「なんて呼べばいいのよ」
水の上を滑ってくる音。誰だろう? そういえばみんなとはぐれている。戦艦も、駆逐艦の子達も、軽巡も、五航戦の胸が薄い方も、見えなくなっている。
甲板は半分無くなっている。機関は全く問題ない。弓も使える。矢は? あと3本。1隻くらい沈められるだろう。
誰が来るんだろう。駆逐艦じゃない。駆逐艦の機関はこんな音じゃない。肩を叩かれる。五航戦じゃない。あの子なら先に声をかける。
回れ右をする。青い空と海をバックにモノクロの世界。虹彩だけ背景を透過したみたいに水色だ。細身の体に不釣り合いなシロモノを頭の上に乗せている。
矢をつがえる。弓を引こうとしたが、1秒遅かった。矢を折られる。返す刀で弓までやられる。まずい。
「戦う意志はないから」
「え?」
まさか、喋るなんて。
「聞いてた?」
「貴方、喋れるのね」
「私達を何だと思ってるのよ」
凛とした、透き通った声。見た目そのままの声、水色の目とピッタリだ。
「加賀って言うのよね」
「ヲ級でいいのかしら?」
「ダメ。そっちが勝手につけた名前じゃない。コードネームにしてももっとかわいい名前にして欲しかったんだけどなー」
「なんて呼べばいいのよ」
「本当の名前はあるんだけど、教えてあげない。普通教えてあげられないよ」
「どうして私の名前は分かるの?」
「通信傍受とか、諜報活動くらいしないの?」
「されてるのね」
「そう」
弓を捨てる。今はもうただの竹と麻だ。
「潔いね」
「素手で殴った方がマシよ」
「戦う意志はないんだけどね」
彼女はいたずらっぽく笑う。普通の女の子にしか見えない。顔色はとんでもなく悪いが。
何が目的だ?
「本当に言ってるの?」
「何がよ」
「戦う意志がないって」
「本気よ本気。ド本気」
「ウチに来ない?」
「拿捕して曳航ってこと? バカじゃないの。行くわけないじゃない」
「力ずくでもいいのよ。一二.五万馬力を舐めないでほしいわ」
「私よりちょっと強いのね、怖い怖い」
彼女は頭の砲を私に向ける。口調とは裏腹に厳しい顔をしている。わざとなのはバレバレだが。
「私は元戦艦だから、そんな砲じゃ沈まないわ」
彼女は笑う。
「ハリボテよこんなの。ま、駆逐艦くらいなら沈められるかもね。それに」
「戦う意志はないんでしょ?」
「ご名答。でもね、情報は欲しいな」
「私も」
彼女は頭の上の黒に近い灰色の物体から艦載機を吐き出す。そんな仕組みなのか。中身はどうなってるんだ?
それを手の上に乗せて差し出す。私は一本矢を渡す。
「弓で飛ばすのね」
「そっちはどうなってるの?」
「教えない。帰って調べてみてよ」
「そうするわ」
杖で私を小突く。私も彼女も後ろに滑りだす。
「じゃあ、またね」
「私は二度と会いたくないわ」
「特別、最後に教えてあげる、私の名前」
彼女は何か発声した。その波は私の鼓膜を震わせ、微弱な電気信号は脳まで届いたが、解読されることもなかったし、記憶に残ることもなかった。三秒後にはもう忘れていた。私は彼女の名前を呼んであげられない。
私は微笑んでいるのだろう。
彼女も微笑んで私に背を向ける。
私も彼女もゆっくりと歩く。彼女の鼻歌が微かに聞こえる。聞いたことのないメロディーがこめかみの裏にこびり付いた。
一度だけ振り返る。彼女は黒いマントに包まれて歩く。あんなに自由に海を歩けるなんて。謎の帽子で彼女が彼女であることは誰にでも分かる。彼女は私を見ない。彼女の名前を叫んであげたかったが、私は彼女の名前を知らなかった。
彼女を視界から追い出す。
水の上を滑って行く音と滑る音と、もう一つ、滑ってくる音。私の名前を呼ぶさっきと違う声。
「加賀さん、他の人見ませんでした?」
「見てないわ」
「そうですよねー。何ですかそれ? 敵の艦載機?」
「拾ったの。持ち帰って明石にでも渡そうと思って」
嘘をついた。
私は瑞鶴を見る。瑞鶴は私を見ていない。私の向こうを見ている。瑞鶴は海を見ている。
「弓、ないんですね」
私は答えない。瑞鶴は弓を左手に持ちかえる。右に回り込まれて最後の矢を引ったくられた。
瑞鶴は私を見ない。
私は瑞鶴を見ない。弓を引き絞る音。
私は立ち止まって目を閉じる。口を開いて、hでもgでもvでもtでもsでもfでもmでもdでもrでもkでもlでもnでもbでもzでもpでもjでもθでもt͡sでもʃでもʒでもt͡ʃでもðでもd͡ʒでもd͡zでもない、iでもəでもäでもɔでもuでもない、彼女の名前の一文字目を。思い出せ! 喉の奥で空気が止まる。陸に打ち上げられた魚みたいに口を動かす。お願い、お願い!
それらが一秒に延髄から額に突き抜けて、解読できない、記憶にも残らない音を口から大気に解き放った。その音波は私の鼓膜を震わせ、瑞鶴の鼓膜も震わせたはずだ。彼女は? それでも私は、三秒後にはその音を忘れていた。
届いて。
目を開く。鼻で息を吸う。左足から歩き出す。永遠の訣別。彼女の鼻歌を歌いながら。
鏃が空気の分子をかき分ける音が遠ざかっていくのを聞いた。