朝の特有の空気はあの時の記憶の欠片でもあった夢を流すかの様に清々しい物だった。
アナグラであれば、朝は基本的には外気に晒される事は数える程しか無い。精々が任務に出た時位だった。
ここはサテライトと同じく地下に施設が有る訳では無い。当たり前と言えば当たり前だが、そんな些細な違いに改めてここがアナグラでは無い事だけが理解出来ていた。屋敷そのものに足を運ぶ事はこれまで数える程しかない。決して機密ばかりが有る訳では無いからと、シエルは周囲を少しだけ探索しようと考えていた。
日本間特有の畳の匂いだけでなく、歩く廊下も掃除と手入れがキチンとされているからなのか、塵一つ見当たらない。光が差し込む廊下はまるで光っている様にも見えていた。
「ここは思った以上に大きいですね……あれは…」
周囲を歩くと言っても限界はあった。幾ら多少なりとも見知った場所だとしても、基本的にはゲストとしてここに来ている為に、勝手に動く訳には行かないと思った矢先の事だった。決して小さくない建物からは何か音が激しく聞こえて来る。改めて耳を澄ませば、それは何時も教導で聞く様な打撃音にも似ていた。
決して誰かに言われた訳では無い。もちろん、そこで何が行われているのかは分からないが、今のシエルにとっては珍しく興味深い物だった。
以前に見た北斗が瞬時に倒された戦いはシエルに取っても驚愕の一言だった。事実、今の北斗はエイジと戦っても直撃する様な一撃を与える事は困難となっている。決して北斗自身が何もしていない訳ではない。
常に時間があれば研鑽している姿はこれまでにも何度も見ている。にも拘わらず、目指す頂きはあまりにも高いままだった。そんなエイジでさえも無明のとの戦いにはかすり傷一つ与える事が出来ない。そんな記憶がふと思い浮かんだからこそ、シエルはその音の発生源まで足を運ぼうかと考えていた。
呼吸する事すら困難な状況の中で青年は少しでも一矢報いようと、回避しながらも脳は常に三手先、四手先を意識し続けていた。普段のアナグラの教導では常に十手先を考えて行動するが、今戦っている相手にそんな事は不可能でしか無かった。
何時もとは違い、たった三手先程度での攻防は最早読みあいですら無かった。
今、目の前に対峙する男は自分が知るうる中でも最強の人間。こちらがどれ程の攻撃を仕掛けようが、先読みしたかの様に攻撃は全て往なし空を斬る。
自身が持つのは普段から使う九尺弱の槍ではなく、あらゆる攻撃と防御に有効な長さにまで抑えた結果だったのか、持っているそれは四尺程の長さの物。それに対し、相手はリーチを一切考慮しない無手のまま。
当たり前の様に考えれば獲物を持っている方が圧倒的に有利な状況に変わりなく、戦いに於いては有効なはずだった。
「ナオヤ。踏み込みがまだ甘いぞ」
ナオヤが持つ棒は刀に見立てたのか、鋭い一撃は男の首筋めがけて袈裟懸けに振り下ろされていた。その勢いはまさに渾身の一撃。
それなりに腕が立つレベルであれば、最悪は命すら散らすと思われる程の斬撃は完全に見切られたのか、鼻筋1ミリを見切られ床へと叩きつけんとする勢いだった。
渾身の一撃を回避された以上、次に待つのは自身への攻撃。なまじ力が入り過ぎたからなのか、床への一撃によって無防備な身体を完全にさらけ出していた。
達人をも超える領域の人間に対し、あまりにも無慈悲な刹那だった。男の放った拳は腹に直撃した瞬間、ナオヤの身体はくの字へと曲がり、そのまま衝撃を逃がしきれなかったのか壁に激しく激突していた。
「まだまだ!」
激しい音と共に壁に激突したナオヤもここで怯むつもりは毛頭なかった。先程叩きつけられた壁を発射台の如く利用し、一気に距離を詰めんと疾駆していた。
体制は低いまま。何でどこを狙うのかを察知されな無い様に、持っていた棒は地面スレスレを薙いでいた。横一閃の斬撃。
脛の周辺を打ち込む事により、回避だけでなく致命的な一撃を与えんとしたのか、その斬撃は丸い棒にも拘わらず大気を切裂いていた。
「こ、これは一体………」
半ば偶然とは言え、シエルの目の前に拡がる光景は正に死闘ともとれる攻防だった。
ナオヤの相手をしているのは、ここの当主でもある無明。どれ程の時間が経過しているのかは分からないが、濃密な殺気に似た空気はこの道場から発せられている。普段の教導を知っているシエルから見ても、まさに異質な戦いの様にしか見えなかった。
一方的に攻め立てるナオヤは既に疲れを見せるだけでく、呼吸とは言えない程に息が荒い。
無呼吸での活動時間は然程ではないが、こうまで高度な攻防を続ければ、確実に肉体だけでなく、精神をも疲労するのは間違い無かった。地面スレスレ水平に疾る斬撃は見惚れる程に鮮やかだった。
しかし、その渾身の一撃はまるでそこに最初から何も無かったかの様に空を斬っている。ここで漸くシエルは今の攻防が如何に高度な物であるのかを悟っていた。
「やっぱり俺はまだまだだな」
「もう少し流れを読まねば逆に思うつぼになるぞ」
先程までの攻防は、やはりなのか無明の一方的な攻撃で幕を閉じていた。
どちらがどうなのかは言うまでも無かった。方や呼吸すら困難な状態にも拘わらず、対する片方は息切れ一つしていない。素人目に見ても互いの技術がどれ程隔絶した物なのかは考えるまでも無かった。
先程までは命のやり取りをしている様にも見えた攻防は既に消え去っている。そこには純粋な師弟関係が見えるだけだった。
「今の俺にはあれが限界って所かもな」
「そうだな。獲物を変えるのは戦略的には有効かもしれん。だが、それによってこれまでの経験が一部失われているのも事実だ。ナオヤはエイジとは違い器用な部分があるからな。だからこそ悩むのかもしれんな。それと勝手に限界を決めるな。そこで成長は止まるぞ」
「何だか褒められてる様な貶されてる様な……って誰だ!」
無明との会話を途切れさせたのはナオヤが何かに反応した結果だった。元々覗いていた訳では無いが、異様な空気に吸い寄せられたシエルはただ見ている事しか出来ないまま。だからこそナオヤの声に反応が少しだけ遅れていた。
「すみません。覗くつもりは無かったんですが……」
「なんだシエルか。誰かと思ったぞ。で、どうしたんだ?」
「少しだけ早く目覚めたので散歩しようかと思ったんですが、ここが気になったので……」
覗いていた自覚があったからなのか、シエルは返事が淀んでいた。先程の戦いは明らかに何かしらの教導の様にも見える。常に先手を取るのではなく、むしろ相手を誘導しながら自分の領域に持ち込む戦闘技術はこれまで一度も見た事が無かった。
まだブラッドに入る前に習った教導ですら児戯の様にも見える。それ程までに先程の攻防は鬼気迫る何かがあった様に思えていた。
「隠すつもりは無いから覗かなくても入口から入れば良いだろう。ナオヤ、今朝の訓練はこれで終わりだ。後は任せたぞ」
「あの、待ってください!」
「何か用事か?」
「あの、出来れば私もお願いしたいんですが、宜しいでしょうか?」
立ち去ろうとした無明を引き止めたまでは良かったが、今度は何故そうしたのかがシエル自身も分からなかった。
先程の時点で自分が相手にすらならない事は誰よりも自分が一番理解している。そもそもアナグラの教導でナオヤに一矢報いる事すら出来ない人間が先程まで完璧に戦った相手に適う道理は無い。しかし、今朝の夢の影響もあったからなのか、思わず口にしていた。
そもそもここに来たのは予定があったからではない。偶然に過ぎないままに来たからこそ、自分の出した言葉が暴挙に近い物であることは認識している。それでもなお、シエルは自分も一度戦ってみたいと感じていた。
「俺は問題無い。だが、その格好では些か無理がある。ナオヤ、着替えと場所を教えておくんだ」
「それは問題ないんだけど、シエル。本当に良いのか?」
ナオヤの言葉は尤もだった。自分と同等かそれ以上の人間でさえも事実上攻撃する事が困難でしかない。もちろんシエルとて認識している。純粋な教導であればナオヤも否定的な気持ちになる事はなかったが、今のシエルを見ると安易に返事をする事は憚られていた。
どこか迷いを持っている様にも見える。自暴自棄でやれる程甘く無い事を知っているからこそ、改めて確認をしたに過ぎなかった。
「はい。一度自分と言う物を見つめ直したいんです」
「…そうか。だとすれば問題無いか。兄貴、直ぐに来るから」
シエルの目には迷いはあれど、どこか力が籠っている様にも見えていた。
碌な準備もせずに戦うとなればお互いが時間の無駄でしかなくなる。もちろん、そんな事は自分よりも無明の方が理解しているはず。だからなのか、ナオヤはシエルを着替える為に促す事しか出来なかった。
「では行くぞ」
「はい。お願いします」
常在戦場の様な攻撃をすれば、一瞬にして決着がつくからと、お互いが試合の様な形で開始していた。シエルは自分の持つ神機と同じ長さの木刀を持ち、無明は先程同様に無手のままだった。
「まさかこれ程とは…」
開始と同時にシエルは一瞬にして劣勢に立たされていた。普段であれば殺気を関知すればすぐに態勢と整える事も可能だったが、対峙した無明はそんな生ぬるい攻撃をする事は一切無かった。想定外とも取れる攻撃にに対しそんな事すら出来ず、一気に追い込まれていた。
そうなった最大の要因は無拍子で動くだけでなく、自分の呼吸を盗まれ、殺気すら持たないまま交戦した結果だった。幾ら視界に入っていたとは言え、気が付けば既にシエルの懐奥まで最接近を許している。ここから繰り出される一撃は既に致命傷だと言わんばかりの一撃だった。
口から洩れた言葉が周囲に響くまでに倒された回数は既に分からなくなっていた。
自身が木刀を振り上げた瞬間、シエルが目にしたのは無明が放った掌底。ナオヤの時でさえ振り下ろした瞬間が碌に見えなかったにも拘わらず、今のシエルの目に映った光景はまるでコマ送りされた何かの様だった。
ゆっくりと見えるそれの意味が分からないはずがない。疑似的な走馬灯をイメージしたのか、シエルは防御する暇も無く綺麗に弾き飛ばされていた。
口の中を僅かに切ったのか鉄の味がする。改めて何と対峙したのかを嫌と言う程に理解させられていた。
「どうした?これで終いか?」
「まだまだです!」
既にシエルと無明の戦いは朝の気軽な物ではなくなっていた。シエルは無明と対峙しながらも1秒でも長く生き残れるかを考えていた。アラガミとの戦いでさえ、そんな考えは持つ事は殆ど無い。それ程までに対峙した無明は強大だった。
瞬き一つ許されない戦いは一気にあらゆる物を疲弊させていく。まだ時間にして10分も経過していない。既にシエルの顔や首には水を浴びせたかと思える程に汗が流れていた。
何時もであれば身体が熱を持つはずのそれは逆に身体を冷え込ませる原因となっていた。当時に比べ、格段に今の方が体術が向上しているはず。そんな事を考えた事すら過去に置き去りになっていた。
余計な事すら考える余裕も無い。僅かな時間に何度倒されたのかすら数える事も出来ないまま時間だけが過ぎ去っていた。
「少しは蟠りがほぐれたんじゃないのか?」
無明の言葉にシエルは珍しく反応する事もできず荒い呼吸だけを繰り返していた。既に無酸素運動の限界を超えた動きは身体に大きな制限をかけているからなのか、言葉を発する余裕さえ奪い去っていた。
「何を考えているかは知らんが、自分がこれまでやってきた行動は目に見えない部分にまで影響をもたらす。それが良かれ悪かれだ。自分の過去をどう捉えるかではなく、むしろ、それすらも経験にする方が建設的だろうな。精神が及ぼす影響は案外と馬鹿には出来ん。今よりも更なる精進をすると言いだろう。ナオヤ、シエルの事は任せた」
シエルが言葉を発する事すら出来ない事を確信した上で無明はそのまま道場を去っていた。本来であれば悔しい気持ちもあったのかもしれない。しかし、ここまで完膚なきまでにされたからなのか、シエルは先程の言葉を改めて考えていた。自分の過去はそれほど無意味な物だったのだろうか。キッカケはリヴィの演舞と弥生の言葉。
自分の意志でやった物であれば確実に血肉になるのは間違い無いが、自分の場合はそれとは正反対。確かに嫌々やっていた訳では無い勝ったが、それでも本当に自分の為なのかと言われた際に疑問だけが残されていた。
そんな中での無明の言葉は自分の考えが見透かされたかの様にも思えていた。厳しい戦いではあったが、どこか清々しい。無意識の内にシエルの顔には笑みが零れていた。
「また随分とやらかした物だな」
「なに。仮ではあるが弟弟子のフォローみたいな物だ。それに彼奴のやり方は人を選ぶ。実際にシエルとてどこか心が壊れたからこそ生きていたんだろうな」
無明とシエルの戦いをまるで見ていたかの様にツバキは無明に確認していた。ツバキとて身重であっても自身の能力が低下した訳では無い。明らかに周囲に巻き散らした殺気に近い覇気は嫌が応にも周囲にまで伝播でしている。
確実に今日の子供達の訓練は変わるだろう。そんな取り止めの無い事を考えていた。
「確かにあれ以来ブラッドも落ち着いて来たのは分かるが、実際にはまだまだだ。もっと厳しくするのも一つの手なんだろうな」
「今はサクヤがやっている以上、ツバキ程厳しくはやれてないだろう。それに、実力が不足していると自覚出来てる分だけ立ち直りは早くなる。何時までも同じ場所に留まる様であれば成長はそこで終わり、その結果その人間は更なる高見を目指す事すら出来なくなるからな」
シエルの悩みを最初から知っていたかの様に無明とツバキは先程までの事を話していた。
明らかな実力差がある場合、余程の事が無ければ倒す事はおろか、攻撃を当てる事も困難になりかねない。今回の件に関しては元々弥生からも話があったからかのか、無明はそれ以上の言葉をかける事を敢えてしなかった。
自分が自分の事を理解出来ないままで戦場に出るとなれば、遅かれ早かれ死と言う結果だけが待つ事になる。自分がやって来た事に無駄など最初から無いと知っているからこそ、他人の力を借りるのではなく己の力だけ気づいてもらった方が本人の為になると思った結果だった。
「確かにそうかもしれんな。只でさえ変異種や感応種に戸惑う事を引き合いに考えるとこのままの停滞は死と同意だろうな」
「何にせよ、後は自分次第だ。俺達がやれる事なんてそう多くはない」
極東に来てそれ程時間が経過した訳では無いが、無明としてもやはりブラッドの戦力は多少なりとも宛てにする部分はあった。最大の要因は感応種の討伐ではあるが、クレイドルとは違った部分で周囲に及ぼす影響は少なからずあった。
既にクレイドルは極東の中でもどこか別格の様な雰囲気を持っているが、ブラッドに関してはまだそこまでの認識は広がっていなかった。
確かにブラッドアーツに代表される力は魅力的にも思えるが、それは以前までの極東であればが前提だった。既にエイジやナオヤとの教導では未だ互角に戦っている姿を見る機会が殆ど無い。それ故に隔絶した実力差があるとは思われていなかった。
ブラッドアーツに頼らずに圧倒出来る実力が目の前にある以上、そこでの停滞は無い。そんな思惑がそこに存在していた。
「やっぱりですか……」
シエルは無明との教導の後、一人温泉へと足を運んでいた。手加減から程遠い戦いは幾ら代謝が良いゴッドイーターと言えどダメージは確実に残る。白くキメ細かい肌には戦闘で付けられた打撃による痣が無数に付けられていた。
一つ一つが急所の付近。あれ程の戦いの中でも手加減された事実は自分の身体が示していた。
「あれ?シエルちゃんもここに……ってどうしたのそれ!」
「これは先程まで無明さんとの教導の結果ですから大丈夫ですよ」
「え……シエルちゃん。まさかとは思うんだけど、やったの?」
「はい。私は正直、足元にも及びませんでしたけど」
シエルの言葉にナナは微妙な表情しか出来なかった。無明がどれ程の戦闘力を持っているのはナナとて知っている。北斗でさえも瞬殺に近いのに、自分が対峙すればどうなるのかは考えるまでも無かった。
暖かい温泉に入ってるにも拘わらずどこか寒気を感じてしまう。それがナナが持っている印象だった。
「でもシエルちゃん。ここに来る前に比べてら随分と表情が明るくなったと思うよ。昨日の晩は少し怖かったから……」
ナナが折角楽しくと誘ったにも拘わらず、自分のせいで気を使わせてしまった事をシエルは悔やんでいた。元はと言えば自分が完全に招いた結果。人の機微に敏いナナからすれば尚更なのかもしれない。そんな申し訳ないと感じたからなのか、シエルは少しだけ困っていた。
「気を使わせた様ですみません。次回はきっと楽しめると思いますから」
「じゃあさ、第2回も近いうちに開催しようよ。その時は他の人も誘って!」
「そうですね。もっと多い方がきっと楽しいでしょうね」
「じゃあ、早速皆に確認しないと」
ナナは既に開催される前提で物事を考えていた。
楽しく会食するのは何も問題無いが、少しだけ気になる部分があった。以前にアリサとリッカが一緒に居た際に、随分と赤裸々な話になった記憶が僅かにあった。シエルも関心が無い訳では無い。ただこれまで話をする機会が無かっただけだった。
そんな気持ちを察したのか、それとも何も考えていないのか、ナナは楽しく話を続けている。少しだけ先の約束にシエルもまた楽しみを一つ覚えていた。