「今日はお疲れ様でした」
溌剌としたユノの言葉に、その場にいたスタッフ全員が快く返事を返していた。終末捕喰以降、ユノの活動範囲はこれまでの様に極東周辺だけでなく、その領域を徐々に拡大しつつあった。
既に出された販促物は軒並みソールドアウトした事からも、スタッフはライブが終わっても慌ただしく行動していた。
「ユノ、今日も良かったよ。お客さんが皆喜んでいたから」
「それ、本当?」
「貴女に嘘言っても仕方ないでしょ」
終わったばかりのユノにサツキが今回の内容を伝えていた。一時期はフェンリルからも煙たがられていた部分が多分にあった事から、満足のいく出来になる事は多くなかった。
ギリギリでの会場の変更や、契約の不履行など、まるでこのまま消えて欲しいと思える様な妨害活動も少なくなかった。本来であれば舞台装置の直前の変更は内容のクオリティにも影響が出やすいが、元々は慰問で行っていた事を考えればそれでもマシだからとそのまま活動を続けていた。このままだと一体どうなるのだろうか。誰もが口にには出さないが、そんな空気は僅かながらに蔓延しつつあった。
事態は急展開を迎えていた。螺旋の樹の崩壊以降はその状況がクリアになったからなのか、これまでの妨害は嘘の様に消え去っていた。だからと言って確実に安心できる迄は様子を見た方が良いとのサツキの判断により、最近までは細々と活動を続けていた。
妨害の心配は恐らく無いだろう。そんな思いから満を持した今回のライブは、久しぶりに大きな舞台装置を使用した大規模な物となっていた。
「でも、大きな会場だったから凄く緊張したんだよ。あの時以来のね」
ユノが指す『あの時』は自身を軸とした特異点となった当時の事だった。人類の未来をかけた戦いはブラッドだけでなく、ユノにも厳しい選択肢を迫られていた。今となっては良い思い出にしたい気持ちはあるものの、やはり非戦闘員でもあるユノにとっては簡単に忘れる訳には行かない内容でしか無かった。
「確かに今回の件に関しては久しぶりに大規模な物だったから仕方ないかもね。そうだ。次までまだ時間の余裕があるから久しぶりに極東に寄るのはどう?それなら少しはゆっくりと出来るんじゃない?」
「そうだね。久しぶりお屋敷の温泉にも入りたいかな」
「屋敷ね……」
ユノの何気ない言葉にサツキとしても、マネージャーとしてだけでなく、友人としてもその願いを叶えたいと考えていた。確かにこれまでにも何度か足を運んだ事はあったが、実際にサツキは少しばかり苦手意識を持っていた。
あそこの施設と料理の内容はサツキ自身が経験した中でもトップクラスの内容を誇っている。アナグラの様にシャワーだけよりも身体がほぐれ、疲労感を抜くには丁度良い。ユノ自身がリラックスするのであればサツキとしては何も言う事は出来なかった。かと言って、突然行く訳にも行かない。サツキはとある場所へと連絡を入れていた。
「噂には聞いてましたけど、まさかこれ程の規模だとは思いませんでしたよ」
「ここは極東支部からも近いが、設備そのものはフェンリルが認めている訳では無い」
ネモス・ディアナと屋敷の調印の際に榊が場所の指定したのは極東支部ではなく屋敷だった。
極東支部は下請けでしかないが、今後の事を考えれば極東支部内で行った方が本来であれば都合は良かった。しかし、未だに一部の議員がフェンリルに対し猜疑心がある以上、安易に事を起こす訳には行かなかった。
そんな中での提案にサツキは襲撃直後の紫藤の姿にどこか違和感を感じていた。本来であればフェンリルの科学者が態々出張ってくる必要はどこにも無い。今回の特異なアラガミの事で調査か何かに来たのだろう程度の感覚しか最初は無かった。
これまでの様にジャーナリストとしての活動で事実を確認する事も考えたものの、自分の目の前を歩く人間がそれを許す事はあり得なかった。後ろから見れば確実に鍛えられた肉体を持ち、腕にはめられているそれに封印を施した形跡はどこにも無い。
元々フェンリル内部でも異質な科学者である事はサツキも理解していたが、何となくそれ以上踏み込む事は危険だと本能で感じ取っていた。
ヘリが到着した場所に降り立つと、そこは明らかに極東支部とは景色が異なっている。どこかのどかな感じがするが、それが本当なのかを冷静に判断する事は出来ない。紫藤の背後を歩くサツキを他所に、同じく一緒に行動していた那智の様子は何時もと同じだった。何も知らなければ、視界はせわしなく動くはず。事実隣を歩くユノがそれだった。
屋敷に着いた際に初めてここの事実が語られた事は、サツキが初めて会った際にアリサが話した言葉の意味である事を理解していた。
「ここに来るまでに視界にフェンリルのエンブレムが入らなかったのはそう言う事ですか?」
「そうだ。確か高峰さんだったな。以前は広報でも報道部門の情報収集班に勤務してたと聞いてるが、フェンリルの暗部をどこまで知っている?」
「暗部だなんて……そんなに詳しい訳じゃありませんから」
はぐらかしながらもサツキの背中には嫌な汗が流れていた。確かにアリサとソーマには似た様な事を言ったものの、詳細まで語った訳では無い。仮に聞いた所で暗部の話が出る可能性は低く、まさかの言葉に返事をする事すら忘れていた。
背後に目でもあるかと思う程に、気が付けばその歩みはゆっくりとしている。まるで自分が試されている様にも思えていた。
「何をどう語ろうが結構な事だが、何でもかんでも安易に踏み込んで良い場所はそう多くはない。情報で人の人生だけでなく、最悪はその組織すら無くなる可能性もある。向けた刃はいつか自分にも返ってくる。取扱いには注意する事だな」
「警告と受け止めれば良いですか」
「それを決めるのは自分自身だ。それと、アリサとソーマが世話になったんだ。折角だから、もてなしの一つもしておこう」
何気ないはずの会話にも関わらず、どこか真剣を突きつけられてる感覚にサツキの危険を察知する能力が警鐘を促す。何時もの様な好奇心に溢れる感情はそれ以上湧く事は無かった。
「では、これで今回の件については完了した訳だが、今後の予定については早急に判断した方が良いだろう」
那智と無明の調印は滞る事無く完了していた。屋敷から出される資金と、今後の防衛におけるゴッドイーターの派遣。それと今回の件に関して幾つかの条件をお互いに擦り合わせた内容は議会が見ても遜色が無い様に見えていた。
事実、防衛に関しては現時点では当該地域の管理とばかりに極東支部の広域レーダーにも登録がされている。今はまだ派遣していないが、万が一アラガミの影を発見した際にはいち早く急行出来るシステムを構築していた。
「しかし、あれでは我々が一方的に恩恵を受けている様に見えますが、本当にそれで?」
「ああ。それに関しては問題無い。こちらとしてもそれなりにメリットがある事に違いないので」
既に調印が終わったからとお互いが会食に準じていた。今回、屋鋪からの提案は二つだけだった。一つは既にこの時代に於いて廃れ始めた幾つかの樹木の植樹を復興する事を許可する件。それともう一つはユノの存在についてだった。
当初、書面を確認した際に一つ目の条件は分からないでもなかったが、二つめの条件に関しては流石に那智も理解の範疇を超えていた。議会ではなく一人の父親として考えても、ユノの扱いに関する内容に理解が追い付かない。
書面を見て固まった事を判断したからなのか、無明は改めて今後の展開を説明する事にしていた。
「ユノの歌に今回は注目している。今後どんな展開になるかは分からないが、少なくとも現場は歌を聞いた事で多少なりとも心の安静が見えていた様にも思える。我々としても今後はフェンリルとしての組織ではなく、一部を独立組織と化して活動を計画している。その為の広告塔としての役割を果たしてもらうつもりだ」
「ユノをそうまで言ってくれるのは一人の親としては嬉しい限りですが、今後のプラン等はどの様に?」
「一先ずは今の様な海賊放送は止めて、正式な手順で表舞台に出て貰うつもりだ。後の事に関しては本人の努力次第だろう」
無明の言葉に那智は僅かに言葉を失っていた。この時代に於いてフェンリルの庇護を利用しない事がどれだけ大変なのかを一番理解している。もちろんそんな事実は目の前に居る無明とて理解してるはずだった。
しかし、完全に計画がスタートしていない今の状況でそれを信じるのは本来であれば有りえないはずだった。肝心のオラクルリソースの確保がどれ程困難なのかは那智自身が一番理解している。
幾ら多少の融通が利くとは言え、やはり独立したコミュニティの構築は生半可な物ではない。膨大な資金と、それに対応するだけの人的資源。数え上げればキリが無い。自分達は必要に迫られた結果でしか無かったが、今回の計画はどこからも迫られる必要性が無い。
フェンリルから命令された訳でも無いのであれば、最悪の場合、その支部の資金は枯渇する事になり兼ねない。態々火中の栗を拾う様な真似をしようとしている現実を忠告した方がと那智は考えていた。
しかし、ここがどんな場所なのかを考えれば、その考えは逆に失礼にもなり兼ねない。多少の手順はあったとしても、迷う事無く未知の世界に飛び込む事実に驚きを隠さなかった。
「私が……ですか?」
「そうだ。今回の条件として履行してもらう事にした」
那智との会談が終わると、今度はユノがこの場に呼ばれていた。周囲を探索するつもりが、突如呼ばれた事によりその意味が理解出来ない。隣にいたサツキもどんな言葉が飛び出すのかを固唾を飲んで見守る事しか出来なかった。
「でも、私なんかに……」
「ユノ。今回の件に関しては全ての事実を多方面から考慮した結果だ。我々としてはお膳立てはするが、そこから先は君自身の問題になる。厳しい内容かもしれないが、やってくれるか?」
無明からの提案はこれまでユノの歌声を海賊放送で流していた事を止め、正規の放送で流す事だった。当人でもあるユノは、まさかの事態にどうすれば良いのか理解が追い付かない。しかし、隣にいたサツキは今回の件は最大のチャンスだと判断していた。
「ユノ。今回の件は絶対に受けるべき。私は貴女の歌にほれ込んでこれまでやってきたのも事実。だけど、正規の放送で無い以上、今後は何かしらマークされると思う。だったら一度はやってみても良いはず」
「でも……」
まさかのサツキの賛成にユノは少しだけ戸惑っていた。これまでの事を考えれば自分の歌が癒しの対象になるとは想像すらしていない。ましてや海賊放送ではなく、正規の電波に乗せるとなれば話は大きく変わってくる。幾ら友人が強く賛成したとしても、素直に『はいそうです』とは言える程に肝は太く無かった。
何も知らないままにここに来たまでは良かったが、言われた事実は自分にも大きく影響を及ぼす。元々自己顕示欲が無かったユノは未だ戸惑いを覚えていた。そんな中で、僅かに漏れ聞こえる歌がユノの耳に届いていた。
「う~ん。何だか生き返った気分」
温泉に浸かりながらユノは大きく伸びをしていた。時間的な部分もあるのかもしれないが、まだ太陽が見える時間に入っている為に、他には誰も居ない。周囲の事を気にする事無く自分の好きな様に出来る時間を好んでいた。
元々屋敷では誰もが特別扱いをする事は無い。本来であればネモス・ディアナや極東支部も同じ事ではあるが、やはり世間の目はそうは扱わなかった。
まだ極東を中心に活動をしていても、やはりその歌声が響けば響く程周りの目は少しづつ変化していく。自分に近い人間であればまだしも、ネモス・ディアナと言えど、やはり目にすれば何かしらの思惑を感じ無い訳では無かった。
ここでは歌姫ではなく一人の女性として扱ってくれる。そんな以前の様な当たり前が今も変わらず漂う空気をユノは好んでいた。ゆっくりと浸かりながらも、これまでの事を少しづつ思い出していた。元々はここから始まった話が今では極東だけに話は留まっていない。一時期は確かに厳しい局面もありはしたが、今回のライブの成功で、再び大きく弾みが付く事を実感していた。
「ユノ、あんまり長湯するとのぼせるわよ」
「大丈夫。そろそろ出るから」
長湯だったからなのか、気が付けばサツキの声が聞こえていた。時間の概念は分からないが、それなりに時間が経過している。気が付けば自身の身体は空腹感を覚えていたのか、素早く肌の手入れをしながら用意された浴衣へと着替える。サツキが待っていると思われる場所へと移動していた。
「とりあえず、次の予定先のスケジュールがまだ完全に決まらないから、ここには少しだけ滞在するから」
「え?本当に良いの?」
「最近は厳しい状況が続いてたんだし、少しは羽を伸ばした方が良いんじゃない?」
用意された食事をとりながら、ユノは今後の予定についてサツキから聞かされていた。
確かに妨害とも取れる中でのライブは、表情にこそ出さないまでも精神的には厳しい局面が何度か出ていた。明らかに何かしらの妨害である事は直ぐに感づいたが、それを口に出した所で何かが変わる訳では無い。今出来るのは来て貰った人達に対して最高のパフォーマンスをする事だけ。そんな一身でこれまでやってきていた。
肉体的な疲労の回復は容易でも精神的な疲労は簡単には回復しない。そんな今の状況を判断した結果でもあった。
「そう。だったら、久しぶりに外部居住区とかに行ってみたい……かな」
ユノの言葉にサツキは僅かに頬を引き攣らせていた。今の状況で外部居住区に行けばどうなるのかは何となく想像出来る。止めるのは簡単だが、折角自分の意見を述べた以上、サツキとしても何とかしたい気持ちが多分にあった。
多少の変装をすれば問題無いだろうとは思うが、万が一の可能性も否定出来ない。そんなサツキの心情を読んだのか、気が付けばユノはどこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「やっぱり、ダメ……だよね」
「それは問題無いから。ちょっと今後の事について考え事してただけ」
そんな言い訳とも取れる言葉をそのまま受け止めたのか、ユノの顔は綻んでいた。ここ最近、ゆっくりと出来た時間が余り無いからなのか、その後の食事は楽しく過ぎ去っていた。
「しっかりとマネージャーをしてるみたいだな」
「お蔭さまで。その説は有難うございました」
部屋からユノが退出した事を確認したと思った瞬間、サツキの背後から声が聞こえていた。振り返らなくても誰なのかはサツキが一番理解している。声の主は当主でもある無明だった。
「我々はただ時間とタイミングを与えただけだ。その後の努力は本人が成し得た結果でしかない」
「そうでしたね。まさかとは当初は思いましたが」
「懐かしい顔も居たんじゃないのか?」
無明の言葉にサツキはやはりかと考えていた。当初、どうするのかと考えていた際に提案されたのは時折極東の情報を載せる広報誌の活用だった。
元々は各支部の情報を載せる事が多かったが、極東の特集をしてからは既に広報誌としての側面は無くなりつつあった。
気が付けば既に極東に関してだけは季刊誌の様に掲載されている。その中の一つの媒体に対して時間を提供されていた。当初は広報の人間も困惑していたが、サツキの事を知っていたからなのか、すぐさま打ち解けあっていた。その結果、当初は紙媒体だけのつもりが、歌の上手さを判断したのか、すぐさま映像にも割り込ませる結果となっていた。
これまで海賊版でのゲリラ放送だった歌が正規のルートで流れて行く。身近にあったはずの極東の人間でさえもその事実は殆ど知らされていなかった。
「そうですね……それがあって今ですから。足を向けて寝る様な真似は出来ませんね」
「心無い言葉は不要だ。我々の契約の履行さえしてくれれば問題ない」
「ではその期待に応える様に、今後も精進しますので」
「ああ。頼んだぞ」
言い争いが無駄と分かったのは、会って早々だった。短時間で調べ上げた情報の精度はサツキが知りうる中でもトップクラス。既に最終の結果すら分かっているとまで思える程に、用意された物は完璧だった。
通常であれば手放しで感謝するが、こうまで完璧過ぎると警戒せざるを得ないのが本音だった。ユノはこの事実を何も知らない。サツキも言う必要は無いと判断した結果だった。
だからこそユノの口からは安易に屋敷へと言葉が出るが、サツキの心情としては心中複雑だった。