場は一気に緊張に包まれた。誰も一歩も動けない。
グリフィンドールの何人かは顔を見合わせ、他の生徒は目の前の出来事にのみ注意力を注ぎ込んでいた。
「渡して」
短く、強い声音でドラコを真っすぐと見据える。
「ハリー。君はいつもそうだ。君は何か勘違いしている。」
ドラコがせせら笑った。
「・・・何を?」
意外な返しにも表情を崩さずハリーは尋ねた。
「君は正義の戦士でもなんでもない。英雄だからなんて考えはやめろ。誰もが君の言うことに全て従うわけじゃない。君は別に特別なんかじゃない。」
「特別なんて思ったこと一度もない!僕は」
ハリーは反論するが、ドラコはハリーの話を遮り続ける。
「生まれがなんだ?傷跡が何だ?確かに君は優れている。でも君が優秀なのは、君が人よりも頑張ったからだ。君が英雄だからじゃない。勤勉だからだ。仲間はみんな君の頑張りを見てきた。君の努力を知っている。みんな君を認めてる。ある程度は君の言うことを聞いてきた。でもそれは君が特別だからじゃない。」
「分かってないのは君さドラコ。僕はそんな自意識は持っていない。自分達の行動を顧みてそれなら、バカにもほどがあるね。今君がしていることは、君たちの言うマグルとおんなじさ。僕の従兄弟と変わらない。」
「英雄ごっこはそろそろやめにしたらどうだ?」
マグルと比べられてか、今までおちょくるような態度だったドラコが、イライラを隠せないでいる。
「君の答えは全く的を射ていない。もういい。さあ、それを渡してもらおうか?」」
ドラコはサッと箒を手に取ると、すぐに跨り飛び上がった。なるほど、普段クディッチとかいう魔法界の、箒にまたがって行う競技について、いろいろと語っていただけはあるな。飛ぶのが上手そうだ。
「心配するなハリー。ロングボトムが取れるところにでも置いておくよ。ああ、あの木の上なんて良いと思わないか?」
「早く渡せって!」
ハリーは声を荒げる。
「ここまで取りに来いよハリー。口だけの君には無理だろうけど。」
ハリーは箒を掴む。
「ダメよハリー!退学になるわ!」
ハーマイオニーの声もハリーには響かなかった。
血が熱い・・・。心臓がバクバクとハリーに緊張を知らせる。
箒にまたがるとハリーは、地面を強く蹴った。急上昇する中、ハリーは歓喜に包まれた。風を切るこの感じが心地いい。
まるでずっと前から飛び方を知っていたみたいだ。クルッと旋回してドラコに向き直る。・・・と、ハリーが歓喜に包まれる中、意識を半分残したまま目の前が真っ暗になり、別の思考が入り込んできた。
「この先に・・・俺様の望むものがある・・・焦りは禁物だ・・・」
ハリーはグイッと現実世界に意識を引っ張ってくると、ドラコを観察する。
(今のはドラコがやったのか・・・?)
しかし、ドラコはハリーが飛べることに対して驚いてか、茫然としている。とても何かしたようには見えない。第一杖を持っていないのだから、おそらく先ほどのはドラコではないだろう。
「早くこっちへ渡して。落とされたくなかったら。」
「へえ、どうかな?」
ドラコはニヤッと笑おうとしたのだろうが、顔が引きつっているのがよく分かった。
ハリーはなぜか、飛び方が分かっていた。姿勢を低くし、箒を両手でがっちり掴む。箒は矢のようにドラコめがけて飛び出した。ドラコはなんとかかわしたが、本当にギリギリだった。
「さあ、どうする?次はないぞ。」
ドラコもそう思ったらしい。
「取れるものなら取ってみろ!」
ブンッと腕を振り、ドラコは空中高く玉を放り投げた。そのまま地上へと一目散に逃げていく。
ハリーは頂点に上がった玉が落ちてくるのを見て、取れるという確証を持った。
ハリーは急降下し、落下する玉を追いかける。どんどんスピードを上げる。風が耳元でビュービュー鳴っている。
箒にムチ打ち・・・風に交じり悲鳴が聞こえる・・・そして・・・
パシッ!箒から身を乗り出し、地面スレスレで玉を掴むと箒を上にグイッと上げ、なんとかスピードを落とすと芝生にクルンと転がり着地した。
「ハリー・ポッター!!!!!」
マクゴナガル先生が校舎の入り口から走ってやってくる。
高揚していた気持ちは急速にしぼんでいった。震えながら立ち上がる。
「こんなことは今まで一度も・・・」
マクゴナガル先生は目の前の出来事に言葉も出ない。
「なんてことを・・・首を折ったかもしれないのに・・・」
「先生、ポッターは悪くありません。」
なんとグリフィンドールのシェーマス・フィネガンが抗議の声を上げた。
「そういう問題ではありません。ミスター・フィネガン。」
「でもマルフォイが」
続いてなんとロンだ。
「くどいですよ。ミスター・ウィーズリー。ポッター、来なさい」
マクゴナガル先生に続いて、ハリーはトボトボと城へと歩き出した。
チラリと横目にみんなの同情した顔が目に入る。ああ、そうか・・・僕は退学になるんだ・・・。
今日の午後にはもうあの家に帰ることになるのだろうか・・・。
じわじわゆっくりと退学の恐怖が、ハリーの心臓から広がっていく。帰りたくない・・・。
ついに、ハリーは城の大理石を踏みしめた。
校舎へと去っていく同室の仲間を、ドラコは生気のない目で見つめていた。
自責の念に包まれていたドラコの瞳を、ハリーが知ることはない。
よろよろと歩くうちに、いつの間にか正面階段を上がり、長い廊下に出た。
荷物を抱えた僕を見てあの連中はなんというだろう。
ふと、ハリーはある映像を思い出した。教室に入った時に、ダドリーに理由もなく殴られたときのことだ。
「なに入ってきてんだよ」後ろに腰を抜かしたハリーはゲラゲラ笑いに包まれていた。
教室のドアが、ダーズリー家のドアとリンクする。
今日の午後には、あの憎たらしい顔を嫌でも見ることになる・・・。ハグリットのように働かせてはくれないだろうか・・・?
ダメだ期待するなハリー・・・いつも期待は裏切られる。
退学の恐怖と今しがた思い出したダドリーとの一件の憎悪で胃がよじれそうな感覚に陥る・・・。
吐き気が込み上げてきた・・・。ダドリー・ダーズリー・・・この世で一番嫌悪する・・・生き物・・・。
「ウッ・・・」
「どうしましたポッター?」
ハリーは視界がぼやけていくのを必死に制した。胃がのたうちまわっている。たまらずハリーは膝をついた。
この後に及んで、下手な悪あがきをするような卑怯な人間に思われたくない。
「だ・・・」
大丈夫です、と言おうとして口を手で覆った。目をギュッとつぶり視界を閉ざし、おう吐をこらえる。
真っ暗な視界・・・ハリーは後ろ向きに歩いていた・・・「アロホモーラ」ガチャッ。ドアの開く音がする・・・。
ハリーは生臭い匂いが広がる部屋へと進んでいった・・・「で、ではいきます我が君。」クィレルが生唾を飲み込んだ。
グルルルル・・・獣の野太い低いうなり声・・・クィレルがターバンをほどいた。閉ざされていた視界が開けた。
体の内側で、血の気の引いていくような感覚・・・あれを手に入れるためには仕方のないこと・・・我慢せねばなるまい・・・。
「ルーモス・マキシマ!」グアアアア。
獣がひるむ鳴き声が聞こえる。そうだ・・・時間を稼げ・・・。
獣がひるんだのも束の間、ひずめがブンっと振られる音とともに、グンッとクィレルの体は上へ引っ張られた。
しかし、それは攻撃が命中したからではなかった。「我が君。準備はできました。」クィレルは自らの牙を撫でた。
全く・・・この俺様が、半獣の体に憑かねばならないとは・・・
天井に引っ付いたクィレルはビュンッと飛び、壁に張り付いた。後ろから衝撃音がする。獣はまたしても攻撃を外した。
「クィレル。撤退するぞ。」
「しかし我が君、まだ何も」
グワアアアアア!咆哮とともに衝撃音。ビュンッとまたしても瞬時に移動し、攻撃をかわす。
「このまま逃げ回っていても何にも分かるまい。焦りは禁物だ。」
「・・・御意」
そうだ・・・まだ焦ることはない・・・何か策を考えねば・・・慎重にことを運ぶべきだ・・・俺様は必ず復活する・・・復活した暁にはあの小僧を・・・ハリー・ポッターを・・・
「ポッター!ポッターーー!」
ハリーは意識を取り戻した。「はぁ・・・はぁ・・・」何十メートルもダッシュしてきたかのように、息切れが激しかった。
「保健室へ行きましょう。」
「いえ、・・・はぁ・・・大丈夫です・・・はぁ・・・はぁ」
マクゴナガル先生は無言で杖を振り、ハリーの体を浮上させ、運ぼうとしたが、ハリーは反対呪文を唱え、本当に大丈夫だという旨を伝えた。
「そうですか」
まだ納得していないという顔をしながらも先生は案内を続けた。
最後くらい堂々と辞めてやる。体調不良のふりをして、退学を延期にしただなんて皆の耳に届きでもしたら、それこそお笑い草だ。
結局一か月ももたなかったな・・・。最後のあの感じだと、グリフィンドールの何人かには認められたのかな・・・。
スリザリンの皆には嫌われたかな・・・。
「お入りなさい。」
そこは、空き教室だった。
ポルターガイストのピーブズが汚い言葉を黒板に書きなぐっていた。
ピーブズは生徒にイタズラをしたりする、やっかいなゴーストもどきだ。
マクゴナガル先生に一喝されると、ピーブズはあっかんべーをして出て行った。
「今回の処分は、私はスリザリンの寮監ではないのでスネイプ先生にお任せすることにしましょう。ポッター、箒に乗ったのは初めてなのですか?」
「はい。」
「あの高さから急降下して玉を掴んで、さらに傷一つ負わないなんて、あんなものは初めて見ました。来年はクディッチの選手に志願するとよいでしょう。一年生の規則を曲げれば今年からクディッチ杯にも出れるでしょうが、おそらくセブルスはそうしないでしょう。」
「えっと・・・退学しなくてもいいんですか?」
「おそらく、退学にはならないでしょう。」
ハリーは体にふつふつと生気が宿っていくのを感じた。
「ただし、今回の件はことがことですから厳正なる処罰になることを覚悟なさい。」
ハリーは生唾を飲み込んだ。けど、ホグワーツに残れるんだ。ここに残れるのならなんだっていい。発熱ガムだって噛み切ってやる。
「グリフィンドールの連続優勝も今年までかもしれませんね。」
マクゴナガル先生は微笑みながら言う。
「あなたのお父さまも素晴らしい選手でした。」
「スネイプ先生には私から連絡しておきますから。」
スネイプ先生の研究室に向かう道は全く苦ではなかった。
あれだけ絶望に打ちひしがれていたハリーは、今は真逆の心境だ。
ホグワーツに残れる・・・それに、お父さんは確かにこの学び舎で過ごしていたんだという実感が、温かくハリーを包んでいた。
嫌味をたっぷりと浴びせられたハリーだったが、結局いつも授業で使っている魔法薬学の教室の掃除と、謎の薬草をひたすら均等に切って袋に詰めるという作業だった。
スネイプ先生の狙いはおそらく、夕食を食べれないようにすることだろう。そしてその願いは叶った。
「おっと、作業が遅すぎてもう寝る時間だポッター。さっさと寮に戻り、反省でもしておくことだ。次からはこんなに罰則は甘くないぞ。」
寮に戻ると、ソファーにドラコが珍しく一人で座っていた。突如ハリーの中に怒りが沸き起こる。気づかない風に通り過ぎようとするが・・・
「ハリー・・・」
「どうしたんだい?」
ドラコには一切目を合わさず、明後日の方を見て返す。
「えっと・・・何してたんだ?」
「はっ、何をか。誰かのおかげで罰則を受けてたんだよ。」
「退学にはならなかったのか?」
ドラコは嬉しそうな声をあげるが、それが逆になぜかハリーの癪に障った。
「残念だったね。」
ドラコが残念がっていないことぐらい分かってはいたが、ハリーは冷たく吐き捨て部屋へと歩き出した。
「ち、違うんだ!・・・えっと・・・良かった!・・・えっと・・・それで・・・君を許す!」
ハリーは真っすぐにドラコを直視したが、なぜか全体がぼんやりと見えた。
「うせろよ」
ハリーの声はひどく震えていた。ハリーが今まで一度も使ったことのないような言葉だ。あふれる涙を悟られぬよう踵を返し、寝室への階段を上っていく。
胸が締め付けられるのを感じながら、罪悪感に押しつぶされる前にベッドに辿り着こうと必死だった。
残されたドラコはその場に立ち尽くして、友人が去っていくのを見つめていた。
真っ赤に腫れた目、自責の念でいっぱいの表情を、ハリーは読み解く余裕がなかった。
布団にくるまり何も考えまいとしたハリーだったが、ついに、眠りにつくまでに寝室のドアの開く音は聞こえなかった。