周囲には人の営みが全く感じられない程に無機質な壁だけがそこにあった。僅かに上方を見上げれば、そこには数十平方センチメートルの空間に鉄の棒が差し込まれている。そこから見える青空が、そこから見上げている空間を一層冷たい物へと意識させられていた。
既にここに入ってからどれ位の時間が経過したのだろうか。そんな取り止めのない考えを持ちながら銀髪の少女は自分の膝を抱えながら丸くなって座っていた。
「時間だ。そこから出ろ」
まるで人間ではなく動物でも扱うかの様な男の声に銀髪の少女はゆっくりと立ち上がり、ノロノロと動きながら格子の外へと歩き出す。既にここでのやりとりは何回目なんだろうか。そう考えながら光が差す方向へと視線と向けた瞬間だった。
「夢……ですか」
目を開くとそこは何時ものコンクリートむき出しの自室の天井ではなく、木目がしっかりと入ったどこか温かみを感じる天井。目覚めたばかりの脳がゆっくりと回転し始めたからなのか、漸くここが屋敷の一室である事を思い出していた。
掛け布団をどかし、周囲を見ればナナが掛け布団を蹴飛ばし大の字になって寝ている。その隣には反対側を向いているが、リヴィの寝息が僅かに聞こえていた。外は薄明るいが、時間は恐らくはまだ早い。規律正しいシエルにとって、想定外の起床だったからなのか、これからどうしようかと僅かに悩んでいた。
時計が無い為に正確な時間は分からない。恐らくはまだ誰もが寝ているだろう。そんな取り止めの無い考えと同時に、自分の浴衣の襟を直しながら扉を開けて外の空気を吸いに出ていた。
早朝の空気はまだ澄んでいるからなのか、肺に入った新鮮な空気が脳を活性化させる。
思考がクリアになったからなのか、シエルは自分が知りえる範囲を少しだけ歩こうと考えていた。
「シエルちゃん。今日って時間空いてる?」
「今日ですか?」
「うん。今日だね」
シエルは突然ナナから言われた事によって改めて今日の予定を思い出していた。日常のルーティンとも取れるバレットの研究や戦術書を読むのは既に日課となっている為に、改まって何かがある様な記憶は無かった。もちろん、今日が非番である事も間違い無い。
ナナから予定を聞かれるまでは、カルビに餌を与えた後は何も決まっていなかった。
「特に何かがある訳ではないですね。どうかしたんですか?」
「実は、リヴィちゃんが屋敷で例の教導の為に行くんだって。特に予定も無いから一緒に行こうかと思って」
ナナの言う例の教導はリヴィの舞踊に関する事だった。元々はマルグリットの強さの秘密を教えてもらうだけのはずが、気が付けば本格的な内容へとシフトしつつあった。
これが単なる舞踊だけであればリヴィとてそうまで入れ込む事はなかったが、やはり重心が不安定な態勢でも安定し、その結果として自身の神機の攻撃方法が多彩になった事から益々その動きに磨きをかける様になっていた。
元々リヴィだけでなく、マルグリットやアリサも同じ事をしていたのもあったからなのか、気が付けば既にそれなりの腕前に変貌しつつあった。
「私達も一緒に行って大丈夫なんですか?」
「念の為に弥生さんに確認したらOKだって」
ミッションとは違い、好奇心もあったからなのかナナは既に確認済みだった。シエルとしても特に大きな予定がある訳ではない。だからなのか、ナナの言葉にシエルもそのまま行動する事になっていた。
「もっと手の動きを緩やかに。品が感じられません」
「ゆっくりと丁寧は違います。もっと動きの一つ一つを意識して下さい」
「足さばきが乱れてます。もっと流れる様に」
以前に見たリヴィの演舞は自分達が見る分には何の問題も無いと思われていた。
事実、素人が短期間でああまで動けるのは本来持っている運動能力が寄与している部分もあるが、ナナやシエルからすれば十分すぎる内容だった。
そんなリヴィの舞も屋敷に来てからは指導と指摘のオンパレード。ゆっくりとしか動いていないにも拘わらず、リヴィの額や首筋には玉の様な汗が浮かんでいた。厳しい指導にナナとシエルも息をする事も忘れる位に今の状況を見ている。張りつめた空気は一層の鋭さを持っていた。
「は~見てるこっちも疲れちゃったよ」
「そうですね。ですが、中々面白い物もありましたよ」
リヴィの教導が終わると、まるで今まで呼吸すらしてなかったのかと思える程に2人は大きく深呼吸をしていた。
既に時間がどれ程経過したのかは分からない。それ程までに濃密な内容に思わず言葉が漏れた様だった。
表面上に見える優雅な動きは、あくまでも見える範囲だけの話。しかし、着物の中では全身の筋肉を余す事無く使い切り、自分の指先にまで細やかな気配りが要求されていく。
思考しながら行動を起こす事は簡単では無い。意識すればするほど脳は酸素を求め、身体への供給が少なくなり、その結果パフォーマンスは低下していく。
もちろん、思考した結果、動きに優雅さが消えれば、今度はそれを指摘される。
緩やかな中での並行思考は実際にアラガミと対峙している時と大差ないからなのか、その疲労度は、これまでに一度も感じる事が無い程だった。
慣れない動きだからと加減される訳でもない。だからなのか、リヴィは心身共にゆっくりと追い込まれていた。
当初は何となく眺めていたシエルも、その意図に気が付いてからは自分の脳内で色々と動きをシミュレートしながら見ていた。動きの一つ一つに無駄が無く、それが動く意味を理解させられる。
当初は何故と言った疑問が生じていたが、ここまで見て唐突に理解していた。どんな動きにも必ず何かしらの意図があり、また常に最短を通さなければ流麗な動きにはなり得なかった。
迷いがあれば動きに澱みが出る。だからこそ、細やかな部分まで意識する必要があった。
「面白いものって?」
「動きの一つ一つを意識付けると言うのは案外と難しいんです。実際には私達が普段の生活をする際に、一々意識しながら身体を動かすなんて事はしませんから」
「なるほど……確かに言われてみればその通りだね」
「恐らくですが、意識する事によって稼動限界や効率の良い動かし方を身体に覚え込ませているのかもしれません。だからこそ舞踊が教導に活かせる意味なんだと」
ナナに説明をしながらシエルはリヴィのこれまでのミッションの事を思い出していた。
ヴァリアントサイズはその特性上、曲線運動となる為にどうしても重心や体幹を意識する必要があった。直線運動が出来ないとなれば必然的に攻撃にはタイムロスが生じてくる。
中距離であれば回避出来るチャンスもあるが、これが近接攻撃となれば致命的な隙を生む。相手が人間であれば生き延びる事は可能だが、これがアラガミとなれば待っているのは自身が捕喰される未来だけ。だからなのか、リヴィは一時期マルグリットに何かを聞いている事を思い出していた。
「へ~まさかそんな意味があったなんて知らなかったよ」
「確かに無駄にはならないのは確かですからね」
「流石シエルちゃんは目の付け所が違うのね」
「弥生さん!」
背後から声を掛けられた事によって振り向くと、そこには弥生が立っていた。いくら舞踊の教導を見ているとは言え、まさか気配を察知出来ない程とは思ってもいなかった。
普段に弥生を見れば秘書である事は理解しているが、まさかこうまで気配を殺して接近されるとなれば何かしらやっているのかもしれない。あまりにも自然に入り込んだからなのか、シエルは僅かに動揺していた。
「そうね。ここでは最低限それ位の事は教えられるから、特に意識した事は無いわね」
先程の事が気になったからなのか、シエルは改めて弥生に問いかけていた。元々ここでどんな事を習うのかは、住人と一部の人間しか知らない。事実、短期間とは言え、ロミオがここに居た事でそれがどんな事なのかは理解したつもりだった。
子供達と『遊び』と称してやった当時の記憶が蘇ったからなのか、シエルは弥生の言葉を聞く以外に無かった。
「確か、シエルちゃんは軍事として一通りの事は習ったのよね?」
「はい。格闘や銃撃、暗殺術など色々とです」
「ひょっとして、シエルちゃんの暗殺術の教官って、この人の事かしら?」
何かを思い出したのか、弥生はシエルに一枚の写真を見せていた。金色の短髪の男はどう見ても暗殺術を教える様な雰囲気にには見えず、むしろ線が細く整った顔立ちをしていたからなのか、一昔前のモデルの様だった。
「はい。この方が私の教官でした」
「やっぱりね。この人も元々はここで学んだのよ。厳密に言えば、当主ではなく先代だけどね」
「そうだったんですか」
弥生の何気ない一言にまだここに来た当初の事を思い出していた。どこか懐かしい様な。しかし、圧倒的な何かを何となくでも感じ取っている。まさか自分の教官もここに居たとは思ってもなかったからなのか、シエルはただただ驚くだけだった。
「シエル。暗殺術は相手に気取られたら終わりなんだ。気配は常に殺したままにするんだ。でなければ自分が逆の立場になるぞ」
息も絶え絶えにシエルは何とか男に行動を悟られないように気を配っていた。暗殺術を行使する場面は今のご時世では殆ど無い。下手に何かをする位なれば、拉致した所でアラガミが出る場所に放置するだけで良かった。
ある意味では死体を処理するのはこの時代、それ程難しい話では無かった。
元々人類の天敵とも取れるアラガミに捕喰されたのであれば仕方が無い。それが今の時代の常識でもあり、仮に何かしら疑いがかかったとしても、何も問題なく処理されていく。そんな事実があるからこそ、幾らでもやりようがあった。
しかし、今シエルに教えているのはそんなやり方ではなく、純然とした武術の様にしか見えなかった。シエルの両手には刃が潰された短刀を両手に持っている。誰かから習った訳では無く、むしろ本能に近い物だった。
常に動き回り狙いを読まれない様にする。既に発見された以上、あとは如何に効率よく攻撃をしかけるかしか無かった。
元々大人と子供のリーチの差はどう頑張っても埋める事は出来ない。だとすれば、やれるのは攪乱からの奇襲。一定の場所に留まらないのはその為だった。
相手の攻撃を出させる為に牽制しながら動き回る。僅かに生まれた隙は正に致命的な物だった。
懐に潜り込んだ瞬間、シエルは短刀で斬るのではなく刺突する事によって致命傷を与える選択肢を選んでいた。斬りつけるよりも遥かに殺傷能力が高く、極めて効率が良い攻撃。だからなのか、シエルは子供ながらに僅かに笑みを浮かべた瞬間だった。
「ぐはっ」
無意識とも取れる下からの攻撃は、シエルの行動を一瞬にして止める事に成功していた。固い何かがシエルの腹部を直撃する。その正体は男が蹴り上げるかの様に繰り出した膝だった。
奇襲をかけたはずが逆に奇襲を喰らう。隙は出来たのではなく、敢えて作る事によって誘われた結果だった。強烈な一撃は事実上のカウンター。シエルの心を挫くには十分すぎていた。
「シエル。考え方は良いが、それは悪手だ。隙は生まれるのを待つんじゃない。あくまでも作るものだ。自分の勝手な都合は戦場では通用しない。常に周囲を気にするんだ」
倒れ込んだままのシエルに男はただ吐き捨てるかの様に言葉を投げかけていた。任務の失敗は自分に回ってくる。命を狙う代償はあまりにも大きい物。だからなのか、この教導では失敗すればすぐに懲罰的な意味合いで独房に入れられていた。
「あ、あ……りがとうござい……ました」
辛うじて聞き取れた言葉に優しさは微塵も感じる事が出来ない。シエルはそのまま意識と手放していた。
「そうだったんですか……」
当時の事を思い出したのか、シエルはどこか懐かしさを感じていた。あれが無ければ自分はブラッドに招聘されていたのだろうか。そんな取り止めの無い考えだけが幾つも過っていく。自分には他の人間とは違うものの、それでも思い出と呼ばれる物があった事の方が嬉しいとさえ考えていた。だがそれと同時に、ふと浮かんだとりとめのない疑問。まさかそれがどんな意味を持つのかをシエルは改めて悩む羽目になっていた。
「何が良いとか悪いとかではなく、純粋な結果ね。何事も突き詰めるには時間が少なすぎるわ」
「何の話だ?」
気が付けば既に汗の始末をしたのか、リヴィが先程とは違う浴衣姿でこちらに来ていた。まだ完全に乾かない髪はまだ湿り気を残している。気が付けば弥生もまたこの場からは居なくなっていた。
「いえ。少しだけ思い出した事があっただけです」
「そうか。そう言えばナナはどうしたんだ?」
「確かそこに……」
「シエルちゃん。あ、リヴィちゃんも来たんだ。さっき弥生さんからすれ違いざまに聞いたんだけど、今晩はここで泊まって行かない?偶にはブラッドの女子会も良いと思うんだけど」
「女子会か……ふむ。一度は体験した方が良さそうだな」
「シエルちゃんも良いよね」
「え、あ、はい。大丈夫です」
リヴィの言葉の答えとばかりにナナはこちらに向かって走り出していた。余程嬉しいのか、身体全体で喜びを表している様にも見えていた。
「これは……中々だな。一度ムツミに頼んでみるのも手だな」
「やっぱりここはご飯が美味しいよね」
用意された食事を皆で食べる機会が少なかったのか、ナナだけでなくリヴィもまた物珍しいのか、運ばれた料理に手を伸ばしていた。まだ出来立てだからなのか、茶碗蒸しを木のスプーンで掬い、息を吹きかけながら食べたリヴィは余程口にあったのか、顔が綻んでいた。
普段は中々出てこないからなのか、一気に食べ始めている。一方のナナもまた久しぶりだったのか、天麩羅に箸が止まらないままだった。気が付けば既にご飯をお代わりしている。普段とは違った食事が食欲を誘っている様だった。
「あれ?シエルちゃん。どうかしたの?」
「いえ。何でもありません」
ナナから言われた言葉にシエルは改めて箸で天麩羅を摘まんでいた。口に入った瞬間、カリッと香ばしい歯ごたえと同時に、かぼちゃの甘味が口の中に拡がっていく。美味しいのは確かではあったが、やはり弥生から聞かされた言葉が気になったのか、思ったよりも箸は進まなかった。
昼間の暑さは日が沈むと同時に、涼し気な空気を纏うかの様に浴衣を着たシエルの頬を優しく撫でていた。既に温泉の熱は消え去ったからなのか、心地良い風はまるでシエルを包み込む様だった。
「シエル。何か心配事でもあったのか?」
「いえ。そんな訳では無いんですが、まさかここの人と私が当時師事された方と繋がりがあったなんて思ってもなかったので、少し感慨深くなっただけです」
「そうか。誰にでも思い出の一つや二つはあるからな。それが自分の深い部分に関与してるなら当然だろう」
リヴィはそれ以上は何も言うつもりはなかった。元々ここに来てから何かを考えている様にも見えはしたが、それはあくまでもシエルの問題であって自分には関係の無い話。
もちろんお節介をやこうと思えば可能だが、それはシエルの為にはならないだろうと考えた末の結論だった。
事実、自分もまだ螺旋の樹の探索に於いてブラッドには何かと世話になった手前、何とかした気持ちが無い訳では無い。しかし、心情に持つそれが一体何なのかが分からないとなれば、安易に踏み込んで良い物ではない。
それ程までに人の心は難しく、また繊細な物だった。何かしら考えているからなのか、シエルはぼんやりと景色を眺めている。そんなシエルにリヴィは持っていたお茶菓子と抹茶をそっと置いていた。
「シエル。何を考えているのかは分からないが、時には自分の思いを口にしてみるのも悪くはないと思う。無理にとは言わないが、私もナナも皆シエルの味方だからな」
リヴィは返事を聞く事なくその場から立ち去っていた。
人間である以上、悩みは誰にでもある。詳しい事は分からないが、それでも同じ戦場を駆け巡った仲間の力にはなりたいのもまた事実だった。
どんなわだかまりがあるかは分からないが、今は少しだけそっとした方が良いだろうと判断した結果だった。
気が付けば下弦の月は少しづつ天高く天頂に向けて移動を開始している。今のシエルが悩んでいる事が解決出来れば良いだろうと、心の中で呟きながらリヴィは遠目でシエルを眺めていた。