IS――インフィニット・ストラトス。一〇年ほど前に生み出されたそれは、女性しか扱えないものだった。世界は女尊男卑の風潮となり、IS操縦者を育成するための学園たるIS学園も、女子高だった。
それでも、運命とはとても不思議なもので。女子しかいないはずのIS学園で、まるで不思議な因果に導かれたように、わたくし……セシリア・オルコットと、「彼」は出逢った――。
数多の戦いと悲しみを乗り越えた、その先に待っていた今の平和な日々。平凡だけれど、だからこそ愛おしい毎日を大切にしたいと思い、この日記を書いています。
これから、そのほんの一欠片を、皆様にお見せします――。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
二月一〇日。ロンドン郊外のオルコット邸にて。天気は快晴。
普段は邸の料理人たちが使う広い厨房で、うんうんと唸りながら腕を組み、わたくしは材料とにらめっこをしていた。
「困りましたわ……」
思わず頭に手が行く。もう一四日まで時間がない。
そう、二月一四日はバレンタインデー。イギリスでは、恋人同士がワインなどの贈り物にカードを添えて、愛を確かめ合う日。しかし、日本では女性が男性にチョコレートを渡して、愛情を伝える日としてポピュラーになっている。近年友チョコや義理チョコも一般的になってきていて、女性がチョコレートを渡す意味も変わってきたとは聞くけれど、それでも恋人や好きな人がいる女性にはやっぱり重要な一日でしょう。
……それは、婚約者がいるわたくしにとっても同じ。
「はあ……」
湿っぽい吐息が厨房に漂う。反響するのが却って寂しさを煽った。
わたくしと婚約者の彼は、現在遠距離恋愛中。IS操縦者同士の結婚は、各国の思惑が絡み合ってとても複雑で、なかなか上手く話が進まない。しかもわたくしはイギリス名家の当主で、国家代表のIS操縦者。イギリス政府だけでなく、国際委員会も顔をしかめる始末だった。
それでも、彼は正式に許可が下りるのを望んでいた。誰にも望まれない結婚より、皆に望まれた結婚がいいに決まっている。じゃないと、ずっと伝統を守ってきたセシリアの両親や祖先に顔向けできないから、と。そう言って、彼は今でも日本で職務を行いながら、許可が下りるよう根強く交渉を続けている。わたくしの立場と意思を最大限尊重して、そう言ってくれた彼には、感謝の念を禁じえない。
遠距離恋愛が寂しくない、と言えば嘘になる。でも、これは将来一緒になるために、ほんの少し離れるだけ。何より、お互いのことを想っているからこその今なのだから、わたくしは耐えられる。
その彼が、バレンタインにイギリスに来る。お互い多忙な身故に、滅多に会えないから、会うのも年末年始以来。せっかく彼とバレンタインに会うのだから、何か特別なことはできないかと考えた結果、学生時代のように日本の文化に倣って、チョコレートを贈ってみようとわたくしは思い至ったのでした。
そんな理由があって、今もこうして再会にドキドキと胸を躍らせながら、バレンタインのチョコレートを作っている、というわけです。
作ったのはウィスキーボンボン。チョコレートの甘みと、ウィスキーの苦味が醸し出すハーモニーを楽しむ、大人のチョコレート。しかし……。
「…………」
彼への愛の結晶たるチョコレートは、目の前で奇妙な形で固まってわたくしを見上げていた。どう見ても美味しそうには見えない。
学生時代、それはそれは多くの方の胃腸を苦しめたわたくしですけれど、友人たちの協力もあって、今では料理下手はかなりマシになったと自負していましたのに。自信が揺らぐ。
せめて味くらいは、と試しに一口それを食べてみたわたくしでしたが、すぐにそれを後悔することになった。
「う……!?」
チョコレートの甘みがどこかへ飛んでいくような、お菓子とは思えないほどの強烈な酒の味。うぐ、と呻きつつ何とかそれを飲み込んだわたくしは、コップに水を注いで思い切り傾けた。この壮絶な酒気は、もはやお菓子に入っていい風味ではなかった。
お、おかしいですわ。何故ウィスキー入りのチョコレートを作ろうとしているのに、チョコレート味のウィスキーが出来上がっているんですの……? しかも固形。ウィスキーかどうかさえも怪しい。
今日ISを動かす仕事が無くて心底助かった。国家代表が飲酒操縦なんて、洒落にならない。
「わ、わたくしそんなに入れましたかしら?」
邸で食事を作る一流の職人に用意させたレシピと、完成品を交互に見比べてみる。同じ材料を使っているのに、何故こんなにも出来栄えが異なるんでしょう。一から工程を見直してみたものの、さっぱり原因が分からない。
分からないなら、それこそレシピを用意した職人に教えてもらうか、最悪買ったものを贈ればいいのだけど、それでは学生時代と変わらない。せっかく彼がバレンタインに来るのだから、料理上手(お菓子も上手)な彼に、ちょっとでも成長したところを見せて、美味しいと言ってもらいたいというのが乙女心だ。
そう意気込んで取り掛かったものの、完成したのはご存知、目の前の異物。
……どうしましょう。もう何日もありませんのに。これなら今まで通り教えてもらいながら作った方がいい気も……。
「いいえ、こんなことではいけませんわ!」
ぐっと拳を掲げて自らを鼓舞した。
そうですわ、日本の某有名作品の先生もおっしゃっていました。諦めたらそこで終わりだと。意思を曲げなければ、きっと形になるはず……! ええ、そうですわ、彼もいつも自分の意思で未来を切り拓いてきましたもの。その彼の喜ぶ顔が見られるのなら、これくらいの試練、乗り越えてみせましょう。
メラメラとやる気をみなぎらせたわたくしは、泡立て器を武器に、またボウルと材料連合軍との戦闘を再開したのでした。
本日の戦果:固形ウィスキー、チョコレート風味(ウィスキーボンボン)
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二月一一日。イギリス西方のウェールズIS研究所の休憩室にて。晴れて何より。
……と、昨日あのように書いたものの、結局彼へのチョコレートは完成せず。今日は国家代表としてイギリス西部のウェールズまで出張。日帰りとは言え遠方への移動を伴うので、チョコレート作りはできない。
今日このような予定があるのは知っていましたのよ? だから、昨日のうちに完成させてしまいたかったのに!
ま、まあ、彼が到着するのは一四日ですから。明後日までに完成させれば十分間に合いますわ。
別に誰が悪いわけでもないので、行き場のない焦りを抱えたまま、こうして休憩室で日記を書き殴っているわたくし。
――ああ、もう休憩が終わってしまう。このまま仕事を終えて邸に帰る頃にはもう夜でしょう。明日も仕事がありますし、今日はこのくらいで。
本日の戦果:なし
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二月一二日。一昨日同様オルコット邸にて。天気はやや曇り気味。
今日は国家代表としての仕事は無いものの、オルコット家の当主として社交界へ参加してきました。
チェルシーが選んだドレスを着て、他家の貴族の方とお話ししていたのだけれど、本当に視線が気になる。中には下卑た目線でわたくしを舐めまわすように見てくる男性もいて、身震いがした。だから露出の高いドレスを着るのは嫌なのに。義務と言ってしまえば、それまでですけれど。
他にも、女性の方も彼との繋がりを目当てにわたくしに接触してきた。IS操縦者として、今や世界屈指の実力者と謳われる彼の存在は、貴族の令嬢にとっては特上の物件というわけです。まあ美形で有名な方でもありますし、モテるのは致し方ないでしょう。それならわたくしは彼の婚約者であることを誇るまで。
と、少々気分を害される出来事もありましたが、その仕事を終えた今、わたくしを待つのはチョコレート作りのみ。今日も目の前には、わたくしを悩ませる茶色の液体と銀色の器具が待ち構えていた。まだ化粧も落としていなかったけれど、それでも時間が惜しかった。
「では、かかりますわよ」
――覚悟なさい。そう凄んでチョコレートへ襲撃を仕掛けたわたくし。
悪戦苦闘しつつも、しばらくしてチョコレートは出来上がった。……しかし、出来上がったものの……。
「…………」
目の前にあるのは、幼い子が作る泥団子のようなチョコレート。大きさがまばらで、キレイに丸まらずに微妙に潰れているのが尚更泥のようだ。
……おかしい。わたくしはトリュフチョコレートを作ろうとしていたはずなのに。
一昨日は変に凝ってお酒を入れようとして失敗した。ならばと今日は生チョコレートを包むトリュフチョコを作ってみようとして、この有様だった。
一応は、と味をチェックしようと恐る恐る口に入れてみた。
「はう……っ!?」
あ、甘いっ! 甘いですわ甘すぎますわ! 何なのでしょうこの殺人級の甘さは!
一体どれだけ砂糖を入れればこうなるのかと正気を疑う甘さ。とろけるようなトリュフチョコの口当たりが、却って口の中で甘さを余すところなく暴れさせていた。
悶絶しながらもそのチョコレートを飲み込み、コップに牛乳を入れて飲んだ。牛乳のまろやかさが、何とか口の中の甘みを取り払ってくれた。口直しに水を飲んで、目の前の異物二号を睨みつける。
これはとても彼に渡せたものではない。ここまでの威力があれば、彼を卒倒させることさえできるかもしれない。彼には勿論のこと、甘いものが大好きな女性の方にもお渡しできませんわ。こんなものを口にしたが最後、一日のカロリーが跳ね上がって気がついたら
「ど、どうしましょう……」
もう時刻は午後一一時。ここから片付けをして、化粧を落として、入浴していたら日付が変わってしまうどころの話ではなくなる。
幸い明日の仕事は午後から。しかし、このまま続けていては明日の午後の仕事に支障をきたすかもしれない。明日の午前中に何としても仕上げなければ……。
泣く泣く片付けを始めたわたくしは、明日の午前にすべてを賭けることにした。
本日の戦果:激甘泥団子(トリュフチョコレート)
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二月一三日。同じくオルコット邸にて。天気は曇り。明日に雨にならなければいいのだけど。
……誤算でしたわ。まさか、急に仕事が入って午前が潰れてしまうなんて!
チェルシーも粘ってくれていたようだけれど、どうしてもと言って折れてもらえなったようで、結局仕事へ。チェルシーがわたくしに頭を下げてくれたけれど、別に彼女のせいではない。政府からの直接のお願いで、しかも行く先がロンドン市内の保育所と言うのだから、断りにくいのも分かる。
我々国家代表は国のヒーローのようなもの。これからの世界を担う幼い子供たちのためと言うのなら、休暇を削ってでもその子たちに会いに行きましょう。それが、国家代表たるわたくしの責務なのですから。
実際、セシリアお姉さま、と小さな子たちから呼ばれるのは悪い気はしなかった。……もし彼との子供ができたら、こんな感じでしょうか……そんな幸せな想像も膨らんだ。
しかし、そのしわ寄せは、愛する彼へのチョコレート作りに思い切り行ってしまった。
「うぅ……」
わたくしは、涙目になりながらチョコレートを湯煎して溶かしていた。相変わらず料理下手な自分に泣きそうになったけれど、泣いても笑っても明日はバレンタイン。彼に会うのだから、寝不足の酷い顔は見せられない。溶かして固めるだけのチョコレートになっても、何も用意しないよりはいいでしょう。一応、仕事の合間に市販のチョコレートを買って確保してある。
はあ、どうしてこの茶色の液体はわたくしの思うようになってくれませんの? わたくしはただ、彼に想いを伝えたいだけですのに……。
涙が入って今度は塩味のチョコレートができたらたまらない。目元を拭って、へらでチョコレートを混ぜる。
お願いだから食べられる味になって、と祈りながらボウルを混ぜていたときだった。ポケットにあった携帯電話が鳴った。
「あら、電話?」
こんな時間に誰だろう、と一旦手を止めて発信元を見たら……彼だった。
「え、え!?」
びっくりしながらも通話ボタンを押した。一分一秒も惜しいので、携帯電話を肩と左耳で挟んで、右手はボウルを混ぜたままだ。
「……も、もしもし」
『――ああ、もしもし、セシリアか? 久しぶり』
優しい声色が鼓膜を撫でた。どきりとした胸の高なりが、わたくしに確信させた。
――ああ、彼だ。
安心して、じわりと涙で視界がにじんだ。
「え、ええ、お久しぶりです。お元気でしたか?」
ぐずった声を出さないように細心の注意を払って話しかけた。セシリアこそ、と彼は少し笑って言う。特に疲れたような言い方には聞こえない。体調は悪くないようだった。
普段は英語を話していても、彼と話すときは違う。IS学園で知り合ったわたくしたちの会話は、いつも日本語だった。今ではほとんど話さなくなった日本語は、すっかり彼との専用言語だ。
「それで、どうしてお電話を?」
『予定通りに着きそうだから、それで連絡しようと思って』
「そ、そうなんですの。安心しましたわ」
『今何をしてる? 時間があるなら、ちょっと話せないか?』
「今ですか? い、今はもう、寝室で寝る準備をしていますから、お話しできますわ」
と、わたくしはさらりと嘘を言った。今も必死にチョコレートを作っているとは思われたくなくて、彼と話したい一心でついた嘘だった。
そんなわたくしに、彼は『そうか、ならよかった』と、穏やかにそう言った。その声に、またどきりとする。
彼の電話で話す声はいつも落ち着いていて、優しく語りかけるような話し方をする。その声が、わたくしは大好きだった。
変わらない彼の声に聞き入っていたわたくしに、それはそうと、と彼が話題を振った。
『セシリア、明日はバレンタインだな』
「え、ええ」
『何か用意してくれているのか?』
「そ、それは……」
珍しい。彼がバレンタインの前日にそんなことを聞いたことはなかった。何か理由でもあるのでしょうか?
「今年は、バレンタインのチョコレートを、お渡しする予定ですわ」
『ほう、チョコレートか』
「はい、IS学園にいたころ、よくしたものですから……」
毎年毎年、彼にチョコレートを渡そうとする女子の間で戦争のような騒動になっていたのを思い出した。作るだけで一苦労で、彼に渡すのも大変だった。それでも食べて「美味しい」と言ってもらえたとき、すべてが報われた思いがした。
――そう、そうでしたわ。何故わたくしが、こんなに苦労してまで、チョコレートを彼に渡そうと思ったのか。あのときの気持ちをもう一度感じたくて、それで……。
『それで、どんなチョコレートなんだ?』
「え、ええ!?」
それはともかく、今は彼との会話。あまり贈り物の中身を聞いたりしない彼だけに、この質問には驚きを隠せなかった。実際明日食べてもらうのだから、答えないわけにはいかない。
しかし、目の前にあるのは、チョコレートの体をなさないペースト状のココアの液体。これを固めても、結局できるのは普通のチョコレートでしょう。何年かお付き合いしましたから原点回帰しましたの、と言うにはお粗末極まる品だ。彼ならこの程度、ささっと何かの片手間にでも作ってしまえるだろう。
どうしましょう。一種考えたのち、ふと頭をよぎる市販の高級チョコレート。買ったもの自体はいいものだから、そちらを説明する方がいいのかもしれない。
「い、イギリスで今流行りのチョコレートですわ。わたくしも食べてみましたけれど、とっても美味しくて、それで……」
不自然なまでに早くボウルをかき混ぜながら、それでもその音は絶対彼に聞こえないように、市販のチョコレートの説明諳んじた。
ところが、何も変なところは無かったはずなのに、彼は楽しみだな、と必死に笑いをこらえて言う。
「……ど、どうして笑いますの?」
わたくしの質問に、彼は『ははは』とついに笑いながら言った。
『いや、料理下手なセシリアのことだから、今も必死にチョコレートを作っているんじゃないか、って思って』
「ち、違いますわ! 馬鹿にしないでくださいな!」
むきになって言い返す。しかし、顔はと言えば完全に図星を突かれて真っ赤になっていた。厨房に誰もいないのが幸いでしたわ……。
『そうか?』
「そうですわ! もうIS学園にいたころの料理下手なセシリア・オルコットは卒業しましたわ!」
『……まあ、そういうことにしておこうかな』
特別にな、といつになく意地悪に言う彼。もう、と拗ねて言うわたくしに、彼は悪い悪い、と軽い口調で謝った。
むっとしたわたくしは、会えない間に聞いた彼の噂を追及することにした。
「そんなことを言うのでしたら、わたくしにだって聞きたいことがありますわ! よく聞きますのよ、あなたが日本の某女優の方からアプローチされている、とか!」
『い、いや、その話はだな、ほら……』
「言い訳無用でしてよ! さあ、何をされましたの! 洗いざらい吐いて――……あ、あら?」
おかしい。わたくしの声が二重に聞こえる。電話の音があちらのどこかに反響しているのでしょうか。空港にしては静かだ。
一瞬考えたわたくしが追及をやめた瞬間、今日一番の甘い声が、電話から届く。
『――セシリア』
「ッ……!」
どきん、と胸が飛び上がった。口づけをする前のような、わたくしへの愛を伝えてくれるときのような、そんな甘い甘い囁き。
『今から一つだけ、問題を出す。それが本当か嘘か、見破ってみて欲しい』
「は、はい……」
『じゃあ、言うぞ。……問題。俺は今、日本にいる。本当か嘘か、どっちだと思う?』
「ほ、本当のことでしょう? だって、着くのは明日の朝だと……」
そうか、と彼は満足げに囁いた。してやったりと言わんばかりの彼の口ぶりで、まさか、とあることに思い至ったわたくしだけれど、少し遅かったみたい。
『じゃあ、答え合わせだ』
すっかり頭が混乱している頭の中に、彼の声が響く。
「――あ……っ」
――刹那、わたくしは、後ろから彼に抱きしめられていた。
ぎゅっと抱きしめられて、愛用の携帯がガチャ、と厨房の床に落ちた。ボウルを混ぜていたはずの手も、完全に止まる。
「……寝室で寝る準備をしてるって? 随分と嘘つきだな、セシリアは」
ついさっきまで聞こえていた甘い声で、直接耳元で囁かれた。
顔は、見ていない。それでも、わたくしを包むこのぬくもりが、優しいその声が、肩から見える腕の先にある見慣れた携帯電話が、抱きしめられた強さが、触れ合った頬が、あの人だと告げていた。
そう、間違えようがない。この方は、将来を誓い合った婚約者で、わたくしが誰よりも愛する彼なのだと――。
涙がわっと溢れてきて、ふき取ったはずの雫が頬を伝う。
「あ、あなただって、人のことは言えませんわ……。とんだ大嘘つきではありませんか!」
非難するような言い方だけど、会えた嬉しさでまったく切れ味がない。彼はそうだったなと笑って、抱きしめた腕を解いて、わたくしの目元の涙を指で拭った。
向き合った彼は、以前よりも少し背が伸びたように感じた。もう二十歳も過ぎているというのに、これでまた身長差が広がってしまった。学園を卒業してからすっかり板についたスーツ姿も、よく似合っていた。
ゆっくり彼に身を預けたら、いつものように彼は優しく抱きしめてくれた。変わらない広い胸板にすっかり安心して、頭をこつんと彼の胸に乗せた。
「……いつ頃、こちらに?」
「ついさっきだ」
わたくしが尋ねると、彼は種明かしをしてくれた。
彼曰く、昨日早く仕事が片付いてしまったから、早めの便でイギリスに来たのだという。でも、普通なら彼が到着したときは、チェルシーが教えてくれるのに。
「で、ですが、チェルシーからそんなことは一度も……」
「チェルシーさんには、黙っておくようにお願いしたんだ。せっかくだし驚かせてやろうかと思ってな」
「チェルシー……」
なるほど、チェルシーも一枚噛んでましたのね。今頃チェルシーがくすくす笑っているのが想像できて、彼女に対する減給を検討するわたくしだった。
すっかり出し抜かれてしまったけれど、今こんな幸せな気分を味わえているのだから、良しとしてあげよう。
「……で、セシリア。これは?」
「あ……」
彼が調理台の上で放置されていたチョコレート未満のペーストを指差す。
証拠を前に、わたくしは正直に話さざるを得なかった。昨日と三日前にできた恐ろしい何かについては伏せつつ、作ろうと頑張ってみたが、うまくいかなかったことだけを話す。
わたくしが白状し終えると、彼はまた笑い始めた。……ひどいですわ。
さっきの指摘もやけに具体的だと思っていましたの。見ていたからですのね、納得しましたわ。
「ご、ご心配は無用ですわよ。ちゃんと用意しておりますから!」
庇うようにボウルを掴んだ手を、彼がぐっと掴んだ。
「……いいや、俺はこれが食べたい」
「そ、そんな……! い、嫌ですわ!」
こんな恥ずかしいものを彼にあげるだなんてとんでもない。わたくしが必死に訴えたら、彼は「じゃあ」と一つ提案をした。
「一緒に作ろうか。――こうやって」
「あ……!」
「これなら、失敗しないな?」
わたくしを調理台の前に立たせてへらを持たせた彼は、後ろから抱きしめるようにわたくしの手を持って、ボウルをかき混ぜる。
力強い腕の動きに導かれるように、ボウルの中でさっきまでの停滞が嘘のようにチョコレートが混ざっていく。
「全体にムラがないように、混ぜていくんだ」
「は、はい……」
顔が赤い。彼の息が首筋を撫でる度、わたくしの体はぴくりと震える。彼のぬくもりに包まれたまま、チョコレート作りは進んだ。
……ちゃんと彼にチョコレートは用意できなかったわたくし。それでも、頑張ったご褒美はしっかりもらっている。
ずるいかしら、なんて思ったりもしたけれど。彼が楽しそうに微笑んでくれているから、それでいい。
――でも、散々からかわれたから、最後に仕返しをしなくてはなりませんわね。
「そろそろ、味見をした方がよろしいかしら?」
「ん? ああ、そうだな」
じゃあ、とヘラについたペーストをすくおうとした彼の手を止めて、そのヘラのチョコレートを一口舐めた。
チョコレートの甘みが広がったのを感じて、体を反転させて、すぐ目の前にあった彼の唇へと……自分の唇を重ね合わせた。
「ん――っ!?」
びっくりしたのか目を丸くする彼。逃がさないように、首に手を回して、彼にしっかり味見をさせた。
意地悪でよくモテる彼には、これくらいがちょうどいいでしょう。甘すぎて、一度味わったら忘れられないくらいの、それこそ、わたくしのことしか考えられなくなるくらいの、とびっきりの甘さが――。
わたくしが唇を離すと、彼はやってくれたな、と苦笑した。
「ふふん、今までの仕返しですわ」
「……一本取られたよ」
照れたように笑う彼に愛おしさが込み上げて、わたくしはもう一度彼に口づけた。
本日の戦果:普通のチョコレート。彼との愛を添えて――。
以上、バレンタイン編でした。楽しめていただけたでしょうか?
次回更新は未定です。ネタが決まり次第、執筆・推敲の上更新を活動報告にて報告させていただきます。