セシリア・ダイアリー   作:若谷鶏之助

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PageEX:「ノート・オブ・クレア」中編

 オルコット家の使用人として働き始めて数ヶ月。その日は朝からひどい雨だったことを覚えている。

 私は――やらかした。

 

「――大変申し訳ありませんでした」

 

 俯いて私は謝罪の言葉を口にする。その先にいるのは、セシリアお嬢様の右腕にしてメイド長であるチェルシー・ブランケット。彼女は厳しい顔で私を追及していた。

 とある仕事上のミスだった。原因、結果ともに私の全面的な過失。言い訳の余地はなかった。私の不注意が招いた、単純にして大きなミスだ。

 

「クレアさん、このミスは看過できません。どうしてかはお分かりになるでしょう。あなたの行動がお嬢様の、ひいてはオルコット家の品位を貶めることになるのです」

「……はい」

「こんなことを繰り返すようならばお仕事は立ち行きません。新入りだからと言い訳せず、あなたも誇りあるオルコット家の一員であるという自覚をお持ちなさい」

 

 はい、と小さく返事をした。その一言で、私への叱責は終わった。私個人への厳重注意で済んだと言えば済んだのであるが、精神的なダメージは小さいとは言えなかった。

 誰だって怒られたくはない、それは真面目に仕事をしているなら、尚更である。

 

「はあ……」

 

 重いため息が出た。ここまで大きなミスは仕事を始めてから初のことで、反省と後悔は尽きない。こんなことがあった日には、仕事へのモチベーションもダダ下がりである。

 ミスの繰り返しだけはすまいと誓い、私は仕事に戻ったが、心の中ではずっとわだかまりがあり、消えることはなかった。

「父なら、こんなミスをして怒られたりしなかったんだろうな」と、どこかで悪い自分が僻みを燻ぶらせていたのだった。

 

 

 

 

 ――その夜。バー「Gloria」にて。

 

「あ~、無理よ~、私には~」

「……クレア、お前飲み過ぎじゃ」

 

 いつものようにマスターがグラスを拭きながら心配そうに言うが、すっかり酒が回った私には関係なく。

 

「いーの! お嬢様にはお休みいただいてるからー! 今日私がどんだけ飲み続けても、ノープロブレムっ!」

「待て待て、プロブレムしかねぇだろバカ。お前が外でやらかしたら、迷惑かかるのはオルコットのお嬢様に決まってんだろ」

「はあ!? あんたまでそんなこと言うの!? 仕事の愚痴くらい言わせなさいよ! お代だって払うし、どんだけ飲もうが私の勝手でしょーが!」

「わーったわーったやめやめ! 俺が悪かった! 好きなだけ飲めやチクショウ!」

「へへ、そう来なくっちゃね! んじゃ次よろしく!」

「……へいへい」

 

 最悪潰れたら俺が面倒見りゃいいか、なんてマスターがカクテル作りながら言った。普段ならば男の前で酔い潰れて世話になるなんぞ無防備すぎるでしょ、と理性が働くところだが、ご覧の通り完全に酔っ払った私に正常な判断力はないのであった。

 おまけに、酒の力で仕事で積み重ねたストレスがぼろぼろと口から飛び出てきた。

 

「ったく、どいつもこいつも品格だの責任だのってうっさいのよ。一般人の私にゃ荷が重いっつーの」

「そんなに嫌いか? オルコット家の仕事が」

 

 見かねたマスターからのその問いに、私は無言になった。

 

「本当に嫌なら、とっくに辞めててもいい頃だと思うけどな」

「……ふんっ」

 

 正直に言って、嫌いだなんてことはない。キャリアを考えれば給与も待遇も破格、仕事は楽ではないし要求されるものは多いけれど、やりがいだってある。一緒に仕事する人たちもみんな気さくだし、仕事に対して真面目で誠実だから、仕事のモデルとしては理想的だ。

 何より、主たるセシリアお嬢様は本当に素晴らしい方だった。私では到底及ばないような才覚と気品と人格を併せ持っている。そして、それらが生まれ持った以上にお嬢様の弛まぬ努力によって磨かれたものであることも知った。テレビ越しに見ていたイメージが悪くなるどころか、セシリアお嬢様のことを知れば知るほど、素晴らしいお方なのだと肌で感じるようにった。

 セシリアお嬢様は十分すぎるほどに、お世話をしたいと思えるお方だ。現当主である彼女の人柄がああだから、オルコット家は明るく穏やかな雰囲気なのかもしれない。それを心地よく感じている自分がいるのは、間違いないのに。

 ――なのに。どうして私はこんなにも不満ばっかりなんだろう。

 

「じゃあお前、なんでそんなに不満が出てくる」

 

 その疑問はマスターが代弁されてしまった。誤魔化そうとカクテルをグビっと煽って、「そんなの、私が知りたいわよ」と悪態をついた。

 

「嘘つけ。……ほんとはお前、拗ねてんだろ」

「ちょ、待ってよ! 拗ねてるってそんな」

「大方、『私なんてどーせお父さんのスペアとしか見られてないんだ』とか考えてんじゃねーの? 違うか?」

 

 言い返そうとしたが、ぐうの音も出ない。図星だったらしい。

 ……そっか、拗ねてたんだ、私。心のどこかで、オルコット家の中で慕われていたお父さんと、上手くいかない自分を比較して。

 仕事に関して、邸の人たちが父を引き合いに出したことは一度足りともない。「あなたのお父さんはね」と、思い出話をされる度、勝手に比較されていると思い込んでいたのは、私自身だった。

 それだけじゃない、きっと私は父にも嫉妬していた。平凡だと自覚してやまない自分の父親が、特別なオルコット家で特別な人だったことを知らなかったから。

 

「割り切るべきだろ。お前とお父さんは、別人なんだからよ」

「……うん、そうする」

 

 グラスに残ったカクテルを一気に流し込んだ私は、火照った顔を冷ますように手で仰ぐ。

 ――私、まだまだだ。こんなことではいけない。もっとオルコット家に相応しい人間にならないと。

 ちょっとだけ、楽になった気がした。ありがとマスター、それと美味しいお酒!

 

「あーもうっ! やっぱ飲む! 明後日のお仕事から頑張るためにも、今日は酔う!」

「おう。そうしろそうしろ」

 

 悩みと一緒に空になったグラス。マスターに次のカクテルを注文した。

 届いたグラスを受け取って、一口付けようとしたその時だった。扉が開くカランカランという音が聞こえたのは。

 

「もう、ひどい雨ですわね。マスター、こんばんは」

 

 びくり、と条件反射で振り返る。

 こ、この声は、もしや……!

 

「おー、お嬢! 久しぶりじゃねえの!」

「お久しぶりですわね。ふた月ぶりくらいかしら」

「なかなか来てくれないもんだから、仕事が大変なんだろうなって思ってたよ」

「正解。このところ新しい代表候補生の選定に手間取っていまして。何せ今年は特に粒ぞろいの年だったものですから」

 

 マスターと世間話をしながら、お嬢と呼ばれたそのお方は、変装用のサングラスと帽子を外し、その波打つブロンドの髪を解いた。スーツ姿のその人は、何を隠そう、私の主であるセシリアお嬢様その人であった。

 なお都合の悪いことに、店の中には私とマスターとお嬢様の三人だけ。当然、私の存在がバレないはずはなく。

 

「あら? あなた、クレアさん?」

「あ、あ、あはは……」

 

 乾いた笑いしか出てこない私。酔いが急激に冷めていく。

 ……き、気まずい。つい五分前まで仕事の愚痴をこれでもかと垂れ流していたと言うのに。そもそも、何故こんなバーにお嬢様が来るの?

 冷や汗が止まらない状態でマスターにどういうこと、と目で訴えると、マスターは笑いを必死に堪えていた。

 

「ああ、お嬢な。ちょっと前からここの常連なんだよ。婚約者さんがイギリスに来たとき二人で寄ってくれたのが縁でね。一年半くらい前からか」

 

 お嬢様が「そうなんですの」と柔らかく微笑んだ。

 そんな馬鹿な。なら私、お嬢様と知り合う前からニアミスしてたってこと!?

 隠れ家だと思ってたら、見つかりやすい場所だったというオチであった。そういえばマスター、私がオルコット家でお仕事してるって言ったとき意味深な顔してたわね。お嬢様が常連なのを言わずにだんまりとは、この男中々いい性格をしているではないか。

 

「は、早く言いなさいよそれ……!」

 

 わなわなと震える私に、「わりぃわりぃ」と笑いながらマスターが言った。この顔、絶対に反省してない。いつかシバく。

 

「クレアさん。隣、よろしいですか?」

「はいっ! も、申し訳ありません、すぐに退きますので!」

 

 お嬢様に声をかけられて、途端に焦る私。お嬢様のお隣なんて恐れ多い。しかし、お嬢様はそのままでいいですわ、と仰った。

 

「そんなに気を使わなくてもよろしくってよ」

「で、ですが……」

「ここは邸の外ですし、あなたもお休みなのですから。今日は主と使用人ではなく、同い年の女性同士、仕事終わりの一杯といきましょう。ね?」

「は、はい……」

 

 私が頷くと、にこりと笑ったお嬢様。そんな口説かれ方をされては、私に打つ手はなかった。お嬢様はバッグを荷物入れのカゴに置くと、私の隣に腰掛けた。

 

「ふう。……ではマスター、いつもの一杯」

「はいよ」

 

 マスターがカクテルを作り始めたのを見て、私は隣に座ったお嬢様を見つめた。

 スタイル抜群だ。丸椅子の上に乗るウェストからヒップまでのラインは、魅惑的な流麗さだった。バーのカウンターに座るだけで絵になる。

 しばし見蕩れた私だったが、いつも付き従っているブランケットさんがいないことに気づいて、お嬢様に問いかけた。

 

「あの、お嬢様。ブランケットさんは……」

「チェルシーとは、時々こうして別行動していますの。チェルシーも毎日私と一緒では、息が詰まってしまいますから」

「……存じていませんでした」

「無理もないですわ。それくらいチェルシーはずっと私に付いて尽くしてくれていますから。これはチェルシーにも少しくらい自分の時間を作って欲しいと思って、わたくしから言い出したことですの。……実は、わたくしがチェルシーの目から逃れるための方弁でもあるのですけれど」

 

 これは秘密ですわよ、と茶目っ気たっぷりにウインクするお嬢様。……可愛らしいことこの上ない。

 

「ジントニック。お待たせ」

 

 マスターがお嬢様の前にグラスを差し出した。お嬢様はありがとうと一言告げてグラスを受け取ると、私の方に向ける。

 

「それでは、外は生憎の雨ですけれど。素敵な夜に、乾杯」

「か、乾杯」

 

 お嬢様がグラスを掲げたのに合わせて、自分もグラスを掲げた。お嬢様はくっとグラスを傾けて、一口味わった。

 

「ふう。……美味しい」

 

 最高の一杯ですわとお嬢様が惜しみない賛辞を送ると、マスターはどうも、と小さく返した。

 なんだか、不思議だ。少し前までテレビの中でしか見たことのなかった有名人が、自分の上司で、しかも隣でお酒を飲んでいるなんて。

 

「そんなに意外かしら。わたくしが来ていること」

 

 微笑を浮かべているお嬢様が尋ねた。じっと見ていたから見透かされたらしい。

 

「い、いえっ、そんなことは……」

 

 誤魔化すようにグラスを煽った。すっかり毒気を抜かれて慌てふためく私を、マスターがおいおいと茶化してきた。

 

「さっきまでの勢いはどうしたよクレア」

「う、うるさい」

 

 お嬢様の前なんだから、緊張するなって方が無茶だ。

 

「あら、そんなに豪快な飲みっぷりでしたの?」

「おーよ、ギャーギャー喚き散らしながらガブカブ飲み散らしてやがったよ」

「マスター! やめてよお嬢様の前で!」

 

 いくら顔馴染みだって言ってもこういう容赦ないとこはダメだと思う! ほんとに!

 焦る私を見て、お嬢様はくすくす笑っていた。

 

「良いことですわ。お仕事の愚痴くらい、どこか吐き出すところがありませんと」

 

 お嬢様はそう言って、グラスを傾けて空にした。いい飲みっぷりだった。

 

「さあマスター、次を」

「お嬢、ペース早くねぇか?」

「構いませんわ。今日は酔おうと思っていますから」

「そっか、いろいろ溜まってんだな」

「ええ、それはもういろいろと」

 

 次のカクテルが来ると、お嬢様は一口含んで私に話しかけた。

 

「ねえクレアさん。今日はわたくしの話相手になってくださるかしら?」

「私が、ですか?」

 

 良いのだろうか。私が雇い主であるお嬢様のお話相手を務めるなんて。

 

「はい。わたくし、こうやって話せるお友達があまりいませんの。聞いてくださる?」

 

 お嬢様と直接話せる機会、これってかなり貴重なのではないだろうか。しかも、こんなプライベートな場で。

 

「……私で、良ければ」

 

 控えめに言った私に、「ありがとう」とお嬢様が微笑んだ。

 

 

 

 ――その、三〇分後。これ見よがしにグラスの氷をころころと回しながら上司のセクハラに憤るお嬢様の姿があった。

 

「もう、信じられませんわ! あの男、何度も何度も何度もわたくしのことを口説いてきて! わたくしには将来を誓い合った婚約者がいますと何度も突き放していますのに!」

「は、はあ……」

「立場上わたくしが強く拒否できないのを良いことに食事だデートだと擦り寄って来ますのよ。気色の悪いこと! 信じられます!?」

 

 あのニヤけ面の眉間をスナイパーライフルでぶち抜いてやりたいですわ、と恐ろしいことをのたまうお嬢様。『蒼麗の狙撃姫(ヴァルキリー)』の異名を持つほどのお嬢様の腕前で言われると洒落にならない。

 すっかり出来上がってしまったお嬢様に完全に面食らっている私だったが、マスターは見慣れているのかそこまで驚いた様子はなく、「言わんこっちゃない」と苦笑いしていた。

 

「あんた、そんなに酒強くねぇのにペースが早いんだよ」

「美味しいお酒を出すマスターのせいですわ」

「へへ、嬉しいこと言ってくれるねえ」

「そういえば、彼もまた来たいと言っておられましたわ」

「そうかい。若旦那にはいつでも待ってるぜって伝えといてくれよ」

「お任せ下さいな。まあ彼のことですし、イギリスにいらしたら、わたくしから言わずとも足を運ぶことでしょう」

 

 彼はお酒好きですもの、とマスターから次を受け取り、おつまみのチーズとサラミをつつくお嬢様。バーの店主に名家の令嬢、そしてその使用人の奇妙な晩酌は進んだ。

 お嬢様が来てからというもの、借りてきた猫のように大人しくなってしまった私は、普段見てきたお嬢様と今のお嬢様のギャップに戸惑うばかりであった。お酒飲んで、酔っ払って、上司の振る舞いに愚痴るお嬢様はこう、年相応というかなんというか。

 呆然としていた私に、お嬢様がむっと口を尖らせた。

 

「……むう、クレアさんったら遠慮ばっかり。わたくしはもっと仲良くなりたいですわ」

「そ、そんな、恐れ多いです」

「わたくし、皆さんが思っているほど大人ではありませんのよ。ストレスが溜まればこうして愚痴だって言いますわ」

 

 ぐっとグラスを傾けたお嬢様。使用人になってまだ歴が浅い私だから、お嬢様のこんな一面を初めて見るので戸惑っているのは否定できない。

 

「はあ。ねえ、クレアさん。バトラーは大丈夫ですの?」

 

 いつぞや以来に父の話題が出た。

 

「怪我の回復は順調だそうですけれど、わたくしが詳しい容体を聞いても『問題ありません』の一点張りで詳しいことは何も言ってくださらないのよ」

 

 心配していますのに、と不満そうに言うお嬢様。主に対してすら自分のことは必要最低限しか伝えないあたり、父らしいなとは思った。父はあまり自分のことについて話したがらない。

 そしていつの間にか、マスターがふっと私たちの前から消えてバックヤードへと移動していた。

 

「それは……はい。順調と私も聞いています。ですが、最近は父や母と連絡をとる機会も少ないもので、詳しいことは」

「あら、どうして?」

「その、私も父も母も、昔から放任というか、そういう部分に関してはドライと言いますか……」

「好きにしなさいということかしら。信用されているのね」

 

 信用されている、とお嬢様は表現した。確かに、そうなのかもしれない。

 別に愛されていなかったとかそういうことではなく、なんかこう、必要以上にベタベタしないというか。父がそんな感じだったので、母もそれに倣っていたように思う。この親にしてこの子ありと言うか、そんなところだ。

 お嬢様も思うところがあるのか、バトラーらしいですわ、と苦笑した。

 

「いいですわね。クレアさんが羨ましいですわ」

「……はい?」

 

 ――羨ましい? お嬢様が、私を?

 驚きのあまり失礼ながらもう一度聞いてしまった。

 

「だって、バトラーのような素敵なお父様がいらっしゃるんだもの。……わたくしには、もう父も母もいませんから」

 

 グラスを軽く回しながらも、少し寂しそうにお嬢様は言った。

 あ、と思わず声が出てしまった。そうだった、お嬢様のご両親は既に他界しているのだと、今更ながらに私は思い出して、私は言葉に詰まった。

 

「普通のお家で育って、学校に行って、普通にお仕事をして……そんな人生を夢見た日もありましたの」

 

 亡き両親への想いを馳せているのか、少し天を仰いでお嬢様は言った。お嬢様の両親が事故で死別したのは、お嬢様がまだ一〇歳を過ぎて少しの頃だったと聞く。

 その頃の私は、思春期前後の多感な時期で、ちょうど父や母との距離感に悩んでいた時期でもあったように思う。必要以上に反発したり、大人になりたくて背伸びしたり、年相応に悩んだりして今があるのだから、その時期に親を失ってしまったお嬢様が複雑な感情を持て余していたとしても、何も不思議ではない。

 

「今はもう吹っ切れましたけれど。両親を失った分の幸せは、彼や邸の皆にもらっていますから」

 

 にこり、とお嬢様は笑った。

 

「父の代わりになってくれたのが、あなたのお父様ですの。母代わりは、そうですわね、給仕係のマーガレットかしら。姉代わりがチェルシーで……とにかく、使用人の皆がわたくしを支えてくれて、今のわたくしがありますの」

 

 お嬢様は、自信と誇りに満ち満ちた瞳で私を射抜く。

 その蒼穹の瞳は、まるで宝石のように輝いていて。容姿だけではない、彼女の心の在りようが、生き様が美しいのだと私は知った。そしてそんな彼女を育てたのは、オルコット家の人々なのだと悟った。

 お嬢様が「バトラーの好物、ご存知かしら」と尋ねた。「知っています」と私は答えた。

 

「コーヒーです。父はほとんど趣味はないのですが、コーヒーには凝っていて」

「挽き方から淹れ方までこだわっていましたわね。家でもそうだったのかしら?」

「はい。よくわからない豆を買ってきては、自分で焙煎したりもしていました」

「そうそう。あ、そうですわ、クレアさん、バトラーのコーヒーを飲んでみたことはありますの?」

「何度かあります。でも、苦くて……」

「そう! 彼ったらブラックしか飲まないんですもの。わたくしも飲みたいとねだったりしたものですけれど、苦すぎてあとでミルクとシュガーをたくさん入れて飲んでいましたわ」

 

 父の他愛のない話でお嬢様と私は盛り上がった。

 そのときが初めてだったかもしれない。今まで遠い雲の上の存在だと思っていたお嬢様が、ずっと身近な存在に感じたのは。オルコット家使用人としての父の姿は知らなかった私だが、立場は違えど同じ人間、父の人柄が変わるわけではなく、こうしてお嬢様と父の話をすると、お嬢様がどれだけ父のことを見ていたのか、そして慕ってくれていたのか伝わってくるようだった。

 

「ずっと思っていましたの。クレアさんは私にとって、同い年の姉妹のような存在なのではないかと」

「姉妹、ですか?」

「ええ。わたくしにとって、バトラーはお父様も同然。そのバトラーを父に持つ者同士、言わば姉妹のような関係ではありませんこと?」

 

 同じ人を父に持つ者同士、姉妹のような存在だとお嬢様は言った。

 まさか、最初に会ったときからお嬢様が私のことを姉妹のように思ってくれていたなんて。俯いた顔を上げたら、お嬢様は「血の繋がりもないのに、失礼かしら」と小さく首を傾けて言ったが、私はそんなことはありませんと否定した。

 その、驚きのあまり返答ができなかっただけです。まさかお嬢様がそんな風に思ってくれていたなんて、思いもよらないではないか。

 

「い、いえ。……その、嬉しい、です」

 

 小さく言った私。お嬢様はにこりと笑った。

 私も一人っ子だから、兄弟姉妹が欲しかった気持ちは少なからずあった。それに、さっき父の話をしているときに思っていた――もし姉妹がいたとしたら、こんな感覚なのかな、と。だから、照れくさくてしょうがなかったのである。

 

「わたくしも嬉しいですわ。……クレア、と呼んでもいいかしら」

「は、はい。是非……」

「ふふ。――ではクレア。改めてよろしくお願いしますわ」

 

 どきり、と心臓ごと身体が跳ねるような感覚がした。それはとびっきりの眩しい笑顔だった。初めて会ったときとは違う、特別な笑顔。

 ああ、そうかと、私は理解した。何故、オルコット家の皆がこの方に尽くそうとしているのか。チェルシーが私を何故あのように叱ったのか。オルコット家の一員であるという誇りとは何か。

『お嬢様のこの笑顔を護りたい』――オルコット家の人々、そして恐らく父も、その想いと共に、お嬢様に仕えてきたのではないだろうか、と。

 

「あの、お嬢様」

「何かしら」

「ありがとう、ございます」

 

 今の仕事をさせてもらえることへなのか、親愛の情に対してなのか、それは分からなかったが、無性に感謝したい気持ちになった。お嬢様は「はい」と一言、笑顔で言った。

 気恥ずかしくなって、誤魔化すようにお酒を煽って、グラスが空になった。ちょうどお嬢様のお酒もなくなっていたので、マスター、と呼ぼうとしたら、マスターがすぐ近くに現れた。

 

「そろそろ空くことかと思ってな」

「相変わらず気が利きますのね」

「どうも。ま、それがバーテンの嗜みってモンだしな」

 

 なるほど、私のお嬢様と二人で話せるようにどこか行ってたのね。何よ、カッコいい真似するじゃん、マスター。

 お嬢様が来る前に相談に乗ってもらったりもしてたけど、この男なかなかできるなと改めて感心した。

 

「で、何にするよ」

「そうですわね。クレア、何か選んでいただけますこと? わたくしもあなたと同じものにいたしますわ」

 

 お嬢様が、そう言うのなら。

 

「……じゃあ、マンハッタンで」

 

 私がマスターに注文すると、マスターはあいよ、といつものように気のいい返事をしながら、グラス二つ分のカクテルを作り始めた。どうでしょうか、とお嬢様の方を見ると、お嬢様はいいですわね、と一言添えてくださった。

 マンハッタンは、カクテルの女王と呼ばれている。かの有名女優の出演する映画にも登場する、働く女性の夜にぴったりの一杯だ。それをこの時代を駆け抜ける高貴なる才女――セシリアお嬢様に捧ごう。

 マスターから新しいグラスを受け取った私とお嬢様は、乾杯ともう一度グラスを掲げて、その至高の一杯を味わった。

 

 ――その夜は、お嬢様といろんな話をしたのを覚えている。

 仕事の話や家族の話、趣味や……恋の話まで。

 

「ねえ、クレア。その、来週、彼がイギリスの来るのですが」

「よかったではありませんか」

「ええ、ありがとう。そ、それでわたくし、そのときは彼にめいっぱい甘えたいと思っていまして。その、クレアは殿方をその気にさせるときは、いつも何をされていますの……?」

「え、ええ……!? 私、そんなに経験はないのですが」

「構いませんわ。わたくし、そういう経験は、彼としかしたことがありませんの。ですから、他の方がどういう営みをなさっているのか、知りたくて」

「は、はあ、そういうことなら。……その、そういうときはですね。そういう感じの雰囲気のときに、男性のアレを、ああしまして……ごにょごにょ」

「え、えええっ!? そ、それくらいでいいのですか!? チェルシーは以前、そういうときはあそこまでああしてやるのです、と言っていましたのに!」

「い、行き過ぎですっ! だ、大胆すぎます!」

「……え? で、でもチェルシーは、そのようにしたと……」

「……ほ、本当ですか?」

 

 ときにこのような話も出てきたのは、敢えて追記しないこととする。

 

 レディー・セシリアと、使用人クレアの夜は深く更けていく。

 私を姉妹と言ってくださったお嬢様のため、私も誇り高きオルコット家の一員として、お嬢様に尽くすこと。そしてお嬢様の笑顔を、生涯を懸けてお守りすること――。

 私は人知れず、誓ったのである。

 

 

 

 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

 

 

 それから少し時間が経ち、オルコット家に従事して一年と少しが経過した頃だった。いつものように、オルコット邸で仕事をしていた私に、吉報が届いたのである。

 

「皆さんに、ご報告がありますの」

 

 その日はクリスマスだった。お嬢様の誕生日の翌日の朝、食事の前にオルコット邸にいる使用人一同をメインホールに集めたお嬢様は、横に並びたつ婚約者の手を握りながら、頬を染めて、私どもへと告げた。

 

「昨日、彼との入籍の許可が下りましたの。わたくし、結婚いたします」

 

 私を始め、オルコット家の使用人一同がわっと歓声を上げた。おめでとうございます、と祝福の言葉が飛び交った。

 ありがとう、と涙ぐむお嬢様の姿に、私もいつの間にか泣いていた。泣いているのは私だけではないらしく、いろんなところからすすり泣く声が聞こえた。婚約者の彼を旦那様と呼ぶ声も上がった。まだ気が早いよと言いたげな困った彼の姿も印象的だった。

 ――ああそうだ、父にも報告しなければ。私は少しホールから外れて、父に電話をかけた。

 私は咄嗟に思い至って、父に電話をかけた。父は入院こそしていないものの、未だにオルコット家に戻っていなかった。脚の怪我のリハビリが想像以上に大変なのだという。

 

「もしもし、お父さん! メリークリスマス」

「ああ、メリークリスマス。……どうした」

「聞いてお父さん! お嬢様、入籍が決まったのよ! 」

「……そうか」

 

 いつも通り、そうかの一言。

 だが、何なんだろう、この他人事のような反応は。父なら、絶対祝福してくれるはずだと思っていたのに。

 

「そうかって……嬉しくないの?」

「喜ばしいことだ」

「でしょ。なら、邸に一度くらい顔出しなさいよ。お嬢様はずっとお父さんと会いたがってるのに」

 

 結局、事故でお見舞いに行って以来、お嬢様はまだ父と会えていないのだという。

 執事の中の執事――バトラーと慕われる父にしては、どこかお嬢様を蔑ろにしているようにも感じてしまっていた私だが、その予感は当たっていたようで。

 父は驚くべき一言でもって、私の提案を……そしてお嬢様の想いを突き撥ねたのである。

 

「――悪いが、もう私がお嬢様とお会いすることはない。怪我が完治し次第、辞表を出す予定だ」

 

 

 

 

 




前編のあとがきに「ノート・オブ・クレア」に登場したキャラクターのまとめを追記しております。確認がてら一読あれ。
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