01
蛇口から勢いよく水が流れる。だけど、少々勢いが強すぎた。水は洗面台ではね、しぶきがシャツにかかった。
濡れたシャツが肌に張りつくけど、もともと覚悟はしている。だから、逆転の発想で、この涼しさを少しでも楽しもうと、ノズルをひねって全開にした。
無論、さらに水がはねてシャツが濡れる。
長袖シャツの袖をまくって、水底に栓をした洗面台の水桶に中に手を突っ込こむ。貯まった水は芯まで茹であがった体を冷やすかのように冷たく、気持ちいい。
目を閉じて、納涼を楽しむことにする。水面を水が叩く小瀑布、そのしぶきと手先から駆けあがって脊髄まで涼ませてくれる水の感触、どれもこれも、夏の肌に絡みつくような不快な湿気と暑さを和らげてくれる。
やっぱり夏はこうだ。
我が十二月家にクーラーなんて文明の利器はない。襤褸の扇風機が一台あるけど、強で微弱な風を送る扇風機に頼るのは賢いとは言えない選択だ。だから、夏休みに入ればしょっちゅう、洗面器に水を貯めて足を冷やして涼んだ。やっぱりこうして自然の冷たさに身を任せるのが一番という経験則が俺にはある。
けど、その楽しみは長くは続かなかった。
水音が増えた。具体的には、それまで、手をついていた洗面台のみだったのに、足元から水流の音も聞こえた。しかも、俺の脚にも冷たい感触が。
瞼を開ければ、水底には黒いキャップが沈み、水を貯める洗面台。
上限量には達して、一応、洗面台、上部についた丸い排水溝に流れてはいく。けど、貯まりに貯まった水は白い陶器の防水堤なんぞ越え、タイルになってるトイレの床に流れ落ちていた。
「うっわ!」
俺の叫びが響く。のんきに涼をとっていた水中から手を引き上げ、蛇口を閉めたが、時すでに遅し。結構な水量が床に流れ落ち、俺の足を濡らしていた。
何やってんだか。涼しさにかまけてこんなポカするなんて……。
さっきまで満たしていた心地よさが一転、自己嫌悪で一杯になる。
不幸中の幸いは、水が床に留まることなく、排水溝に流れていってくれた。そこの掃除用具箱からモップを取り出さずに、このまま放置してもいいだろう。それと、足の損害は、トイレ用のサンダルに履き替えていたからズボンのすそが若干濡れた程度、被害らしい被害はないことだけど、気休めにもならない。
「はぁ……」
ため息をついたところでこの気分が払しょくされるどころか、余計に募ってしまうと分かってはいるけど、つかずにいられなかった。
ふと、洗面台に貯めた水面に自分の顔が映っていた。
いつも通りの十二月久連という男の顔、特徴と言えば、母譲りの奥二重と鳶色の瞳。あとは平均的だ。醜男というわけでも、イケメンというわけでもない、平均的な顔。老け顔でもなく若づくりでもなく、年相応だと自己判断している。しかし、今の顔は、気の弱い人なら卒倒しかねない形相になっている。表情ではなく、人相でもない。顔、左半分を黒く変色した血で彩られていた。
少なくてもこの顔で夜道を歩けば、悲鳴が上がった後、警察か救急車は呼ばれるだろう。けど、自分としてはよくあることだから驚くことはない。最も、ここまで派手に血を流したのは久々だけど。
さっきまでいた蒸し暑い通路で、アーチャーが仕掛けた結界を無理やり解いた。結果は、アサスィに告白して、アサスィとの距離感を作る、なんてぶっ飛んだ結果だったけど、それはまぁ、いいとして……いや、よくはないが、本題から外れるからここまでにしておく。その際、全力を越えた魔術を使用したから、負荷がかかって、左こめかみが弾け、そこから血が流れ出たためだ。
こめかみが弾けるのはよくある。魔術の失敗だったり、無理やり魔術を使用するとこめかみのあたりの血管が切れる。最も、普通の失敗だったら疼くくらいの軽い痛痒なんだけど、あれは完全に、限界を越えていた。
魔術は簡単に限界なんて越えられる。自分の本来の実力以上の魔術は行使可能だ。しかし、その代価はこうして身体に負荷をかけ、傷を負わせる。今回の場合、血管まで切ったから、顔が血まみれになった。
本来であれば顔に包帯を巻いて、少なくても数カ月は安静にしないといけない。けど、もう血は止まっている。いや、止めた、が正しい表現だろう。魔術は幼少のころから何度も何度も失敗しては血を流し、を繰り返していたからこめかみの、部分的な治癒だけは上達した。傷の止血なんて朝飯前だ……一番上達しなきゃいけない魔術はうまくならないのが悲しいが。
でも、こびりついた血を洗い落とさないと不気味でしょうがないのは事実、アサスィになにかしら弁解しようとした前に彰さんから顔洗ってこいと命じられた次第で、トイレの洗面台に水を張った現状だ。
……正直、ここからでたくない。いつまでもうだうだと管を巻いていたい。それが一番の安楽。
だって、アサスィにどんな顔してあえばいいんだろうね。いや、本当に。
俺は曲がりも何も告白っぽいことをやらかした。その結果、恥ずかしがり屋なアサスィは、顔を真っ赤にして震えた。そして、美少女が顔を赤くするのは最大の萌えだとクラスメイトでオタク趣味全開の笹原がいっていたけど、その通りだなって実感はするぐらい俺は現実逃避していた。そんな、距離感がある俺たちだけど、これからアサスィに会わなくちゃいけない。しかも、より同盟したこととか、アサスィに戦闘方針とかをその他もろもろ、アーチャーは真実を伝えようとかほざいていたが、あれですべて伝わるようだったら苦労はしないし、それに、アサスィだって、色々と聞きたいこともある。だから、アサスィに正面きって説明しないといけない。
それだけでも、気が、重い……。
それが正直な意見にして、胃が痛い原因でもある。
しかし、遅くなればなるほど彰さんを怒らせるって事実に気がついた。あの人、短気そうだし、遅くなった分不機嫌になるのは確実だ。
……さっさと顔洗って、いくか。
その恐怖が俺を動かす。
深呼吸を一回、そして、もう一度息を大きく吸い込み、身を屈んで顔を水面に近づける。
そうして一思いに、貯めた水の中に両手を突っ込んで水を掬うと、顔に掬った水を叩きつけた。
じりじりとストーブで照らされたように熱をもった表面の温度が下がる。けど、それだけじゃなくて、心も冷やされていくから、朝の洗顔はリフレッシュに最適とのことだ。でも、俺は水を掬うのが下手すぎてびしょびしょに服がぬれてしまうのがたまに傷。
再度、水を掬って顔面に叩きつける。水が傷に沁みるが、これくらいなら許容の範囲内、だからもう一度掬って叩きつけた。
これで血も大分落ちただろう。手元に置いたタオルを掴み、顔を拭う。その際、指先が左こめかみに触れてしまい、痛んだ。裂傷の類だから、仕方ないと分かってはいるけど、痛い。傷に沁みるより、触れた方が痛みが強い。それでもぐっとこらえ、ゆっくりと、叩くように傷周りの水を拭いた。
備え付けの鏡を見れば、血は流れ落ちて、こめかみは髪をおろせば傷はわからないだろう。けど、これからふさがるまでの一週間、魔術に失敗すればその度に流血することになる。それと、襟のあたりが水でびしょびしょになった。
これが嫌だ。俺は顔を洗うのが下手すぎる。
はぁ。
内心ため息をもらしながら、服を整える。シャツをズボンの中にいれ、まくった袖をおろす。
鏡を見て確認するけど、血も拭って顔は元通りになってる。だから、このトイレにいる理由は無くなった。
振り向いて、トイレのドアノブを握る。握りしめる。
いや、逆に考えろ、十二月久連、部屋に戻るまでに覚悟を決めればいいんだ。その猶予は少ないが残されている! そう考えれば幾分、心も軽くなる。
ドアノブをひねり、扉を開けた。
そうして、開けた先には、薄暗い廊下、段ボールがつまれ、蛍光灯の周りに蛾が舞っている。そして、その段ボールに挟まるように、
――薄暗い通路でも輝くプラチナブランドが特徴的で、ブラウスにチェックのベストを着ている女の子、アサスィが壁に寄り掛かっていた。
02
アサスィが目の前にいる。その事実に対して、俺がしたことはない。
簡単にいえば、ドアノブを握ったまま、凍りついていた。
文字通り、指一本動かすことができない。でも、頭の中は反比例し、思考が巡りまくり、早い話、混乱の極みにあった。
どうしてドアを開けたらアサスィがいるのか、このドアはもしかして事務所に直結していたのか、あれ? でも、ここに来る前は廊下じゃなかったっけ?
思考があさっての方向にいってることは承知している。
けど、これくらいの現実逃避は許してください、無理です。だって、扉を開けた先に、さっきまで頭をひねって、どんなことを言おうとしていた相手がいたとか、のんきな頭で猶予があるとか思ってたのに、その猶予が一気に0になるとか、能天気野郎、とかいわれる俺にとって、交差点で赤信号を待っていたらダンプカーが突っ込んでくる並の衝撃です。
そして、ゆっくりと顔をアサスィはあげ、俺と目があった。
どくり、と一段心臓の鼓動が跳ね上がる。
「……どうして、ここにいるの?」
沈黙を破ったのは意外にも自分の言葉。でも、つい思ったことを、知らず知らず、口にしていただけ。
「Answer」
平坦な、声。
いつもと変わらない調子で、表情で、雪のような白い顔は変わらず……あれ? もしかして、俺だけだったり? 告白っぽいことやらかたして、気にしているのは、俺の一人で、アサスィは何も感じていなかったり? そういえば、アサスィは意外とシビアで、あの言葉が売り言葉に買い言葉ってやつだったことを十分認識していたり?
「アーヂャ、アーヂャ」
アサスィはいつもの調子で……いや、噛んだ。
恥ずかしそうに、口を抑え、真っ赤に赤面するアサスィ。
……アサスィさん、緊張してましたね、うん。
考えてみれば、恥ずかしがり屋のアサスィがあの告白っぽい事実に緊張しないはずがなかった。
それで、何事もなかったかのように俺をみるけど、無理だ。まだ耳まで真っ赤ですよ、アサスィさん。
「アーヂャ、アーヂャに襲撃サレナイか、ふあん」
舌っ足らずの口調で噛んだまま、それを力押しで、乗り切るアサスィ。
いいなした方がいいと提案しようか考えが頭をよぎったけど、ここでは言わぬが花だし、なにより第一に話の中身を気にするべきだろう。
アサスィは言ったんだ。アーチャーに襲撃されないか心配って、つまり心配だからここにいたってことだけど、確かにアーチャーと彰さんは敵だったわけだし、それにさっき、俺に不意打ちみたいなことをされたけど……てか、危害を加えられたけど、同盟したんだしそんなことを心配することも……あ
アサスィに同盟したこといってなかった。
「それなら大丈夫、実は……」
「アーチャーと、ドウメイしたんでしょ?」
しかし、その先を遮り、アサスィはなんてことはなく平然と俺の代わりに説明した。顔色は、元通りに、赤味は引いて、平静を取り戻したかのように、こともなく言い放つ。
「……知ってたの?」
今の俺の顔は、鳩が豆鉄砲を食らった顔をしてるだろう。それほど、そのアサスィが同盟を知っていたことは想定外だった。
アサスィはしっかりと頷く。
「Answer、アーチャーのマスターがオシエタ。だから、暴れるなともイッテタ」
そっか、彰さんが説明したのか。
アサスィは理に鋭い、彰さんは人を知るのに長けている人みたいだし、前にアサスィがどういった子なのか把握しているみたいなことをいっていた。だから、説明したんだと、納得がいった。
ん? でも、それでまた疑問が。知ってるなら、なんて襲撃されることをアサスィが警戒してるんだ?
「デモ」
そんな疑問をアサスィは感じたのか、言葉を続ける。
「アーチャーはシンヨウできない」
……簡単だけど、理解できる理由だよ。そっか、うん。あの人、胡散臭いし……いや、違うな。
これは、それ以前の問題だ。それも俺に責任の所在がある問題。
アサスィがアーチャーを信用できないってなら、俺のせいだ。
だって、アーチャーを信用できないってことは、アサスィは納得してないってことでもある。普通、最低限の信用があって共闘が成り立つ。でも、アサスィからしてみれば同盟の話は寝耳に水、なぜなら、マスターの俺が勝手に話をつけたこと。
突然、敵だったはずの相手から、貴方のマスターが同盟しました、だから攻撃しませんし、しちゃいけません、なんて言われても、納得できるか? 答えはNOだ。
相手がこちらに危害を加えないことを考えれば信用にはたるだろうが、それと納得は別な話だ。だって、どんな相手なのか、自分はどうあるべきのか、そして肝心の話をつけたマスターは……
そもそも、まず最初に同盟したって説明も彰さんからじゃなくて、俺から伝えなきゃいけないことだった。
本当なら、しっかりアサスィにも考慮の時間や説得してしかるべきだ。
いきなり、はい、同盟しました。と言われても、さぞや困惑したことだろう。そもそも、本来の話をつけるべき、決定権を持つのはアサスィなんだから。
「アサスィ、ごめん」
だから、俺はアサスィに謝る。
「アサスィにも相談しなきゃいけなかった。アサスィがアーチャーと彰さん、アーチャーのマスターを信用できないのは俺のせいだ、ごめん」
正直、アサスィは怒ってもいい、違う、怒ってしかるべきだ。
重要なことを、アサスィの意見抜きで決めた。蔑にしたんだ。相談できない状況であっても、保留にすべきだったかもしれない。アサスィと会いづらいってのがあったけど、それとこれでは話が違う。
「クレ」
アサスィが、俺の名を呼ぶ。
ふと、考えがよぎる。もしも、俺をアサスィが許してくれなかったら?
そんな心配をよそに、じっと、一対のナイフのように冷たい蒼の瞳が俺を覗く。
「別にドウメイにわたしたちは反対ジャない」
「反対じゃない?」
その疑問にアサスィは素直に首を縦に振った。
「イエス、アーチャーと、アーチャーのマスターはツヨイ」
うん、確かに、彰さんは強いね。その事実に俺も同意する。
俺が十人いても、彰さんには勝てないだろう、そのくらい、あの人と俺の実力はかけ離れている。
俺の怪我を治療した宝石魔術、短いながらも研磨に励んだ身体強化魔術を上回る身体能力、陣地の構築、どれを比べても足元に及ばない。
「ツヨイマスターとサーヴァントと組む、反対することはナイ」
確かに、強力なサーヴァントと手を組めばそれだけ有利になるってことだし、アサスィからしても否定材料にはならない。いや、アサスィからしても、強力なサーヴァントとの同盟はむしろ賛成ってことか。
ほっと、僅かばかり、胸が軽くなる。
ん?
「でも、同盟を知ってるなら、なんでアサスィはアーチャーを警戒してるの? アーチャーは」
「アーチャーはシンヨウできないだけ、ソレダケ」
「……それって」
「わたしたちがスキじゃないだけ。ナレナレしいのが嫌」
そう、こともなく、変わらない調子でアサスィは言い放つ。
つまり、ただ単純に、アーチャー陣営じゃなくて、アーチャーが個人的に、アサスィ個人として、好かない、信用できないってことかな?
……どんだけ嫌われてんの? あの人。
あの人、嫌われてんな、まぁ、俺もあんまり好きじゃないけど。
アーチャーの嫌いな部分が同じだなんて変な所で気が合う。うん、俺もアーチャーのなれなれしいのが……
アサスィがいまだに俺の顔をじっと見ていることに気がつく。まるで、俺を見定めるように、鑑定するかのように、ただひたすらに、じっと、俺の顔を覗きこんでいた。
「……やっぱり、勝手に話を進めたのは嫌だよね。ごめん、今回みたいなことはもう」
「チガウ」
頭を左右に振って、否定した。そうして、俯く。
すると、みるみるアサスィの顔が朱に染まっていく。まるで、リンゴが熟成する過程を早送りで見るように、みるみる顔が赤くなっていった。
なにがあったのか、尋ねるかどうか悩んだけど、アサスィを待つことにした。
いや、なんだか、既視感が、学校前にアサスィが俺を呼んでリンチされそうになった時と、似た嫌な予感がした。
直感が告げている。今のは、俺自身にも許された、覚悟するための予備時間だって風に。
嫌に鼓動が高まって早まっていく。どくりどくりと、俺の中に太鼓かと錯覚するほど、心音が鳴り響く。
どれだけ経っただろうか、しばらくして、俯いたまま、アサスィは蚊の鳴くような声で、
「……クレはわたしたちにホレタの?」
そう、口にした。
03
惚れたのか?
アサスィはそう、疑問を呈した。
いつのことを聞いてるのか? 決まってる。俺がアーチャーにアサスィの願いを叶えたいと言い放ち、それで行った問答なんぞおこがましいほどのやり取り。
――ああ、惚れたよ、俺はアサスィが大好きだ!
そう、いった、まぎれもない、俺が。
「い、いや、それはね、アサスィ」
高まっていた心臓が比べ物にならないほど、早鐘を打っている。
目は落ち付きなく宙をさまよい、冷や汗が額と背中から流れ落ちる。
慌ててるなぁ、なんて自分自身が思ってる俺を、アサスィは顔を真っ赤にしながら、上目使いで覗きこんでいた。
宝石のように大きな瞳が綺麗だなって現実逃避をしながらも、言葉を探す。探すが、
「こ、こここ告白ってわけじゃなくてね、いや、アサスィは好きだけど、いやいや、そうじゃなくて……」
手振り羽振りは大きく、その度に冷や汗が流れ落ち、しかし、その割に口から自分でも何を言っているのかわからない言葉をしゃべっていた。
ああ、俺はなんてこといったんだろうね、とか、俺のバカバカバカああああああ!! と自分を殴りつけたい衝動に駆られながら脳内の言葉を片っ端から言っていく。
「だからね、俺は思ったんだよ、君は綺麗だなって違う違う! 俺はそもそも童貞で、って何言ってんだ! 俺は!?」
そのまま、しゃべること数分、弁解だか、自己開示だか、よくわからない。混乱の極みに達して、そうして、
「ぷっ」
はっと気がつくと、アサスィは口元に手を当てて、笑っていた。
くすくすと、笑っていた。
なにを笑っているのか茹であがった頭ではわからない。しかし、アサスィは俺をみながら、笑っていた。
そこで、ようやく、俺のことを笑ったんだと気がついた。
よほど、俺の混乱した狼狽っぷりは面白かったようだ。
……うん、汗掻きまくって、自分でもわけわかんないこといいまくってたからな、面白いわね。
これが彰さんだったりアーチャーだったりしたら、むっときたんだろうけど、女の子って得だ。だって、アサスィが笑っただけで、気恥ずかしさはあるけど、思い出して、俺もつい、他人事のように笑ってしまう。
アサスィはたまのようにコロコロ笑う。女の子の笑顔はいつだって気持ちを軽くしてくれる。
そうして、お互い、なんとか顔を見ても恥ずかしさはあるけど、赤面するほどじゃないくらいまで距離が元通りになっていた。
「クレ」
アサスィは俺を呼ぶ。
正面から俺を見据え、名を呼んだ。
積み重なった雪が溶けて氷に変わったような瞳に俺が映し出される。
「ワタシタチの願い、カナエタイって、ホントウ?」
そうだ。それが、本題。
アサスィに惚れたって叫んだ理由の大本。本来、話さなきゃいけない大本、それをアサスィは口にした。
でも、その答えなんて、最初から決まってる。決まってるなら、簡単だ。
「本当だよ、アサスィ」
俺もゆっくりと、アサスィの視線を逸らさずに受け止めた。
全てをさらけ出すように、全てを捧げるように、求められた物をすべて与え、請われたことは全てを成し得るように、俺はアサスィと対峙する。これから、そういう話をしなきゃいけない。
「ネガイをしらないのに?」
アサスィは形の良い眉を寄せ、怪訝な表情を浮かべた。
その疑問は正当だ、肯定は彼女を困惑させる答えだろう。
俺はアサスィの願いを知らない。
願いを知らないのに、それを願う。
願いとは、叶えたいと思うから、それを現実にしたいと望むから願いたらしめる。けど、現実にしたい光景を知らないのに、それを願うものはいない。
しかし、それを俺は望んでいる。
アサスィの叶えたい理想を知らない、が、俺はアサスィの理想を叶えたい。
一度、頷き、眼を閉じた。黙とうするかのように、答えに行き詰ったように、俺は、眼を閉じた。
唐突ではあるが、一つ、自分語りを許してほしい。
俺は一体、どういった人間であるか、だ。
決まってる。十二月久連、という男は、能天気で、嫌なことがあったらそれを避けるために全力でいこうと考える、そんな臆病者。
そんな臆病者に大それた願いなんて、野望なんてあるわけがない。
この戦いに参加した理由、無関係な人を巻き込みたくないってのも、もしもそれが大きな、取り返しのつかない惨事が引き起こされれば俺は後悔する。間違いなく、後悔するから、参加した、一応やるだけのことはやったけど、どうしようもなかったって理由が欲しいから。
でも、願いがない、なんて嘘だ。
ぱっと思いつくだけでも、可愛くて巨乳な彼女が欲しいとか、家の台所をリフォームしたい、なんてある。今、思いつくだけの願いでもたくさんある。
でも、その願いは全部……彼女は無理かも、俺チキンだし。あ、いや、そうじゃなくて、つまり、身分に相応だと自覚はあるってことだ。
全部、努力したら現実のものになる。
自分の背負えるもの以上の願いなんて、身を破滅させるってわかってる。その例を、母の日記に嫌と書かれていた。自分の身の丈以上のものを求めて破滅した魔術師、人間の末路なんて、何も残らないってわかってる。
だから、俺にはありふれた平凡な日常でいい。
皆とたまに遊んでバカやって、定期テストに怯えて、巨乳が満載のAVかエロ本に心ときめかせて、そのうち、なんとなく進学か就職して、決まってないけど、確定してる未来が理想。
魔術の大成も、母が過ごした日常も、俺には非現実は非現実のまま、過ぎ去っていく予感があった。
そんな日常の中で、聖杯なんて異常でしかないし、俺の所為で誰か死ねば耐え切れないだろう。
でも、決めた。決めてしまった。
今までの日々に惜別の言葉を心の中で述べて、瞼を開く。
こんな時、場違いだと理解している。けど、アサスィのダイヤモンドのように透き通った瞳と、白銀に輝く髪、そして、そのどれもが調和し、整い、少女と女性の中間地点にある顔立ちは綺麗だと、見惚れかける。
でも、いつまでも見惚れるわけにはいかない。自分に鞭を打つつもりで、打ち切り、言葉を綴る。
「そうだね、俺はアサスィの願いを知らない」
それは、事実だ。まぎれもない、揺るぎようのないもの。
「でも、一つだけ知ってることがあるよ。アサスィは俺を助けてくれたでしょ? ほら、召喚されたとき、俺はセイバーに殺されそうになってた」
アサスィは、可愛らしく、小さく、それでいて、純粋な疑問なのか、小首をかしげる。なぜ、この話を切り出したのか分からないと、いった具合だ。
「俺は、本当なら死ぬはずだった。でも、俺は生きてる」
それも、事実。
あの路地裏で、人知れず死ぬはずだった。
運悪く、あの道を通ってしまったがため、セイバーなんてわけのわからない奴に殺されて、わけのわからないまま、あの路地裏の枯葉になったサラリーマンと同じように、枯葉の量が一人分増やしたのが俺の人生の成果になるはずだった。でも、俺は今も五体満足で生きている。
「俺を助けてくれた女の子がいるから、俺は生きてる」
アサスィが助けてくれた。
召喚されて、セイバーを追い払い、俺は生き延びた。命を繋いだ。
それが真実だ。
「だから、俺はその子に報いたい。叶えたい願いをもっているっていうなら、その子の願いを叶えてあげたい」
彰さんは言っていた。自分の召喚に応じてくれたサーヴァントの期待に応えたいって。なら、俺はそれより期待にこたえなきゃだめだ。
アサスィは動揺したように、その眼が大きく震えた。
「デモ、わたしたちがヨクない事をネガッテルかもしれないよ?」
確かめるように、願いが、愚かなものであったとき、どうするのかをアサスィは問う。俺を試すかのように、問う。
でも、それでも、
「そうだね、でも、俺を助けたのはアーチャーでもセイバーでもない、アサスィだ。だから、アサスィを信じることにしたよ」
俺は、この子を信じることにしたんだ。
アサスィは何も言わない。何も反応せず、ただじっと俺を見ていた。
でも、そのためには言うべきことがある。この子に、言わなきゃいけないことがある。
「だから、アサスィにお願いがある」
もう一度、眼をつぶって呼吸を整える。
息が上がる。鼓動がうるさい、だけど、押さえ、瞼を開く。
アサスィはじっとみていた。口を真一文字に閉じ、頬に僅かに朱が差している。
「俺は、誰かを犠牲にして、無関係な人たちを巻き込んで願いを叶えることは嫌だ。そんなことしたくない」
アサスィの目が鋭くなった。まるで、俺を射殺さんとばかりに睨む。
分かってる。
三流な俺がその手段をとるってことは、目的が遠ざかることに他ならない。けど、これしかなかった。
最初から、これを言わなきゃ、言っておかなきゃいけなかったんだ。先延ばしにした罰だ。
その険しい視線を受け止める。
「だから、頼む。俺はアサスィの願いを叶えるために、死力を尽くす、もう帰れなくなってもいい。アサスィが曲げれない願いがあるように、俺も曲げられない方法があるってわかってくれ」
そうして、腰を曲げ、頭を下げた。
能面のように冷たく、俺を叱責するか、それともナイフを突きつけられるか、脳裏に、アサスィが使っているナイフの冷たい輝きを思い描きながく。
ナイフを突きつけられるか、切り裂かれるか……
しかし、アサスィの盛大な嘆息が漏れる音が聞こえた。
でも、頭を上げるわけにはいかない。ただじっと、俺は頭を下げたまままった。
「クレ」
アサスィが、俺の名を呼ぶ。
「カオをあげて」
顔を上げろと言われ、ゆっくりと顔を上げれば、笑顔とも苦虫をかみつぶしたような顔とも判別が難しい顔をアサスィがしていた。
「クレはヘン」
開口一番に、アサスィは俺を変と決めつける。
「どうして?」
「フツウは、自分のコトをおねがいをかなえるから、タタカウ。でも、ワタシタチのねがいをかなえたい」
頷く。その通りだ。
「戦闘ホウシンもことなってるのに、令呪じゃなくて、オハナシで解決しようとスル」
頷く。まったくもって、その通りだ。
「だから、わたしたちもクレを大好きにナルことにした」
と、唐突に、口角をあげ、アサスィは笑う。明るい大輪の花が咲いたかのような笑みだった。
そして、何を言われたのか、理解するのに数秒遅れ、
「そ、それって」
思わず、言葉がつまった。
アサスィはなにも言わず、左手を、小指を立てて差し出した。
「ユビキリ」
「ゆびきり?」
聞き返せば、大きくアサスィは首を縦にふって、
「ヤクソクの時はユビキリ、おかあさんがそういってた」
おかあさん……あ、先生か、本当に先生は……アサスィに色々と教えるお母さんみたいな人だな。
苦笑を洩らし、俺も小指をたてた左手を差し出し、アサスィと小指同士を絡ませる。
「クレ、じゃあ、わたしたちはあなたにシタガウ。けど、クレはワタシタチの願いをカナエル、イイ?」
「もちろん」
アサスィは念を押し、そうして、手を振る。
「ユビキリゲンマン、嘘ついたらハリせんぼんのーます! ゆびきった!」
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲―ます、ゆびきった」
これが俺とアサスィの最初の約束だった。次の約束が何になるのか、まだわからない、けど、この約束と、さっき見せたアサスィの笑顔は覚える自信があった。
不心始章 第八話「ヤクソク」 終
みなさんこんちにちは。今年最後の投稿になります。
なかなか投稿できず、すみませんでした。正直、スランプ気味で、内容も満足の出来じゃありませんでした。ですので、来年は満足のいく作品を書き上げ、精度も速度もあげていきたいと思っております。
さて、今話ですが、実は色々と書き方を変えてみました。それが後半部となっております。いかがでしたでしょうか?
御意見ご感想、お待ちしております。