心を掴めないと悟ったパチュリー様は、次は餌付け作戦に出た。
この餌付け作戦が効果覿面。私はパチュリー様の作ったバクラヴァ(フィロ生地を層状にしたお菓子)が大変気に入ったらしく、今の私の体の半分以上はバクラヴァで出来ているといっても過言ではない。・・・いや、過言か。
お菓子を食べつつパチュリー様の話を聞いて、時にはお菓子の作り方や魔法の基礎を学んだ。
──ぱちゅりさまはなんでもしってるね!
──私は知らないことだらけ。 知らないから、本に教えてもらう。
──ごほん?
──そう。 そこらに散らばっている本を全部読めば、誰だって私と同じ知識をつけれる。
──それじゃー、もじのべんきょうしたい! ぱちゅりさまとおなじごほんをよんでみたいの!
いつしか毎日おやつの後はパチュリー様に絵本を読んでもらうのが日課になっていた。
大きくなるにつれ、絵本が教本に、さらに魔導書にと変わっていき、今の私の知識のほとんどがパチュリー様から教えてもらったもので、パチュリー様は文字通り私の先生なのだ。
◆
茜色の空からカラスの鳴き声がする。
カァカァという汚い鳴き声。パチュリー様は私達の視線から逃れるように手元の紅茶を煽り、誰からも救いの合いの手がないことを悟ると、諦めたように小さくため息を吐いた
レミリア様がパチュリー様に何を話せと言っているのか内容はまったく皆目検討も使いけれど、きっとヨクナイことが語られるのだろうという私の本能が体を固くさせる。
隣の美鈴も同じ考えらしく、ちらりと私に一瞥をくれた後はパチュリー様から続く言葉をただ待っている。
「吸血鬼異変。 かつて紅魔は西洋から幻想郷に攻め込んだ」
「……それは、存じております。」
「そう。 この物語の最後も知ってる?」
「それは……」
吸血鬼異変の最後は『吸血鬼は駆逐され、幻想郷に平和が訪れました。めでたしめでたし』という、ありきたりな昔話と変わらない。
レミリアお嬢様のお父上や同胞が悪者扱いされているため私は少し言い淀んでレミリアお嬢様の顔を伺うと、レミリアお嬢様は特に気にした様子もなく私に話の続きを催促する。
「どうした? 知らん訳ではあるまい?」
「はい。……吸血鬼たちは幻想郷の妖怪や博麗の巫女に負けてしまったと伺っております」
この話は美鈴から何度も何度も聞いたことがある。私が生まれるよりもずっと前、紅魔が幻想郷にやってきたときの話。レミリアお嬢様のお父上が同族の吸血鬼を引き連れて幻想郷に攻め込んだ事件。
その異変では、ほんの数日で吸血鬼は幻想郷のほぼ半分を制圧し、名だたる妖怪を多数滅ぼした。
だが、圧倒的に有利な戦局だったにも関わらず、結局紅魔は勝てなかった。
敗因は大きく2つ。異変が長引き過ぎたことと、中立派の勢力が敵側に回ったことだ。
吸血鬼異変の初夜は満月だった。
満月の夜に吸血鬼の力が最も強大になり、それに伴い尋常ではない回復力も身につける。それこそ頭を吹き飛ばそうが心臓を抉り出されようが即座に回復するほどの不死性を発揮する。
だが、新月の夜には、その半分程度の力しか出せない。
半月もたてば満月は新月に変わる。異変の初夜は満月だったが、月は日をおうごとに新月へとうつろいゆく。吸血鬼の不死の力が徐々に弱まった。
さらに追い打ちをかけたのが地底の鬼と花の妖怪が敵側に回ったことだ。どちらも理由は簡単で、強者と殺し合いがしたかったから、だそうだ。
鬼に支配されていた妖怪の山の天狗や河童、果ては灼熱地獄の軍勢も敵に回ったことで天秤はあっけなく傾いた。
物語の後半は、『味方の断末魔を子守唄に、欠けゆく月を絶望して見上げた』という、先代スカーレット卿の言葉の通り陰鬱の一言に尽きる凄惨たるものだった。
それは美鈴の贖罪だったのかもしれない。幼い私に何度も同じ話をしては過去の自分を戒めるように涙を流していた。
──めーりん? なんでないてるの?
──ふふ、なんでですかね? 自分でもよく分かってないんです。
吸血鬼異変は心躍る吸血鬼たちの活躍に心が震えたもので、幼いながら何度も何度も同じ所を話してもらった。それこそ誰がどの妖怪を屠ったのか、誰がどの妖怪に屠られたのか全て暗唱できるほどに。
「それは美鈴から聞いたお伽話だな?」
「はい」
美鈴はお嬢様と視線を合わせないように顔を伏せている。吸血鬼異変は私が聞いてはいけない話だったのだろうか。
顔を伏せたままの美鈴がぼそぼそと言葉をつなぐ。
「すみませんでした。 咲夜さんには知っておいて欲しかったので、つい話してしまいました……」
「ん? 何を謝る? 別にお前を咎めるつもりなどないぞ」
「え?」
全く意に介さずという風にお嬢様はビスケットを口に放り込む。
お?今日のビスケットはいつもよりウマイな、なんてお嬢様が別のことに興味が移ってしまったらしく、話しの続きはパチュリー様が引き受けたようだ。
「そう。 そもそも美鈴の知っていることは全てではない」
「どういうことでしょうか?」
「吸血鬼異変にはその続きがある。 これを見て」
パチュリー様が右手を上に掲げると、ぽう、とプリズムのような青く淡い光が板状の鏡のようになり、そこに映像が映し出される。
映しだされたそれは紅魔館のようだが、遥か上空から見下ろしたように小さな拳大の大きさで映しだされている。
「美鈴。 これが何か分かる?」
「紅魔館…ですか?」
「そう。 これは紅魔館」
その答えに満足したパチュリー様は更にプリズムで映し出す範囲を広げる。
隣接している霧の湖。そして紅魔館から見て霧の湖とは反対側に少しいったところにある満月の池と、徐々に映しだされる範囲が広がっていゆく。
「そして、これは紅魔館のまわりの風景」
「……たしかに凄い魔法ですけど、これがどうしたんですか?」
パチュリー様がプリズムに映された風景を見上げると、映像にビビっと小さくノイズのような揺れが起こった。眉間に皺を寄せ、これが今の私が見せれる限界だとパチュリー様がつぶやく。
「紅魔館のまわりの風景はこれが全て。 この映しだした風景より向こう側は『存在しない』」
「存在しない?」
「そう。 存在しない」
そんな馬鹿な、と美鈴が肩をプルプルと震わす。
多少の怒気を孕んだその声音に私が振り返ると同時に、美鈴はバンっとテーブルを勢い良く叩いて立ち上がると血相を変えてまくし立てた。
「そんな馬鹿な! 私はこの向こうに何があるか知っていますよ!」
普段、美鈴の落ち着いた姿しか知らないだけに、彼女が慌てれば慌てるほど私まで不安になってしまう。
美鈴、あなたは何か知っているんじゃないの。いいえ、正確にはパチュリー様の話から『何か』に感づいているじゃないの。
「そうか。 吸血鬼異変より前からいるお前なら知っているか」
「知ってますよ。 こちらの方角には妖怪の山と呼ばれる大きな山があったはずです」
パチュリー様の魔法で投影されているプリズムの向こう側を指差しながら美鈴が続ける。
「でも最近は目が悪くなっちゃったのかよく見えなくなってしまって……」
「違うだろう。 見ろ」
レミリアお嬢様は無理やり西日の方角へ美鈴の頭を掴んでねじった。
ゴリ、と鈍い音がしたような気がするが、そんなことなど考えられないほど私の思考は急加速する。
吸血鬼異変より前からいる美鈴が知っている周りの景色。
チルノが知っている『大ちゃん』や『ルーミア』といった会えない友達。
先ほどパチュリー様がお話された紅魔館の外が存在しないということ。
バラバラだった情報が一つに繋がっていく。 そう、これは。
(……紅魔館は隔離されている?)
ぼそりとこぼれた声は音にならず、カラカラに乾いた喉を小さく震わせる。
今より400年も前、吸血鬼異変に敗れた生き残りが平穏無事に過ごせている理由。この紅魔館の近辺だけが世界から隔離されていると考えるとしっくりくる。
「美鈴。 何が見える」
レミリア様の声にハッと意識が思考の沼から現実に引き戻される。
頭を片手でつかまれ、無理やり西の方角へ頭を拗じられた状態で美鈴が目を細めて遥か彼方を見つめる。
「山は見えないです」
「今は山のことはいい。 何が見えるんだ」
「あの……目が悪くなっちゃってハッキリ見えているわけじゃなくて…」
「構わん。 言え」
言い淀む美鈴にレミリアお嬢様が少しイラだったように続きを促す。
ほんの一瞬、美鈴は私に目を向けるとバツが悪そうに少し顔を伏せて話を続けた。
「……空に呪詛のような、赤くてぼんやりと光る小さい文字が……空にびっしりと見えます」
その言葉に全身が粟だった。
パチュリー様が言った通りそれより向こうが存在しないと言った境目に、美鈴には見たこともない奇妙な文字が見えるという。
私は何か声をだそうと口を開いて見たものの、語る言葉が見当たらず魚のようにパクパクと口が動くだけで声にならない。
美鈴の答えに満足したレミリア様は、ようやっと美鈴の頭から手を離すとパチュリー様が続きの話しをはじめる。
「ここから先は美鈴も知らない話。 先のスカーレット当主が滅する時、幻想郷の管理人と、とある契約を交わした」
幻想郷の管理人もまた吸血鬼異変に出てくる主要人物の一人だ。物語では、幻想郷側は人間の頂点と妖怪の頂点が手を組み吸血鬼を退治したことになっている。
人間の頂点が博麗の巫女。今もなお代々続く妖怪退治を生業とする博麗神社の巫女だ。
そして妖怪の頂点が管理人とも呼ばれる八雲紫。妖怪の賢者とも呼ばれる境界を操る大妖怪だ。
「こちらの要望は、生き残りの幼い吸血鬼を見逃してほしいということ」
私も美鈴も無言でパチュリー様に話の続きを催促する。
「そして幻想郷の管理人は、その対価として紅魔館を幻想郷から存在を消した。」
「吸血鬼という悪夢から人里を守るためという名目と、忌まわしいことに生き残りの吸血鬼が他の妖怪に襲われないようにということだろうな」
手についたビスケットの欠片を舌で舐めとりつつ、忌々しげにレミリアお嬢様が補足する。
「美鈴に見えた呪詛は呪符の一種。 結界。 博麗大結界と呼ばれるものの一部」
「博麗大結界って、あの博麗大結界ですか?」
「そう。 幻想郷という世界を作り上げている博麗大結界と同じものが400年以上も紅魔館を外と隔絶してきた。 何かおかしいことに気づかない? 咲夜」
「え? 私ですか?」
急に話を振られて慌てて頭を捻ってみたものの、パチュリー様の求める回答は到底出せそうにない。分かりません、と早々に白旗を上げるのが利口か。などと考えを巡らせて節目がちにパチュリー様を覗く。
そんな私の様子にいつもならクスリと微笑んで対応してくれるパチュリー様が、今は無表情のままドンドン話を進める。少し
「博麗大結界で隔絶させた空間に、ニンゲンがいるはずがない」
血の気が引いた。そうだった。今の今まで意識したことはなかったけれど、私はこの紅魔館で唯一のニンゲンだった。
「でも、私はニンゲンで、それにしっかりとここに存在しています」
「博麗大結界は幻想郷の管理人と博麗の巫女が張っているいわば二重結界」
ぽう、とプリズムに映しだされていた風景が満月の池にズームアップされていく。
私がレミリアお嬢様と出会った場所。小さな水たまりほどの池には何も無く、池の底にはゴロゴロと無骨な石が転がっているだけで生き物の存在は見受けられない。
「あなたを満月の池で見つけたのが今から17年ほど前。 おそらく先代の博麗が逝った年」
「……ということは」
「そう。 二重結界を支える一人が逝ったことで博麗大結界にほころびができた。 あなたを捨てにきた親がたまたま結界のほころびを通ったのだと、そう思う」
「……私は外のニンゲンだったんですね」
考えてみれば当たり前のことだ。ここは悪魔の住む屋敷。私は生まれてから今まで一度も私の同じニンゲンに合ったことがないんだから。
パチュリー様はさらに話を続ける。パチュリー様やレミリアお嬢様が何を言おうとしているのか、何となく分かってきただけに、小さな頃に絵本を読んでもらったときと同じように、優しく暖かな声音が逆に恐ろしい。
「不思議の国のアリス。咲夜は覚えてる?」
「……もちろん覚えていますわ」
「咲夜はこの話が好きだった」
「はい。 何度も読み聞かせていただきました」
「咲夜。 怒らないで聞いて。 ここはあなたの現実ではない。 アリスの迷い込んだ、いわば不思議の国」
「……は?………何を、何をおっしゃっているんですか?」
「ニンゲンのあなたにとって、この紅魔こそが不思議の国」
パチュリー様からの言葉に慌てて周りを見渡すと、美鈴は顔を伏せて涙を流しはじめており、レミリアお嬢様は美鈴と相反して全くの無表情で私を見つめていた。
パチュリー様、と声をあげようとしたけれども私の声はかすれて音にならず、それに気づかなかったパチュリー様は話を続ける。
「王宮を守るトランプ兵に、何を言ってるのかよく分からないチシャネコ、そして傲慢なハートの女王」
アリスに出てくる各々の登場人物を美鈴、パチュリー様、レミリアお嬢様と重ねているのだろう。
この配役だと私はアリスだ。
(……私を人里に戻すつもりだ)
いくら鈍い私でもパチュリー様やレミリアお嬢様が何を言いたいか悟ってしまった。聞きたくないとばかりに私は声を張り上げる。
「パチュリー様が何をいいたいのか分からない!」
「……咲夜。 アリスが最後にどうなったか覚えてる?」
「アリスの目が醒めて終わりです。 不思議の国なんてなかったんです。 楽しい物語に対してつまらない最後でした」
私の答えにパチュリー様が微笑む。いや、こんなに辛そうにしているパチュリー様は初めて見た。苦痛と心労に顔を歪めつつ、私を安心させるように笑顔を浮かべているのだろう。
「そう。 夢なら醒めないといけない。 ここは、ニンゲンにとっては
育ての親に突き放されるのはこんなにも心苦しいものなのか、私は茫然自失といった表情を浮かべているに違いない。両頬を伝う熱い涙は先ほどから止まらなくなっている。
「ここで本題だ。 翌月の十六夜に幻想郷の管理人がやってくる」
「……管理人?」
「我らに対して何らかの打診があるのだろう。 管理人がつまらん提案をしてきたときには、私は管理人ごと結界を壊して外に出る」
「それは……レミリアお嬢様。 異変を起こされるおつもりですか?」
「そうだ。 過去に起こった吸血鬼異変をもう一度、次は私の手で起こす」
私は結界の外を見てみたいんだ、とレミリアお嬢様はニっと牙を剥きだして笑った。
「そうなれば幻想郷は火の海になるだろうが、紅魔は人里を襲わない。 約束する」
「なにが……なにをおっしゃりたいんですか……」
レミリア様の犬歯を見てもいつもの恐怖は沸かなかった。ただただ、彼女たちが遠くに行ってしまうんだと、決められた計画に私は含まれていないんだということが悲しかった。
パチュリー様がゆっくりと言葉を噛みしめるように続ける。
「この結界の外に咲夜を転移させてあげれるほどに、私は力をつけることができた。 レミィが言ったとおり紅魔は人里を襲わない。 人里に戻るのなら、今」
「いやです!! 顔も知らない人里のニンゲンなんて他人です!!」
「異変を起こせば、ここは火薬庫。 きっとニンゲンのあなたがまっさきに死ぬ」
「家族と離れるくらいなら死んだほうがマシです!」
もう私が何を言っても決まったことなんだと、落ち着き払ったパチュリー様の態度が癪に触った。激情が津波のように押し寄せてくる。ただの波とは違って押し寄せてくるだけで引いていかない津波の激情。
燃え上がるほど熱くなった頬に、ぼーっとするほど思考がかけめぐる頭。なにより先ほどからカチコチという音が耳にうるさい。
あーうるさいうるさい!こんな大事な時におかしな音なんて鳴らさないでよ!
私はおかしな音に抗うようにさらに声を張り上げる。
「私に、人里で震えて隠れてなさいということですか!!」
「そうだ。 お前を死なせたくない」
レミリアお嬢様も落ち着き払った様子で、私のことを諭すように話しをされるが、ここで折れてしまえば私は紅魔に居られなくなってしまう。
今だけは聞き分けの良いメイドから卒業だ。必死でここに残るためにアレやコレやと頭を回転させる。
「私は紅魔の住人です! 人里には戻りません!!」
「咲夜。 お前はとびきり脆弱で何の力も持たないニンゲンだ」
「嫌です! 聞きたくありません!! 嫌です!!」
「咲夜。 あまり私を困らせないでくれ」
確かに私は捨てられていた赤子で、ただのニンゲンだ。
脆弱なニンゲンなのはそのとおりだ。頭が吹き飛べば死んでしまうし、そもそも寿命だって50年そこそこしかない。
ただ、レミリアお嬢様に名付けて頂いたこの名前に誇りをもって、この名前に恥じないように生きてきた。
十六夜咲夜とはすなわち満月を意味する。
吸血鬼のお嬢様には必要不可欠なものだ。私はレミリアお嬢様を照らす満月になれるよう、いままで生きてきた。
「言葉を返すようですが、レミリアお嬢様こそ困るんじゃないでしょうか? 吸血鬼が満月を失うことの重大さが分からない訳ではないはずです。 それこそレミリアお嬢様が起こす異変が、結末すら吸血鬼異変と同じになってしまわないように私を傍に置いておかないといけません!」
「何が言いたい?」
「私がお嬢様の満月だと、そう言いたいのです!」
あぁ、私ったら何を言っているんだろう。支離滅裂で会話にすらなっていないことなんて頭では分かりきっているのに。でも、ここで引いてしまえば私は人里に戻されてしまう。必死に喰らいつくために頭を捻って口から出た言葉がこれかと、まるで自分自身を幽体離脱でもして見ているかのような冷ややかな思考が一瞬空をよぎった。
あまり勢いよく立ち上がってしまったからか、私は手に持っていたティーカップを落としてしまう。
あっ、と思ったのも束の間のことで、地面に吸い込まれるように真っ直ぐにティーカップは地面に落ちる────ほんの数cm手前の空中で静止した。中身の紅茶は水しぶきとなったまま、こちらも空中でとまっている。頭の中であのおかしな音が一際大きく、それこそ煩いほどに鳴り響く。
カチコチカチコチ
辺りの景色が灰色一色に変わっている。
いや、おかしくなっているのは周りの色だけではなく、音までもおかしい。物音ひとつしない。
汚い声のカラスも、茜色に染まっていた西日も全てが色を変え、音をなくしている。
何よりおかしいのは誰もこの異常に対して声をあげないことだ。
「……え?」
不自然な状態で静止したティーカップだけではなく私以外の全てのモノが止まっている。
「レミリア様? パチュリー様? 美鈴? 私を驚かそうとしているの?」
もちろん私の問には答えが返ってこない。3名とも灰色の世界で固まったまま動かなくなってしまっている。
空中に静止したティーカップをつまみ上げると、何事もなかったように私に吸い付いてくる。
「すごいですね。 これもパチュリー様の魔法なんですか?」
パチュリー様からはもちろん、誰からの反応もない。
周りの全てが止まった。
そのあまりの事態に半狂乱の状態になりつつあった私だが、メイド服のポケットに入れておいた懐中時計が薄ぼんやりと光っていることに気づいたのだった。
次回『スカーレットスピーチ』
「私についてこい! 結界の向こう側を見せてやる!」