真・恋姫†無双~怒気ッッ グラップラーのいる三国志ッッッ~ 作:クーロン
読んで下さる方々には、心から感謝しております。
霞は街中を歩いていた。
日は高い。ちょうど、正午を少し過ぎたあたりだ。
歩いている人々の表情は、普段と変わらない。
だが、ピリピリとした雰囲気がある。
辻斬り、という事件があったからなのか。それとも、霞の中にあるものが、周りの空気に伝染したのかもしれない。
だが、霞はそれに構わずに考えていた。
今までの情報から手に入った犯人像――独歩を斬る実力、そして推理された犯人の体格。
彼女の頭の中に、一人の少女の顔が浮かんだ。顔と同時に、戦いの光景も浮かんだ。
鍛錬として、自分と戦った時の顔。涼しい顔だった。
戦で敵兵を斬った時の顔。冷めきった目をした顔だった。
虎牢関の戦いの時の顔。血塗れになった凄まじい笑みの顔だった。
――恋……か?
入院している間に、恋は生きているかもしれない、ということを聞いた。
だが、治療については聞いていない。
霞の場合は鎬紅葉に治療され、一命をとりとめた。しかし、恋の場合はどうだ。
――恋はどうなんやろか?
大怪我をしていたのだ。戦場から離れた後で野垂れ死にしていても、おかしくない。
いや、普通なら死んでいるだろう。
そう思っている。
しかし、それでも恋の顔が浮かぶ。
それは、ウチは恋は生きていると思っているからや、と霞は結論付けた。
だがこの事件には、まだ分からないこともある。
霞は恋が何を考えているのかは分からない。
なぜ、独歩に戦いをしかけたのか。なぜ、曹魏と事を構えようとしているのか。
それが分からない。
いや、正確には一つだけ心当たりがある。
恋は最後、範馬勇次郎に執着心をみせたとも聞いた。
それが原因かもしれへん、と霞は思った。
闘いたい。強いヤツと闘いたい。
その感情は理解できた。痛いほどに理解できた。
彼女自身にもその感情はある。
――恋はどうやったんかな
闘いたいという感情は、今まであったのだろうか。なかったのだろう。
どんな闘いでも、今まで力を持て余していたのだろう。闘いというものを、ただの作業として行っていたのだろう。
なら、今はどうか。
敗北をした。こっぴどい敗北をした。
そして上を知った。自分の上を行く強さを。そして、それとの闘いを知った。
もし、だ。もしも、それとの闘いの喜びを知ったらどうなるのか。
霞は考えた。
恋は闘おうとするのか。するだろう。
――恋が敗けっぱなしでおるワケがない
だが、そのままやればまた敗けるだろう。
ならどうする?
強いヤツ相手に、次は勝つならどうすればいい?
決まっている。強くなればいい。自分が強くなればいい。
――そこか。そこやな。恋が考えるのは、そこや
霞の中で段々と考えがまとまっていった。
仲間として過ごしてきた時期があるからこそ、恋の思いが分かる。何をしたいのかが分かる。
それでも釈然としないことが、まだ霞の中にある。そのこともしっかりと理解している。
霞は恋と話す必要があるとも思った。
弐
街中に四人組がいた。一人が男で、残り三人は全員女だ。
「真桜。街中で渡すものがあるといったが……ここら辺でいいか?」
「おう。ちっと来てぇな! ……これは内緒やで。犯人を見つけて、いざっちゅう時には、これを使うんや」
真桜はそう言い、三人に小さな箱を手渡した。
「……なんだ、これは」
凪は手のひらに収まっている箱を持って言った。
シンプルなデザインの箱だ。
小さく、そして軽い。
「大将の御依頼で作った、雨でも小さな火種で簡単に打ち上げられる狼煙や。しかも色つきで、一個に一色づつで計四色。本来なら戦で使うもんなんやけど、実験もかねて今使うことにしたんや」
「いいのか?」
「ええよ。てか、はよこの事件のカタをつけんと……春蘭様がブチギレそうやし」
「もう、キレていると思うけどな」
克巳はバンダナが巻かれている頭を掻きながら言った。
「確かに早く終わらせないと、おっかないの」
「せやから、これを持つんや」
「親父に勝つヤツが相手だ……用心に、こしたことはないだろうしな」
「克巳さん、編成はどうしますか?」
「あー……普通に考えたら、何人組かに分けるだろ。そして、戦力を均等にしねェと」
「となると……二人組二つで、凪と克巳はんは別々やな」
「妥当なの」
「私はそこまで強くはないぞ」
「沙和と真桜ちゃんよりは強いの」
「単独行動して狼煙使う間もなく、やられた、なんて言われたらシャレにならん。二人組っちゅうのは変えられへんな。ってことは……」
真桜がそう言ったところで、二人が考え出した。
「何を考えている」
凪が言った。
「下手な方くっついて行くと、エっライ疲れるっちゅう話や」
「だけど、克巳さんも凪ちゃんも気合入ってるだろうし……どっちが楽なのか分からないの」
「なにをたわけたことを言っているっ!」
凪は怒鳴った。そして、拳を固めた。
真桜と沙和はそれが目に入り、ぎょっとした目をした。
そして、小さな声で耳打ちした。
「凪、冗談や」
「克巳さんの肩の力を、抜こうとしただけなの」
「言っていいことじゃないだろう……!」
三人は固まって、ワイワイと言い合っていた。
克巳はその光景を見ながら、拳をグッと固めた。
今日から、あの三人の上に――もっと言ってしまえば、警備隊という組織の上に立つのだ。
克巳はそのことを自覚していた。
神心会門下延べ百万と比べたら軽い。人数で言ってしまえば、とてつもなく軽い。
克巳はまだ、組織全体の人数はまだ把握していない。
それでも、神心会と比べたら小さいというのは分かる。
警備隊の大きさは、神心会の千分の一、それどころか万分の一かもしれない。それぐらいの大きさかもしれないのだ。
――それでもだ。これは軽くない。
克巳はそう思った。
軽い組織だからこそ、克巳にとっては重い。
――この小さな組織をまとめられないようじゃ、神心会はまとめられない。
克巳はさらに固く拳を握った。
――この組織をまとめ上げ、そして……
「親父の敵をとる……ッッッ」
克巳は、そうつぶやいた。
参
その日を一日中、克巳たち四人は犯人探しに費やした。
だが、収穫というべきものはなかった。
手ぶらのまま日が暮れ、そのまま城に戻ってきた。
秋蘭に季衣、流琉も同様であった。
だが、春蘭と霞。
この二人は、城に帰ってこなかった。
肆
きれいな夜だ。
空の月は金色に光っていて、星が輝いている。
そのおかげで、道がはっきりと目に見える。
風は無い。凪いでいる。
そのためか、夜にしては少し生温い空気だ。
少し酒屋に行って飲む人間がいても、おかしくない。
しかし、人が出歩いている雰囲気はない。それどころか、人が起きている気配すらない。
ゴーストタウンのような雰囲気だ。
昨夜、辻斬りという事件があったのだ。そして、その噂はすでに広まっている。
この雰囲気も当然のことだろう。
だが、その街中を歩く人がいた。
紫色の髪をした少女だ。
袴をはき、胸にはさらしを巻いている。肩には着物を引っ掛け、それを上着にしている。
左手に大き目の徳利を持ち、右手には戦場で愛用する武器が握られている。
目にはどこか鋭い光が宿っていた。
霞である。
彼女の足は真っ直ぐ、城壁に向いていた。
履いているゲタが城壁の階段で、コツコツと小気味いい音を鳴らす。
霞が階段を半分までのぼると、城壁の上でムクリと影が動いた。
その影は、真っ直ぐと霞を見下ろしていた。
月を背負っているため、顔はよく見えない。
それでも霞にとっては十分だった。誰か、分かった。
「なんとなくいそうやって、思っとっただけなんになぁ……。久しぶりやな、恋。無事でなによりや」
「……霞、久しぶり」
ここだけ切り取って聞けば、久々に再会したときの挨拶のように聞こえるだろう。
だが、交わす視線が違う。二人の間にある空気の質が違う。
「左手の……何?」
「ああ、これか。酒や。……ちぃっと恋と、話さんといけんことがあるんよ」
「ん……」
恋は短く答え、その場に座った。
霞は階段をのぼりきり、恋の右隣に行って座った。
その場所から空を見上げると、黄金色の月がちょうど正面にある。
「ねねはどないしたん?」
「……寝てる」
「まあ、せやろな。起きとったら恋のそばにおるやろうし」
霞はそう言いながら、二つある杯に酒を注いだ。
両方の杯の縁から酒がこぼれそうになるまで注ぎ、二人の間に徳利を置いた。
恋は右手で杯を持ち、霞は左手で杯を持ち上げた。
そして、同じタイミングで表面がユラユラ揺れている酒の上に、口を寄せてすすった。
そのまま、霞の方が先に杯を空にして言った。
「独歩を斬ったの……恋か」
「……そう」
恋は酒を少しずつ飲みながら言った。小さな声だったが、強い答えだった。
それがどうした、と言わんばかりだ。
「なんで、そないなことをしたん」
「強くなりたい。誰よりも……範馬勇次郎よりも」
「……本気か。いや、本気やろな」
霞は徳利を掴み、杯に注いだ。
さっきと同じく、縁からこぼれそうになるまで注いだ。
「……本気。強くなって、もう、敗けたくない」
恋はポツリポツリと話し始めた。
「敗けたら、何も残らない。家族も……国も……」
「……せやな」
「月たちも、どうなったか分からない」
「逝った……可能性もあるなぁ。噂じゃそうや」
「ん……ねねから聞いてる」
恋はそこまで言って、酒を飲み干した。
霞は、普段の恋より口数が多いと思った。
事実、多い。酒の力なのか、元とはいえ仲間と話しているから、なのかは分からない。どうでもいいことだ。
――一番重要なんは、聞きたいことを聞くことや
霞はそう思った。
「敗けたくないってのは、それが理由なんか?」
「あと一つ……」
「一つ?」
「……恋がイヤだ。恋より強いのは、世の中に居て欲しくない」
「…………」
霞は何も言わずに聞いていた。いや、なにも言えなかった。
霞の中にあった恋のイメージとまるで違うのだ。
戦いというものに、強さというものに、淡泊だった恋とまるで違う。
――たった一度の敗北……それで、ここまで人が変わるんか?
霞はそう思い、驚いていた。
「恋以外が最強なのは……イヤ」
「なら、なんでここにおるん? ケガは治ったんやろ? 勇次郎と
「ダメ……まだ勝てない。勝てるようになってから、やる」
「どう、勝てるようなるつもりや」
「力だけじゃダメ。勇次郎に勝つには、色々いる」
「抽象的やな~。要するに、分かっとらんってことでええか?」
「……分かっている。勇次郎に勝つためには、全部いる」
「ま、せやろな」
霞はそう言い、勇次郎のことを思い返した。都合、三回は勇次郎の闘争を見た。
一度目は、黄巾賊を皆殺しにして、そして自分たちの軍にまで襲いかかってきた時の闘争。
二度目は恋との闘争。三度目は、自分達との闘争。
たしかに、力と技、速度にスタミナ。どれをとっても異常と言わざるをえなかった。
全部、というのは間違っていない。
「で、華琳の国と、ここまで大事にした理由はなんや」
「……偶然」
あっさりとして、気の抜けるような言い方だった。
無邪気、ともいえるかもしれない。
「偶然でこれはないやろ。武将全員、血眼になって恋のこと探しとるで」
「……そう」
恋は一言だけ興味なさそうにそう言い、杯に酒を注いだ。
「……別に時間があれば、全員とやってもいい」
「時間が無い、みたいな言い方やな」
「……ない。その間に、勇次郎がずっと先に行きそうだから……」
そう言って、恋は酒を一口だけ飲んで顔を伏せた。
「……夢で、何度も勇次郎と闘った。……それでも敗ける。敗けるか、死んでからして、目が覚める」
「夢で勇次郎と戦う……か。……キッツイやろうな」
一瞬、霞はそのことを想像したのだろう。
酒で出来た赤みが、サッと引いた。
「霞は……ある?」
「あるで。相手は色々や。恋もおったし、関羽とか惇ちゃんも出てくる」
「それで、強くなった感じ……ある?」
「微妙やな……戦法とか、整理できるくらいや」
霞はそう言い、一口だけ酒をすすった。
「で、あと一つ聞くことがあるんよ」
「…………」
「独歩の両拳、なんで壊したんや」
低い声で霞が言った。
空の右手には、武器がしっかりと握られている。
「……もし、生きていたら……またやることになる」
恋は顔をあげて言った。
「……何度も同じ相手と、やる時間は無い」
「要するにや……闘えへんようにしたってことで、ええか」
恋は無言でうなずいた。
「……ふぅん」
霞は小さく鼻を鳴らした。
彼女の中に炎が燃えていた。
勢いがある、業火のような炎ではない。燻るような高温の青白い炎だ。
「徹底的やな」
「……ん」
霞はそう言い、右手の武器を強く握った。
「……霞とはやらない」
恋が絶妙なタイミングで言った。
霞の身体に張り詰めていた空気が、少しだけゆるんだ。
もし、少しでも言うタイミングがずれていれば、そのまま戦いへと移っていただろう。
「霞とやっても、ダメ」
「どういう意味か、説明してもらうで」
霞は恋を睨みつけ、言った。
低い、渇いた声だった。
「霞は……恋の今までの相手と同じ。強いけど、同じ」
月を見ながら、恋は言う。
「範馬勇次郎相手の練習台には、ならない。勇次郎と違う種類だから……」
「で、同種ってのが独歩なんか」
「ん……霞は素手で戦う人じゃない。独歩は素手で戦う人」
「それで考えたら、そうやな」
「だから……闘った」
「素手の相手に武器でかかるっての、卑怯とか思わへんの?」
霞は一気に杯の酒を飲んで、言った。
「卑怯はないって……独歩は言った。……武器相手がイヤなら、逃げればいい。逃げないなら……やる」
そう言い、恋も杯に残った酒を一気に飲み干した。
その後、二人は何も言わずに酒を飲み続けた。
いつの間にか、二人の間の徳利は空になっていた。
霞は自分の杯に注ごうとしたところで気付き、徳利を地面に置いた。
そして、武器を握って恋に背をむけた。
「……帰る?」
「ああ、帰るで」
霞は背を向けたまま言った。
「ウチも、恋がしたことに思うことはある。せやけど……元々仲間やったよしみもある。色々、聞けたんや。それで今日は帰るで」
そこまで言ったところで、霞は恋の方を向いた。
「明日から……いや、次に会うた時には、問答無用で斬りかかるで」
「そうか、霞は次か」
霞の後ろから声がした。
と――
後ろにいた影が、槍投げのように何かを投げた。
恋は左手で武器を握り、刃の部分で飛来した、それを斬った。
木刀だった。
真っ二つになった木刀は、宙を舞って乾いた音を立てて落ちた。
「……誰」
「華琳様の将、夏候元譲だ。愚地独歩から色々と教わっている」
春蘭は武器の剣を握りしめ、言った。
左目には、黒いシンプルな眼帯をつけている。
鋭い光を宿した右目が、恋を睨みつけていた。
「呂布。一つ聞くぞ」
春蘭が言った。
抑揚がなく、寒気がするような声だった。
「……何?」
「愚地独歩を斬ったのは、貴様か?」
「そう」
「ほう……そうか。それはいいことを聞いたぞ」
春蘭の顔に、一瞬だけ笑みが浮かんだ。だが、その表情はすぐに消えた。
眉間にシワが入っていき、額に血管の跡が浮かんできた。
「貴様……この国から、生きて出られると思うなあぁっ!」
大きく口を開け、春蘭が吼えた。
伍
静かな夜だった。
その夜を金属同士がぶつかる音が切り裂いた。
その音は何度も、何度も響いた。
春蘭は何度も斬りかかり、恋はそれを受けた。
霞は何も言わず、その戦いを見ていた。
「しぶとい……!」
不意に、春蘭が忌々しそうにつぶやいた。
そのスキを、恋の戟が突いた。春蘭の顔に真っ直ぐと戟が伸びていく。
春蘭は頭を動かし、一歩だけ大きく踏み込んだ。
そして、右手を剣から離して、右掌を円の形に廻した。
愚地独歩が得意とする、受け技の最高峰――廻し受けの形だった。
今の間合いは、剣を使うのにベストな距離だ。そのハズだ。
だが、春蘭は恋の戟を抑え、さらに右足で踏み込んだ。
もう、この間合いは戟の距離でもなければ、剣の距離じゃない。
拳の距離だ。
恋は一瞬だけ戸惑った。
まったく意味が分からなかった。
剣を持っている以上、踏み込みが必要なのは分かる。だが、踏み込み過ぎれば、逆に剣が邪魔になる。
何故、わざわざ踏み込んだのか――?
答えはすぐに分かった。
春蘭は踏み込んだ勢いのまま、左足を浮かせた。
それは鉈の重さ、剃刀の鋭さをもった蹴りだった。足を折ろうとする蹴りだった。
ローキック。
恋は右足を浮かせ、すねで受けた。
ローキックの受け方は知らなかった。だが、恋の闘争本能――細胞は受け方を知っていた。
本能的だったからか、正しかった。
ローキックをすねやひざで受けられると、ローキックをした方がケガを負うことがあるのだ。
だが、それだけで春蘭は止まらなかった。
恋がローキックを受ける寸前で、春蘭は右拳を引いた。
それを見て、反射的に、恋は右手を戟から離した。
ローキックが戻り、春蘭の左足が地についた瞬間――右拳が放たれた。
その拳は、空手の突きとよく似ていた。
恋は右掌でそれを受けた。手に、ビリビリとした衝撃が走る。
同時に、恋は後ろに大きく下がった。
一瞬、春蘭の顔に笑みが戻った。
春蘭は剣を握っている左手を振った。
剣は空気を切り裂きながら、恋の顔に伸びてきた。
恋は、さらに後ろに下がって避けようとしたが、剣はどんどん伸びてくる。
春蘭の剣は、恋の右目の下あたりの肉を斬った。
細い赤い線が、恋の顔にできた。
致命傷や、人を動けなくできるような傷ではなかった。
――仕留めそこなった!
春蘭はそう思った。
刹那。
さらに下がった恋が、左手だけで戟を振った。
春蘭はそれに気付き下がったが、戟はまだ伸びてくる。
戟の刃は、春蘭の額の肉を斬った。ちょうど、右目の上の位置だ。
頭の傷、というのは厄介だ。
傷が浅くても、多く血が出るのだ。
すぐに然るべき手順と方法で処置をすれば止まるが、戦いの最中で出来るハズも無い。
春蘭の額から流れ始めた血は止まらず、右目へとたれていった。
――くそっ!
眉で血の流れが止まるが、いつまで眉が受けきれるか分からない。
血が一度、右目に入ってしまえば、そこで終わりだ。
まず、痛い。下手なゴミが入った時よりも痛い。
さらに、いくらぬぐっても、すぐによく見えるようにはならない。目のレンズに油膜が張り、ぼやけてしまうのだ。
いらいらする。
いいことなんて、なにもない。
春蘭は額から眉の上に流れる血を、左手の甲でぬぐった。
恋はその光景を見ながら、くちびるまで流れてきた血を舌で舐めた。
顔には、どこか余裕がある笑みが張り付いている。
その笑みを見た瞬間、春蘭の全身の細胞がブチブチと音をたてた。
身体の熱が一気に上がる。
――叩き潰す!
春蘭がそう思った瞬間、恋に向かって何かが飛んで行った。
矢だ。
恋は、それを手で掴んで一息にへし折った。
「姉者も霞も、夜まで何をしている」
「この狼煙が本当に役立つなんてな」
陰から二人分の声がした。女性の声と男性の声だ。
そして、その陰にいた二人が歩み寄ってきた。
春蘭の妹――秋蘭と、愚地独歩の養子――愚地克巳だった。