01
聞こえるのは己の荒く、歩く度に上げてしまう息使いと、杖代わりに両腕が握りしめる錫杖を地に立てる際、カツリカツリと体に響き渡る音のみであった。
五感として捉えるのはそれだけの感覚で、視覚――目を凝らせば月明かりに照らされるが木々が生い茂っているために本の数メートル先までしかない夜の森が広がっている。
本来であればこのような闇が支配する森など、仮に手足に疲れがたまりきっていなくても、夜の帳が発する原始的な恐怖によってとっくに足は止まりうずくまっていたことだろう。だが、それでも風香は足を前に進めることができた。錫杖を前方に突き立ててから右足を伸ばし、地につけ杖にもたれ掛かりながら体を前に進める。一呼吸置き、再び錫杖を前に刺して左足を前に伸ばし、地につけ杖にもたれながら進める。淡々とこの動作を続けている。
歩行とは、幼児期のものでも何気なくできる身体の基本である。が、季節は三月下旬、初春の森など五分もいれば体は冷え切ってしまうというのに、額から玉のような汗を流す風香にとってこの作業も苦行であった。そもそも舗装された道ではなく土の、比較的平坦ではあるがくぼみやぬかるみがある。そんな場所で明かりを持たずに見えぬ暗闇の中に足を踏み入れ、そこがぬかるんでいれば簡単に足を掬われるのは当然の結露、故に、握る錫杖を突き刺したときに地面はどうなっているかに渾身の注意をはらいながら歩くのでは神経も体力も消耗することは必然であった。それでも、ぬかるみに足を取られることが多々あったがなんとか転倒せずに体制を立て直せただけでも御の字である。
苦労しながら風香は歩く―――否、逃げる。逃げきるために歩いている。
一心不乱に、逃げていた。だが、この逃避行には肝心なことが抜け落ちている。実は、風香自身、どこに向かって歩けばいいのか、わかっていない。ただ高地から低地に、それだけの指針にして歩く。そもそも逃げろ、と言われ歩いているが、此処がどこで、どこまで逃げればいいのかも教えてもらえず、唯大雑把な方向を指さされただけで、指針も何もあったものではないが。
しかし、矢鱈滅多らに歩いた揚句、元いた場所に戻ってしまっては意味がない。そのために、指さされた方向が緩やかな勾配の斜面であったから、低地に向かって足を進めている。それと、自らの背に軽く首をひねって後方を、自らの背をみる。背負っている祖父、源蔵を確認した。
先ほどあの僧侶が用意してくれた――自らの箱笈を壊し、その骨組で出来上がった即席の背負子にくくりつけた祖父が風香の背にいた。
背の源蔵がいなければ自分はとっくに諦観に負け、折れていたかもしれない。自分が諦めれば、祖父が死ぬ、すでに自分の命は文字通り自分一人のものではない何よりの現実がより一層風香を振るいたたせている。
先ほどまで時折祖父は呻きを上げる以外反応はないが、否、その声には意思があった。よく耳をすませば、すまんという謝罪と、おいて逃げろという意味を持っている言葉であるが、風香の耳には入らなかった。わざと遮断していた所為もあるが。しかし、しばらくして反応がなくなったのは危篤状態に入ったからでもなく、薬が効いたためであろう。よく耳をすませば荒いが小さく規則正しい息音が聞こえた。
風香は安堵し、再びただ祖父を背負い肌寒く、深遠の闇の中を歩き始めた。かつりかつりと錫杖が地面をつく音が響き渡る。
その時、風が風香の背に押すが、その風に乗り、音が届いた。剣戟の音だ、あの空中で生み出された僧兵と女たちが戦い切り刻む音だ。僅かに銃撃の音も混じっている。
急ごうと足をせかしたが、余計疲れたため、数メートルほど進み、一度立ち止まって袖で額の汗を拭き、再び、今度は同じ歩幅で疲れがたまらないように歩き出す。袖に泥がついていたために風香の白い日に焼けていない顔は泥で汚れるが気にする者はいなかった。
時間は数十分前にさかのぼる。
02
風香が目を覚ました時、アーベルという男の抱えられているわけではなく、眼に入ったのは葉が茂ることのないために大小様々な枝が空一面に張り巡らされた、蜘蛛の巣のような光景であり、そして全身を容赦なく襲う肌寒さから、屋外であることを瞬時に理解した。
風香が誘拐された時点で日は没していた。もうそうなってしまえば枝どころか、原始的な闇しかないはずであったが、今日は満月のためか、枝の向こうから月があたりを照らしている。ほんの少しだけ首を起こし、周囲を見渡す。
あたりには木が生い茂っている。木の根元を一面に生い茂った笹の葉が地面を隠していた。森の中、だと理解した。本来、夜の森など風香には馴染みもなく、そのような人間が放り出されれば異様で異常な場所であるが故に例え安全だと保障され、理解していても恐怖が湧き上がるものだ。が、なぜか見知らぬ森の中だというのに恐怖が首をもたげることはなく、しばらく見ていたが風景に興味を失った。なぜなら、ここがどこだろうが知っていようが知るまいが、今の自分に影響がないことだと気がついたからだった。
先ほどの、無刀の儀式は風香に肉体の感覚を喪失させた。そのために感覚が戻っているかどうかだった。
手を握り締め、開く。
二度三度その動作を繰り返す。
思わずのたうちまわりそうな痛み、男が召喚と呼んだ儀式の際、全身の神経の一本一本に針が通されるかのような激痛、あまりの膨大な痛み故に声が出なかったような感覚はすでに失せていることに安堵する。
だが、完全とはいかず、左肩と両腕の肘から先はじんわりと長時間正座した跡のような、血管を締め付けられた後のようなしびれが残っている。動かすこと自体はできるが、どのような傷が残っているか調べる術はなく、無理には動かさない方が無難だろう。
数秒だろうか、数十秒だろうか、数分だろうか、それとも数時間だろうか、永久とも覚える時間をかけ、腕のしびれが引くまでまち、今度は己の足を見る。
足を軽く曲げ、力を込める。そして、まだ若干しびれが残る左肩を右手でおさえながら起き上った。そして、一度、二度、軽くその場で足を上げ、進まないが虚の中にたまった落ち葉を踏む。それを確認し、今度は交互に足を上げて行進
感覚はあった。戻っていた。今度は、足には痛みはない。力が自然と抜けた。もしもここで力が入らなければ、先ほどの女や、自分を襲ったスーツ姿の男たちのみならず、野犬に襲われただけでも太刀打ちできない。最も、女や男たちどころか、野犬に襲われたとしても有効な手段など風香には持っていないのだが。そもそも、その事実に気付いていたとしても風香にはできることなどないのだけれども。
ひとまず、さきほどまでの、風香が気を失うまで肢体が切り落とされ、ほどかれた感覚はすでになかった。力が入る。ちゃんと機能する。そのことにひどく安堵する。あれは、あの感覚は自分の肉体がばらばらに解かれる、という感覚は二度と味わいたくない物だし、そもそも、あんな感覚が残っていれば発狂しかねない。だから、ひどく安堵を覚えたのだ。
だが、風香は再び凍りつく。そのとき、自分が座って寝かされている木のうろから丁度反対側から唸り声が聞こえたからだ。
びくりと体をこわばらせながらゆっくりと首を傾け、目をやる。月明かりに照らされた木の根元、そこはちょうどうろになっており、風に当たらないようになっている場所になにかが寝ている。だが、月明かりがその人を暴く。それは、両腕に包帯が巻かれ、応急処置がなされた老人が、風香の祖父、源蔵が寝ていた。
とっさに風香は近づき、源蔵の体に触れてしまった。源蔵の傷に触れたのか、源蔵はさきほどよりも深い呻き声を上げ、再び距離を取らざるを得なかった。とっさの行動だったが、痛々しく包帯が巻かれた腕は、少しだけ触れてしまっただけでも両腕に巻かれた包帯ににじむ血が拡がったように見え、どうすればいいのか思案にくれるが、どうすればいいかわからない。
答えなどでるわけがない。
第一に、自分がなぜこんな森の中にいるのかすらも分からない。否、前提すら間違っている。ここがどこなのかすら分からなかったのだ。
だから、途方にくれてしまった。途方に暮れるしかなかった。
しかし、呆けている時間は短かった。
どうするべきか思案に暮れる風香の背を、一陣の風が押した。凍えるような冷たさに思わず身をすくめたが、風がもたらしたのはそれだけではなかった。
その風に乗って、鉄のような血のにおいが、風上から、枯葉を踏む音も。
振り向くと、すぐ真後ろに、
――黒い薄壁のようなものが見え、ぽたりぽたりと、視線を落とせば赤く鉄くさい液体が地面に数滴落ちて枯れ草の色を塗り替えている。
風香は顔を挙げる。そこには黒い薄壁―黒の袴をはき、赤――血の滴り落ちる大槍の刃を拭うことなく片手にもった、僧兵が息をあげることなく月明かりに照らされ、こちらを見下ろしていた。
思わず悲鳴を上げようとした風香に瞬く間に近づき、大槍を握っていない右手で口を塞ぐ。
「どうどう」
風香は軽いパニックに陥っていた。だが、僧はそれに構わないように、よくみれば顔に返り血がつき、血に染まりながらもにこやかな笑みを浮かべる。
「落ち着いてくだされ、声をあげれば先ほどの者たちが波となって押し寄せてまいります故」
野太い声だった。まるで獣の声のように低く、下腹に響き渡る声だ。だが、優しい声色だった。穏やかな、ある種、この場に似つかわしくない声だった。
聞く者によっては萎縮させ、またある者には安堵させる、聞き手によってまったくことなる思いを抱かせる音である。幸運に風香は後者であって、その声で風香はある種落ち着きを取り戻すことができた。
よって、ゆっくりと飲み込むように頷き理解を示す。
それを見た僧兵は再びほほ笑む。血がついた槍をもったままでほほ笑まれるのは恐ろしいが、それでも不思議と人を落ち着かせるような笑みを浮かべる。
風香の口をふさいでいた手が離れ、ゆっくりと説法を説く大僧のように口を開いた。
「さて、どこの御令嬢か存じ上げませぬが、御姫は察するに魔道とは無縁の方ですかな?」
魔道、その単語を聞き、先ほどの一連の異常はなんなのか、尋ねたい衝動が襲うが、僧兵は察したのか、風香が口を開く前に再び手で風香の眼前に手を置き、手で制した。
「あいや、聞きたきことはあるでしょうが、まずはこの愚僧の質問に答えてもらいたい」
無骨に表情を変えていなかったし、それが高圧的な物いいにも聞こえた。が、さきほどの無刀の笑みが不快を抱かせる笑みならば、この僧は安らぎを思い抱かせる雰囲気なのだろう。何処かおどけたピエロのような、滑稽でありながらも、不思議と落ち着かせる雰囲気を持っている。
風香は頷く。魔道など、創作物の中でしか聞いたことがなかった。
その頷きに僧はやはりか、と項垂れるように視線を落とし、数秒、思案に暮れていた。
と、その時、隣で寝ていた祖父が唐突にうめき声をあげた。
今まで忘れていたわけではないが、やはり祖父は油断を許さぬ状態であったことを思いだし、思わず僧兵にどうすればいいのかと、指示を仰ぐ声を上げようと口を開く。が、
風香の喉からかすれるように呼吸音がするだけであり、声がでず、意味を成さない風の流れを作り出すだけであった。
風香が驚いたように自身の喉に手をやる。だが、依然として声がでない。そんな異常に気がついたのか風香の様子をみて、僧が自らの人差し指と中指を合わせ、僧の口元にもっていき、三言ほど唱え、その指を風香の喉元に手をやる。しかし、依然として声がでてこなかった。
僧は一考するように口元に手をやる。
「ふむ、かなり強力な呪(しゅ)を受けたようにみえますな」
呪、という言葉がなんなのか、分からない。しかし、それが有るせいで声が発せられなくなっていることは理解した。原因が判明しても解除の方法がわかなければ、どうすることもできない、だから構わないでくれ、とジェスチャーで伝えようとした時、僧が地面に石突を、大槍を地面につきたて、両手で印をつくる。それは九字といわれるものだったが、風香の知識の中に修められていなかった。
「御姫の方が先に対処いたしましょう。他の解呪の方もありますが、今は何分切迫しております。荒行事になりますがご容赦を」
荒行事、その一言に風香は僧兵の不穏な響きを見るが、抵抗や拒絶の意思を示す暇もなく、風香の喉元に人差し指と中指をそろえ置き、再び言葉を紡ぐ。
と、風香は指を抑えられた喉元が熱を持つのを感じた。いや、唯の熱ではない。猛烈な熱だ。肉が焼けただれ、焦げていくようにすら思えるほどの熱、僧の手を払いのけようとする、だが、その前に僧の手が離れる。どうしたことだろうか、今度は冷水につけられたように急激に熱を失い、代わりに、猛烈な吐き気がこみ上げ、風香を襲った。
上半身だけ起き上がった状態だったが、両手を地面につき、項垂れ、せき込みながら、胃からではない、腹全体、体全体から生じたそれを吐き出さんと体が訴える。ただ、一心不乱に毒を体外に出そうとする。
「ごほっ、ごほ」
せき込むと同時にそれが喉元からせり上がってくる。猛烈な不快感が襲うが、それを吐き出すしか解決の方法がなかった。
そして、それは強烈かつ凶悪な悪臭と不快感を伴いながら風香の口から吐き出される。それでも以前として形容しがたい気持ち悪さは残り、せき込む。
僧兵が風香の背をさすっていたが、突き立てた大槍を抜き穂先で風香が吐き出したそれを地面に縫い付けた。
しばらくして落ち着き、幾分平常にもどった風香は僧兵が突き刺し、いまだに動いているそれを目に入れた途端、それまでとは違った悪寒が背筋を凍りつかせ、生理的嫌悪を感じ、喉奥からこみ上げてきた。
子犬ほどの大きさが、否、それは徐々に大きくなっていっている。風香の唾液にまみれ、月明かりに照らされているせいで光沢を放っている。四肢の類はなく、体色は黒一色、一見するとナマコのようであり、いまだ槍の穂先で、軟体生物のように身をくねらせ、芋虫のように動いていた。
「喝!」
僧が声を張り上げ、その声に思わず風香は身をすくませた。そうすると、いままで身をくねらせていたそれは液体窒素を浴びせられ凍りついたかのように固まり、そして末端からじわじわと煙があがって消失していく。
数秒の内にもかからず、それは消えた。
呆然としていた風香していたが、僧は構うことなく地面にのぼりのように立てた槍を離し、しゃがみこみ視線を風香に合わせると口を開いてくださいと言い、風香は無意識のうちに口を開いた。じっと喉奥を診察し、もう大丈夫という風に頷くと隣に寝ている祖父、源蔵に近寄り、四肢に巻かれた包帯などを確認する。
「このご老人は手を負ってなさるが命に障ることはござらん。ですが術を使ったので、何分急がねば」
風香に語りかけ、いまだ意識の戻らない祖父を僧は背負う。そのまま、ついてこいという風に顎をしゃくり歩きだした。その有無を言わさぬ流れに、風香はどこに行くのかも知らされずついて行っていいものかと思案するが、かといってついて行かなければこのまま祖父を連れさられるだけではなく、森の中で孤立し遭難する。立ちあがろうと力を込めた。だが、少しばかり腰が浮いたと感じた途端、再び地面に腰をおろしてしまった。自分自身のことなのに一切力が入らず、力が入らず困っていると、僧の顔が間近にあった。驚き声を上げそうになったが、祖父を背負ったまま僧がしゃがみこみながら風香の足に、履いていた紺のソックスを脱がせ、代わりに何かを履かせた。みると、それは古風な足袋と草履であった。
その途端不思議と力が入り、ふと力を足腰に込めると、今まで、それまでも経験したことないように体が軽くなり、立ち上がった。立ち上がれた。それを見て、にっかりと笑みを浮かべると善哉善哉と言いながら、森の中、いまだ闇の帳が落ちている森の中を再び歩きだす。風香はその背についていくことしかできなかった。
風香は腕時計をする習慣がないので体感時間でしか計れず、もう一時間も歩いたと言われても、それともまだ二十秒しか歩いていないと言われても信じられるほど風香の時間は狂っていた。しかし、確実なことは寝かされていた場所から全く離れていないことだった。直線の距離にすれば50メートルも離れていないかもしれない。そもそも、風香は今まで登山の経験などなく、緩やかとはいえ幾分傾斜がつき、整備舗装の類もなにもされていない森を歩くとなると一般人では相当堪える。更にそこに夜道ということも加われば、歩けるだけでも十分の疲労が伴うというわけである。
風香が前を歩く僧(指標)を見失わない距離を保ち、速度を保っていたようだったが、それを風香は自らのことで手一杯で気付くことはなかった。
唐突に、僧は立ちとまった。
そこは、今まで森ではなく、視界は悪く、鬱蒼と木々の枝や風香の腰まである草草が生い茂っているが、一筋の道のように他よりも一段低い草が茂り道のように森の中へと続いていた。
僧は、立ち止まり、風香を見た。
「さて、お嬢、これから愚僧が説明をしたいのは山々ではあるが、何分時間がない」
もしやここで殺されるのでは? と不安が首を擡げる。この僧とカソック姿の男の二人組に風香と源蔵はあの不貞な輩から助けられた。だが、もしもあの怪しげな儀式自体を止めるのが目的ならば、風香を殺すのが手っとり早い、だから、処刑場に案内されるのではないか? そんな考えを歩いている最中に思ったが、疲労と逃げたとしてもすぐに追いつかれるという恐怖心から恭順していたが、その最悪な未来が不安を伴って風香をこわばらせた。僧は察したように
「いやいや、御安心してくだされ、御姫に、拙僧、不忠義者なれど危害を加えるつもりは毛頭ござらん、拙僧の頭のようにな」
にっかりと笑う。何度も浮かべた気さくな、ひょうきんな笑み。それを見る度に言い知れぬ安らぎに似た安心感を与えたが、今回もまた同じ、根拠のない思い込みに等しい安堵。されど、心の底からの安堵を覚える。それと同時に可笑しみも、故に噴き出してしまった。
風香が安心した様を見て、僧は尋ねる。
「では、さきほどの質問なのだが、御姫は魔道の者ですかな?」
その質問に、風香は首を横に振った。もう一度説明するが、蛭田風香は特殊な家庭事情を抱えているが、それ以外は至って普通の女の子だ。
幼少のころから両親の映画鑑賞が高じて週に一度映画館に足を運ぶ、しかし、映画のスクリーンの中以外では見たことも聞いたこともない。故に、首を振った。
それを聞き、改めて僧は口元に手を置き、考え込む。
思案に暮れること十数秒、ふむ、と息をこぼし、口を開いた。
「ならば主上が述べられたことは真でござったか……」
いかにも困ったような声色で俯く。思わず風香が謝りそうになるほどであったが、よく見てみれば、僧の目元は下を向き、つられて風香も僧の足元に視線を落とすと、僧は自らの股の間の土に、握っている槍の石突きで何かを地面の土に彫り込んでいた。
風香は首をかしげた。僧が描いているのは、一見すれば図のようにも見えた。だが、何処かで見覚えがある。どこであったのか、つい首をかしげたが、僧は書き終えたのか、槍を地面に突き刺し、満足げに頷くと、両手で印を作った。
「オンバサラクシャ、アランジャウンソワカ」
ふと、その一言、僧が唱えたときに、風香は気がついた。地面に書かれた物が光っている、淡い、金色の光を放っていることに。
轟
僧の裂帛の掛け声が夜の帳に響く。だが、風香がその声に身をすくませる前に、一陣の風が風香を、源蔵をなぶった。
風香はまだ残寒残る春風で身を縮こませ、源蔵は僧の背で、ただ傷に触ったのか、呻いた。僧はその風の中、仁王立ちで立っていた。
風香はゆっくりと目を開くが、途中でそれは意味を変えた。風香の顔にある感情が現れた。――驚愕、である。
見える、見えるのだ。
先ほどまで何も足元ですらおぼつかないほどの闇を薄光の月光はさんさんと照らし、耳をすませども風がなびく音しか聞こえないはずだった聴覚は、風に乗り、こちらに近づく金属が奏でる音を正確に捉える。
驚いた風香はそのまま、音のする方角、後に振り返る。
だが、いくら見えるといっても、ここは幾分視野が開けた山野であるが、今まで歩いていた場所は森の中である。よって、音は捉えているが、姿は見なかった。だが、それが余計に風香に恐怖を抱かせる。
近づく速度が異常なのだ。
金属が触れ合い、奏で、思わず耳を覆いたくなるような雑音、それが徐々に近づいてくる。こちらを知っているように、否、知っているが故に一直線に向かってくる。
風香はたじろぎ、導き出される答えは一つだった。
――逃げなくては、と。
頭で理解しようとも、本能で解しようとも、同じこと。此処にいれば、あれが向かってくる。何が自分に向かってくるのか、決まっている。
あの銃や槍を構え、持った女たちだ。
脳内で思い出される様々な武装を握り締めた女たち、それは恐怖として風香に根付いていた。
早く逃げないと、ここから離れないと、僧に叫ぶために振り返ると、僧は風香を見ていなかった。先ほどまでなかったはずの、箱笈を持っている。
箱笈を地面に置くと、大槍で一閃
すると、どういうことだろうか、ぱたりぱたりと箱の横板が落ち、それは骨組みと底板のみを残す。背負子のようにも見える――事実そのように使うのだろう。僧は地面に槍を突き刺すと、頭に巻いていた布を解き、源蔵を背負子に乗せ、源蔵の腰に布を背負子に巻き付け固定させた。
呆けたように風香は見ていた。と、源蔵が呻きを発し、我に帰る。
「なにを――」
しているのか? 尋ねる前に僧はこちらを向く。じっと、風香を見つめ、僧は佇む。
「御姫、この愚僧、頼みたきことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
ただただ真摯で愚直なまなざし、故に疑問を忘れ、風香は唾をのみ、頷いた。
「さきほどからこちらに賊が向かっていること、理解されているようですな」
槍の切っ先を地面から抜き取り、風香の耳が捉え、向かってくる方角を示した。風香は無言で頷く。
「あの賊どもは御姫を狙っている、そのことは知り……理解されているか?」
その問いに再び頷く。あの女や男たちは自分を狙っている。誘拐されたのも、そのためだろう。身代金ではなく、あの儀式のために自分が誘拐されたことは、祖父と眼帯の男――元照の会話から理解していた。それと、あれが怪しげな、子供騙しではなく、本当に命を吸われている儀式であると、実感覚から、理解していた。
「拙僧、今すぐ、あの賊どもを成敗しましょうぞ。しかし、その後、主のもとへ助太刀に向かわねばなりませぬ。主はいま、賊どもと戦っておりますが故」
風香は察した。もう一人、あの儀式に乱入した男がいた。幽鬼のような覇気のない表情で、カソックを着た男がいた。いなくなっているのは、てっきり逃げたからだとばかり風香は思ったが、闘っているとは露にも思わなかった。
それと、その言葉が何を意味するのか、理解した。つまり――
逃げろ、ということだ。祖父を背負い、一人で闇に閉ざされた森を駆けていけ。と言っているのだ。
「む、無理です! そんなことは!」
風香は声を荒げ、訴える。自分でも思ったよりも大きな声が出た。
いくらなんでも無茶だ。特別な、それこそ映画の中の主人公のような力を風香は有している特別な人間などと考えたことがない。だからこそ、普通の人間だからこそ、凶器をもった狂人たちが自分を狙っていつ襲いかかってくるかわからない森の中を駆け抜けることなどできない、と風香は叫んだ。
僧兵は風香の悲痛な叫びを受けて、顔をゆがませた。
それが最もだと言わんばかりに僧兵は僅かに唸り声をあげた。そして、禿げあがった頭を下げる。
「御姫、すまない」
ただ、そういって頭を下げた。
「この愚僧が、御姫の申す通り、最後まで守護するのが道理である。だが、かといって、殿が賊を食い止めてくださっているため、主の助太刀にはせ参じなければならん。それが従者の役目であるが故に」
その頭を下げる姿に苦悩がにじみ出ていた。その姿から自らを、風香を守りたいのだと、だが今は自らの主が闘っているために助力にはせ参じたいのだと、その苦痛がにじみ出ていた。
その姿に息に詰めたのは風香の番であった。この僧兵は真摯に風香に頭を下げている。それゆえに、察してしまった。
こういうとき、自分は損だと風香は理解していた。どうしようもなく弱いのだ。こう正直に謝罪されることに。それとこの僧はもう限界なのだと、これ以上は自分たちに時間をかけていられないのだと分かった。分かってしまった。
それに、あのカソックを着た男が闘っているのも真実だろう、あのカソックを着た男にどれだけの力があるのか風香は分からない。だが、あの女たちと戦っているのならば、確かに助力を必要としているはずであるのだ。だからこそ、僧は頭を下げたのだ。それが、最も真摯な対応こそが相手のいら立ちと道理を理解させるのに最善であるとわきまえているが故。
風香はほんの少しばかり俯き、盛大にため息をつくと祖父がくくりつけ、乗せられている背負子を指さした。
「それ」
僧兵は顔をあげ、風香を見る。風香の瞳には諦めと覚悟が備わっていた。
「それ、私に背負わせてください」
そうして、どうにか祖父がのった背負子を僧兵の帯で風香に固定し、その時、どこからか取り出した僧の錫杖で立ちあがって持たれながらも、一応、山を歩ける格好とした。
それを見た僧兵は風香に緩やかに斜面が下っている方角を指差す。
「御姫、この先は傾いているよう向かってくだされ。この先に崖はなく、緩やかに下っていけば民家に辿り着きます。そうして助けを求めれば誰かしら応じてくれるはずです」
風香はそれに頷こうとした時、不意に近くで物音がした。それは戦闘の、剣戟の音だった。
まだ数キロは離れているだろうか、だが、鉾や剣が交わる音、たまに銃声と怒号も聞こえてくる。
風香は身をこわばらせるが、僧は忌々しげに顔を歪ませ、もう来たかと呟く。そのまま、地面に刺して立たせていた大槍を引き抜く。
「では、御姫、拙僧の幻影が時間を稼いでいる間に拙僧もはせ参じなければならぬようで、ここで失礼しましょうか」
そういって一拍の間を置き、いつの間にか握っていた長太刀で空を荒々しく削りだして行く。夜の空間から、その輪郭が描かれ、一体、二体と増えていった。
風香は眼を疑った。
目の前に、僧が4人、まったく同じ格好の僧兵が4人になっているのだ。
増えた僧は、右手に大槍、左手に長太刀をもって、滂沱の汗を流す僧は、それに平然とし、「ふむ、三体か」と少しばかり残念そうにつぶやくと、各々に指さし、「行け」と指示を出す。それを受け、三人の僧は指示された方角にかけて、森の闇の中に消えていった。
残った僧は、風香に振り向く。
「あれで時間は稼げましょう」
そして、ゆっくりと振り向き、僧も駆けて行こうとした時、風香はふと我に帰る。が、風香は、大事なことを忘れていたことを思い出したのだ。
「あ、あの!」
そう声をかけ、僧は振り返った。まだなにか不安なことがあるのか? と目で訴えていた。逆に僧が不安そうだった。
風香は一度深呼吸すると自分を落ち着かせ、僧を正面から見据える。
「蛭田、蛭田風香です。助けてくれて、ありがとうございます」
頭を下げると重心が傾き、背負った祖父源蔵ごと転びそうになったが踏みとどまった。
まだ、この男に礼を言っていないこと、それと自分の名を名乗っていないことに気がついたのだ。
僧は最初何を言われたのか理解できないようにきょとんとしていたが、自然と笑みを浮かべた。
「え、えっと……」
だが、風香はその先の言葉に詰まる。
「……サーヴァント、さん?」
ためらいながらあの地下室、自分が捉えられた場所で眼帯の男、無刀が呟いた荒法師の名を言う。
そのことで僧も、自分が名を言っていなかったことを思いだしたらしい。
「む、名を名乗るのを失念していた。拙僧としたことが、これは失礼」
大槍と長太刀を地面に突き刺すと、行人包もとり、つるりと禿げ上がった頭をさげ、謝罪する。
「拙僧はランサー」
にっかりと笑う、とその時再び風が吹く。ランサーと名乗った大男は大槍と長太刀を引き抜き、行人包みを被る。
「しかし真の名は、主君に殉じる益荒男よ! 蛭田風香殿、我が真名は武蔵坊弁慶! その名を忘れてくれるな!」
分裂した、空から生まれた僧たちのように風に乗って僧は闇に消えた。しばし、風香は、結局はどちらの名前で呼ぶのか、と考えたが、再び風にのって剣戟の音が聞こえ、我に返ると風に乗って消えた僧が指さした方角に、僅かな傾斜がある山原に歩いて行った。
外伝 第五話「少女と英雄(前篇)」 終
やあ、またあったね
前々回に引き続き次回予告を引き受けるアーチャーだ。
うん、色々とすることがあると思うがとりあえず、作者を代弁させて謝罪させていただくよ。
前回の次回予告と全然違うね。しかもこれ前篇でまだまだ終わらないね。
本当なら作者をひっぱりだして、ボクの宝具で作者に雷を落としてやりたいところだけど、一応弁解させてもらうと、転職したらしいのだけれど、なかなか時間がとれず、一年以上空いてしまったとのことだ。
だから、あれほど休みの管理はしっかりしておけっていったのに、また忘れたって、馬鹿だな作者は。
というわけで、外伝は次の後篇で最終回、という形だ。
そのまえに、拝借しているキャラクターに謝罪させる時点でもう駄目だけどね
次回「少女とヒーロー(後篇)」
ちなみにこれが僕の本気モード(シリアス)ってやつさ、どうだいアキラ? だから今夜は合コンに……あはは、ナンデモナイデス
一年ぶりの更新、申し訳ありません。
本当に暇がなくて更新できない状態、しかもクオリティも低下気味という体たらくぶりで御座います。本当にすみません。
これからも更新が荒れ気味で、次話はなんとか一カ月以内に更新を目標に頑張っていきます。次話を早く更新します。
御意見ご感想お待ちしております。