「こんな時間に珍しいですね。どうかしたんですか?」
アリサとエイジの目の前には3人の女性がソファーに座っていた。元々非番である事を聞いていたからなのか、どこか申し訳ない表情を作っている。自分達にどんな要件があるのかは分からないが、今はその要件を確認しない事には何も進まないままだった。
「こんな時間にすみません。実はアリサさんにお聞きしたい事がありまして」
「私に……ですか?」
「はい。実は今調査中の聖域の件なんですが、少し力を貸していただきたいんです」
アリサに声をかけたのはシエルだった。隣にはナナとリヴィも一緒にいるが、口を出すつもりがないのか、今はシエルの話す言葉に頷く事しかしていない。一方のアリサも聖域の言葉が出た為に、何となくその要件が何なのかを察していた。
これまでに色々な調査をした結果、聖域は終末捕喰がゆるやかに進行した結果ではあるが、その進度は目に見える程早い訳ではなかった。オラクル細胞の影響を一切受け付けない事実は驚愕の一言だが、問題はその有効活用だった。
今の時点でオラクル細胞由来の物質が当たり前の様に流通しているが、その聖域ではこれまでの常識が一切通用しなかった。水だけでなく、大気やその土壌までもがオラクル細胞を発見する前の段階にまで戻っている。その結果、今後の活用の一環として農業が提案されていた。
「農作物なら確か、協力して頂ける方が居たと聞いてますが?」
「はい。その件であればロミオの知り合いの老夫婦の方に色々と聞き及びながら作業を続けているのですが……」
どこかシエルの言葉には奥歯に引っかかる様な言い方があった。クレイドルとしても聖域の調査結果には多大な期待は寄せているが、現時点ではその地に入るにしても隆起したオラクルを超える必要があるだけでなく、今後何が起こるのかすら分からない為に、誰でが簡単に立ち入る事が出来る様にはしていなかった。
今聖域に入る事が出来るのは、ブラッド以外には一部の技術協力者以外は許可が出ていない。その為に、アリサやエイジも今の聖域の状況を完全に把握していなかった。
「実は、農作業に関する事じゃないんだ。ロミオがあの場所に人が住める様な場所を作りたいと案を出したんだが、その提案を実現するに当たって誰に聞けば良いのか分からなかったんだ。そんな事があったので弥生さんに聞いたらアリサに聞くと良いと言われたので」
リヴィの言葉に漸くアリサは事の事態を理解していた。クレイドルとしてもサテライトの拠点作成には職人に必ず発注をかけている。勿論、誰でも良い訳ではなくアラガミ防壁の事を理解し、そのノウハウがある人物となれば該当すべき人間は限られていた。ましてや聖域はオラクル細胞の恩恵は一切無い。となれば何をするにしても人海戦術に頼らざるを得ない状況になっていた。
「弥生さん……幾ら何でも……」
職人に関してはアリサよりも弥生の方が面識があるはずだった。屋敷の関係者である以上、弥生とて棟梁とも面識がある。付き合いの深さで言えばアリサ以上のはずだった。そんな丸投げに近い状況を察したアリサは気が付かない様にそっと溜息を吐いていた。
「要は小屋か何かを建てたいって事ですよね?」
「ああ。ロミオの我儘なのは理解してるが、聖域にそう言った物があれば、今後はそこを活動拠点にしやすくなる。それに道具もそこにしまう事が出来るならば、ミッションの帰りでもすぐに立ち寄る事が可能だと判断したんだ」
正論とも取れるリヴィの言葉にアリサも少しだけ考えていた。今の時点では何か特別な事は出来ないが、それでも今後の事を考えれば決して損に成る様な事は無いのもまた事実。今は少しだけ時間にもゆとりがある事を理解しているからこそ、改めてどうするのかを考えていた。
「そうですね。でも、私だけの一存で決めるのは無理です」
「そうなのか……」
「だったら明日屋敷で確認したらどう?特に予定は無かったんだし、今なら棟梁以外の人達も居るはずだよ」
まさかのアリサの言葉に落ち込んだ矢先の事だった。確かに予定らしいものは無かったが、それならばと考えが無かった訳では無い。しかし、エイジからやんわりと促された以上、アリサとしても拒否する事は出来なかった。
「あの……それと、少しお願いがあるんですが……」
これまで一切話に入る事が無かったナナが僅かに口を開いていた。2人に比べればどこか元気が無い様にも見える。態々こんな状況の中で頼む事が何なのかアリサとエイジは少しだけ身構えていた。
中々言い出せないのか、ナナの表情が何時もとは明らかに違っている。その理由が程なくして判明する事になっていた。静まり返った空間に、まるで生き物の鳴き声の様な音が小さく響く。アナグラではカルビ以外の生き物を飼っている事実はない。それに反応したのか、ナナは顔を赤くしながら俯いていた。
「そっか。もう結構な時間だね。今日は確か……」
先程のそれを聞かなかったフリをしながらエイジは今の時間を確認すると同時に、状況を確認していた。今日は元からムツミが休みを取っていた為に、代役としてエイジがラウンジに行く予定だった。しかし、突発的なミッションが発生した事から、今日はそのまま臨時休業となっている。その結果、今日は食事を取るには事前に何かを用意しておく必要があった。
気が付けば時間はそれなりに経過している。時計を見て何かを悟ったのか、エイジはその場から立ち上がっていた。
「重ね重ねすみません」
「気にしなくても良いよ。本当なら僕がラウンジに入るはずだったんだし」
「シエルちゃん。このパスタ、麺がモチモチしてるし、パンも外はカリッとしてるのに中はふわっとしてるよ!」
「ナナさん。少し落ち着いて下さい」
3人の前にはボロネーゼとコンソメスープ、サラダとバゲットが人数分用意されていた。時間が遅い為に、今から外部居住区へ行くにも開いている店が無い可能性が高い。かと言って折角頼ってきてるのに、このまま放置する事もエイジの中では良しとはしなかった。
お腹が空いていたのか、ナナだけでなくリヴィもひたすら食べている。気持ちが良い程の食べっぷりは見ているこちらも悪い気はしなかった。
「そうですよ。折角来てくれたんですから、これ位の事はしますよ」
そんな3人を見ていたからなのか、アリサも笑みを浮かべながらアップルパイを口にしていた。甘いアップルパイに、ほろ苦いコーヒーがマッチしている。気が付けば3人の前にも同じ物が出されていた。
「そう言えば、お二人は普段はその格好なんですか?」
「そうだよ。慣れればこっちの方が楽だからね」
何かを思いついたかの様にシエルはエイジとアリサを見ていた。普段であればクレイドルの制服を着ている姿を見る事が多く、ラウンジに居る際にはエイジはコックコートを着ている姿が殆ど。そう考えると今の2人は浴衣や着物と屋敷に居る時と変わらない格好をしていた。
「そうですね。私も最初はこうじゃなかったんですけど、今はこっちの方が楽かもしれませんね」
3人も屋敷に居る際には浴衣を着ていたが、普段はそんな格好をする事は殆どない。実際には何時もと同じ方が何かにつけて便利だからと、部屋着に関しては特に考えた事はなかった。そんな中で2人の姿はアナグラでも珍しい部類に入る。既に食事を終えたからなのか、今は出されたコーヒーを口にしていた。
「やっぱり結婚してからなんですよね?」
「どうでしたかね……」
ナナの何気ない言葉にアリサも改めてこの状態になったのが何時だったのかを思い出していた。結婚の前からこんな状態だった様な記憶はあったが、それが何時と言われると返答に困る。当時の状況を少しだけ思い出していた。
「あの、エイジはここでも同じなんですか?」
「そう…だね。特に意識した事は無かったけど、何だかんだでこの格好には慣れてるからね」
共通のIDで開錠出来る様になってからは、アリサはエイジの部屋に居る事が格段に増えていた。気が付けばちょっとした着替えや荷物がエイジの部屋のあちらこちらに点在している。任務が別の場合はアリサも自分の部屋に戻るが、一緒の任務の際には割とエイジの部屋に居る事が多かった事が原因だった。今のエイジの姿は屋敷同様に着流しを着ていた。
ゴッドイーターのミッションでは、私服をそのまま着て望む人間が割と多く、事実第1部隊で制服を着ているのはエイジとリンドウだけだった。リンドウの場合は制服ではあるが、厳密に言えば士官用の制服である為に、従来の物を着用しているのはエイジだけ。
元々エイジは自分の私服の様な物を持ち合わせていなかった。屋敷では殆どが着物か浴衣で過ごし、ミッションは制服となれば、それ以外の服は必要とはしない。精々が自室で寛ぐ時に着る程度でしかないだけでなく、帯一本で着る事が出来るそれは案外と便利な代物でもあった。
「やっぱり、私も同じ様な格好の方が良いですか?」
「僕の場合は好き好んで着ているだけだからね。アリサは無理に合わせなくても良いよ」
本当の事を言えばアリサにも着て欲しいと思う部分はあった。そもそもエイジがアリサを意識しだしたのは屋敷で見た浴衣姿。当時の事は話した訳では無いが、それでも何時もとは違った姿に見とれていたのは紛れも無い事実だった。
アリサも屋敷で療養した関係上、浴衣そのものはいくつか普段使い用として持っている。しかし、今の生活の中では着る機会が圧倒的に少ないのもまた事実だった。
今までエイジの部屋には何度か入った事はあったが、屋敷以外でその姿を見たのは初めての事だった。アナグラに居ながら屋敷に居る様な感覚は当時の事を思い出す。療養の原因となった事実は苦々しい思い出ではあるが、それ以外の事に関してはアリサにとっても大事な思い出。何かを思い出したのか、アリサの頬は僅かに赤く染まっていた。
「実は私も幾つか持ってるんです。屋敷から頂いたのは良かったんですが、中々着る機会が無かったので……これからここに居る時は私も着ます。折角着付けも覚えましたから」
そう言われればエイジもそれ以上否定する事は無かった。出来ればと言った感情はあったが、アリサの表情を見れば何かを思い出していたのか頬は僅かに赤く染まっている。エイジとしても若干望んでいた部分があった為にそれ以上の明言は避けていた。
「結婚前の話ですね。何だかんだで屋敷に行く事も多かったですし、皆さん知っての通り、あそこは常時着物か浴衣が殆どなので」
当時の事を思い出したまでは良かったが、何故と聞かれれば回答に困る事実があった。共通のIDで開錠出来る事実を知っているのはヒバリだけで後は誰もその事実を把握していない。今となっては結婚している為に然程気にする様な事は無いが、当時はそれでも随分と気を使った様な記憶だけが残っていた。
「一人で着るのは大変じゃないですか?私も着ましたけど、完全に着れるのかと言われれば少々自信がありません」
「それは慣れですよ。私だって最初は結構苦労しましたから。慣れれば案外と楽なんですよ。髪型だって、簪じゃなくてボールペンを代用する事も出来ますからね」
一本差しの簪であれば髪を軽く巻きながら刺せば、それだけで短くまとまる。確かにアリサを見れば偶に髪を上げている姿を何度か目にした記憶があった。
「シエルさんも、ナナさんも長さがあるので、やってみたらどうですか?」
「でも、何だか難しそう……」
アリサの手つきを見れば簡単な様にも見えるが、実際には慣れていないと案外と面倒な部分が多分にあった。以前ラウンジで何か作業をしていた際に、髪がうっとおしいと感じたのか、それとも暑かったからなのか、アリサは無意識の内に余ったボールペンで髪を結っていた。
初めて見た人間はあまりにも自然な流れで髪を整えるアリサを見て驚いていた。特に女性陣からは鮮やかな手つきに憧れを持ち、男性陣は普段は見る事が無いアリサの髪型にそれぞれ何らかの思惑を感じていた。偶然居たナナとシエルも当時の事を思い出していたのか、どこか表情が何時もとは違っていた。
「そんなに難しくありませんよ。簡単なやり方もありますから」
どこか尻込みをする二人を見ながらアリサは少しだけ考え方の方向性を変えていた。以前に女子会を開いた際に酔った勢いでリッカから出たエピソード。それが何を意味するのかは分からないが、何か動きがあればそれはそれで面白い事が起こるかもしれない。そんな下心とも取れる思惑があった。
「偶には違う髪型を見せれば、どんな男性も考えも変わるかもしれませんね」
「えっ?そ、そうなのかな……」
「それは本当でしょうか?」
予想外の食いつきにアリサは少しだけたじろいでいた。髪型云々はともかく、これまでとは違ったイメージは何かのキッカケになる可能性が高い。事実、テーブルに置いてあった写真を見たからこそ当時の状況を思い出していたのは間違い無かった。
今の二人が誰に対し、どんな感情をもっているのかは分からないが、何かに対して焚き付ける事に成功したのは間違い無かった。
「ロミオが一番分かるんじゃないですか?復帰後って以前の服装に戻ってないですよね?」
「ああ~確かにそうかも。ロミオ先輩って前はどこか軽い雰囲気があったけど、最近は少し違うよね。何だろう?大人の余裕って感じかな?」
ナナの言葉にシエルも当時と今の状況を改めて思い出していた。当時のロミオはどこかあどけなさを持つと同時に良い意味では素直、悪く言えばどこか子供の様な部分があった。
しかし、復帰してからのロミオは以前の様な部分は殆ど消え去っていた。本人も気に入っているのか、羽織だけでなく、髪も今は括っているからなのか、以前の様なニット帽を被る事は無くなっていた。一部の新人は以前のロミオを知らない為に、どこか憧れる様な目をしている者もいる。明らかにイメージが異なる良い見本だった。
「確かに言われてみれば、今のロミオはどこか雰囲気を持っている様にも思える。私の知ってるロミオじゃないのが残念だな……」
「リヴィちゃん。ひょっとして……」
まさかこんな話にリヴィが食いつくとは思っても無かったのか、ナナはリヴィの顔を見ていた。どこかクールな側面があるリヴィではあるが、今の顔は何時もとは無いかが違う様にも思える。既にアリサは蚊帳の外へと追いやられている様にも見えた。
気が付けば相談事があったはずが、今ではすっかりと食事会からお茶会へと変わっている。既にエイジはそんな四人をそのままに作業を始めていた。
「何だか変に盛り上がっちゃいました」
「随分と楽しそうだったね」
3人は結局の所、明日の約束をしたことでそのまま帰っていた。来た当初と、帰り際の話の内容が明らかに違うものの、やはり女性はおしゃべりが楽しいからなのか、気が付けば既に結構な時間へと差し掛かっていた。
既に明日の朝食の準備を終えた為に、今や特にやるべき事は何も無い。落ち着いたからなのか、手元にあるのはコーヒーではなくほうじ茶だった。
「ここ最近は厳しいミッションが続きましたからね。これでも気分転換には十分ですよ」
余程楽しかったのか、今のアリサを見れば十分な程に笑顔で溢れていた。普段が厳しいだけに、こんな時位は息抜きをしない事には精神的にも疲れが溜まる。それが解消出来た事はエイジに取っても悪い事では無かった。
時間を持て余していたのか、エイジは何かの本を読んでいる。このご時世、紙媒体の本は珍しく、普段であればタブレットかノルンが一般的だった。
アリサは後ろからこっそりと見えれば、見た事も無い様な文字が書かれている。興味を惹かれたのか、アリサはエイジの背中に身体ごと押し付けて覗いていた。
「どうしたの?」
「別に……なんでもないですよ」
自分の双丘を押し付けながらも、そう言うアリサの表情は赤いままだった。何かスイッチが入ったのか、アリサの目の奥には欲情の炎が見えている。それ以上お互い何も言う事は無かった。
エイジもアリサが何を考えているのかは何となく理解しているからなのか、それ以上の言葉を告げる事は無かった。アリサの柔らかい感触はエイジから離れる事なく続いている。読んでいた本を閉じ、何時もの就寝時間よりも早めに消えた照明がこれからの予定を物語っていた。