それから少し経ってのことだ。くだんの件で年末ゴタゴタしたことへの謝りの電話を実家に入れた私は、その分の埋め合わせとして家族水入らずのお出かけを提案した。
お嬢様からお休みをもらい、実家へ帰った私は、ロンドン中心街へとお買い物に出かけた。父は足の怪我もあり杖を携帯していたので、あまり遠出はしない。
化粧やら服やらで外出するときにはしっかり着飾る私と母と違い、父はいつものようにくだびれたトラウザーと地味なアウターで外に出ようとしていた。いかにも無頓着極まれりといった風体だ。
「何か問題でもあるのか?」
繁華街に出るというのになんだその格好は、正気かこの男。くらりと目眩がする思いだったが、見かねた母に、
「レディ二人とお出かけなのにそんな格好で良いわけないでしょ!」
というお説教を受け、母がクローゼットの奥からそれなりにオシャレなアイテムを引きずり出し、面倒くさがる父に無理やり着せたことで事なきを得た。
なお余談であるが、その際「レディが二人?」と余計なことを口走りかけた父を、母がそれ以上口にしたらどうなるか的な無言の圧で黙らせていたのを追記しておく。長年連れ添った夫婦のコミュニケーションに余計な言葉はいらない、そしてどれだけ歳をとってもデリカシーのない男には天罰が下る。いつか私に旦那ができたらしっかり教えこんでおこう。
「あ、お母さんここ知ってる? このジェラート前テレビで紹介されてたよ」
「見たわよお、職場の人と行きたいって話してたのよ。お父さん、食べたい?」
「……コーヒーでいい」
「まーたそうやってもう、一緒に食べようってんだから食べなって。ほら選んで!」
馴染みの街を歩く父と母と娘、一家三人。こうして三人で過ごすのは久しぶりな気がした。
基本的に私と母が適当に喋って、時たま父に話題を振ったら、父が適当な相槌を打って話が終わる。そんなくだらない平凡な家族の関係性こそ、父と母が私を真っ当に愛し育ててくれた結果なのであろう。私は結局父と母の娘で、それは生涯変わらない。変えることのできない、私という人間を形作る大事なピース。喧嘩したくらいではそう壊れはしない、家族の深い絆を感じた私は、変わらない安心感と、今からすることへの罪悪感を抱えながら、繁華街を歩いていた。
目的の場所が近づいてきたとき不意に、母が「トイレに行くわね」と気を利かせて席を外した。今しかない、と私は確信した。
「――ねえ、お父さん」
私は前を歩く父の手を取った。
「なんだ」
……ああ、いつもの返事だ。無愛想だけど、やっぱり安心する。
ごめん、お父さん。お父さんなりに思いがあって、覚悟があって、お嬢様の下を離れる決断をしたってこと、わかってるよ。たかだか一年ちょっとお嬢様の下で働いた新米の私に何がわかるって、それも正論だと思う。
でも、私は。お父さんの娘だけど、オルコット家の使用人でもあるから。だから――。
「今から私と一緒に来て欲しいんだけど」
「どこへだ?」
「下見に行きたいのよ」
「何のだ?」
「それはあとでお楽しみ」
私と目を合わせた父は無言。
多分、私かどこかへ誘導しようとしているのはバレているだろう。元々裏稼業してた人なんだから、こんなド素人の見え透いた嘘っぱち、見抜けないわけがない。
でも多分、私が娘だから、お父さんは私を信じてくれて、こう言ったのだろう。
「いいだろう」
父は頷いてくれた。私はありがと、と一言返し、道案内をするために、父の前を歩いた。
……ごめんね、お父さん。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
私が父を案内したのは、ロンドン市内にある教会。歴史はそれほど長くないが、立地から景色の良さや、シンプルながら格式あるデザインが観光スポットとしてそれなりの人気を博している理由だという。
堂の扉を開けると、無人。まあ、当たり前なんだけどね、そうなるように仕組んだの、私だし。
そもそも何故ここに来たのか。小さい頃自分が通っていたわけでもなかったのだが、その理由は――。
「ここ、今度お嬢様が結婚式を挙げる場所なの。私もチェルシーと一緒に準備するから、その下見がしたかったのよね」
協会の入り口に立った私は、父に語りかける。父は何も言わなかった。
これは嘘ではない。実際私が設営に携わって仕事をするわけだし、下見しておいて損はない。
「お嬢様ね、毎日幸せそうなの。旦那様と結婚できるのが本当に嬉しいって、結婚式が楽しみでしょうがないって、そんな感じ。結婚式の場所を決めるって段階になって、ここでもないここでもないってお嬢様が悩みながら、やっと決まった場所が、ここなの」
私の説明にも、父は何も言わなかった。
「段取りも、めんどくさくてさ。自分なりにやってるんだけど、失敗ばっかりで全然上手くいかなくてね、チェルシーも忙しいし、こういうときお父さんがいてくれたらって、よく思うのよね。だから――」
父の方へ向き直った私は、すぐ近くにあるあの方の気配を感じて、父に決意表明をした。
「私は、自分の信念を曲げない。私はお嬢様の笑顔を守りたい。その誓いを貫き通すために、私はお父さんの決断を踏みにじる」
「クレア……?」
父にその言葉の意味はまだ伝わっていないようだったが、じきにわかる。
そう言って、私は。
「私からは以上よ。……お待たせいたしました、お嬢様」
私の陰からさっと現れたのは、金髪を揺らす美貌の淑女にして、我が主セシリア・オルコット。
冬用の黒いコート姿のお嬢様は、父の姿を見て柔らかく微笑んだ。
「ごきげんよう。お久しぶりですわね、バトラー。怪我の容態はいかがかしら?」
「お、お嬢様……!?」
父は目を丸くした。そして私を見て目で訴えている。
ハメたな、と。よりにもよってお嬢様と引き合わせたのかと。
……うん、ごめん。だから謝ったでしょう、心の中でだけど。
「あのさ、お父さん。お父さんがお父さんなりに悩んだ結果がそうだって、分かってる。でも、私は納得できない。だから、お父さんがどんな結論を出すにしても、お嬢様とちゃんと話し合ってからにして欲しいの」
「そうですわ。仮にも主人であるわたくしに事情も話さず、オルコット家を去ろうとするなど、あなたらしくありませんもの」
お嬢様は不満げに言った。お嬢様も父に避けられていたのは感じていたらしい。
突然の展開にしばし動揺していた父が、諦めたように項垂れたのを見て、お嬢様は父の傍まで歩くと、教会の席に腰掛けるよう勧めた。お嬢様が腰を下ろしたのを見て、父も小さく失礼しますと口にしてお嬢様の隣へ腰掛けた。
……さて、これにて私はお役御免。二人の対談をセッティングするまでが私のミッション。あとは二人に気のゆくまで話してもらうだけだ。
そっと席を外そうとした私を、父が待て、と引き止めた。
「これから話すことを、お前も聞くべきだ。オルコット家の使用人として」
それでもよろしいですか、と父がお嬢様に尋ねると、お嬢様も構いませんわと快諾してくださった。
そういうことなら、同席させていただこう。まあ、私から特に口に挟むことはないだろうが、父が引き止めたということは、私にとっても大事な話に違いない。
私は席を外すのではなく、少し離れたところに控えて、二人を見守ることにした。
ただ、見守る。ここから先父がどのような結論を出そうとも、私は自分の決断を後悔することはないだろう。
数瞬の沈黙が教会を包んだのち、父は少し震えながら、言葉を紡ぎ始めた。
「お嬢様、まずは……お嬢様への数々の御無礼を謝罪させていただきたい。申し訳ございません」
「本当ですわ。事故に遭ったと聞いて、心配したのですから。経過の報告も滅多に来ませんし、生真面目なあなたには珍しいとは思いましたけれど。きちんと報告くらいなさい、肩代わりをしているチェルシーのこと、忘れたとは言わせませんわよ」
金輪際このようなことは許しませんわ、と叱るように言ったお嬢様。金輪際許さないということは、裏を返せば、父にはこれからもオルコット家にいろと言っているようなもの。
父はそれを聞いて、そうとはいきません、と返した。
「今回の件もそうですが、それ以上に……私には、オルコット家にいる資格はないのです」
「――資格?」
ぴくりと、お嬢様が反応した。それは琴線に触れる言葉だったらしい。
眉を釣り上げたお嬢様は、語気を強めて、自分の二回り以上は体格のある大男に言ってのけた。
「資格ですって? そんなもの、わたくしがあなた方に求めたことがありまして? 仮にその資格がいると仰るのであれば、今すぐにでもわたくしが与えて差し上げますわ。何を理由に、そんな……」
「――違うのです」
お嬢様の言葉を遮った、どこか後悔を滲ませた父の声。
私は、と父は苦しげに続けた。
「私は……あなたのご両親を、守ることができなかった……!」
父は絞り出すように言った。途方もなく悔しげに、膝に乗せた拳を震わせて。
お嬢様ははっとしたように、しかしすぐに父を宥めるように「それは」と口にしかけたが、父はまたしてもお嬢様の言葉を遮った。
「いえ、お嬢様。原因がどうあれ、私とってはそれが真実なのです。これから話すのは、とある愚か者についてでございます。世界でただ一人、一生を捧げて仕えると誓った御方を守ることができなかった、非力な男の話でございます」
父がそれからお嬢様に語ったのは、先代オルコット家当主、セシリアお嬢様のお母様についてだった。
出会った経緯やそのあたりのことについては、私が年末年始実家で父と大喧嘩した際に聞いたものとほとんど同じだったが、父はそこから先代と歩んできた人生について語り始めた。
「お嬢様は、大変に才能溢れる御方でありました」
ここで父が言う「お嬢様」とは、セシリアお嬢様のことではない。セシリア様の母君のことである。
父は先代のことを、生前お嬢様と呼んでいたようだった。父と先代が二人が出会った頃、先代もまだ若く結婚もしていない頃だったからだろう。
「高貴な生まれでありながら、同時に器の大きい方でございました。人を生まれなどで判断せず、私のような無法者であっても、信頼してお傍に置いてくださったのです」
父がそう言うと、お嬢様がよく存じていますわと続いた。
「お母様の行くところにはいつもあなたがいましたものね」
「お嬢様の送り迎えの際に、よくセシリア様と顔を合わせたのを覚えております。ちょうど娘が同じくらいの年齢だったのもあり、娘と同じように成長するセシリア様のお姿が、目に浮かぶようです。セシリア様は、お嬢様によく似ておられます。幼い頃のお嬢様がいればこのようなお姿だったのだろうと思うほどに」
昔を思い出しているのか、二人は懐かしむように言った。
父の人格や仕事ぶりが先代に大きく評価されていたのは間違いない。でなければ側近として身近に置くこともないだろうし、遺言でセシリアお嬢様の後見を頼んだりはしないだろう。
「お嬢様は強い御方でした。激動の時代にあって、その才は一際異質で突き抜けておりました。反面敵も多く、一歩間違えば身を滅ぼされかねないような、危うい立場にあったのです」
「お母様……」
母を呼ぶお嬢様の眉が下がった。先代の人柄について、私はまったく知らないため根拠はないが、お嬢様にも思い当たる節があるのかもしれない。
なるほど、故に父のような裏の世界に詳しい人間が起用されていたわけだ。父はまさに、時代を駆ける才女たる先代オルコット家当主の
経緯はともあれ、自分が持った力を、誰かを守るために使う――そのきっかけを先代からもらった父は、先代に大きな恩義と尊敬を覚えるようになったという。
「当時恋人であった今の妻との結婚の際も、他でもないお嬢様が誰よりも祝福してくださったのです。彼女を幸せになさいと、私の背を押してくださいました。そんな大恩人でもあるお嬢様を、私は生涯の主と定め、一生を賭けてお仕えすることを決めたのです」
「バトラー……。でも、お母様は……」
お嬢様が悲しげに言う。
ああ、そうだ。その後の先代の身に何か起こったのかは、今この現実が物語る通りだ。
「はい、その通りでございます。お嬢様は、あの痛ましい事件で亡くなられ、私は……守るべき主を亡くしたのです」
ぽつりと父は言った。
大規模な列車事故。それに巻き込まれ、先代とその夫は、揃って帰らぬ人となった。多くの人命が失われた痛ましい事故であったが、事件当時は事故と報道されていた一方で、テロ組織による要人を狙った計画的な犯行であるとの説も唱えられていた。今では公式発表こそないものの、国民の間ではテロ事件であるとの認識がほぼ一般化していた。
先代の言動からしても、どうやらその予兆を父は感じていたという。そして先代は近いうちに自分が命を落とすかもしれないしれないことを予期しており、もし自分の身に何かあったときのため、セシリアお嬢様の身に危険が振りかからぬよう、権利関係の根回しや身辺整理を頻繁に行っていたらしい。
「勿論、私はそのようなことにならぬようと、全力で警護にあたっておりました。ですがあの日、お嬢様は旦那様とお二人で出かけると言って警護もつけず、行ってくると一言仰ったのを最後に……お嬢様は、帰ってこられませんでした」
セシリアお嬢様を遺して、逝ってしまわれました。と父が言ったときも、お嬢様は無言だった。お嬢様が何を思っておられるのか、私には分からない。
「私は途方に暮れておりました。命を賭けて守りたかったはずの主を見殺しにしてしまい、生きる理由の半分を失ったのです」
「そんな、見殺しだなんて」
「似たようなものです。私はお嬢様を守るという義務も誓いも、果たすことができず、唯一残された遺言に従ってお嬢様のお世話を決めたときも、半ば罪滅ぼしのような心境でありました」
両親を失って傷心のセシリアお嬢様と、どう向き合っていいのかわからなかったという父。
そんなとき、家に帰ると平凡に、平和に成長する私の姿を見て、家族のためにも生きなければならないと憔悴しきった己を奮い立たせると同時に、ふと考えたという。
セシリアお嬢様の母親の代わりにはなれずとも、父親の代わりのような存在になることができれば、上手く向き合えるのではないかと。
だが、それは結果的には杞憂に終わった。父がそのように悩んでいる間に、お嬢様はいち早く両親を失ったショックから立ち直り、自ら家の名を上げて矢面に立ち、先代が築き上げた名声と富を守ったのである。
「ご立派でした。一番お辛いはずのセシリアお嬢様が、家の誰よりも早く立ち直り、自らやオルコット家の財産を狙う薄汚い大人たちと戦われていたのですから」
必死に涙を隠し、誰よりも努力を重ねていたお嬢様。やがてお嬢様はISの適性検査で高数値を叩き出し、国家代表候補生としてIS学園への一歩を踏み出したのだが、その一方で父は。
「またしても私は、何もできなかったのです。セシリア様を支えることもできず、ただ見守るばかりでございました。それよりも何よりも、私は……!」
父は唇を噛み締め、ぶるぶると震え始めた。
「私は、私は本当は恐れておりました……! セシリア様から、何故お母様とお父様を守ってくれなかったのかと、責め詰られることが……!」
そして、と父は言った。
「私が望んだように、娘が人並みに成長していく姿を見る度に、お嬢様の忘れ形見の、あの花のように笑っていたセシリア様から、笑顔を奪ってしまった己が情けなく、そして許せなかった……!」
感情が抑えきれないとばかりに、父は震えながら告白した。
ここまで感情的な父は初めて見る。一〇年余り抱え込んでいたものが、堰を切って溢れ出てくるようだった。
両親の死というショックから自ら立ち上がり、努力に努力を重ねて家と両親の財産を守り抜いたお嬢様は、その代償として、年相応の少女らしい心と笑顔を失ってしまった。それを父は、ずっと悔いていたという。
やがてお嬢様はIS学園という新天地で、生涯の伴侶となる恋人とたくさんの友人を得て、その失った笑顔や心を取り戻すのだが、そこにも結局父の力はなかった。
「セシリア様の旦那様には、大きな感謝をしております。私が守れなかったものを、彼は取り戻してくださいました。日本から帰ってこられたときのお嬢様が嬉しそうにお笑いになるのを見て、私は胸が透く思いでした」
そうか、父はずっとこうして、己を悔いながらお嬢様に仕え続けてきたのか。知らなかった父の真意を理解した私は、ずっと真剣な表情で無言を貫くお嬢様を見ていた。
お嬢様は、何を思うのだろう。父と慕っていた男の懺悔を聞いて、何を父に言うのだろう。
「私は、バトラーと呼ばれるような人間ではないのです。此度の事故に遭った瞬間、私はついにその報いが来たのかと思いました。ついに、己の所業を精算できる日が来たのかと。妻と娘を遺して逝くことも忘れるほどに」
……そっか、お父さん、そんな風に思ったんだね。
「今にして思えば、大変に愚かな思いでした。そんな思いを抱えてこの世を去るなど、妻と娘に対して、何と謝罪すればよいか。目覚めて妻と娘が泣き崩れたのを見て、私は心の底から安堵しました。道を違えずに済んだこと、愛する家族と再び会える喜びを、心から感じたのです」
父の独白には、小さくない怒りを覚えた私だったが、父がそれを省みているのならば、と飲み込むことにした。
事故にはあったものの、父は間一髪命を取りとめた。命こそ助かったものの、瀕死の重傷を負った父は、以前と同じように働くことはできない。亡き先代当主の遺言が定めた期間も過ぎ、またセシリアお嬢様は旦那様というパートナーを得て、人間としても女性としても一段と成長した。
怪我の後遺症もあって、もはやもう自分にできることは何もない、と身を引くことを考えたのが、父の真意だった。
なるほど、それからたまたま私が無職になったタイミングが重なり、その埋め合わせのように、私をオルコット家へと送り出したのが、私が父に勧められたきっかけだったというわけだ。
「お嬢様。どうか、この愚か者があなたの下を去ること、お許しください。もはや盾にもなれぬこのような有様では、お嬢様のお仕えすることなど、できないのです」
父は懇願するようにそう言った。頭を垂れ判決を待つ被告人のような風体の父オーウェンは、俯いたまま。十年来溜まりに溜まっていたわだかまりを吐き出し、憑き物が落ちたようにも見える。
お嬢様は、まだ何も言わない。父のこの話を聞いてどう感じたかについての答えは、お嬢様の中にしかない。
もはや私の意思はこの場において何の意味もなさない。今この場においては、お嬢様の意思こそが、すべてを決定し得る。
「――ふ、ふふふっ」
沈黙を破ったのは、お嬢様が我慢しきれないとばかりに吹き出す声だった。
「バ、バトラー。あなた、本当に堅物ですのね、うふふふ」
「お、お嬢様……?」
「生前お母様が仰っていた通りですわ。ドがつく生真面目で堅物だと、お母様に言われていたの、あなたはご存知でないでしょう」
ああ、可笑しいとお嬢様はひとしきり笑って、目じりの涙を拭うと、表を上げなさない、と俯きがちな父の顔を上げさせた。
「あなたがとびきり堅物で真面目で優しい人だと、わたくしもお母様もよく知っていましてよ。先ほどあなたが話してくれたことを聞いて、気負う必要のないことまで何倍も背負ってきたことがよくわかりましたわ。重く、苦しく、辛かったことでしょう」
お嬢様は父の方へとそっと寄ると、強ばって膝に置いたままの父の大きな拳に、白い手の平を重ね合わせた。
「――わたくしを守れないことが、怖い?」
父がびくりとした。それを見たお嬢様がそうなのね、と微笑んだ。
先代のように、セシリアお嬢様を守ることができずに先立たれたとすれば、そのときの父は悲しみと無力感は察するに余りある。
お嬢様は、父の不安を見透かしたように、心配は無用ですわ、と言った。
「今のわたくしには、自分の身を守るだけの力と、頼りになる仲間たちの力がある。わたくしは一人ではなくってよ」
お嬢様は凛として言った。
今や、お嬢様はISの操縦者として世界でも指折りの実力者だ。軟弱者に国の重責を担う人間が務まるものですか、とはお嬢様の弁だが、お嬢様の伴侶たる旦那様も同様にISを扱う人間の一人。そして旦那様もまた、世界にその名を轟かせる実力者である。
トラウマとも言うべき父の後悔も理解できるが、今や私たちオルコット家の人間は、お嬢様と旦那様が築き上げた比類なき実力と名声によって守られていると言っても過言ではなかった。
「でも、そんなあなただから、きっとお母様は信頼しておられたのね。遺書でわたくしのことを頼んだのだって、あなたが私のために尽くしてくれると信じてのことでしょう」
「で、ですがお嬢様。私は……!」
「何もしていないって? そんなことはありませんわ。いつもわたくしのこと見守ってくれていたあなたの存在に、わたくしがどれほど救われていたか、ご存知?」
遠くに車で移動するときはいつも傍にいてくれたこと、重い荷物は必ず持ってくれたこと、歳も体格も上の大人と見合わなければならないときすぐ後ろに立って見守ってくれていたこと……目に見えていたこと以外にも、執務室の掃除や整理を人知れずやっていたこと、疲れてデスクの上で眠ってしまったときに人知れず毛布をかけてくれていたこと、そして母のために尽くしてくれたこと……お嬢様は父がしていたこと、そのひとつひとつを挙げていく。
お嬢様は、父のさりげない優しさのひとつひとつを知っていて、そして感謝している、と言った。
「父親の代わりになろうと思ってくれたのでしょう? その通りですわ、わたくしにとっては、あなたがもう一人のお父様でしたもの。ちゃんとわたくしのこと、支えてくれていましたわ」
「お嬢様……いいえ、私は、私は……!」
首を振って否定する父を、しつこく肯定するお嬢様。父は震えながらおやめ下さい、と懇願したが、お嬢様は笑顔のまま、残酷なまでに父を肯定する。
「違うのです! 私は、何も、何も……!」
「いいえ。先ほども言いましたでしょう? あなたがいてくれたことが、わたくしの宝物なのですわ」
違います、いいえ、と何度も同じやり取りを繰り返すそんな二人を見て、私はつい笑ってしまった。
やめときなって、お父さん。お嬢様に敵うわけないんだから。お嬢様はさ、お父さんのそういうドがつくくらい生真面目なところも、不器用な優しさを何年も見て慕ってくれてるんだから、何を言ったって無駄よ。
大体、そうやって言われるようにしてきたの、お父さん自身なんだから。自分が積み上げてきた信頼と人望に負けてたんじゃ世話はない。
「もういいでしょう、バトラー。ずっと過去を悔いるのはおやめなさい。お母様たちのことで、あなたに感謝する気持ちこそあれ、責める気持ちなんて、わたくしにはこれっぽっちもないのよ」
だから、とお嬢様は言った。
「いい加減自分を許してあげて。わたくしを救ってくれた優しさで、これ以上傷つかないで」
お嬢様が穏やかに言うと、父は目を赤らめた。
お嬢様はすっかり皺の入った父の頬を撫でると、その表情を綻ばせた。
「バトラー、あなたはわたくしのために必要な存在ですわ。怪我をして、今までのようにはいかなくっても、あなたにして欲しいことはまだまだたくさんありますのよ」
「お、お嬢様……」
「ずっとお母様に尽くしてくれて、ありがとう。わたくしを、クレアを、育ててくれてありがとう。どうかこれからも、わたくしの傍にいて、見守っていてくださいな」
「あ、あああっ……!」
亡き先代と似た、お嬢様のその言葉がトリガーになったのだろうか。父は崩れ落ちるように、跪いて涙を流し始めた。
お嬢様は父を抱きしめると、その耳元に優しく囁いた。
「バトラー。あなたこそ、わたくしの誇り。大丈夫、今度はわたくしの番ですわ。あなたがわたくしを守ってくれたように、今度はわたくしがあなたを守りたいの……あなたという、誇りを」
「お嬢様……! お嬢、様……!」
父は恐る恐るお嬢様の体を抱きしめると、亡き先代を偲ぶように、大きな体を震わせて一人泣いて。お嬢様は、そんな大男の決壊した感情を受け止めるように、ゆっくりと父の背を撫でていた。
いろんな人のことを虜にしてしまうお嬢様の笑顔。その笑顔は大輪の花が咲くようで、私が一生を捧げたいと思ったほどに魅力的なのだけれど、その笑顔に花を重ねるとき、私はふと思い出すのだ。
花が綺麗に咲くのは、蕾になるまでしっかり育っていたからだということを。お嬢様という花を咲かせたのが旦那様なら、その蕾に水を、光を与えていたのは誰か――……それはきっと、父を始めとするオルコット家の人々に違いないと、私は思うのだ。
「なーんだ。最初っからこうすれば、全部丸く納まってたんじゃない」
私は笑った。
そう、私なんかがどうこうする必要はなかったんだ。オルコット家でお父さんのことを一番見ていたのは、お嬢様なんだし。簡単すぎてつい口に出しちゃったじゃないの。
でも、なんかいいな、お父さんとお嬢様。私にしか分からないお父さんとの思い出があるように、きっと「バトラー」にしか分からないもの、「バトラー」だけが積み上げてきたお嬢様との時間があって、お嬢様への理解は私のそれとは比べ物にならない。お嬢様も、私の知らなかった父の姿を知っていて……お嬢様と比べたら、「バトラー」としての父に対しての理解なんて全然及ばない。
なんて言うのかな、妬けちゃうよね。お父さんとお嬢様、両方にさ。
……ま、これで私は本当にお役御免だろう。あとは執事とお嬢様、主従水入らずって言うのかな、そういう時間にしてあげよう。積もる話だってあるに違いない。
私は嬉しくて口角が上がるのを自覚しながら、二人に気づかれないように、そっと教会を後にした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
その夜。バー「Gloria」にて。
「……ってなわけで、お父さんのわだかまりも解消、お父さんは無事オルコット家に戻り、お嬢様の結婚式の父親役をしてくれるようになったってわけよ」
「ほーん、嬉しそうじゃねーの」
「そりゃそーよ。最高の結果になったんだもの」
毎度の如くマスターに適当に用意してもらったおつまみをつつきながら、私は今回の事の顛末をドヤ顔でマスターに自慢していた。
教会での一件のあと、お嬢様から直接お電話があり、父がオルコット家に戻る決断をしたこと、また父がお嬢様の結婚式で父親役を務めることを伝えていただいた。お嬢様は父と二人で食事に行くとのことで、邪魔者の私は一人バーにて祝杯を上げているのだった。
どこか安らぎを感じるバーの店内で、グラスには極上のカクテル。それをこれ見よがしに転がしながら絶品のおつまみを肴に回す自慢話、これが気持ちよくないわけがない。
「結局私はさ、何も特別なんかじゃないのよ」
これはわざわざ言うほどのことではないのかもしれないけれど、私はどこまで行っても平凡な女だ。主であるセシリア・オルコットは勿論、父親であるオーウェン・フラウシートが、特別な人間と言って差し支えない人物であったとしてもだ。
容姿も、学歴も、平凡の域を出ない。でもそれは必ずしも悲観することではない、と私は思う。
人の生まれや才能がそれぞれ違うように、幸せの尺度だってそれぞれ違う。私にとっては、父と母が与えてくれたこの平凡な人生こそ、幸せへと続く道なのだと、そう思ったのである。
……まあ、お嬢様にお仕えしてる時点で結構特別なのかなとは思うけれど。でも、結局私はオルコット家のいち使用人に過ぎない。いつかお嬢様にあなたがいて良かったと言っていただけるように、私も頑張らねばならないだろう。
アルコールが回るのを感じながらグラスを眺めていたら、マスターがニヤニヤしながら言った。
「楽しそうだな、仕事」
「うん、充実してる。やりがいもあって、目標もできたし」
いつか父のようにお嬢様を支えられる人間になりたいと思った。口下手で、愛想がない父だが、静かな優しさと確かな仕事ぶりで信頼と尊敬を集める父は、いつの間にか私の目標になっていた。
ただ、仕事の充実ぶりはさておき、少しだけ気になっていることもあって。
「……お嬢様と旦那様、本当にお似合いよね」
「そりゃあな。あれは天下無敵の二人よ」
「お嬢様から旦那様の惚気話はたくさん聞いてるけど、旦那様も同じくらい、お嬢様のことを大切にしてるって分かったし。ああいう二人を見るとさ、憧れちゃうわよね」
あーあ、どっかにいい男いないかな、とかボヤくアラサー間近の女を、マスターはどう思っただろう。
お酒おいしー、とか言ってたらいつの間にかグラスが空だった。まあまあペースが早いのと、そこそこ酔っている自覚はあるのだが、私に自重する気は更々なかった。これは美味しいお酒が悪いのであって、私のせいではない。
「マスター空いちゃった~、次よろしく~」
「あいよ」
マスターがシェイカーを振っている間、適当におつまみのスモークウインナーをこれ好きなのよとか言いながら摘まんでいると、マスターがため息をつきながら「俺もそろそろ腹くくるか」なんて小声で呟いていた。
なんのことだろうと思っていたときだ、マスターがはいよ、と差し出してきたグラスに入っていたのは、見慣れないピンク色のカクテルだった。これ何、と聞く前に、マスターが説明してくれた。
「『ピンクレディ』だよ。……いつも美しく、という言葉が込められているカクテルだ」
――え? な、何て?
「これを、いつも美しいあなたに。俺からのプレゼントだ」
マスターが改まって、私を見つめて言った。
おちゃらけた雰囲気ではない。今までの飄々としていたマスターからは想像もつかないくらい、真摯で熱が入っている。
……ねえ、こ、これって、もしかして口説かれてる? 私。
そう認識した瞬間、顔の熱がぐんぐんと上昇したのを自覚した。
「い、いつも美しいって、そんな……!」
「最初は、普通の客だった。でも、段々お前がいい女だって気づいちまった。特にお嬢のところで働き始めてからのお前は、俺から見ても輝いてた。いつかウチに来るお前を、待っちまってる俺がいた。バーテン失格だよ。だから、俺はお前をもう、ただの客にはしておけないのさ」
よ、よくそんな歯の浮く台詞言えるわね。恥ずかしくて私、頬に当てた手が動かないんだけど。
「……ふ、ふーん。そっか、なるほどなるほど」
いい女ぶって強がってみるけど、私の心臓の鼓動は全然収まってくれなくて。
そんな私を、マスターが見てくつくつ笑った。
「ほんで、レディ。お返事は?」
「……えーっと」
まあ、なんだ。やぶさかではないのかもしれない。マスターをいざそういう対象として見るとなると、いろいろ考えないといけないんだけどさ。
「私、マスターを一番にしてあげられないと思う。私には、大事にしたいものがある」
「分かってる。お嬢のことだろ?」
私は頷いた。
「でも、それはお互い様だ。俺もこの店を切り盛りしてかなきゃいけねえ。だから、何を捨ててもお前を取るなんてことは、きっとできねえ」
マスターは隠すことなく言った。
そうだよね。マスターにとって、このお店を守ることが生きがいなんだ。私がお嬢様に一生を捧げたいと思っているように。
お前が一番大事だと言われるよりも、正直にそう言ってくれる方が私にとっては嬉しい。
「俺は一生お前の二番でいい。でも、お前の男っていうそのポジションだけは、他の男に渡すにゃ惜しいんだ」
マスターはもう一度、差し出したグラスをころんと回した。
「ふーん」
そんなマスターの口説き文句に気分が良くなった私は、差し出されたグラスを受け取って、一口味わった。
……見た目の可愛さの通り、まあまあ甘い。でも、とびっきり甘い味わいより、私っぽい。
「……別に言葉なんか、要らないよね」
「ああ。それで充分だよ」
マスターがにっと笑ったのを見て、私もニヤッと笑った。
ちょっと私にしては、カッコつけすぎたのかもしれないけれど。このお洒落なバーでする会話としては、満点をあげてもいいのかもしれない、と私は一人自画自賛した。
その日のバー「Gloria」の夜は、ちょっとだけ甘い香りがする夜だったのを、私は覚えている。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ときは移ろい、過ぎてゆく。
お嬢様の結婚式は滞りなく執り行われ、私と父を始め、オルコット家使用人は一同揃って参列した。ついでにマスターも私と新郎新婦の関係者ってことでしれっと参列した。お嬢様のウェディングドレス姿はそれはもうお綺麗で。お嬢様が現れた瞬間、参列者すべての視線がお嬢様に集まってしまうくらいに。
お嬢様の願い通り、父はお嬢様の父親役として、ヴァージンロードを共に歩んだ。なお、父はお嬢様のウェディングドレス姿を見たとき、そして披露宴にて使用人一同に向けてお嬢様がメッセージを読んでくださったときの計二度、感極まって泣いていたのを追記しておく。まあ、メッセージのときは私もしっかり泣いたけどさ。
お嬢様の結婚式が終わり、その次の年にはお嬢様と旦那様との間に記念すべき第一子となる長女が誕生する。結婚される前もされてからも、お嬢様はずっと子供が欲しいと仰っていたので、私も自分のことのように嬉しかった。そして何といっても旦那様のデレっぷりは半端ではなく、愛娘に文字通り骨抜きにされてしまった旦那様は、お嬢様が呆れるほどのド級の親バカと化してしまい、度々お嬢様やチェルシー、果ては私にまで苦言を呈される始末であった。
そして、もうひとつの個人的な大ニュースと言えば、私とマスターが結婚することになった。理由は、なんと私の妊娠であった。
いやもう、本当に。私らしいというか、行き当たりばったりと言われても仕方がないのであるが、そんなつもりがなかったと言えば嘘になるし、結婚するならこの人かなとは思っていた。お互いに仕事を頑張りたい時期を少し越えて、自分の人生について考え直していた時期だったのもある。そして何より、そのときちょうどオルコット家ご夫妻に長女が生まれたタイミングだったのが大きかった。幸せいっぱいなお二人の姿を間近で見ていたこともあって、子供っていいよねとか彼と何となく話していて結果的にそうなったとだけ記しておく。
とにもかくにも、それが決め手になって私も身を固める覚悟を決め、結婚ということに相成った。妻として、母としても先輩になったお嬢様にありがたい助言をいただきながら、マスター改め旦那と二人三脚せっせと結婚式の準備を進めて、なんとか私の悪阻もほどほどに落ち着いた頃、結婚式を挙げることができた。私や旦那の家族は勿論、お嬢様や旦那様を始めオルコット家でお世話になった方々、さらにはバーの馴染みの客まで参列してもらい、大変賑やかな式であった。ちなみに、私のウェディングドレス姿を見たときと、途中私から両親へ手紙を読んだときの計二回、父が泣いたことを追記しておく。
息子が生まれ、母になった私。結局旦那は店を切り盛りし、私はお嬢様のお世話を辞める気もなかったため、息子は私について自然とオルコット家にいる時間が多くなっていた。それが理由であろうか、息子はお嬢様(現当主セシリア様の長女)と親交を深め、なんとオルコット家の一員として働きたいと言い出したのである。
息子がどの程度本気か測りかねていた私と旦那だったが、家族会議にて彼が本気であることは十分に伝わってきたので、それから息子は執事見習いとして、祖父である父バトラーに付いてあれこれとオルコット家で仕事を教えてもらいながら働き始めた。結果、父、私、息子と、三世代に渡ってオルコット家のお嬢様にお仕えしていることになり、血は逆らえないと言うか何と言うか。
まあ、今思えばこれがきっかけだったのだろう。本当に運命とは不思議なもので。成長してからもオルコット家の執事として働いていた息子が、いつの間にかお嬢様と主従を越えて恋仲になっていて、そこからさらに何年か経って、二人が結婚するという話が持ち上がったときには、私はもう五十代だった。
それから息子夫婦の結婚式が行われたことは、記憶に新しい。自分が親になって、息子が一人の夫として家庭を築いていくことの感慨深さは、何とも言えなかった。立派に育った息子の姿を見る度、自分と同じように愛を注いで息子を育ててくれたオルコット家の方々への感謝が募る思いだった。ちなみに、孫にして愛弟子でもある息子と、未来のオルコット家を担うお嬢様の結婚式には感動を禁じ得なかった父は、二人の晴れ姿を見る度泣いていた。何なら新婦の父親である旦那様が霞みかねないくらい泣いていた。歳取って涙脆くなったのはわかるけど、泣きすぎなのよね、お父さん。
オルコット家が大きな祝福に包まれていた、それから少し経ってのことだった。父オーウェンが八十歳を越えた頃、大病を患ったのは。この歳でもいつものように仕事に励んでいた父は、同じように仕事をしていた息子の目の前で倒れたのだという。
緊急手術が行われ、とにかく一命は取り留めた父であったが、その病は老衰した父には重すぎるものだった。入院が決まり、病状の説明を私と母が受けた時には、もはや余命いくばくもないとの宣告を受けてしまったほどに。
余命数ヶ月。父との別れが刻一刻と迫る中、残された父との時間その一分一秒も無駄にしたくないと、少しの期間お嬢様にお暇をいただき、母と二人で、父に寄り添っていた。息子夫婦もよく顔を出してくれて、その度父は穏やかに笑った。
その頃、いつだったか父にふと聞いたことがある。父にとって、オルコット家とはどういう存在なのか、と。何の気になしに聞いた私だったが、父の返答は存外しっかりしたものだった。
「『共に在るもの』……だろうか」
「ふーん。共にあるねえ。家族、ってこと?」
「そうとも言えるかもしれん。私には上手く言葉にできない」
そのとき、あまりにも漠然としたその言葉の意味は要領を得なかった。家族として一緒に生きるという意味かと、曖昧に受け止めていた私だったが、その言葉に含まれていた本当の意味を理解したのは一〇年ほどあと……父が亡くなってからのことだった。
余命宣告から数ヶ月。もう少しだけ生きていたいと願った父は、宣告を越えてなお呼吸をし続け、我々に元気な姿を見せ続けていた。
そんな父の容態がついに急変したのは夜のことだった。夫と息子夫婦、セシリア様と旦那様、その他近縁者に連絡し、父の最期が近いことを伝えた。
憔悴しきった父の蒼白な顔を見つめ、涙を堪える一同の均衡を破ったのは、私や母ではなく……父にとって孫であり愛弟子にあたる私の息子だった。公私共に祖父の背中を見て成長してきた彼にとって、師と仰ぐ偉大な祖父の命の灯火が消えかかっている姿は、格別辛いに違いなかった。
「じいちゃん……!」とボロボロと大粒の涙を零す彼に共鳴するように、彼の妻であるオルコット家現当主も、泣き始めた。
「じいちゃん! なあ、じいちゃんってば!」
「いや、いやよ爺や! お願い!」
二人の泣く姿に堪えられなかった私も、お父さんと呼びかけた。涙で声が濁る。セシリア様も必死に父を呼んだ。
「お父さん……!」
「バトラー! 返事をなさい、バトラー!」
そんな私たちの呼びかけに応えたかったのであろうか、父の意識レベルが一瞬戻り、弱々しいながらも目を開けた。
「あなた!? 私よ、わかる!?」
泣き顔の母は父の手を握った。私もそこに手を重ねた。父は蚊の鳴くような声でああ、と答えた。
最期の力を振り絞るかのように、私たちをぼんやりとその視界に収めた父は、囁くように言葉を紡ぎ始めた。
「――誇りに、満ちた……一生だった」
思い思いに言葉を投げかけていた一同がしんと押し黙った。誰もが父の最期の言葉を聴き逃すまいと、耳を傾けていた。
「大きな、感謝を……妻、娘夫婦、孫夫婦……愛する家族たち……そして、敬愛すべき、セシリア様と、その御家族……あなた方に見守られて逝ける、こんな幸せなことはない……」
か細く、しかしひとつずつゆっくりと、父の言葉は紡がれた。
「私が愛し、尊敬してやまぬ、オルコット家の方々よ……どうか笑顔で、お過ごしください……」
八十余年の人生の、その大半を捧げたオルコット家の人々への言葉。
セシリア様と、旦那様、ご当主様に、その弟君。それぞれが父の言葉を胸に刻みこんで、大きく頷いた。
「嗚呼、やっと、お嬢様の下へ逝ける……」
消えるような父の声。握っていた父の手から、生命が失せていくのを感じ、私と母は泣き崩れ――それが父の最期の言葉であった。
程なく父の葬式が行われ、オルコット家は大きな悲しみに包まれた。父の他界を私と同じくらい泣き悲しみ、偲ぶセシリア様を見て、私を姉妹のような存在であるというと言ってくださったセシリア様に対する敬意を一際深め、より一層尽くすことを亡き父に誓った私であった。
オルコット家を支え続けた偉大なる執事として、バトラーと呼ばれ尊敬を集めたオーウェン・フラウシート。その生涯をオルコット家に捧げ、命尽きる最期のときまで執事の中の執事であった父の墓標には、「バトラー」の敬称が刻まれた――。
それからまたときは過ぎ、移ろいでいった。
父に献身的に寄り添い続けた母は、父が亡くなってから三年後、父を追うようにひっそりと逝った。父と母だけでなく、オルコット家で共に働いてきた年配の使用人が亡くなったり、ときには親しい友人を失い、たくさんの別れを経験した。
しかし、それらの悲しい別れの分だけ、幸せな出逢いがあった。そのかけがえない出逢いのひとつが、この少女であった。
「クーレア~」
「あらあらお嬢様。どうしましたの」
その少女は私にとととっと駆け寄ると、とあるノートの一冊を持ってきた。
「これ! おばあさまの部屋にあったの! 読んでくださいな!」
それは、『セシリア・ダイアリー』と銘打たれたものであり、今や先代オルコット家当主としての余生を送る私の主が書いた日記であった。日付はちょうど四〇年ほど前、私が主と出会った頃のものだった。
私そっくりの茶色の髪を持ち……そしてセシリア様そっくりの蒼眼を持つこの少女は、私の息子と、セシリア様の娘の間に産まれた、私の孫だった。血の繋がった孫であるけれど、家の中ではあくまで使用人とお嬢様の間柄。何かと多忙な息子やご当主様に代わり、私は彼女のお世話をよく任されていて、それもあってか、この子は私によく懐いていた。最近は本を読み聞かせてもらうのがブームであるのか、様々な本を持ってきては、私にしょっちゅう読み聞かすようせがむのだった。
「お嬢様、これはお祖母様の大切な日記です。勝手に持ち出してはいけませんよ」
読み聞かせるのが普通の絵本であればいいのだが、如何せんこの日記は読み聞かせるようなものではないし、何より主に許可なく読んでいいものではない、と私は思っていたのであるが。
「いーやー! わたくし、これ、よみたいの!」
「はあ、困りましたねぇ」
よみたいよみたい~、と駄々をこねる孫娘。孫の可愛さは全世界共通なのであろうか、例に漏れず私もこの小さなお姫様には甘い部分があるのは否定できない。
公私混同を自覚しながらも、私は人さし指をひとつ立てて、内緒ですからね、と一言付け加えて結局共犯者となるのであった。
「これは、お祖母様の若い頃の日記なのです。『二月一〇日。ロンドン郊外のオルコット邸にて。天気は快晴。普段は邸の料理人たちが使う広い厨房で、うんうんと唸りながら腕を組み、わたくしは材料とにらめっこをしていた』……二月の頃みたいですよ、お祖母様がお祖父様のためにチョコレートを作っていたときのことです。『お、おかしいですわ。何故ウィスキー入りのチョコレートを作ろうとしているのに、チョコレート味のウィスキーが出来上がっているんですの……? しかも固形。ウィスキーかどうかさえも怪しい』……あら、お祖母様は失敗してしまったようですね」
「おばあさま、おかしつくるの、へたですの?」
「ふふふ、そうですねぇ。昔から、よくいろんなものを作られては失敗しておられます」
若い頃のセシリア様の失敗談を笑みを零しながら孫娘に語っていると、昔のことを思い出すようだった。
今や店を弟子に譲り、自宅でのんびりと過ごす夫が経営するバーでセシリア様と飲み明かしたことや、些細な思い出の数々、セシリア様の日記を読みながら、思い出に浸っていた私を引き戻したのは、楽しそうに話を聞いていた孫娘だった。
「クレア、ありがとう!」
「ふふ、どういたしまして」
「えへへ、クレア、だいすきですわ!」
そう言った孫娘の笑顔。
その瞬間、私はふと亡き父……今際の際に「笑顔でお過ごしください」と願った「バトラー」オーウェン・フラウシートの面影を見た。
私ははっとした。余命幾ばくもない父に尋ねた「オルコット家とは何か」という問いが思い出された。そして「共に在る」という答えの意味が突き刺さるようだった。
嗚呼、父はこういうことを言っていたのだろう。父は人生のどこかで、セシリア様の生きる姿に、父がお嬢様と呼んだ、先々代オルコット家当主の生き様を見ていたに違いない。その感覚が、父の共に在るという言葉に繋がったのではないかと。
そして私は理解した。父の生き様は、そして願いは、オルコット家と……そして、この孫娘の笑顔と「共に在る」ことを。それこそが、オルコットを支え共に在る私たちの生き様なのだと。
「きっとそうよね……お父さん」
気がつけば涙が頬を伝っていた。歳をとると感傷的になってしまって困る。
「クレア、どうしたの」と呼びかける孫娘に、なんでもありませんよ、と涙を拭って、若い頃のセシリア様そっくりの孫娘の髪を撫でた。
世界でただ一人の私の孫娘。この子が生きていく日々が、私たち使用人たちの生き様を物語る――それが父の言葉の真意なのではないか。ようやく父と同じものを見ることができた喜びと、孫娘への感謝と愛しさが、私の胸を満たした。
「――あらあら楽しそうね、何を読んでいるのかしら?」
それもつかの間、冷や汗がどっと噴き出した。この声は間違いなく――。
「セ、セシリア様……」
「おばあさま!」
孫娘がセシリア様へと飛びついた。セシリア様はにっこり笑って彼女の頭を撫でた。
セシリア様はオルコット家当主の座を娘に譲り、優雅に余生を過ごしていた。
「ふふ、今日も元気ですこと。何を読んでいたの?」
「おばあさまのにっきですわ! クレアが読んでくれたの!」
そう、それはよかった、とお嬢様は孫娘と戯れていたのだが、それもほどほどにクレア、と私の方を見た。はい、恐る恐る返事をした私だったが、セシリア様の返答は、
「構いません。好きなだけ読み聞かせなさい」
「よ、よろしいのですか?」
「ええ。そんなに大したものではありませんけれど、この子がこれを読んで楽しんでくれるならそれでよろしくてよ」
ね、とセシリア様が孫娘の髪を撫でた。孫娘はぎゅーともう一人の祖母へしがみついた。
「さ、ではクレアに代わってわたくしが読みましょう。自分の日記を読み聞かせるなんて、不思議な話ですけれど」
セシリア様はそう言ってソファに腰かけると、日記のページを開いて読み始めた。
「『今朝起床してニュースを見ていると、突飛な報道が流れていた。内容はというと、空飛ぶ海老が発見された!というもの。映像では、まるで水中にいるかのような動きで海老が空中を跳ねていた。そんな馬鹿な、とわたくしは当然思ったのですが、番組もキャスターも大真面目に報道していたから、本当にそうなのかと思い始めたところで、今日が四月一日であることに気づいた』……これはエイプリルフールのときの日記ね。空飛ぶ海老ですって、あなた想像できるかしら?」
「んっと……こ、こわいかも」
「ふふ、そうね。きっと大きいでしょうし、怖いでしょう」
お二人のかんばせはそっくりであった。セシリア様の娘であるご当主様もよくセシリア様に似ているので、その遺伝子がそのまま孫娘に継承されたのでしょう。美人親子で有名だったセシリア様とご当主様とそっくりであるなら、この子も将来美人になるに違いない、とても楽しみだ。
「――こらぁー!」
突然部屋に響き渡った怒号。びくりと孫娘が振り返ると、そこには眉を吊り上げた孫娘の母にして現オルコット家ご当主様の姿があった。
「何してるの! これからピアノの練習の時間でしょう!」
「お、おかあさま……」
「あなたまたそうやって習い事サボって! 先生がお待ちでしょう! まったくこの子ったらもう……!」
一体誰に似たのかしら、とご当主様がぶつぶつと孫娘を叱った。幼い頃、オルコット家伝説のお転婆娘と名を馳せていたご当主様のことを考えると、さもありなんと言ったところなのだが、私とセシリア様は密かにくすくすと笑った。
それでも読みたいと駄々をこねる孫娘だったが、問答無用とばかりに孫娘が連れていかれるところを、セシリア様がゆっくり立ち上がってまあまあと宥めた。
「いいじゃない、たまには。ね?」
「ダメです。たまにではありませんから。大体、お母様はこの子に甘すぎます。クレアも!」
ご当主様は大変ご立腹のようで、私にまで飛び火して叱られる始末であった。こうなれば私とセシリア様にできることはなく、孫娘との楽しい時間はこれにて終了ということだ。
セシリア様は残念ねえ、と一言漏らして、私のすぐ傍に座った。姉妹のような間柄だと思っていた私とセシリア様は、あの子を通して本当に家族になった。感慨深い。
「あ、おかあさま。まって」
手を引かれた孫娘が、母親を止めた。
「これ、かえしてきますわ!」
そういうことなら、とご当主様が孫娘を送り出し、孫娘は私とセシリア様の元へとやってきた。
「はい! またよんでくださいな!」
孫娘はさっきまで読んでいた日記帳を私とセシリア様に差し出した。それを受け取った私は――ふと、この子の未来について思いを馳せた。
私からは髪の色を、セシリア様からは瞳の色を受け継いだ女の子。この子はきっと、両親、私やセシリア様、旦那様や夫、使用人の皆の思いや願い、果ては希望までもをその一身に受けて、育っていくのでしょう。
人生は長く険しいもの。その道の半ばで苦しい思いや、悲しい別れもたくさん経験することでしょう。
それでも、どうか。どうか、私の願いが、この小さな女の子の力になりますように、と祈りを込めて。
「――嗚呼、お嬢様」
「なーに?」
「はい?」
「何かしら?」
孫娘とご当主様、セシリア様が同時に振り返った。そしてはっとしたように、ご当主様とセシリア様は顔を赤らめた。
「ああ、ごめんなさい。つい昔の癖で」
「あら、奇遇ですねお母様。私も少し前までそう呼ばれていたものですから、思い出しまして」
ああ、そうでした。私にとって「お嬢様」は今や三人もいるのでしたね。何故母と祖母が返事をしたのか、孫娘は分かっていないようでしたが、それも仕方ないでしょう。
あなたは知らないかもしれないけれど、セシリア様も、ご当主様も、私に「お嬢様」と呼ばれていたことがあるのよ。そして、先代の先代――父がその想いを生涯守り抜いた、セシリア様のお母様もまた、父や使用人の皆から「お嬢様」と呼ばれていたことを、私は知っている。オルコット家の女の子は、皆そうして呼ばれ、成長して、ときに呼ばれ方が変わりながら、大人になってゆく。
愛すべき「お嬢様」たち――そんな御三方へ私が願うことは、奇しくも亡き父が願ったことと同じで。
「どうか笑顔で、お過ごしください」
その言葉と共に、涙が頬を伝った。私がそう呟くと、御三方が笑った。
――私の名は、クレア・フラウシート。「お嬢様」の笑顔を守る者。
ときが移ろい過ぎゆくとも、例えこの身が尽き果てようとも、この誓いが、愛するオルコット家の皆々様と共に在ることを、切に願う。
ノート・オブ・クレア~とあるオルコット家使用人の手記~ Fin.
――彼らの日々は続く。オルコットの名と共に。
『ノート・オブ・クレア』の主人公、クレア・フラウシートの姓は本作執筆にあたり大変なご助力をいただきました「ふろうもの」さん及び「シート」さんよりいただきました。お名前をお借りしましたこと、また本作執筆の機会を与えていただき誠にありがとうございました。この場を借りて、お礼申し上げます。