唐突だが、これから私の主のことをここに書き記そうと思う。齢七〇を越えた年寄りにもなって、このような手記をしたため始めたことに我ながら多少驚いてはいるが、今年で主と出会ってからちょうど五〇年……半世紀が経つことを思い出し、私の人生を振り返ってみたくなったのだ。
これは主のとある習慣に起因している部分も大きいと思われる。主にはお若い頃から日記をつける習慣があり、それが今でも続いているというのだから驚きである。
若い頃の日記を読み返しながら、私や老メイドにして幼馴染であるチェルシー・ブランケットに見せては、「こんなこともあったのよ」などと言って昔を懐かしむのが、最近の主のお楽しみらしい。一度見せてもらったページのことを何度も何度も語られるものだから、ついつい「それは以前拝見いたしました」と私は苦笑いをして返すのだが、我が主は決まって「そうだったかしら」とすっかり皺の増えた――けれど昔から変わらない眩しい笑顔を湛えるだけだった。
そんな主への憧れだろうか、今まで手を出そうと思いつつ、一度もしてこなかった日記というものに挑戦している次第である。しかし私は大変に気分屋であり、毎日日記を残すのはとても難しいだろう、ということは最初から分かっていた。そこで今回は、思い切って私が生きた人生の数十年間について書き残したいと思う。伝記と呼べるほど大層なものではない。私自身は平凡な一般人であり、伝記というのであれば、それこそ偉大な我が主の日記を元に編纂して伝記とする方がよいに決まっているのだから。
故に、これから書き残すものは単なる記録である。偉大な主のお傍で生きた五〇年間の記録を、ここに記す。
偉大なる我が主への感謝と敬愛を込めて。願わくば、この手記が我が主――セシリア・オルコットの栄光ある生涯に花を添える一冊とならんことを。
オルコット家使用人、クレア・フラウシート。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
主は数十年に渡って我が国の要職を歴任し、イギリスを太陽のように照らした偉大なお方である。現在一線を退いているものの、その功績と名声は留まるところを知らない。
主はいつも穏やかな微笑を絶やさないお方で、それが世間でも広く知られる主の代名詞でもあるのだが、実は私どもを初めとした、ごく一部の身内にだけ見せる特別な笑顔がある。なんと表現すれば良いか、芸術的センスに乏しい私に形容するのは難しいが、人が持つ温かさも冷たさも内包しながら、本人の喜び、行為、あるいは甘えと言った想いが滲み、見た者を虜にしてしまうような、そんな笑顔だ。
昔、主の生涯の伴侶たる旦那様にそのことについてお尋ねしたことがある。そのとき旦那様は「光だ。俺の人生を照らしてくれる光」と表現された。ロマンチストな旦那様らしいと思いつつ、同じように主に伝えると「まあキザですこと」と、にべもなくさらりと流されていたのだが。ただ、口ではそう言いながらも満更でもない様子の主を見ると、結婚されてから何十年も経ち、歳の大きい孫までいる夫婦だというのに、お二人は相変わらずなのだな、と私は苦笑するばかりだ。
主のその笑顔を見る度、私は今でも思い出す。我が主と出会ったその日と、そして生涯の原風景となる、我が主の笑顔を。
我が主、セシリア・オルコットとの出会いは五〇年前の九月。その日、私の人生は大きな転機を迎えようとしていた。平々凡々を地で行くような私の人生。その大きな転換点となる瞬間は、不意に訪れた。
人生なんて何がきっかけでどう転ぶか分からない。そんな風に世に言われているが、当時の私はその言葉に半信半疑でいた。平凡に成長を重ねて、平凡に職に就き、どこかでいいと思った人と結婚して、子育てをしながら一生を終えていくのだろう――そんな一生を、私は疑わずにいた。
しかし、人生とは時に思いもよらない出会いや出来事で簡単に変わってしまうもの。それはまさにそうだと、「執務室」と書かれた豪奢な扉の前に立つ私は呆然と考えていた。
「こちらです」
チェルシー・ブランケットと名乗る、メイド服を身にまとった赤髪の女性に案内された先の一室。彼女は上品な扉の前に立つと、コンコンと軽くノックした。
「お嬢様。フラウシート様が来邸しております。ご案内してよろしいですか」
「よろしくてよ」
よく聞いたことがある高い声がして、扉が開かれ、中で待つ人物の姿があらわになった。その女性が誰であるか、それを知らないイギリス国民はいないだろう。
デスクに腰かけているその人物。彼女は黒いスーツに映える金糸のようなブロンドの髪を結い上げ、眼鏡の奥に輝く蒼い瞳を、私と交差させた。
初めまして、と鈴が鳴る声が室内に響いた。このよく通る澄んだ声を聞いたのは、一度や二度ではなかった。テレビの電波越しに何度も何度も耳にした、イギリス国民なら誰でも知るような声だ。
「初めまして、クレア・フラウシートさん。オルコット家現当主、セシリア・オルコットですわ」
そう言って優しく微笑むセシリア・オルコット。化粧によって引き立てられた彼女の美貌は、同性である私でさえも思わずどきりとしてしまうほどで。
一瞬見とれてしまい硬直した私だったが、今が面接中なのだと思い出した。用意された席に腰掛ける前に自己紹介をする。
「は、はいっ! クレア・フラウシートです。本日は、よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いしますわ」
緊張して声が少し震えた私に、オルコット嬢がにこりと笑う。
そのときの衝撃は、忘れるべくもない。こんな綺麗な人がいるのか、と現実を疑った。何にどう答えて、何を話したのか、当時のことはあまり思い出せない。
ただひとつだけ確かな確信があるのは、これが私の人生を変える邂逅であったということだ。強く、美しく、そして誇り高き『蒼麗の
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
少し、私の過去の話をしよう。若い頃の話だ。
私の名は、クレア・フラウシートと言った。茶髪に母譲りのそばかすがトレードマーク。身長は一五〇センチほど、スタイルは……まあ自分で言うのもなんだが悪くはない。総合的に見た目は中の上と言ったところであろう。すなわち平凡そのもの。
そこそこの大学をそこそこの成績で卒業し、そこそこの企業に就職。そこから数年が経ち、二十代も半ばに差し掛かったOL……だったのだが。
「はあ、何よリストラって」
六月の上旬。私は社内通達書に記された文字を読みげんなりしていた。中身を読めば小難しいことが書いてあるが、要約すれば「昨年から経営不振が続いてます。人件費が膨大だから削減します。今回は残念だけどあなたが対象でーす、ごめんね」というただそれだけの話だった。
しかも話が急すぎる。解雇はなんと七月末だと言う。あと二ヶ月であなたは職を失うことになりますと言われても、イマイチ実感が湧かないのも無理はなかった。異議申し立てをして会社と戦うこともできたが、今の職に愛着も大きなやりがいも感じていなかったため、弁護士を立てて戦うだとか、そんな気はまるで起きず。引き継ぎやら転職活動やらに追われるうちにあれよあれよと二ヶ月が過ぎ、私は無職になった。
結局、転職先も決まらないまま、八月の上旬。私は何もする気が起きないまま、昼過ぎに起き出しては、家のベッドで寝転がって、端末で求人サイトめぐりをしていたのであった。
「クレア、お昼できたわよ」
昼食ができたらしく、母親が部屋をノックして入ってきた。
「ってあんた、またそんな寝間着でゴロゴロして。次の仕事は決まったの?」
「まだ」
「もう。まだ若いってのに、そんな生活してたんじゃ枯れちゃうわよ」
呆れたような母親のお小言に「はいはい、わかってるって」などと気のない返事をしつつ、用意してもらった昼ご飯にありつこうとリビングに移動した。
遅起きした昼下がり特有のぼんやり感に酔いながらサンドイッチにかじりついていると、電話が鳴った。何かしら、と呟いた母が電話に出た。
「ハロー、フラウシートです。……はい、はい、いつも夫がお世話になっています。……え?」
母がいつものように電話していたのだが、顔がみるみる青くなり、口調にも焦りが浮かんできていた。
「お、夫が!? 本当ですか!? 今どこに!?」
母は慌てた様子だ。父は仕事中のはずだが……。父の身に何かあったに違いない。明らかにただごとではなさそうだ。
受話器を下ろした母。流石に心配になって母に尋ねた。
「お父さん、何かあったの……?」
「……お父さん、交通事故に遭って大怪我したんだって」
「お、大怪我!? 大丈夫なの!?」
ガタイが良く頑丈な父が大怪我したというのだから、大変な事態であることは容易に想像できた。
「とにかく命に別状はないって。本当によかったわ」
「そ、そう……」
涙ぐむ母の一言を聞き、心から安堵した。
――よかった。
「今ロンドンの病院にいるそうだから、行ってくるわ」
「私も行く」
母が荷物をまとめて出かけるのに合わせて、私も家を出た。
向かった先の病院で待っていたのは、全身に包帯を巻き付けられた父の痛々しい姿であった。
首が動かせないらしく、私と母は覗き込むように父の顔を見た。擦りむいた箇所が多すぎて、顔全体が絆創膏とガーゼで覆われていた。父の手を母が握ると、父はそれをゆっくりと握り返した。
「お父さん……!」
母が堪え切れずに泣き出したのにつられて、私も泣いてしまった。
「ぐす、お父さん……よかった」
ああ、と声になっているのかすら怪しい、もはや呻きに近い返事であったが、父が生きていることの証ではあった。それで十分だった。父との突然の別れにならず本当に良かった。
そのとき、私はただ安心するばかりであった。しかし、図らずもこの出来事が、知らずにいた父の人生について知り、主と出会うきっかけになったのだから、人生とはわからないものである。
それから一週間が経ち、父の怪我は一応順調に回復していた。一応というのは父の怪我が全治一年を要する大怪我であり、リハビリなどを含めると向こう半年は入院生活を強いられるためであった。
そもそも父の怪我は、横断歩道を歩行中に信号無視をした大型車に撥ねられたことが原因であった。運転手は飲酒運転をしており、事故後に逃走したが、まもなく逮捕されたそうだ。犯人は全面的に罪を認めているようで、多額の損害賠償が父に支払われると聞いた。犯人を許せないと思う気持ちはあったが、それよりも父が無事だったことの安堵感が勝っていた。
父の容体が落ち着いたこともあって、普段のようにパートタイム労働に出かけた母に代わり、父のいる病室を訪れた私は、見舞いの品を片手に父の待つベッドへと赴いた。
「お父さん、来たよ」
「……クレアか。わざわざすまん」
何とか話せるくらいには回復した父だが、身体はまだ起こせないと医者から言われていた。
「いいって。どうせ今ニートだし」
無機質な病室が気になって、「何か見る?」と部屋のテレビのリモコンを手に取ってみたが、父は構わん、と特に気にしていない様子だった。
小さな椅子に腰かけて、寝たきりの父の横に腰かけた。
父と二人きりでいるなんて何年振りだろうか。このくらいの歳になれば特別変なことではないのだろうが、父は『同じ家に住んでいる人』くらいの認識でしかなかったように思う。ガーゼの隙間から覗く白髪の混じった茶色い髪が、自分のそれとそっくりで、自分と父が血のつながった親子であることを改めて実感したような気がした。
父がクレア、と私を呼んだ。こうして名前を呼ばれたことでさえ、久しぶりな気がした。
「仕事、決まったのか」
「まだ」
「……そうか」
「近いうちに決めたいとは思ってるよ」
「そうか」
昔から変わらず口下手な父。返事がそっけなく会話が長く続かないが、この人の娘を二十何年も続けている私には慣れたものである。
「それで、仕事の話だが」
「うん」
「何か希望はないのか」
「特にないよ」
父はまた「そうか」と答えた。ここまで父が私の仕事について尋ねてくることは珍しい。学生の時も、就職してからも、私の進路や職業について一度も口出しされたことはなかったのだが。
次の職業については、本当にこだわりも希望もなかった。人並みに生活できるくらいの給料と、少しくらいやりがいがあれば、何でも。せっかくだから今までとは別のことをしてみてもいいかな、とは思っていた。その旨を父に伝えたところ、そうかと父は答えた。
「クレア、ひとつ提案があるのだが」
珍しく父が話を切り出した。いつになく真剣な口調で話す父に、私が何、と尋ねた。
「お前が良ければ、だが」
「うん」
「私の職場に来てみる気はないか」
……はい? お父さん、今、何て?
「お前が失業したと聞いてから考えていたのだが、どうだ」
「ちょ、ちょっと待って、話が急すぎて理解できてない」
私がお父さんの職場に? な、なんでそういう話になったわけ……!?
父に事情を聞くと、父の職場では、出産や退職など諸々の要因が重なって離職者が増え、人手が不足しているという。さらに父の怪我もあり、現在父がいたポジションには急遽別の人間が入り職務を代行してくれているが、その影響もあってますます人手不足が深刻化したのだとか。
まあ、話は分かった。要は人手が足りないってことね。たまたま良さげな労働力(私)が身内に転がってたから、候補に挙がったと。
――だがしかし、そもそも大事な情報が抜け落ちている。
「私、お父さんの仕事知らないんだけど」
「……そうだったか」
ばつが悪そうな父。だって、仕事のことなんて一回も話してくれたことなかったじゃん。
聞かれたことがなかったからな、と父は言った。確かに今まで私から聞いたこともなかった、特に気にしたこともなかったし。そのあたり物凄くドライなのがいかにも我が家という感じだ。
「私は、とある名家の執事をしている」
へえ、意外だ。ガタイはいいし腕っ節は強いみたいだから、どこかの警備会社か何かに勤務しているものと勝手なイメージを持っていた。
執事かあ、意外とオシャレなことしてたのね。
「で、どこの?」
「オルコット家だ」
……うん?
「お前も知っているとは思うが、セシリア・オルコット様の邸宅だ」
「……はい?」
――当時の私を一言で表現するならば、呆然という言葉が一番適していたように思う。
自らを、そして父も母も平々凡々であると断じて疑わなかった私は、このとき初めて父がセシリア・オルコットの執事であったことを知ったのであった。
「セシリア・オルコットって『あの』!?」
「ああ、その方だ」
「お父さんあの人の執事なんてやってたの!? 何で言ってくれなかったのよ!」
「聞かれなかったからな」
「そうだけど!」
――と、ここから我が主セシリア・オルコットとの出会いに繋がるわけである。
私には荷が重い、と父の話を一度は断ろうとした私であったが、一方で平凡などこにでもいるOLでしかなかった私が、イギリスを代表する有名人の使用人として働くことにどこか興奮を覚えたのは事実だった。
結局面接で落ちるだろうし、有名人に会いに行こう、くらいの半ばダメ元の気持ちで父の話を受けた私だったが、何の因果か、面接を受けたあとに届いた一本の電話で、私の人生は大きく変わることになる。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
オルコット家使用人、オーウェン・フラウシート。これが社会人としての父の肩書きであり、二十数年父の娘でありながら知らずいた新事実であった。父がそんな仕事をしていたということにも大概驚きだが、そのコネありきとは言え、まさか娘の私までもがオルコット家で働くことになるとは、誰が予想できたであろうか。
突然の失業と父のコネによるキャリアチェンジ。それに伴い、ライフスタイルにも大きな変化が生まれていた。
まず、引越し。私の職場であるオルコット家の邸宅は、ロンドンの郊外の一等地に建てられた豪邸である。市内にある私の実家からは少々遠く、市内の地下鉄やバスを駆使して行くには煩雑である。父は車で通勤していたのだが、私には自分の車がないため、実家から通勤するのは素直に諦め、この際と一人暮らしを始めることに。オルコット家には専用の使用人寮があり、使用人は格安の家賃で入居ができるとのことだったので、新居はそこに決まり、とりあえず最低限の荷物だけをまとめ引越した。
生活リズムも直さねばならかった。とてもではないがニートしていたときと同じ生活は送れない。朝は決まった時間に起き、オルコット邸に赴いて日々の職務にあたる。眠気眼を擦りながらでも寝坊せず毎日出勤できているのはOL時代の貯金と言わざるを得ない。
と、このような変化がありつつも、オルコット家の使用人として、制服であるところのメイド服(トラディショナルな意匠を残しつつ現代的にブラッシュアップされた制服で、なかなか可愛い)に身を包んで仕事にいそしんでいた私は、廊下ですれ違った輝くブロンドの髪色が目に入った途端、ぴんっと背筋が伸びるのを感じた。
「セ、セシリアお嬢様っ!」
「あら、クレアさん」
私を見るなり、名を呼んだお嬢様。
お嬢様こと、セシリア・オルコット。イギリス国家代表IS操縦者にして、由緒正しき名家オルコット家の現当主。若くして国家代表の重責を担い、その名に恥じぬ卓越したISの操縦技術を持っている。ここ最近では最大規模の国際大会モンド・グロッソで入賞するなど、その活躍は留まるところを知らない。またその容姿も端麗そのものであり、ブロンドに輝く髪を揺らし蒼いISを駆って各国の猛者を撃ち抜くその姿は、世界中の人々を魅了した。
容姿、家柄、実力……すべてを兼ね備えた彼女はまさにパーフェクト。国内での人気も絶大で、私のような平凡に平凡を重ねたような一般人からすれば雲の上のそのまた上のような存在――だったのだが、今こうして目の前にいるのが、セシリア・オルコットその人であった。というか、正真正銘私の雇用主であった。
セシリアお嬢様は、私に会うなり彼女の代名詞である柔らかい微笑を私に向け、ごきげんよう、と挨拶をした。私は慌てて姿勢を直して「おはようございますっ」と挨拶を返した。
「お仕事には慣れたかしら?」
「は、はいっ、少しずつですが……」
「ふふ、よかったですわ」
にっこり笑ったお嬢様。
――ああ、なんて綺麗なんだろう。毎朝鏡でこんな顔を拝めたら幸せに違いない。
「バトラーの容態はいかがかしら?」
一瞬馬鹿なことを考えてしまったが、お嬢様から父の話題が出たので、慌てて現実に戻った。
「バトラー」とは父のニックネームなのだと、以前お嬢様に教えていただいた。ニックネームも何も役職名そのものなのだが、何でも堅物でいかなるときも執事としての姿勢を崩さない父の姿を見て、「あなたは執事の中の執事ね」とお嬢様が仰ったのがハマったらしく、オルコット家でこの呼び方が定着したらしい。以来バトラーとは役職ではなく父個人を指す呼び方であるそうだ。
使用人の組織体系としては、一応メイド長であるチェルシー・ブランケットを使用人のトップとはしているものの、チェルシーはセシリアお嬢様の私的な副官としての役割も強いため、実質的な家の使用人の統括はバトラーこと父オーウェン・フラウシートが行っていたとのことであった。なお、父が休職状態である現在、父が行っていた職務の大半はチェルシーが肩代わりしている状態で、チェルシーの手が回らない職務の一部を他のベテラン使用人が行っているらしい。私はその見習いというわけだ。
父がそこまで職場で重要なポジションにいたのも驚きでしかない。ここに来てから、いや正確には父が事故に遭ってから、知らなかった父の生き様を目の当たりにしてばかりだ。
「回復は順調と聞いています。脚に後遺症が残るかもしれない、とは聞いておりますが……」
「そう……」
残念そうに眉を落としたお嬢様。お嬢様と父の付き合いは長いようで、私とは鉢合わせなかったが、何度か病室にも足を運んでくださったようだ。
ちなみに、母は父がこういう仕事をしていることはとっくに知っていたらしい。結局知らなかったのは私だけということだ。
「快方に向かうのが待ち遠しいですわね」
「はい」
父を心配してくれているお嬢様に感謝しつつ、仕事があるので、と私が立ち去ろうとすると、お嬢様はそれでは、と手を振って離れていった。
その後ろ姿も麗しいの一言に尽きる。流れる髪の毛も優雅そのもの、脚が長くて腰も高いし、歩き方ひとつとっても気品に溢れていた。お嬢様とお近づきになって改めて強く実感する、自分とお嬢様の大きな差。いいなあ、とどこかで思ってしまっている自分がいた。
どうしようもなく、憧れてしまう。セシリア・オルコットという、特別な存在に。
夜になって仕事が終えた私は、市内に繰り出していた。翌日が休みということもあり、夜更かししても何も問題ない。
行き先は――バー、「
「いらっしゃい」
ドアを押して、店内に入った私を迎えたのは、カウンターに立つ口元に髭をたくわえた男性――この店のマスターだ。
「こんばんは」
「おうクレア、久しぶりだな。半年も顔見せねえから何かあったとは思ってたけどよ」
「いろいろあったのよ、いろいろ」
マスターの前の席に腰かけて、「モヒートよろしく」と注文するとマスターはあいよ、と気のいい返事をしつつグラスにカクテルを作り始めた。
この店はOL時代にたまたま見つけた店で、静かな雰囲気と美味しいお酒とおつまみが気に入ってよく通っていた。最近は仕事の関係もあって顔を出せていなかったが、今日はそういう気分だったのでお邪魔することにした。
マスターがカクテルを作り終わると、私の目の前にグラスが差し出された。一口煽ると、ミントの爽やかな香りが広がって……はあ、幸せ。
適当に頼んだおつまみもカウンターに揃い、ちびちびつまみながら美酒を堪能した。
「んで、最近は何してたんだ」
マスターがグラスを拭きながら尋ねてきた。
仕草から見た目、仕事ぶりもなかなか様になってはいるのだが、この男、まだ三十いくつの歳と以前聞いて非常に驚いた。何でも前の主人が体調を崩してしまい、その一人弟子であったこの男が店を継ぐことになったと聞いた。この男の素性に関しては謎に包まれており、アラン・シルバーという名前くらいしか知らないのだった。
「何してたって、就活よ就活。もう職場も決まったし、働いてる」
「ほー。何の仕事だよ」
「使用人。オルコット家の」
「ふーん、オルコット家ねえ。……は?」
マスターの顔色が変わった。「あの?」と信じられないように聞くので「そう」と答えた。まあ普通のOLからの大胆なジョブチェンジだ、驚くのも無理からぬこと、というか私自身が誰よりも一番驚いている。
「ほお。クレアが、あのオルコット家にねえ」
世間ってのは案外狭いもんなんだな、とぼそっとマスターが言ったが、イマイチその意味がわからなかった。
おつまみのチーズをフォークで突いたところで、空になったグラスをマスターに返した。
「それじゃマスター、次よろしく」
「あいよ」
久しぶりに行きつけの店に来たからか、新しい仕事への戸惑いや不安も忘れて、私の心は弾んでいた。
顔馴染みの店主からカクテルを受け取り、英国の夜は深まっていく。そんな秋の、とある一日。
当時の私の中にあったセシリアお嬢様への感情はと言えば、強烈な憧憬と、その半面に潜むほんの少しの嫉妬と劣等感だけ。
私がセシリアお嬢様を生涯の主と思うようになるのは――……もう少しあとのこと。
お久しぶりです、若谷鶏之助です。
これよりセシリア・ダイアリーの別冊という形で投稿させていただく予定です。
前中後編の三本立てとなります、よろしくお願いいたします。
(7/2追記)
簡単にですが今回登場する主なキャラクターの紹介とまとめをば。
クレア・フラウシート
二十代半ばくらいのイギリス人。茶髪にそばかすがトレードマーク。
平凡だと思ってたら父親が平凡じゃなかった。その父のコネでオルコット家の使用人として働くことに。
オーウェン・フラウシート
クレアの父親。無口で武骨でガタイのいいオッサン。
オルコット家の執事であったが、交通事故に遭い重傷を負って入院中。
オルコット家では執事の中の執事という敬意を込め「バトラー」と呼ばれている。
アラン・シルバー
クレア行きつけのバー「
本名は一度書いたきりで多分今後もマスターとしか呼ばれない。