武器と魔法と、世界とキミと。   作:菱河一色

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 報せるのは、二度目の遭遇。

 準備は、万端か?




第一三話 凶星の兆し

 迷宮(ダンジョン)生き残り講座、第二講。

 

 

 今回は第六階層からお送り致します。

 

 本日の講師は【カーラ・ファミリア】所属、Lv.3、シーヴ・エードルントさん。二つ名は『槌を振るう狼(ファベル・ルプス)』、冒険者と鍛冶師の二足の草鞋を履きこなす強者。

 冒険者歴八年、【カーラ・ファミリア】初期団員、そして現団長。トルドや俺と違い、最初から戦闘経験もセンスもあったため、気が付いたらレベルが三になっていたという、天性の才能を持つ。

 

 本業は鍛冶の方ではあるが、極東出身の冒険者がまだまだ少ない中、刀を扱う数少ない上級冒険者、として密かに注目されている、とはカーラさんの談。浪漫だからね。

 基本的に誰かの面倒を見ることはないらしいが、最初の武器決めのときに聞いた言質もあって、頼み込んでなんとか了承してもらえた。防具買わされたけど。

 今日も例によって標準装備の獣耳に和服。これで目に覇気……とはいかないまでも、少なくとも生気が宿っていれば凛とした美人になるのだろうが、残念なことにシーヴさんはダンジョンにもぐるときは大体胡乱な目つきをしている。ダンジョンにもぐっていないときも大抵は眠そうにしているけれど。武器を触っているとちょっと回復する。

 

 

 そんな彼女は、ダンジョンが嫌いなのだという。

 

 

「……大抵のことなら、失敗しても、またやり直せばいい。でも、これ(ダンジョン)は違う。……失敗したら、次はない。だから、嫌い」

 

 ほとんど動かない唇から、溜め息混じりの言葉が漏れ出づる。

 

 たった一度の選択ミスが、ほんの一瞬の判断ミスが、容易く死に繋がることもある。安定して十年以上やってきた猛者でも、なんでもない一回の戦闘で命を落とすこともザラにある。

 

 それが迷宮(ダンジョン)だ。

 

 ダンジョン内では全てが自己責任となる。進もうが戻ろうが、逃げようが戦おうが、喧嘩を売ろうが買おうが、死のうが生きようが。あまり推奨されることではないが、もちろん【ファミリア】間の抗争についても、当事者同士だけで扱われるべき事案に変わりない。

 

 シーヴさんは鍛冶師でもある。きっと、多くの失敗を経験してきたのだろう。それを背負って、その重みを感じながら、今日までやってきたのだろう。様々な失敗があったからこそ、今があるのだろう。

 

 でも。

 

「……基本的に、ダンジョンでの失敗は、死と同義。何度も失敗する人は、運はいいだろうけど、向いてない。ただ、成功し続ける人だけが、生き残る」

 

 失敗は、同じ失敗をしない方法を教えてくれるだけで、直接成功に繋がっているわけでは、ない。その失敗を反省し、次へと活かすことで未来の成功の可能性を引き上げられるようになる、だけ。

 

 詰まるところ、冒険者として成功したければ、成功するしかないのであって、成功し続ける以外に道はない。ジレンマのように思えるが、実際そうでなければ上級、下級、などという枠組みも意味を成さないし、そもそも、毎日を生き残ることからして不可能だ。

 

 そんな世界で、傍目からしてみれば成功し続けている側の彼女は、何故、迷宮を毛嫌いし、それでももぐり続けるのか。成功を求めるのか。

 

「……ん、退がって」

 

 敵の気配を察知したのか、狼人(ウェアウルフ)特有のもふもふの耳がぴくり、と動き、俺に警戒を告げる。

 同時に、彼女の重心が僅かに沈み。纏う空気も、澄んで冷えきったものに代わったような錯覚を起こさせた。

 長く冒険者をやっている人たちは、こういう切り替えが早く、上手い。個人差はあれど、戦闘時と通常時の落差が大きくなる傾向にあることも、その強さの一因であるように思える。

 

 ゆっくりとその刀、『正蛇(せいじゃ)』を抜くシーヴさんの斜め後ろに退がるも、俺は近くにいるらしいモンスターの気配を感じ取れない。

 

「……前方、突き当たり右手通路、に、ウォーシャドウ、が、三体。約十二秒後に、見敵」

「そんなに遠く、どうやって感知してるんです?」

「音と匂い。狼人(わたしたち)は、感覚器官が優れている、から」

 

 そういえば、外伝二巻で【ロキ・ファミリア】の狼人ベート・ローガが、神デュオニュソスの匂いを嗅ぎ分けていた。第一級冒険者の比率からしてみても、獣人は――というか亜人(デミ・ヒューマン)自体――元々の身体能力が高いのだろう。

 

 シーヴさんの宣言通り、きっかり十二秒後、通路の奥から、音もなく、黒い影が三つ、ぬっ、と。姿を現した。

 

「……じゃあ、距離を保って、付いてきて。なるべくゆっくり戦うけど、多分、速すぎるから」

「はい」

 

 嫌味でもなんでもなく、ただの事実。Lv.1の俺とLv.3の彼女との間には、天と地のそれよりも大きな差が存在している。

 

 集中、しろ。

 

 この戦闘を通して技術を学び、有意義な経験を得るためには、俺にとって極限とも言える状態まで意識を持っていかなければならない。

 一緒にダンジョンにもぐることは何度かあっても、シーヴさんの戦闘を見たことはほぼなく、実質、これが初見。

 Lv.4であるリューさんの動きは、多少の手加減が加えられていようと、全く見えなかった。それは俺の動体視力が鍛えられていない、というのもあるのだろうが、やはり、彼女が途轍もなく速かった、という結論に帰着する。

 それは、シーヴさんも同じことで。

 

 一瞬でも気を抜けば、彼女らは即座に俺の知覚限界まで加速してしまう、俺の認識領域を突き抜けて彼方へ消えてゆく。

 

 少しの間だけでいい、張り詰めろ。

 

「……いくよ」

 

 言い終えるかどうかの瀬戸際、シーヴさんは体勢を低くし、弾丸の如く駆け出した。

 

 全力で後を追う。抑えているとはいえLv.3の速度だ、当然置いていかれる。しかし、目だけは彼女を捉えて離さない。

 

『…………⁉︎』

 

 瞬きの間に、シーヴさんとウォーシャドウたちの距離が忽然と消失した。

 

 先頭の一体の胸部を狙う右薙ぎが疾る。狼狽える影は咄嗟に臨戦態勢をとろうとするも、もう遅い。シーヴさんに攻撃を許した時点で、()()()()()()()()()()()

 

 迎え撃とうと持ち上げられた腕、しかしその直前で『正蛇』は鉛直上方へと方向転換し、直後にまた水平移動に戻り。鈍色の光が、ウォーシャドウの頸部に煌めいた。

 

 空中に描かれるその太刀筋は、まるで稲妻のように鋭く蛇行し敵の急所へ的確に到達する。それが彼女の剣戟の特徴。

 

 俺も一度だけ使わせてもらったことがある、あの刀は重心が独特で、慣れていないと扱うことは難しい。

 

 振り切った形から高速の抜重、そしてシーヴさんは敢えて踏み込まず一歩、後退する。と同時に、反応もできず硬直していたウォーシャドウの、黒々とした頭部が滑り落ちる。

 

 本来の実力を正しく発揮した彼女ならば、それこそ刹那の内に、残り二体も即殺できただろう。

 

 だが、この不甲斐ない俺のために、シーヴさんはわざと不利な状況へと、挑む。まあ、彼女にとっては窮地でもなんでもない、単純な雑魚戦に過ぎないのだろうが。

 

「でも。それでも、余程でないと、失敗を避けることはできない。だから」

 

 シーヴさんは、なんでもない風に、日常の一場面のように、極々自然に。二体のウォーシャドウの間に歩いて割って入る。

 

 挟み撃ちの形となり、計四本の漆黒の鞭が、計十二本の「指」が、縦横無尽の軌道を描き、彼女の柔肌を貫かんと迫る。

 

 俺だったら、形振り構わず離脱を最優先するだろう、絶対に避けたい場面。死角から鋭い攻撃が飛んでくるというのは、想像よりもずっと恐ろしく、危険だ。

 

 しかし。

 

()()()()()()()()()()()

 

 首を横に倒すことで、身体を僅かに旋回させることで、ほんの少し、重心をずらすだけで。シーヴさんは全ての刺突を躱し切る。

 

 それは、トルドがするような、間合いの把握からなるものでも、優れた感覚器官が為すものでも、強者の力が作り出すものでもない、普通の回避。決して俺には不可能と言えない、ありきたりな対処。

 

 当然だが、混乱や焦りは思考を制限し、視野を狭窄し、感覚を鈍らせる。

 

 溺れている際に無闇にもがくことが、却って生存率を下げるように、危機的状況に於いて、己の手綱を手放すことほど愚かな判断もない。

 

 シーヴさんは、それらを、能動的な選択に、積極的な行動に依ることで、跳ね除け寄せ付けず、自由を手にして血の海を駆けるのだ。

 

『…………!』

 

 斬撃も、彼女には通用しない。伸ばしきった腕を振るうも、ウォーシャドウたちの指は悉く躱され、いなされる。

 

 そして奴らに、僅かでも綻びが、隙ができたなら。

 

 もう、シーヴさんの独擅場、だ。

 

 俺にも見える範囲で、俺にも再現可能な速度で、彼女が大きく踏み込む。『正蛇』が虚空を裂き、一体のウォーシャドウの胴体を狙い滑空する。

 

 だがそれでは先ほどの一撃と異なり、ウォーシャドウの防御が間に合ってしまう。鋭利な指で受け流され、攻勢へと転じられてしまう――

 

「……甘い」

 

 ――はず、だった。

 

 ところが『正蛇』は敵に触れる直前で進行方向を大幅に変更、完全にその気でいたウォーシャドウの両腕の間近を交錯し、またも無防備だった首を刈り取った。

 

 あと、一体。

 

 シーヴさんの太刀筋の妙は、その不規則さに起因する。

 

 真っ直ぐ進んでいるかと思えば直角に曲がり、右に薙ぐかと思えば左に返す。勿論意図的に、相手の攻撃と噛み合わず、防御をすり抜け、ただ己の主張のみを押し通す。

 

 それを可能にするのは、何時如何なる瞬間にも即座に抜重ができる技術。振り切っていなくとも、その場で加力方向を変え、()()()()特殊技巧。

 

 強引に軌道変更をすることも不可能ではないが、腕への負担が非常に大きい上に、西洋剣などでは力の入り方が足りず、威力が大幅に低下してしまう為、あまり現実的ではなく。

 

 鍛冶師として修練を積むうちに、より適切な選択を求め続けるうちに、繊細な身体制御法を身に付けることに成功した彼女と、反りにより小さな力でも斬ることができる打刀、それも重心の在り方が独特な『正蛇』との組み合わせが為す、ある意味固有の技とも言えた。

 

 これが、シーヴさんの戦闘体系。現時点での選択式の極致。

 

 圧倒的な実力差を感じ取り、恐れをなしたのか、彼女の背後に残る一体が慌てて再度腕を伸ばそうとする、も。

 

『……!』

 

 シーヴさんは許さない。

 

 今度は抜重せず、振るった勢いのまま、遠心力で半回転、背後のウォーシャドウの先制を一閃で封じてしまう。

 

 そして、動きが止まれば。

 

『正蛇』より数瞬遅れでシーヴさんの身体が反転し、地を蹴り、再加速。

 

 対してウォーシャドウは、()()()()()()()、自然と首を防護しようとする。

 

 予め二体のウォーシャドウを、敢えて誤誘導を混ぜつつ斬首という形で葬る。シーヴさんがしたのはそれだけだ。しかしそれにより、残り一体の生存本能に、首への優先警戒が刷り込まれることとなったのだ。

 

 当然、そうなれば。

 

「……終わり」

 

 すれ違いざま、必死の構えを嘲笑うように、魔石ごと、最後の人影が両断される。

 

 後手には回らない。ずっと、自分がしていることを意識し理解して、次の瞬間を想像し、仮定し、最良の未来を探り見付け出す。失敗がこの世界に顕現する前に、()()()()()()()()()

 

 それが、彼女に求められたこと。【カーラ・ファミリア】団長として、皆の拠り所として、シーヴさんが選択したのは純粋な強さではなく、負けない方法。全てを背負い、生き抜く術。

 

 俺が、彼女から学べることは、何だ。

 

 

 シーヴさんはダンジョンを嫌悪してなお、【ファミリア】という『家族』の為に、自らを錬磨すべく、挑み続ける。

 

 

 これが、負けられない彼女が紡ぎ出した、とある一つの生存戦略(ストラテジー)

 

 

 

「……あと、もう二、三回、やろうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……新手、キラーアント二、フロッグ・シューター三が第一から、ニードルラビット四、パープル・モス一が第二から、キラーアント三が第三から、ウォーシャドウ二とパープル・モス一が第四から」

 

「「了解!」っす!」

 

 激しい戦闘、次から次へと襲い来るモンスター。騒然とした空間に於いても、シーヴさんの声は不思議とよく通った。

 

 眼前には前脚を大きく振りかぶる、巨大な蟻の化け物。並の攻撃及び武器では弾かれてしまう防御性能を誇る硬殻を持ち、瀕死になると仲間を呼び寄せるフェロモンを撒き散らす厄介な敵だ。

 

 対処は簡単、容赦なく撃滅することである。

 

 振り上げたその鉤爪を、キラーアントが降り下ろすより、速く。早く。晴嵐がその首を刎ね飛ばす。

 

 次いで、俺は大きく振り上げた晴嵐を、握力を抜き何時ぞやのように、慣性に従わせ宙に放り投げた。

 

 いくら晴嵐が軽いからといって、腕だけを振り回すよりかはずっと力も時間もかかる。今のように、手数を優先させたい場合には、きっとこれの方が効率がいい、はずだ。多分。

 

 身体を半分、後方に向け、しならせるようについてこさせた両腕で、計算通りの位置に落下してきていた紅緒を掴み。

 

「ぃよいしょぉ!」

 

 体勢を低くしながら踏み込み、影の化け物の上半分と下半分をおさらばさせる。ついでに片腕も落とした。

 

 今度はしっかり抜重、地面を強く蹴って、こちらに勢いよく飛びかかってくるニードルラビットを斬り上げ、重力に身を任せながらパープル・モスを両断する。

 

 着地する際に、まだ片腕が残るウォーシャドウの顔面、円形のパーツに紅緒を突き立て地に縫い止め、確実に絶命させて。そこから身体を起こし、軸足を残してまた逆回転で反転し、サッカーボールにするように、自由落下してきていたキラーアントの生首を華麗にボレー、壁にぶち当てて爆散させる。

 

 やばい、ちょっと楽しい。あまりに上手くいった。

 

「ツカサ! そっちに影、三体行った!」

「あいよ!」

 

 くるくると回転しながら落ちてくる晴嵐を、誤って指を落とさないように気を付けながらキャッチし、迫り来るモンスターたちを迎え討つ。

 

 

 ダンジョン、第七階層。

 

 

 俺たちが陣取っているのは割と広い、通路が四方に伸びているルーム。そこで、押し寄せてくるモンスターをひたすらに捌いている。

 

 別に『大量発生(イレギュラー)』が起こっているわけでは、ない。

 

 だが中層ですらない階層で、この密度の戦闘は、一般的に考えてあり得ない。では何故、次から次へと、大量のモンスターがこのルームに入ってくるのか。

 

 仕掛けは、中心部に置いてある『あるもの』にあった。

 

「……そこ。フロッグ・シューターがフリー」

「――ッ、ボクが行く!」

 

 奮闘する俺たちを無視してルーム中央――シーヴさんが待機している所へ一目散に駆けてゆく、二匹の蛙の化け物を、双月ノ弐が背後から刺し貫き、魔石を砕く。

 

 しかし、一旦後方へ退いてしまったことによる戦線の拡大は、Lv.1のトルド一人ではどうしようもないほどになる。

 

 まずい。早く持ち場を交代しないと、()()決壊してしまう。

 

 パープル・モスを優先的に斬り伏せ、二匹のフロッグ・シューターと一体のウォーシャドウをまとめて薙ぎ、キラーアントの硬殻の隙間へ的確に刃を差し入れる。

 

 みるみるうちに、そこらじゅうがモンスターの死骸だらけになってゆく。ウォーシャドウなどは足場を気にして屍を避ける傾向にあるが、キラーアントなどはそれがどうしたと言わんばかりに乗り越えてくるからやりづらい。

 

 仕方がない。勢い余って殺してしまわないようにしながら一匹のキラーアントの頭部を切り取り、若干どころではなくだいぶ気持ち悪いそれを片手にその場を離脱する。

 

「俺が、押し戻す! トルドは別方向、を!」

「わかった!」

 

 乱れる呼吸をなんとか抑え、今まさに崩壊しかけていた戦線に突っ込む。度重なる連戦により集中力もそろそろ限界だが、まだ倒れるわけにもいかない。

 

 二本のナイフと体術で戦うトルドは、モンスターが密集している場所より、それなりにばらけている所の方が向いているだろう、という判断。ウォーシャドウのヘイトを集めたまま、フェロモンに釣られたキラーアントの群れを引き連れて、苦戦していた彼と入れ替わる。

 

 シーヴさんから教わったのは、心得や刀の振り方だけではない。長時間斬れ味を落とさず保つ方法も、下手ではあるがなんとか会得した。まあ、心得とかもまだ理解できていないけれども。

 

 兎に角、今は目の前の敵を屠ること、だけを考えて紅緒を、晴嵐を振るう。渡鴉にはまだ慣れない。

 

 

 斬る、斬る、蹴る、躱す、投げる、殴る、掴む、斬る、蹴る、投げる、払う、跳ぶ、掴みつつ斬る、着地しつつ斬る、どつく、受ける、投げ――

 

 

 面倒くさい。

 

 紅緒を、直上ではなく、後方へ、なるべく回転しないように放る。

 

「すいませんシー、ヴさん、持ってて、ください!」

「……ん」

 

 トルドに呆れられてから二週間、必死に特訓を重ねて抜き身でも出来るようにしたが、やはり実践でこれを戦闘に組み込むには少々無理があるように感じる。

 

 せっかく物理的な計算もして、落ちてくる時間やキャッチするタイミングも練習したけれど、あまり役に立っているとは言い難い。

 

 つまりおそらく、まだ俺の実力が、【ステイタス】が足りないのだ。スハイツさんが提案してくれたのだ、間違っているとしたら、俺の方だ。

 

 まだまだ、足りないものだらけ。

 

 身体中、どこもかしこも痛い。攻撃を受けたからか、単に限界なのか。いや、そんなのはもうどうだっていい。

 

 

 もっと強く、もっと速く。

 

 

 ただ踏み込み、刃を振るえ。

 

 ウォーシャドウの腕を斬り落とす。フロッグ・シューターの眉間を突き、頭蓋を切り裂く。パープル・モスの羽根を破損させ、墜とし、踏み潰す。

 

 俺だって。少しは、強くなっているんだ。

 

 様々なモンスターが入り乱れ、阿鼻叫喚の地獄絵図のような戦場を、刀一本で切り拓く。

 

 キラーアントの突進を引きつけてギリギリで避け、背後に迫っていたウォーシャドウと衝突させる。フロッグ・シューターが打ち出したその舌をいなし、キラーアントの顔面に直撃させる。

 

 基本的に全ての攻撃は俺を狙って飛んでくるのだ、俺さえ避けられれば周りの何かに誤爆するのは半ば必然。

 

 フロッグ・シューターの舌を斬り飛ばし、足元のニードルラビットに蹴りを入れ吹き飛ばす。膝を曲げ体勢を低くし、真横から迫るウォーシャドウの腕を頭上にやり過ごし、がら空きの懐に踏み込み逆袈裟で斬る。

 

 

 もっと強く、もっと速く。もっと、高みへ。

 

 

「……は、っ、……はッ、ぁっ……」

 

 

 疲労も極限状態に達しようかという、その時。

 

 

 一匹のニードルラビットが、俺やトルドの周りに展開されている戦場を避け、ルームの中心部へと駆けて行くのが、視界の端に映った。

 

 

「しま――」

 

 止めようとするも、意識が別方向に割かれたことにより一転、防勢を強いられ、俺は抜けられなく、トルドは殲滅に追われそもそも気付いていない。

 

 

 間に、合わない。

 

 

 そして、兎のモンスターは。この部屋の中央、シーヴさんの方へ、走っていって。

 

 

 

 

 

 彼女の足元の生肉に飛びついた。

 

 

 

 

「……はい、終わり」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冒険者用アイテム、生肉。食用に比べて硬い、多分横流しの処分品なので賞味期限切れだ、食べてはいけない。

 

 その魅力的な、なんだろう、匂いか。モンスターたちはその匂いに釣られ、呼び寄せられる、らしい。ウォーシャドウとかはメカニズムがわからん。口も鼻もないし。

 まあとにかく、一見、用途が意味不明に思えるこのアイテムも、効果的に使う道を探ってみれば、案外便利なものにクラスチェンジする。

 

 今回の「生肉防衛作戦」は、俺がなんとなく考えついた、アホみたいな特訓だ。

 

 方法は簡単。

 一、わりかし広い、通路が四本のルームの中央、または三本か二本のルームの隅っこに生肉を置きます。

 以上。

 後は次々にやってくるモンスターたちから生肉を守護し続けるだけだ。念のため周囲に他冒険者がいないか確認しておくことと、脱出用の強めの冒険者を用意しておくことを忘れてはならないぞ。

 あ、生肉は一、二個とかケチなことしないで、ちょっとした小山が出来るくらい置いておくといい。蟻塚ならぬ肉塚サイズが効率的にベストだった。

 

 とまあ、おふざけはここら辺までにして。

 案外、いい戦闘訓練というか、戦闘の最中にも周囲に気を配ることを身につけるための練習としてはそれなりだと思う。シーヴさんがいなければ普通に実戦だけど。

 魔石の稼ぎを度外視した、【経験値(エクセリア)】目当ての作戦というのは、貧乏でいるとなかなかしづらいものなのだ。付き合ってくれるトルドと、特にシーヴさんに感謝をば。

 

「あー、ごめんっす! 自分の周りばっかり気にしてて気付かなかった!」

「いや、トルドの方はモンスターが分散してたから抑えるのが難しかったろ、仕方ないよ。気付けても対応出来なかった俺が悪い」

「でもそれを招いたのはボクがフロッグ・シューターを見逃してたからで」

「あの時は、俺がフォローに回るべきだったのに飛び出せなかったのが――」

 

 シーヴさんの先導で防衛作戦実施場所から脱出した俺たちは、長めの休息(レスト)を挟んだ後、反省会を開いていた。

 

 先の『大量発生』において力不足を実感した俺たちは、どことなくシチュエーションが似ているこの特訓にいろいろと思うところがあり、普段から激しい責任の()()()()にも拍車がかかっている。

 というか、正直な話、トルドには実力があるからといって、無双シリーズではないのだ、Lv.1の俺たち二人で対応出来る数にも限りがあって。でも、やっぱり悔しくて。

 

「二人しかいないから、大きく二方向しか守れないのが辛いよな」

「そうなんすよね。だからといってヘイトを貯めて引きつけて戦っても、新手はこっちを気にせず突破していくし」

「いっそのこと動きながら各個撃破して、全方向を素早くカバーしたりとかできないかね」

「うーん……ボクたちじゃ厳しい気がするっすよ。それに、本当に全方位から一斉に来られたら打つ手がなくなるっす」

 

 実際には、特に何かを護りながら戦うというより、自分の身を守りながら前に進む、ということになるだろうが、それでも圧倒的多対一という状況に慣れておくに越したことはない。

 

 もうスハイツさんとは一緒ではないし、シーヴさんがいつも付いて来てくれるわけではない。自分の身くらいは自分でどうにかできるようにしなければ。

 まあ、『大量発生』に行き当たる可能性自体微々たるものだが、それでも怖いものは怖い。遭遇したら即死、では本気で洒落にならないのだ。

 

「……つまり、ボクが走り回ってヘイトを高めて、引き連れたモンスターをツカサが横殴りにする、感じっすかね?」

「んー、だな。まあ、俺の処理能力が不安なところではあるけど」

「大丈夫っすよ。ほんとに強くなってるんすから、もっと自信持っていいと思うっす」

「そう、かね。じゃあ、次はその方向性でやってみるか」

「よっし、早速、手頃なルームを探しに」

 

 行こう、と言い終わる前に。

 

 

「……やる気があるのはいいかもだけど、もう生肉、ないよ。それに、さっきの戦闘は、効率も動きも、かなり悪くなってた。これ以上やると、危険」

 

 

 シーヴさん(先生)からの待ったが掛かったので、今回の探索もとい生肉防衛作戦は、終了となります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「二人とも、広範囲制圧力が、まだ低い」

「そりゃあ、シーヴさんとかと比べられると……」

「レベルは関係ない。どう立ち回るかが、重要」

「もっと動き回れってことっすよね。ならもっと一体一体を処理する速度を上げるようにすれば」

「……ちょっと違う。大切なのは倒した後で、そこから次の動きに、すぐ移れるようにしておく必要が、ある」

「残心、ってことですかね」

「そんな感じ」

 

 講評をもらいつつ、帰路。

 

 朝早くからもぐっていたので、時計を見るにまだ昼過ぎではあるが、生肉も切れたし、俺たちもかなり体力を削ったし、シーヴさんが飽きてきたこともあり、俺たちはダンジョンを出ることにした。

 

 この三人でもぐるのは割と珍しい。まあ俺たち基準でいってシーヴさんは強すぎるので、戦闘をするのは実質二人なのだが。

 それでもやはり、一人でいるのと、二人でいるのとでは安心感が全然違う。さらにそこに強い助っ人がいるなら尚更だ。

 

 しかし、スハイツさんともぐっていたときと同じように、余程のことがない限り助けてもらえる、というのは相当に有難いこと、ではあるが、その状態に慣れてしまっては意味がない。シーヴさんが言っていたように、最初から失敗しないための努力を重ねることを目的にしなければ、いつまでたっても進歩はない。

 そういう意味では、今回の奇行はまあまあ有意義だったと言えるだろう。

 

 生肉防衛作戦についての話は終わり、近況だとか、今回の都市外紀行はどんなことがあったかとか。会話は雑談に切り替わっていく。

 商業に従事するうちに身についたのか、饒舌な語り口で滑らかに言葉を紡ぐトルドと、普段あまり喋らないのに今日は口を開き過ぎて疲れているらしく、無言で聞き役に徹するシーヴさん。俺はその二人から、少し遅れて、歩を進めていた。

 

 自分の右腰のあたりに、そっと手を添える。

 

 半太刀、渡鴉。使い始めてから、二週間が経った。けれど、まだ。一向に、慣れない。

 いくら下半身を安定させても、一度振るえば重心が前方にずれてしまう。お陰でまだ素振りもまともに出来やしない。

 

 トルドから又聞きしたところ、これの作者さんは、「冒険者用」の刀、だと。

 それが、どんな意味を持つのか。どんな意向を込められて、これが創られたのか。俺はまだ、理解するに及んでいない。

 俺の現状に鑑みると、まるで、「お前は冒険者ではない」とでも言われているような、そんな感じがする。してしまう。

 

 スハイツさんとのひと月の探索で、無茶することを覚えて、無茶しないことを覚えて。その時からは随分と【ステイタス】が上がったが、元の状況に戻った途端に伸び悩みが来た。

 決して、シーヴさんやトルドともぐることが非効率的で意義が薄い、なんてことはない。ただ単に、俺が上手く歩けずにいるだけなのだ。

 

 改めて前方を歩く二人の姿を窺う。

 彼らと俺との距離は、僅かに数M(メドル)。しかし、気安く埋めることが出来ないほど、遥かな遠方であるようにも感じる。

 

 

 やはり、何の変哲もない一般人が、こうした修羅の世界に足を踏み入れることは、無謀であったのだろうか。見栄を張らず、商業、服飾、鍛冶、医療、果てはギルド職員にでも、なるべきだったのだろうか――。

 

 

「あっ、えー、っと、ナツガハラさん!」

 

 不意に、背後から聞いたことのある、やけにイケているメンの声が飛んできた。声だけでもうかっこいいとか反則じゃないですかね。

 

 正規ルートを通れば様々な冒険者たちとすれ違う。だが知り合いに遭遇することは稀、そうそうあることではない。

 俺の、数少ない既知の人物といえば。

 

「……パンテオン、さん。と、セブランさん」

 

「お久しぶりです。敬称はいらないですよ」

「私も、アルベルティーヌで構いません。長ければアル、とでも呼んでいただければ」

「いきなり呼び捨てどころか愛称は抵抗がちょっと」

 

 旅人風イケメンのパンテオン・アブソリュートと、町娘風美人のアルベルティーヌ・セブラン。【ウルスラグナ・ファミリア】の二人組だ。一言キャッチコピーは今考えた。

 彼らも帰り道の途中なのだろう、その背のバックパックはわかりやすく膨れ、纏う色褪せた布にはところどころ何かの血痕が散っている。

 パンテオンはまだしも、アルベルティーヌ、さんはどこかやつれているように見えるが、それを言うのはデリバリー、いやデリカシーとやらに欠けそうなので黙っておく。

 

「おお、パンテオンにアルベルティーヌじゃないっすか。先の『大量発生』以来っすね」

 

「どうも」

 

「そうだね、トルドも元気にやってる?」

「もちろんっすよ。最近は外に出ることが多くてあんまりダンジョンにはもぐれなかったっすけど」

「外? 外って、都市外のこと? 【ファミリア】所属の冒険者は外出制限厳しいんじゃなかった?」

「普通はそうなんすけど、うちは外の色々な都市とのパイプがあるから比較的スムーズに出られるんすよ」

「へぇ〜、いいなあ。迷宮(ここ)にもぐるのもいいけど、旅ってのもロマンがあるよねえ」

「ん、もしかしてパンテオンのその服装もそれを意識してたりするんすか?」

「実はそうなんだ。なかなか出られない分、こうして気分だけでも旅人風にってさ」

「ほほう、それならうちにそういう旅人御用達の服やアイテムも数多く取り揃えてるっすよ。是非一度ご来店を……おっといけない、接客モードになりかけたっす」

「あはは、でも興味湧いてきたよ。今日早いしこの足で行ってみようかな?」

「大歓迎っすよ!」

 

 うわあ、トルドくんはもう仲良くなってる。

 

 にこやかに挨拶を交わす男二人に、自分から進んで発言する気はないという風に一歩引いて侍るアルベルティーヌさん、あと暇そうなシーヴさん。俺は言うまでもなくぼっちの立ち位置だ。

 こういう、友人が他の人とすごく仲良くしてるのを間近で見てるとなんか複雑なことになるよね。それが共通の知り合いとかだと尚更。トルドの場合は職業柄ってこともあるだろうけど。

 

 上層で、さしたる危険もないことから、場が和やかに緩む。二人だけの盛り上がりが勢いを弱めてきて、パンテオンの目がシーヴさんの方に向けられる。

 

「ところで、そちらは?」

「……【カーラ・ファミリア】、シーヴ・エードルント。よろしく」

「よろしくお願いします、って、【ヘリヤ・ファミリア】じゃないんですか?」

「ツカサも【ブリュンヒルデ・ファミリア】で、ボクらは全員【ファミリア】自体は違うっすよ」

 

「へえ、珍しいね。……っと、危ない危ない。わかってるって、アル。そんな目しないでよ」

「いえ、私は何も?」

 

 すましたように目を閉じるアルベルティーヌさんに、パンテオンは苦笑いする。

 

 そして、こちらに向き直った彼の表情は、別人かと思うくらいに真剣で。強者同士の何かを感じ取ったのか、シーヴさんの耳がぴくりと揺れる。可愛い。

 

 この場を包む空気が変わる。通常時から戦闘に移行するときのような、緊張を伴う変調が、俺たちの危機感知機構の警報を掻き鳴らす。

 

 

「……まさか」

 

「ええ。恐らく、ナツガハラさんが今憂慮なさった通りの事が、起こる、いえ、もう起こっているかも知れません。私たちは、既に中層近辺で、例の兆候を確認しました」

「なるほど。ゆっくりするのは、ここを出た後、ってことっすね」

「そういうことなんだ。こっちから呼び止めておいてなんだけど、先を急ごう」

 

 

 

 

 

――また、()()が、起こる前に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     ○

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 休日。

 

 なんと心踊る響きだろう。仕事の仕事による仕事のためのデスマーチに奔走し、時間の概念が吹き飛ぶほどに仕事漬けだった天界での日々からしてみれば地上はまるで天国のようである。

 

 なぜなら休みがあるから。自由な時間というものが私たちに与えられるから。

 

 降りてきたばかりの頃は、生活のためにまた働くしかなかったけれど、それでも環境は文字どおり天と地ほどの差があった。もちろんいい意味で。

 魂の選別作業等を行っていた身からしてみれば、品物の善し悪しなど一目瞭然、力仕事を除いて、レジ打ちも接客も、何ら難しいことはなかった。私だってそうスペックが低いわけではない。ちょっと不器用なだけで。

 ツカサくんと【ファミリア】を立ち上げてからも、一応【ヘリヤ・ファミリア】、「最果ての放浪者」での仕事は続けている。しかし強制的ではなくなった時点で、半分は惰性と習慣のようなものではある。

 無論、まだまだ貧乏な零細【ファミリア】であることには違いない、彼一人に収入の一切を頼り切るのもまた別の話であって。このまましばらくは、ヘリヤのところも人出が足りないだろうし手伝うつもりだ。

 

 それでも。休憩時間なんて限定的なものでなく、まるまる一日フリーで居られることには喜びを感じる。感じられなければ立派なワーカホリックなので、精神科にどうぞ。

 この間のときのように、またツカサくんとどこかへ出掛けたりはしたいものの、彼は普段ダンジョンにもぐりっ放しのため、専ら一人なので、若干寂しくはあるけれど。

 

 

 ヴァルハラに残してきた仲間たちの冥福を祈りつつ、しっかり食材を搭載した買い物袋を提げ、私は昼下がりの大通りを歩いていた。

 

 世界で最もアツい街、らしいけれど、お昼はのどかなものだ。

 子供達の楽しげな笑い声、青果屋の元気な客引き、行き交う人々の雑踏。遠く、鳥の鳴き声も聞こえる。

 大通りには緑こそ少ないものの、活気溢れる豊かな街、といった感じ。

 

 冒険者たちは朝早く出掛け、夕方から夜遅くに帰還する。日帰りなら大体がそんなスケジュールであり、昼のメインストリートを完全武装で闊歩するような輩はほとんど見られず、普通の街と大きく異なるようなところはない。

 十年ほど前、【ゼウス・ファミリア】と【ヘラ・ファミリア】が都市を去ってからすぐは非常に治安が悪かったらしいけれど、【アストレア・ファミリア】や【ガネーシャ・ファミリア】のお陰で最近はかなり回復してきたとか。有難い話である。

 

 時折すれ違う御近所さんや顔見知りの人たちと挨拶を交わしつつ、ゆっくりと本拠の方角へ歩く。すっかり地元密着型みたいな感じになった、暮らしやすいのはいいことだ。

 買い出しは終わったし、時間もあるしどうせだから何か甘いものでも食べようか。そんなことを考えながらふと辺りを見渡すと。

 

「あれ……テアちゃんかな?」

 

 広場の方へ走ってゆく遊びたい盛りの子供達の塊、から離れ、ぼんやりと彼らの背を見詰める知り合いの娘を見付ける。

 もとからあまり活発な子ではないけれど、どうしたのだろうか。どうやら仲間はずれにされている、というわけではないようだけれど。

 

 ひとまず、一人別方向へ歩き出す彼女に近付き、声をかけることにした。だって見過ごせない。

 

「テアちゃんテアちゃん。こんにちは」

「ぶりゅんひるでさま。こんにちは」

 

 無邪気に笑う彼女はとても可愛く、思わずこちらの頬も緩んでしまう。しかし目的は見失ってはいない。私だって神なのだ。

 

「どしたの? みんなと遊ばないの?」

 

 本当は遊びたいんでしょ? という気持ちを込めた言葉は、彼女の視線を、遠ざかってゆく少年少女たちに誘導する。

 

 つぶらな瞳が、寂しげに揺れた。

 

「あそびたいけど、きょうははやくかえってきなさいって、おかーさんが」

 

 予定とかがあるのかな、だとしたらお節介だったかな、と思った、けれど。

 

 彼女は、予想外なほどに真っ直ぐな眼差しで、私の眼を見据えてきて。そして、その細い腕を持ち上げ、小さな手の小さな指で、白い塔、バベルの上空を指し示す。

 

「きょうは、いけないほしがみえるって、おかーさんが」

 

「いけない……星?」

 

 彼女の指差す先を望むも、そもそも昼だ、星なんか見えない。でも、なんだか。

 

 

 急に気温が下がった気がする。

 

 

 ついさっきまで聞こえていた喧騒も、どこか遠方の世界の出来事だったかのように、もう、私の鼓膜に響かない。

 

「うん。あのほしがみえるひは、きけんだからはやくかえってきなさいって」

 

「そ、そうなんだ。それって、星占いみたいなもの、なのかな?」

 

「ううん。おかーさんもわからないって。でも、みえるひはいやなかんじがするーって、いつもよりとおくまでおとーさんをいってらっしゃいするの」

「それ、は……」

 

 朝早く出る職人の旦那さん。彼を見送りに出ているフューゲル夫人と出会ったのは、後にも先にも、まだ一度きり。

 

「たまにね。おかーさんはいやなほしをみるの。そのひははやくかえって、わたしがだいじょーぶよって、してあげるの。ともだちともあそびたいけど、おかーさんのほうがすきだから」

 

「……そっか。呼び止めてごめんね。ちゃんと一人で帰れる?」

「うん。だいじょーぶよ」

 

 本当は、近所だし、私がこの子を送って行くのが道理なのかもしれない。でも、今。私の頭の中は、嫌な予感で埋め尽くされていた。

 

 背を、雫が滑る。

 

 だって、だって。その日は。ツカサくんが、大怪我を負って帰ってきた日。

 

 上手く笑えているかどうかもわからないけれど、笑顔のつもりで、テアちゃんに向けて手を振る。でも頭の中はぐちゃぐちゃで、何も考えられやしない。

 

「じゃあね、テアちゃん」

「さよおなら、ぶりゅんひるでさま」

 

 腕を振るだけの機械のように、小さな体躯が道を曲がって消えてゆくまで、ただ突っ立っていた私は。

 

 

 

 寸分の迷いもなく、来た道を走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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