“有馬くんに渡したいものがある”
宮園かをりの両親から連絡があったのは、コンクールから一ヶ月後のよく晴れた冬の日のことだった。指定された場所は町外れの墓地。電話で彼女の訃報を聞いた時、不思議と、公生は驚きも悲しみもしなかった。どこかで――おそらく、あの演奏の最中(さなか)に――確信していたのかもしれない。もう、彼女に会うことは無いのだろうと。彼女の居る春は、二度と来ないのだろうと。
「かをりから君へ、だそうだ」
「手紙、ですか」
「迷惑でなかったらもらってあげて」
差し出されたのは、白い封筒だった。
“私が死んじゃったら、お葬式は身内だけでやって。そして、全部終わった後に有馬くんにこれを渡して欲しい”
「……かをりから、手術前にそう言われていたの」
「……」
「あの子の最期の願いになってしまったから、どうしても叶えてやりたかった。……遅くなってすまない、有馬くん」
「いえ、彼女がそう望んだのなら……」
公生は受け取った手紙をじっと見つめた。
「読むかどうかは君に任せる。あの子もそう言っていたしな」
「……わかりました。わざわざ、ありがとうございます」
お辞儀をした公生が顔を上げると、二人は穏やかに微笑んでいた。
「いや、感謝したいのは私達の方だ。ありがとう、かをりの人生を豊かにしてくれて。君が側に居てくれたから、あの子は最期まで精一杯、幸せに、生きることができた」
◇
手紙を受け取ってから二ヶ月あまりが過ぎた三月某日の昼過ぎ、桜並木が鮮やかに色づく通学路を一人歩く少年の手には、卒業証書が入った筒と、未だ封が切られないままの手紙があった。東日本ピアノコンクール最優秀賞に選ばれたその少年――有馬公生――は、今日をもって母校である市立墨谷中学校を卒業し、来月からは音大の附属高校へ進学することを決めていた。少年の親友である渡は予定通りスポーツ推薦で志望校へ、そして、少年の幼なじみである椿も実力(愛の力?)で合格をもぎ取り、少年の隣を歩く未来を手にした。その二人は、まだ校舎に残り、クラスの友人や部活仲間との別れを惜しんでいるようだ。
やがて訪れる四月を予感させる陽気。その新しい季節の中に、かをりの姿だけが、無かった。
(今日で卒業、か。……いい加減、清算すべきなんだろうな)
手紙に貼られた黒猫のシールが、まるで公生の心の内を見透かしているかのように、微かに笑っている。公生は手紙を見つめなおし、一呼吸置いて、決心した。彼女と過ごした時間を己に刻みつけておくため、彼女との思い出を、そして、彼女への想いを、抱えながら前へ進むため、手紙を読もう、と。ずっと待ち続けてくれた黒猫を、優しく解き放つ。
“拝啓。有馬公生様、……”
その手紙には、宮園かをりの人生が詰まっていた。一文一文からあふれだす彼女の想いが、カラフルな光になって公生の周りを駆け巡る。
“……私の姑息な嘘が連れてきたキミは想像と違ってました。思ってたより暗くて卑屈で意固地で、しつこくて盗撮魔”
(出会いは、ほんと、最悪だった)
苦笑しながら。
“思ってたより声が低くて思ってたより男らしい、思ってた通り優しい人でした”
(君は、思ってたより弱くて繊細で、でも、思ってた通り強くて綺麗で)
懐かしみながら。
“輝く星の下で2人で歌った『キラキラ星』 楽しかったね”
(夜空の星があんなに眩しいなんて、僕は知らなかったよ)
その光に釣られるように表情を変えながら、公生は手紙を読み進める。
“私は 誰かの心に住めたかな”
(土足で上がってきたよ)
“ちょっとでも私のこと思い出してくれるかな”
(忘れたら化けて出てくるくせに)
“リセットなんか嫌だよ”
(するもんか)
“忘れないでね”
(うん)
“約束したからね”
(うん)
“やっぱり キミでよかった、有馬公生君。キミが…”
突如吹き荒れた桜吹雪に顔を上げる。いつの間にか踏切の前まで来ていた。警笛を鳴らした電車が、春風のように一瞬で通り過ぎる。開けた視界、線路の向こう側に、黒猫と戯れる少女が居た。
「え…」
「おっ、やっときたな友人A!」
青天の霹靂に声が出ない公生。そんな少年の反応など意に介さず、少女は遮断機の上がった線路へと踏み出しながら、舞台女優のように台詞を続ける。
「繊細なキミはまたくじけちゃうと思ったから、鈍感なキミには手紙じゃ伝わらないかもしれないと思ったから、戻って来ちゃった」
「だって、だって、君は……」
やっとのことで口からこぼれた言葉はそれだけだった。目の前の少女の存在を、公生はまだ受け入れることができずにいた。無理もない。さっきまで二度と会えないと思っていた少女が、いきなり現れたのだ。想いを清算するどころではない。
「おぉ、すっごい驚いてる?」
まるで、イタズラが成功した子どものように無邪気に笑う少女。春色のワンピースを纏ったその天真爛漫な姿に、病気の面影は一切無かった。公生は、自分があの日の――遊具の上でピアニカを吹く彼女に出会った日の――幻を見ているのではないかとさえ思った。
「君は、だって、もう……」
思わず言いよどむ公生。
「勝手に殺されちゃぁ困るな」
むっとする少女。
「だって僕は君のお墓までっ」
公生は何がなんだかわからないといった様子で少女に問いかける。
「あぁ、ウチのご先祖様が眠ってる」
少女は「昨日の夕飯はハンバーグでした」とでも言うような気軽さで答える。
「えぇっ!? でもご両親も”最期の”って……」
公生は納得がいかず、最大の疑問を少女にぶつけた。
「あーあれね、あれについてはー、そのー、ごめんっ。お父さんとお母さんには一芝居打ってもらいました」
ぱちんと両手を合わせ、その横から顔を覗かせて、てへへ、と笑う少女。呆気にとられる公生が、それでも何かを言い返そうとするのを遮るように、少女は少し真面目な口調で語り始める。
「……ほんとはね、勇気がなかったの。手術、成功率は5%も無いって。成功したとしても、立てるようになる可能性は限りなく低いって、お医者さんから言われてた」
苦笑いを浮かべながら少女は続ける。
「あぁ、ついに死んじゃうんだ私、って思った。もう一度バイオリンを弾きたいと願った少女は、そんな些細な願いも叶わず、儚く散るんだろうって」
少女の長く美しい髪が、桜の花びらと一緒に風に舞う。
「だからね、せめて最後に、私が居なくなっちゃった後の世界に、私の隣にずっと居たくせに最後まで鈍感だった誰かさんに、おっきなパンチをくれてやろう! って決意して、その手紙を書いたの」
公生が手にしていた便箋を指差す少女。
「そしたらね、ひとつめの奇跡が起こっちゃった。手術からしばらく経って、目覚めたんだ、私。でもね、それでも元気になれるかどうか、わからなかった。キミとワルツを弾けるかどうかなんて、ぜんぜん、これっぽっちも、わからなかった。」
少女は、少し震える手をぎゅっと握って、公生の目を見る。
「それで、お父さんとお母さんにお願いしたの。この手紙を、私が死んだことにしてキミに渡して欲しいって」
「でも、なんでそんなことを……」
急な展開の連続に目眩を覚えつつも、公生はもう会えないと思っていた少女の話に耳を傾ける。
「目覚めてから、キミのコンクールでの演奏の録音を聴いたんだ。その時にすぐわかった、あぁ、この人は私が死んだと思ってるんだろうなぁって。そして、意気地無しなキミのことだから、手紙を渡したとしても卒業式の日までは読めないだろうって」
「でね、思いついたの。せっかく書いた渾身の手紙を無駄にしなくて済む方法を。ふたつめの奇跡を――卒業式までに元気になってキミの前に立つ日を――夢見ながら地獄みたいなリハビリに耐える方法を」
「そして、私のことを勝手に殺した誰かさんに一泡吹かせてやる方法を」
少女の種明かしを聞きながら、公生の心には次第に爆発しそうな想いが膨らんでいった。
「それで、こんな計画を……立てたって言うのか」
びしっと公生を指さして少女は笑う。
「どう、泡吹いちゃった? 死んだと思っていた少女からの手紙を読んでいたら本人とーじょーっ! ってね」
「……ほんっと、君ってやつは……君ってやつは……!」
下を向きながらわなないていた公生が勢い良く顔を上げる。
「僕がどれだけ悲しんだと思ってるんだ! 僕がどれだけ苦しんだと思ってるんだ! 僕がっ……僕がどれだけっ、泣いたと思ってるんだっ! いつもいつもっ、いつもそうだ! 君は、君はぁっ……」
あふれる涙を拭おうともせず、少年は捲したてる。
「君はいつも、僕の心をむちゃくちゃにかき乱して、それでいて勝手に先に行ってしまう……もう、耐えられないんだ……大切な誰かが、僕をおいて先に逝ってしまうのは。だから、いい加減、隣を歩かせてよ。友人Aで構わないから……」
「……はぁ、まぁ~~だそんなことを言っているのかね、キ・ミ・は」
呆れた仕草で大げさに両手を広げる少女。が、次の瞬間、ちょっと首をかしげる。
(でも、あの手紙でも伝わらなかったって、もう鈍感ってレベルを超えてるんじゃ……? いやいや、流石にそれはいくらなんでも……ってことは……)
「もしかして、手紙、最後まで読んでない……?」
「……え? う、うん。もうすぐ読み終わるってところで、君が現れたから」
少女の唐突な疑問に不意をつかれたが、公生はありのままを答えた。
「……そっか。そっかそっか。うん、それはそれで、ある意味”最高のシチュ”ってやつかもね。いやーまさかみっつも奇跡を起こしちゃうとは、私ってやっぱすごいっ!」
ひとり納得している少女を前に、きょとんとする公生。やがて、頷くのをやめた少女は、深呼吸をして、自分の両頬をぱちぱちっと叩き、公生の方を向きなおす。
「…よし。よっつめの奇跡を起こすのは、キミだよ」
「え……」
「いい? 一度しか演奏しないから、耳かっぽじってよーく聴くように!」
少し顔を赤らめながら、桜にも負けない満開の笑顔で、少女は――宮園かをりは――想いを奏でる。
「有馬公生君。キミが――」
Fin