お嬢様の入籍が決まった昨年、クリスマスからニューイヤーにかけてオルコット家では祝賀ムード一色であった。お嬢様と旦那様のお二人が、どれだけ多くの障害や偏見、国家間の利害にに苦しめられてきたかを目の当たりにしてきたオルコット家の使用人たちは、そのめでたい知らせに歓喜し、涙したのだった。
それから少し時は経ち、一月。今年は旦那様まで加わってのニューイヤーで、オルコット邸は大変賑やかであった。新年の節目が過ぎ、ついに旦那様が一時日本に帰国することとなってしまった今日、愛しの旦那様と離れてしまった寂しさのあまり、お嬢様は――。
「ううう……クレア~チェルシ~……ぐすっ」
「はいはい、寂しいですね」
「わたくし嫌ですわ、また離れ離れなんてぇ……」
カフェのテーブルに突っ伏して、日本語でひらがな「の」の字をぐるぐると描き続けるお嬢様。精神年齢が十歳は落ちているように見える。
現在、空港に旦那様を見送りに行ったその帰り道。旦那様が出発ゲートの荷物検査を通るその直前まで旦那様の腕をとって片時も離さず、ゲートを潜った旦那様の姿が見えなくなって飛行機が飛び立つなり、お嬢様はみるみると意気消沈。帰り道、異常なまでに元気がないお嬢様を見かねて、チェルシーが車を止めて近くのカフェで一休憩することになったのであった。
「会いたい……」
「お嬢様、そのようなことでは職務に支障をきたします」
「ううう、だってぇ~」
チェルシーの諫言に対しても、駄々っ子のよう。普段の凛々しいお姿はどこへやら、お嬢様は蒼い瞳に涙をいっぱいに溜めてぐずっていた。
これはオルコット家で働き始めてからわかったことなのだが、お嬢様は旦那様が絡むとかなりポンコツな一面が見せるのだ。チェルシー曰く、旦那様が帰国されてすぐは毎回こうなるとのことで、言ってしまえば毎回のことではあるのだが、今回は特にひどいという。
それだけ離れたくなかったのでしょう。微笑ましくはあるのだが、如何せんセシリアお嬢様の立場がそれを許してはくれない。
先月の二四日のお誕生日以降、お嬢様は終始幸せそうであった。今が幸せでたまらないとばかりに、旦那様と過ごせる日々を心から楽しんでいたように見えた。その反動であろうか、入籍と結婚式の根回しのために一度日本に帰国しなければならない旦那様との別離は、特別悲しいのでしょう。
チェルシーと目を見合わせてどうしたものかと考えていた私だったが、救世主は突然訪れた。お嬢様の携帯電話のバイブレーションが小さく鳴ると、お嬢様は目にも留まらぬ速さでそれを手に取った。画面を見た途端、お嬢様の目尻から涙が引っ込み、にへらっと表情が緩んだ。
「うふ、うふふふ」
「どうしたんです?」
私が尋ねると、お嬢様は携帯の画面を嬉々と私とチェルシーに見せた。そこには、先ほど飛行機に乗り込んだ旦那様からのメッセージが。
日本語で書かれていたため私には読めないのだが、お嬢様が翻訳してくれた。
「『見送りありがとう。二週間世話になった。日本でやらないといけないこと片付けて、今度は夫としてセシリアのところへ帰るから、待っててくれ』……ですって~!」
きゃーとじたばたとテーブルの下で脚をばたつかせるお嬢様。かわいい。
これもオルコット家で働き始めてわかったことだが、普段は仕事ができるキャリアウーマンというイメージのお嬢様であるが、旦那様の前だとただの恋する乙女になってしまうのだった。二十代の大人のレディというか、恋で頭がいっぱいの十代の少女のような。まあ、お嬢様のファンでもある私にとってはそのギャップも悪いものではなく、むしろお嬢様の新しい一面を知れてラッキーといったところだが。
お嬢様はテーブルに乗せた紅茶を飲み干すと、次の仕事へ向けてぐっと拳を突き出した。
「こうしていられませんわ! 彼との結婚式のためにも、もっとお仕事を頑張りませんと!」
旦那様のメッセージひとつで先ほどまでの弱った様子はどこへやら、メラメラとやる気を燃やすお嬢様。
お嬢様、もしかしてチョロい……?
チェルシーはくすくすと笑っていた。ちなみにあとで教えてもらったのだが、実はチェルシーが旦那様の出発前に、フライトが始まってから少ししたらお嬢様に一報入れるよう頼んでいたらしい。
なるほど、流石チェルシー、お嬢様の扱いにかけては彼女の右に出る者はいない。
「さあ、チェルシー、クレア。帰りますわよ」
「はい、お嬢様」
席を立つお嬢様に倣い、私とチェルシーも立ち上がってお嬢様に追従した。
これからはお嬢様と旦那様の結婚式の準備もしなければならないし、一層多忙になることが予想される。気が引き締まる思いだったが、私は年末の父の言葉が、ずっと頭の中で燻ぶっていたのだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
年末のことだ。久しぶりに実家に帰った私は、帰宅一番に父に抗議した。
「お父さん!」
退院した父は、ソファで新聞を読んでいた。剣幕激しく実家に怒鳴りこんだ私に、キッチンで紅茶を淹れていた母もぎょっと振り返った。
「何だ」
「何だじゃないわよ! どういうこと、オルコット家に戻らないって!」
仮にも一人暮らしの娘が実家に戻ったというのに、父は普段と何ひとつ変わらない様子でルーティンである新聞とのにらめっこをしていた。
事の発端はお嬢様の入籍が決まったとき、父と交わした電話であった。怪我で療養中の父――「バトラー」と呼ばれるオーウェン・フラウシートの衝撃的な言葉だった。
あれだけの尊敬を集める使用人でありながら、このタイミングで辞表とかどういう神経してんの、と私は父に憤慨していた。母が「クレアやめなさい」と静止するも、父の心ない発言に怒り心頭の私は聞く耳を持たなかった。
「どうしたもこうしたもない。これは決まったことだ」
「決まったことって何よ! お嬢様の付き従うのが私たちの仕事じゃないの!?」
新聞で顔を隠していた父は、私の問いかけに静かに「違う」と否定した。何が違うと言うのか。
「私は現当主セシリア様の使用人ではないからだ。私はオルコット家に仕えてはいるが、それは先代当主に対する忠誠であって、セシリア様に対するそれではない」
何よ、それ。どういうこと。私の疑問に、父はすぐ答えを出した。
「私は、オルコット家の使用人ではない。私は、先代オルコット家当主であったセシリア様の母君が経営されていた企業のガードマンだった」
「え……っ」
父にオルコット家で働くことを打診されたとき、私は父がどのように生きてきたかを知らずにいた。
そしてこの日、改めて私は思い知った。私は父の歩んできた人生について、まったくの無知であったということを。
父の口から語られる過去……それは私が見てきた平凡な男性の姿はなかった。
「私がオルコット家――正確には当時オルコット家の当主であったセシリア様の母君と出会ったのは、およそ三〇年も前のことだ」
裕福な家庭に生まれなかった父は、学もなく、体格と腕っぷしだけを頼りに、半ば傭兵のような稼業をしていたと語った。
……よ、傭兵って。そんな血生臭いこと、質実剛健を地で行く父がやっていたというだけで衝撃だ。
「事実だ。生きていくために使えるものは何でも使った」
「……それって、結構ヤバいやつも?」
「合法なものから、完全に黒といえるほどのものまで、様々依頼をこなしていた」
信じられない。母の顔を見ると、母は苦笑しながらもう頷いていた。本当のことらしい。
「そんな私だが、二つ転機が訪れた。ひとつは……お前の母さんとの出会いだ」
父がそう言うと、母は気恥ずかしそうに冷蔵庫へ視線を移した。
そういえば、父と母の馴れ初めについて詳しく聞いたことはなかったわね。
「喫茶店で顔を合わせたのがきっかけだった。何気ない出会いだったが、母さんは私にとって特別な存在だった」
父はそれから、母との未来を考え始めたという。
「もうひとつの転機が……先代との出会いだった」
当時、若い身ながら既に敏腕の経営者だった先代オルコット家当主。彼女は、新たな事業の開拓を行っては実績を作る時代のパイオニアとして、大きな注目を集めていた。しかし、急速な成長は競合する他社にとって都合の良いものではなく、敵も多かったため、あるとき父が請け負っていた事業の中に、オルコット家当主への攻撃も含まれていたという。
裏稼業から足を洗うため、これを最後の依頼と父は決めていた。
「事故と見せかけた傷害を依頼する案件だった。私はその実行役として、彼女への攻撃を担当した」
だが、計画は実行途中で想定しえなかった事態に遭遇。襲撃の準備は筒抜けになっていて、待ち伏せを受けたのだという。そして、父が参加した計画は頓挫。それどころか、実行犯であった父はターゲットの前に引きずり出されるハメになったという。
「そのとき、私は死を覚悟した。これが人を傷つけ生きてきた私に対する報いだとも。――だが『お嬢様』は私にこう言った」
――あなたの仕事ぶりは、あなたの雇い主の方々からもよく聞いているわ。その能力、わたくしの下で活かす気はなくて?
――わたくしはいずれ世界を変える。そのために、あなたは必要な存在よ。わたくしの手伝いをなさい、オーウェン・フラウシート。
「何を馬鹿なことを、と思った。自分を狙った男を、自らの手駒にしようなど、世迷言だと」
結局、今回の件は不問にする代わりに、こちらの軍門に下れという取引に過ぎないと、父は思ったという。ただ、結局父は先代の専任ガードマンとして働き始めた。初は父も先代を信用していなかったが、先代が持つ才覚と器に徐々に惚れ込み、何より父の実直さや仕事ぶりを誰よりも信頼してくれていたことで、父は彼女に仕える覚悟を決めた。
そして、裏稼業から足を洗ったことで、父は母と結婚し、そして私が生まれ――平凡だが幸せな人生を手に入れることができた、と父は語った。
「先代は私の恩人であり、雇い主だった。その先代が亡くなったのが、今から一〇年ほど前――……忘れもしない、あの日からだ」
穏やかだった父の表情に陰が落ちた。
見たことがない表情だった。悔いるような、こみ上げる何かをこらえるような、父には珍しい表情だった。
「先代から私宛てに遺言があった。忘れ形見であるセシリア様のことを一〇年間守ってほしいと」
その遺言に従った父は、オルコット家の執事として、お嬢様の下で働き始めたという。
お嬢様とは先代を通して顔見知りではあったものの、邸宅でお世話をし始めたのは先代が亡くなって以降。表向きオルコット家の執事として働きながらも、実態としては亡き先代の会社に所属しながら出向という扱いになっているというのが、父が明かした父とオルコット家との関係だった。
「先代が亡くなって一〇年は過ぎた。だが、私個人のけじめとしてお嬢様にパートナーができ、お嬢様の結婚が決まるまでと定めていたのだ。そして此度無事お嬢様の結婚が決まり、オルコット家から離れることを決めた。怪我のこともある、これが節目だと判断した」
それが父の口から語られた、オルコット家から離れる理由であった。
「なによ、それ……!」
一通り聞いた私だったが、まるで納得はできなかった。
淡白すぎる、あまりにも!
「なによ、それ! 先代の遺言なんて、そんなのただの建前じゃない。お父さんが望めば、オルコット家の人間として改めてお嬢様の下で働くことだってできるでしょう! だって、私をオルコット家に仕えるよう勧めたのはお父さんよ!?」
父の邸の人たちに信頼されてなかったら、そんな口利きはできないはず。その父が推薦したからこそ、あの日私はお嬢様と邂逅を果たすことができた。
何よりも、お嬢様が父を心から慕っているのは、誰から見ても明らかだった。お嬢様だって、これからも邸にいてくれることを望んでいるに違いないのに。
「それなのに、お嬢様の下から離れるなんて! お嬢様のために働くのが、私たちの仕事なんじゃ――!」
「――黙れ」
凄んだ父の一言で、びくりと私は口を閉じた。そこには有無を言わせぬ迫力があった。
「たかだか一年と少しお嬢様に仕えただけのお前に何がわかる。わざわざお前に言われずとも、考え続けた結果がこれだ」
父からは本気の怒りが伝わってきた。父がここまで感情を露わにすることは滅多になかっただけに、私も面食らってしまっていた。
ただ、その怒りには、少なからず焦りの色も見えていたような気がした。本心を突かれて見られまいとする、普段の父からは考えられない、詰めの甘さが。
数秒無言でいたものの、父はすっといつものような雰囲気に戻ると、私から視線を新聞に移して、
「……話は終わりだ」
「ちょ、ちょっと! お父さん、待ってよ」
「終わりだと言っただろう。話すことはもう何もない」
そう言って父は、新聞とのにらめっこを再開したのだった。
少し離れたキッチンから見守っていた母の方を見ると、母は苦笑するだけで、私の加勢をしてくれるわけではなさそうだった。
あの人は決めたら頑固だから、と母の目が語っていた。母はそれをよくわかっていて、父の意思を尊重することを決めているようだった。
結局、孤立無援となった私は、父のオルコット家離脱の決意を曲げることはできず、年末年始の帰省では、終始気まずい雰囲気が私たち家族三人を包んでいた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
旦那様を見送ったその夜。バー「Gloria」にて。
もやもやした気分だったので、仕事終わりに寮からここに繰り出した私は、カウンターに肘をつき、前でグラスを磨くマスターに愚痴っていた。
「ねえー、どうしたらいいのかな~」
「何がだよ」
「前来たとき話したでしょ、あのカタブツ頑固不器用融通効かない男の話よ」
「ああ、お前の親父さんの話な」
そうよ、とぐびっとグラスを煽ると、グラスが空になった。
父に真意を問い質し、オルコット家へ連れ戻す。そう意気込んで実家へ帰省したものの、私は目的を果たすことはできず。
父の決意は固く、私一人の説得程度で揺らぐことはなかった。結局父の決意を変えることも、説得を諦めることもできないまま、中途半端に燻ったままの思いが、いつも胸に突っかえていた。
たかだか一年と少しお嬢様にお仕えしただけのお前に何がわかる、と父は言った。事実だと思う。私は新入りなのは間違いないことであるし、経験もスキルも人望も、オルコット家に対する理解も、父には遠く及ばないだろう。何より、それだけ尊敬を集め、責任感ある執事である父が辞めると口にしたのだから、その覚悟の重さは推し量ってしかるべきではないか。
父が無責任な人間でないことは、娘である私自身肌で感じて育ってきた。その父があれだけ言ったのだ、私が理解してやれずどうすると、父の娘としての私が言っている。
「お父さんがあんなに言うなんて珍しいからさ。それくらい考えて決めたことなんだろうなってのは、私にもわかるわけ」
「ならお前、親父さんの言う通りにさせてやったらいいじゃねえか」
「そういうわけにもいかないのよ」
あ、スクリュードライバーちょうだい、とマスターに注文した。キツめにしといて、と常連っぽくリクエストしたら、マスターはあいよ、いつものように返事をしてカクテルを作り始めた。
「スクリュードライバー。お待たせ」
程なくカクテルが届いて、私はありがと、と一言呟いて受け取り、一口つける。
……っくー、きっつ。でもこのガツンと来るアルコールの重さがたまらない。
「……お嬢様はさ、お父さんに帰ってきて欲しいって思ってんの」
父が邸から離れている間も、しきりに父の様子について私に尋ねてきたお嬢様。私が両親と綿密に連絡をとっているわけではないために、毎度あまりいい報告はできていないけれど、お嬢様が父の容態を常に心配してくれていたことは、聞くまでもないことだ。
そのお嬢様が、父の辞表を受け取ったとき、どんな顔をするのかと思うと、私はとてもつらい。
「きっと悲しむだろうなって思うのよ。だってお嬢様、お父さんに結婚式の父親役を頼みたいって口にしてるくらいなんだから」
「まあ、な」
お嬢様がこれから歩むであろう幸せな日々に、父というピースが欠けてしまって、お嬢様のあの笑顔に曇りが残ってしまったら。
もしそうなったら、私は必ず後悔する。お嬢様の笑顔を守りたいと思って、私はオルコット家にいるのに。
「でもさ、ちょっとお父さんも変なのよね。なんかこう、敢えてお嬢様から距離を置こうとしてるっていうか」
父が剣幕を荒げたあのとき、微かに感じたもの。父が入院中お嬢様が見舞いに来て以降お嬢様と会おうとしないのも、どこか務めて別れのきっかけを作ろうとしているようで。
父が本気でお嬢様から離れたいわけがないのに。仕事の義務感だけで、先代の遺言というだけで、お嬢様にあそこまで慕われるだろうとは、到底思えなかった。
結局、父は私に建前しか話さなかったのだろう。父が本当に何を思ってそう決めたのかは、私は聞き出せずにいる。
聞きたい。父が本当はどう思っているのか。しかし、あれだけ派手に喧嘩しておいて、今更冷静に父と話すなんて、土台な無理であろうということも分かっていた。
「……ねえ、どうしたらいいと思う?」
すがるような私の言葉にも、マスターは「さあな」とにべもなく言ってのけた。
こういうとき、マスターは聞き役に徹している。マスターはまるで水のようだ。あくまで私を大事な客として扱ってくれて、自分の意思はほとんど表に出さない。彼に言わせるなら「バーテンのたしなみ」というやつだろうか。
私は常連として何度も通っているわけだけれども、それはこの包み込むような安心感が気に入っているから。お酒の酔いも相まって、どんよりした気分の悪さは、少し和らいだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
それから、ひと月が過ぎた。
「はあ」
私は大きなため息をつく。休憩中、使用人用の休憩スペースのテーブルに突っ伏していた。
父はあれからも連絡を寄こさないまま。怪我の完治はしていないため辞表こそ提出していないものの、これからお嬢様の結婚式の準備が本格化すれば、父のことで悩んでいる時間すらなくなってくる。
「どうしたらいいのかなあ……」
リストラされて無職になって、父が命の危険に晒されるような事故に遭って、それから父のコネでオルコット家に務めて一年と少し。やっとやりがいを感じられる仕事に就けたのに、生涯尽くしたいと思えるような人と出会えたのに、私は未だ前に進めずにいる。
途方に暮れるって、こういうことなのかな。何かしたくても、何もできないままって、こんなに苦しいのね。
「どうしたんだ、ため息ついて」
「は、はいっ!?」
後ろから声をかけられて、振り向いた。
そこには、お嬢様の婚約者である旦那様がいた。
「だ、旦那様!?」
「ご苦労様。名前は、クレアで合ってたかな」
「はいっ! はい!」
驚きのあまり二回頷いてしまった。恥ずかしい。いや、でもまさかこんな場所で旦那様に話かけられるとは思わないでしょうよ。
旦那様は一週間ほど前、日本での仕事を一部片付けてまた英国に戻られていた。結婚式の準備もあり、最近旦那様は暇があれば英国日本を反復横跳びのように移動しているらしく、時差ボケがひどいと度々ボヤいているのを耳にする。
そんな旦那様が、何故使用人用の休憩スペースわざわざに来たのか。それについて尋ねる前に、旦那様が休憩スペースの奥にある給仕室を指し示した。
「今日は気が向いたから食事係になってみたんだ」
ああ、なるほど。旦那様は非常に料理がお上手だ。初めて旦那様がオルコット邸にいらしたとき、夕食を作ると言って旦那様が料理を始めてしまったのだが、客人に炊事係をさせるわけにはいかない、と邸の者が止めに入ったのも構わず、旦那様は驚くべき手際で邸の料理人が目を見張るほどの料理を振る舞ったという。もはや使用人の間では語り草の伝説となっているのであるが、かく言う私も旦那様のお料理を堪能させていただいた身である。大変美味であった。
と、まあこのように大変お料理上手な旦那様は、頻繁に息抜きと称して邸のキッチンに立っては、その技巧で邸の料理人たちを唸らせていた。
「それよりどうしたんだ、浮かない顔をして」
「い、いえっ! な、何でもございません!」
「何でもない人が、そんな顔するとは思わないけどな」
旦那様が苦笑した。チェルシーに何か意地悪でもされたのか、と旦那様が言ったので、私は慌てて首を振った。
「ちょっと煮込み終わるまでの時間暇なんだけど、話してみないか」
セシリアにだって話せないこともあるだろうし、と旦那様がそう言って向かいの椅子に座った。
……これは、逃げられそうもない。
ただ、父のことをそのまま聞くのは憚られたため、私は以前から気になっていたことを旦那様に尋ねようと決めた。
「失礼を承知で、お聞きしたいことがありまして」
私がそう前置きしたところ、旦那様は快く頷いてくださった。
「旦那様は、お嬢様と別れようと思ったことがありますか」
ずっと気になっていたことだった。旦那様とお嬢様は、使用人の私から見ても本当にお似合いで、お互いを尊敬し、想い合う理想のカップルだった。
数々の試練を乗り越えてきた、とお嬢様は度々話しておられた。その中に、破局の危機はあったのだろうか、と。
私はないと思っていた。他の恋敵が現れたり、結婚するにあたっての障害こそあれ、お二人が関係を諦めるようなことはないだろうと。
「――ある、一度だけ」
だからこそ、旦那様の返答は、驚くべきもので。
本当ですか、と問い直すと、旦那様は事実だと答えた。
「セシリアのために、俺が別れを選ぼうとした。俺とセシリアの関係は世界に祝福されなかったんだ。お互いの立場が立場だから」
旦那様が当時のIS絡みの利権関係について説明してくれた。
IS操縦者同士の男女関係は、国家間の利害関係に大きな影響を与えかねない。増してや高い実力を持つお嬢様と、男性IS操縦者として世界の注目の的であった旦那様、お二人の関係ともなれば、その複雑さは想像に難くない。
旦那様の存在を巡って事件が起これば、必ずお嬢様も巻き込まれる。旦那様が傍にいたばかりに、お嬢様の誇りある人生に傷がつく……そして何より、お嬢様の命を危険に晒すようなことがあれば、自分のことを許せなくなる――旦那様はそう語った。
「だから俺は、セシリアと別れることを選んだ」
私は息を飲んだ。
世界の秩序のため、お嬢様との関係を諦めようとしたと言った旦那様。旦那様は、それで良かったのだろうか。自分が愛した女性の手を取ることを諦めて、他の誰かと結ばれたとして、未練はなかったのだろうか。
「未練がなかったと言えば嘘になる。でも、俺は何よりもセシリアに幸せに生きてほしいと願ってたんだ。俺と離れることが、彼女の誇りを、幸せを守ることになるならばと、そう信じて」
旦那様は自嘲するように言った。
にわかには信じ難い話だった。旦那様とお嬢様のお二人が、一度別れを経験していたとは。
しかし、お二人は現に良好な関係のまま結婚を約束にするに至っており、お二人がどこかでよりを戻すタイミングがあったのは間違いないのだが。
そのあと何があったかは、すぐに旦那様の口から語られた。
「――でもセシリアは違った。セシリアは俺と一緒に生きる未来を諦めなかった」
お嬢様は、距離を置こうとする旦那様に対して追いすがることを辞めなかったという。やがてが別離が決定的になるその瞬間でさえ、お嬢様は旦那様のことを諦めなかった。
そして、ついに旦那様と再び相見えたお嬢様は、なおも離れようとする旦那様にこう言った。
――わたくしはあなたの意思は尊重しませんわ! あなたと一緒にいたいから!
それから、こうも言ったという。
「『わたくしが愛したあなたこそ、わたくしの誇りなのだから』ってな」
「あなたこそ、わたくしの誇り……」
とてもお嬢様らしい言葉だと思った。大きく、深く、輝かしい。
「そう。……感動したさ。こんなことを言ってくれる人が、こんなにも俺のことを愛してくれていたんだと、俺は気づいてなかったんだ」
その後、根負けした旦那様はお嬢様から本気の張り手を一発もらい、お嬢様の傍へ戻ることになった。
そしてお嬢様には、一晩中泣かれたという。わたくしを愛しているなら、わたくしから離れたりしないで、と。それを思い出した旦那様は、
「打たれた頬があまりにも痛くて、涙が止まらなかったな」
と冗談めかしく言った。
私はくすりと笑った。きっと泣くくらい嬉しかったんだろうな、旦那様は。
「俺は見誤っていたんだ。セシリアを守ろうと、セシリアに嘘をついては、悲しませてきた。離れることで、関わらないことで、彼女を守れると。でも、セシリアと再び向き合って、俺は気づかされたんだ」
旦那様は続けた。
「セシリアは俺に思い出させてくれた。初めて彼女に想いを伝えたとき……セシリアと一緒にいたいと思ったときのことを。そして俺は改めて誓った。俺こそが己の誇りであると言ってくれたセシリアのために、強くなろうと。セシリアにもう二度とあんな思いをさせないために、彼女と人生を共に歩める男になろうと」
それがあって今の俺がある、と旦那様は言った。
壮絶なあまり、何も言えなかった。お嬢様と旦那様が大恋愛の末に婚約に至ったとは聞いていたが、まさか破局の危機があったことなんて想像もつかなかったから。
ただ、納得もできた。旦那様がお嬢様を大切に思っているのも、そんな過去があったからなんだ。
「人が人と同じ時間を過ごすことに、障害は付きものらしい。それは立場だったり、職業だったり、国籍だったり、あるいは経済状況だったりもするかもしれない。そんなとき、敢えて別れを選ぶことが愛だと言う人もいるだろうし、それが間違っているとは思わない。だけど、一緒にいたいという想いを、我儘を貫くこともまた愛だと、俺は思う」
その我儘なお願いのおかげで、俺はセシリアと生きる未来を掴めたから、と旦那様はそう締めくくった。
神妙な顔をして黙り込む私に、長居して悪かったな、と旦那様は微笑んでキッチンへと向かった。私が慌てて立ち上がってありがとうございました、と言うと、旦那様は軽く手を振ってキッチンの奥へと戻って行った。
……そういう仕草、キザだなあ、本当に。それが様になるんだから、イケメンはズルい。お嬢様はそういうところも好きなんて言ってたけど、旦那様にベタ惚れのお嬢様だからそれはそうよね。
「一緒にいたいという想いを貫く、か」
旦那様のお話を聞いて、もやが晴れたような気分だった。今の悩みに対してどうすべきか、それが明確になったような気がする。
私の実父にして、お嬢様が父と慕うオーウェン・フラウシート。
あれだけ仕事ぶりを評価され、バトラーと呼ばれるほどに使用人一同から慕われていた父が、お嬢様の元を離れる決断をしたのは、何が故なのだろうか。
先代オルコット家当主の遺言が故、と父は言った。だが、それは父の真意なのだろうか。父にお嬢様を愛する気持ちはなかったのであろうか。もしそうだとするならば、何故お嬢様は父をああまで慕ってくれているのだろうか。
バトラーのような父がいて私が羨ましいとお嬢様は仰った。あのお嬢様に慕われる父が、本当に義務感だけでお嬢様に仕えていたのだろうか。
「そんなはずない、私はわかってる」
お嬢様と話した私が肌で感じた父の有り様は、愛がなければ到底できるものではない。私がひっそりと、それでも確かな愛を注いで父に育ててもらったように、それと同じ愛をお嬢様が感じていたからこそ、父を通して、私とお嬢様は姉妹のような間柄で在ることができるんじゃないか。
――さあ、答えは出た。こうしてはいられない。
私は使用人の休憩室から立ち上がり、お嬢様のいる執務室へと向かった。
お嬢様の執務室へと着いた私はノックをして、お嬢様のはい、という返答が聞こえたのち、「クレアです、入ってもよろしいでしょうか」とお声かけした。
よろしくってよ、とお嬢様が返事なさったので、失礼しますとドアを押して入室した。
「あら、クレア。どうしましたの?」
まだ休憩時間のはずでしょう、とお嬢様に言われたが、休憩時間よりも私にはどうしても聞きたいことがあった。
「お嬢様。結婚式の父親役を私の父にお願いしたいという意思に、お変わりはありませんか」
私が尋ねると、お嬢様はええ、と答えた。
「勿論ですわ。ヴァージンロードでエスコートしていただく父親役は彼以外考えられませんもの」
お嬢様は笑顔を見せた。
……ああ、そうだった。私はこの笑顔を守りたくて、お嬢様に仕えることを決めたんだ。それが、私の原点。だから――。
「お嬢様」
「何かしら」
「それにあたって、ひとつ、お願いがあります」
次回、完結編。
本当は後編で終わらせたかったのですが、長くなりすぎたため分割。
そして ♯セシリア・オルコット生誕祭2019
今年もクリスマスイブがやってまいりました。セシリア・オルコット生誕の日、この場を借りてお祝いさせていただきます。
次回もお楽しみに。