「そんな話、私聞いてません!何でそうなるんですか!」
「アリサ君の気持ちは分からないでもないんだが、これは今後の極東支部の事を考えれば、ある意味では当然の措置なんだよ」
少しばかり落ち着き始めた極東支部に、突如としてこれまでに聞いた事が無い発表がされていた。対象者は尉官級、若しくはそれに準じた人間。それに関しては拒否権は無く、強制的に参加する事が通達されていた。当初は何の事なのか誰も理解する事は出来なかったが、内容が改めて発表された事によってアリサはこの発案者の可能性が高いと思われる榊の下へと抗議の為に行動した結果だった。
静かなはずの支部長室にアリサの怒声が響き渡る。毎度の事だと考えていたからなのか、それともこの窮地を脱出する為だと判断したからなのか、榊のフォローとばかりに弥生が改めて説明を始めていた。
「アリサちゃんの気持ちは分からないでも無いんだけど、今の極東支部を取り巻く環境を考えるとこれはある意味仕方ない事なの」
「ですが……それとこれは……」
「本当の事を言えば、これまでやってこなかったここにも問題はあるのよ。知っての通り、極東支部には事実上他の支部や、対外的な関係者ですら閲覧が禁止されている事項が山の様にあるのは知ってるわよね?」
「それは……そうですが……」
弥生の言葉に先程までのアリサの勢いは既に失いつつあった。極東支部には幾つかの秘匿事項が一部の関係者を除き閲覧禁止となっている事実が存在していおり、またその許可を取る事も困難になっている。世界有数の激戦区の中でも終末捕喰やクーデターと、色々な意味で話題には事欠かない事実は当事者でもあるアリサもよく理解していた。
情報管理局が来た際にも、フェルドマンですら閲覧出来ない事実が発覚した為に一時期はかなり緊張感が高まっていた。勿論、現場サイドに当時居たアリサはその事実を知らないが、弥生が言う所の閲覧禁止事項がフェンリルそのものを転覆させる程の威力がある事を理解してた。
「エイジの事なら大丈夫だとは思うわ。何だかんだでそれなりに派兵していた訳だし、その意味も理解してるはずだから」
「それなら良いですけど……」
「ちょっとだけ厳しい事を言っても良いかしら?」
「何でしょうか?」
完全に納得していなと判断したのか、弥生は改めてアリサに今回の意義について話す必要があると判断していた。確かに内容から考えると、アリサの立場からすれば決して気分の良い物では無いのは間違い無い。しかし、個人と支部を天秤に乗せる訳にはいかず、改めて説明する事を決めていた。
先程までと打って変わって弥生の雰囲気が大きく変わっていた。何時もの様なお姉さん的な雰囲気はそこにはなく、無明からの指示を受ける姿がそこにあった。アリサも弥生の本来の仕事が何なのかは薄々理解はしていたが、面と向かってハッキリと言われた事はない。だからこそ、今の弥生の表情にアリサは無意識の内に呑まれていた。
「今回の件に関しては仮にそれが原因で破綻したとしても、お互いに問題があるからその結果になるだけの話。貴女が心配する気持ちがあってもエイジが何を考えているのかは別の話になるの。事実、クレイドルやブラッドは機密の塊でもある為に、確実に狙われる事実はあるわ。それが嫌なら確実に繋ぎとめる努力はしなさい」
穏やかな中にどこか剣呑とした雰囲気はアリサが冷や汗をかく原因となっていた。何時もの雰囲気はそこに無く、目の前に居る弥生はこれまでにアリサが接してきた人物を同じなのかすら疑いたくなっていた。弥生の言ってる事に間違いはない。今のアリサにとって弥生と対峙するのはアラガミを討伐するよりも厳しい状況となっていた。
クレイドルは機密情報の塊であると同時に、篭絡する事が出来ればそれはかなりの戦力を引き込める事になる。今まで当たり前だと思われた事実がそうでないとなれば、多大なダメージは当然の如く予想出来る物だった。
「エイジに関して言えば、問題無いと思うけどね。だったら一度確認してみたらどう?」
先程までの剣呑として雰囲気は既になく、何時もの弥生に戻っていた。情報がどれ程重要なのかだけではない。この時代に置いての人材は人財であり、ましてやそれが、かなりの実力者ともなればそれなりに期待できる部分もある。
アラガミとは違い、人間の感情はそう簡単に測る事が出来ない以上、それはある意味では仕方ない事だった。
「あの、少し聞きたい事があるんですが……」
「聞きたい事?」
弥生に言われた訳では無いが、先ほどの言葉にはどこか含みがあった。確かに信じていはいるが、派兵先での詳細については殆ど知らされていない。ましてや、あれが近日中に実施されるとなれば気にならないと言えば嘘になる。だからこそ、本当の意味で知りたいと考えていた。
「はい。例の件で、今日榊博士の所に行った際に弥生さんから言われたんですが、本部でも可能性はあるって事だったんで聞きたいんですけど……」
「本部?」
何時もの雰囲気とは確実に違うが、それが何を意味するのかがエイジには理解出来なかった。しかし、弥生の名前と本部が出た以上、考えられるのは何かしらの任務絡みの可能性が高い。ましてや弥生の本当の任務が何なのかを理解しているからこそ、今のアリサが聞きたい事が何なのかは何となく想像が付いていた。
「何で、僕なんですか?」
「今回の件に関しては仕方ない部分もある。これはある意味では見栄の問題に変わりないが、それでも油断する事が出来ないのもまた事実だ。今回の件は特殊なケースではあるが、通常のミッションと同じだと思ってくれ」
無明の言葉にエイジはただ驚くだけだった。本部には接触禁忌種の討伐の為に派兵している事実があるからこそ、今では備える為に通常のミッションにも出動している。しかし、今回言い渡されたそれは明らかにこれまでの物とは趣旨が異なっていた。
普段のエイジの主戦場はアラガミの咆哮漂う生死の狭間の様な場所でしかない。しかし、今回はそんな命の危険はどこにも無く、何時もの様な制服からタキシードへと着替える必要があった。用意されたそれに着替えると、これまでに着た事が無かったからなのか、どこか首回りが苦しく感じる。実際には締まっていないが、それでもこれまで着た事が無い服装にどこか窮屈さを感じ取っていた。
「今回は極東支部の護衛としての役割だ。会場に武器の持ち込みは禁止されている。だからこそ、他の支部も戦闘力の高い者を派遣しているんだ」
「それならリンドウさんでも」
「リンドウの右腕がああだからな。現場では問題無くても会場の中ではそんな事は一切通用しない。事実上の社交界の戦場に危険な空気を持たらす訳にはいかないんだ」
無明の言葉にエイジはそれ以上の事は何も言えなかった。リンドウの右腕はアラガミ化した影響で、仰々しいプロテクターで覆い隠している。何も知らない人間が見れば驚くのは当然だった。今でこそ見慣れたものの、ここに来た当時は恐れを含んだ視線が終始飛び交っていた。
現場でさえもそんな状態ならば、社交場での影響は想像すら出来ない。忌避感だけが先に出る可能性が高く、その結果として極東支部の見識を疑われる様な真似が出来ないとの判断がそこに存在していた。
「って事で、俺は会場の外の警備だ。頼んだぞ」
人ごとの様に言ったリンドウは既に気楽になっているのか、そのまま会場の外へと歩いていた。会場内の空気は自分が知っているそれとは明らかに違っている。今のエイジにとっては、ある意味拷問にも感じる空気だった。
「あの、今回の護衛の方ですよね?」
「はい。今回の護衛に就かせて頂いています」
会場には極東支部ではありえない程の優雅な空間と時間が存在していた。事前に聞かされた事実ではあったが、限りない贅を尽くした料理や飲み物は支部の事情など無関係だとばかりに用意されている。
自身でも作るからこそ分かるその料理のレベルはコストだけ考えても一つの支部の1週間分の食料に匹敵する程の内容だった。贅沢な食材に、見栄えだけを優先するのか、手に付かないままに食べる事は困難だと判断された料理は確実に廃棄される。幾ら他の支部に比べれれば多少は裕福な部分がある極東支部だとしても、目の前に行われる内容には憤りを感じていた。
そんな中で一人の女性がエイジに声をかけていた。見た感じ二十代前半か、十代後半の様にも見える。肩口が大きく開き、豊かな膨らみを主張するドレスはどこか扇情的にも見えていた。先程までの感情をおくびにも出さず、エイジは目の前に来た女性に返事をしていた。恐らくは今回の参加者の一人か、若しくは身内が参加しているのは間違いない。
普通の人間がここに足を踏み入れる事は確実に無かった。
「良かった。参加者の方だったらどうしようかと思ったので」
「こんな服装ですが、普段はアラガミ相手の任務ですから。正直、場違いなのは理解してます」
護衛が参加者と話をするのは本来であれば禁止されている。他の護衛者だけでなくエイジ自身もそれは理解している為に、会話を続けるつもりは毛頭なかった。アルコールが入っているからなのか、僅かに赤い頬と同時に鎖骨が見える首筋までもがほんのりと赤くなっていた。
酔った人間程面倒なのは今に始まった事では無く、エイジに取っても面倒事以外の何物でも無かった。
「そんな事ありませんよ。この場に居るよりも良く似合ってます。失礼ですが、階級はいかほどですか?」
周囲の視線は更に厳しさを増していた。ここに集まった全員は始まる直後に召集された為に誰が誰なのかすら分からないままだった。事実エイジも隣で厳しい視線を投げかけている人物がどこの支部の誰なのかすら分かっていない。只でさえ酔っている人間の面倒を避けたいと考えているにも関わらず、目の前の女性はそんな事すら考えてもいなかった。
「極東支部所属の如月エイジです。階級は中尉になります」
「まぁ!貴方があの如月中尉でしたの?そう言えば広報誌で拝見しました」
女性の言葉に厳しい視線を投げつけた人間は一斉に雰囲気が変わっていた。極東支部の中尉は他の支部では佐官級の実力者でもあり、ましてや如月性の中尉は極東の鬼とまで言われている人物。
まさかこんな穏やかな人間だとは誰も想像していなかったのか、既に視線は驚愕に包まれていた。
「そうでしたか。今は神機使いではなくただの護衛ですから。そろそろ我々との会話を止めて元に戻られては如何でしょうか?彼方の方の視線が随分と厳しい様ですので」
エイジの視界の端には連れの男性と思われる人物がこちらを睨みつけていた。関係性が何なのかは知りたいとは思わないが、不躾な視線を投げつけられれば気持ちの良い物ではない。まずはこの女性を何とかこの場から離す事だけに専念していた。
「あら……折角お話出来たと思いましたのに……では御機嫌よう」
そう言いながら目の前の女性は自分に付けられていた花をエイジの胸ポケットへと差し込んでいく。元々貴族の作法など知らないエイジからすれば、それ以上の意味は理解出来なかった。
それが何を意味するのかを知ったのは、パーティーが終わって無明から聞かされた時だった。
「って事はあったかな」
当時の事を思い出したのか、エイジは何の感情も湧かないままにアリサにその事実を話していた。仮にそれがどんな意味を持っていたとしてもそれ以上知る必要は無い。そんな考えがあったからこそ、アリサに対して事実だけを述べていた。
「あの……それって誘われたんじゃないんです?」
「それは無いよ。完全に酔ってたみたいだし、他にも護衛は沢山居たんだ。冗談半分じゃないの?」
エイジから聞かされた事実を初めて知ったアリサは不意に弥生が言った言葉を思い出してた。命令が出たのは榊からだが、明らかにその提案をしたのは弥生である事に間違いは無い。
クレイドルの任務が一息ついた際に送られた指示に書かれていたのは、特定の対象者による教導内容。よりにもよってハニートラップの教導だった。
極東支部は他の支部とは違い、年齢が全体的に若い人間が多く、また年齢に関係ないと言わんばかりに尉官級がそれなりに居る。これがそれなりに年齢層が高ければ誰かしらの指示や指導を受ける事はあるかもしれないが、ここではそんな人物は殆ど居ない。
精々がリンドウかハルオミ位だが、あの2人がまともな事を言う可能性があるかと言えば首を傾げる事しか出来ない。出された指示と対象となる人物が自分の夫である以上、アリサの心配はある意味当然の事でもあった。
「エイジ。少しは女心を理解した方が良いかも知れませんね」
「アリサ、まさかとは思うけど、疑ってるの?」
「そんなんじゃありません!」
エイジの言葉にアリサは僅かに動揺していた。ここだけでなく本部でもそんな状態であれば、他の支部ではどうなっているのだろうか?そんな取り止めの無い疑問が次々と沸き起こる。お互いが今の関係になってからはそんな事は無かったが、長期派兵の内容までは分からない。
確かに今回の件も何となく聞いた記憶はあったが、当時と今は状況が違う。しかし、一度湧いた疑念はそう簡単に払拭できる様な物では無かった。
「どうしたの?喧嘩でもしたの?」
何時もとは違う表情を察知したのはサクヤだった。書類の整理と教導の一部が終わったからとラウンジに足を運ぶと、どこか暗い表情を浮かべたアリサが目の前にある空になったグラスのストローをつつきながら座っていた。
「そんなんじゃ無いんですけど……」
「だったらどうしてそんな顔してるのかしら?」
アリサの浮かない表情を見ながらサクヤはやんわりとムツミに視線を動かしていた。しかし、ムツミもアリサがここに来てから今の状態である為に理由が分からない。サクヤの視線に首を横に振る事しか出来なかった。
「ああ。例のあれの事?リンドウからも聞いた事あるかな。確か当時は何かと大変だったって聞いてるわよ」
「そうだったんですか?」
「ええ。あの後は大変だったって。特にリンドウが、じゃなくてエイジがって事だけどね」
「じゃあ、やっぱり……」
「念の為に言っておくけど、エイジはそんな事はしてないわよ。とにかく逃げる事で大変だったらしいから」
当時の状況を思い出したのかサクヤは笑顔のままだった。本部の派兵の際にあった護衛の任務はリンドウも時にはタキシードを着る事があった。もちろん腕の事がある為にコートを着用していたが、それでも堅苦しいと言っていた内容だった。
当時の事はリンドウもしっかりと覚えていたからなのか、面白半分に話をしていたが、結果的には色事に関する事実は無かった。
接触禁忌種の専門ミッションは本部に滞在する時間を確実に奪い去る。アリサは忘れているのかもしれないが、通信の殆どは自室ではなく指揮車からだった。となれば結果は考えるまでも無いはずだった。何時もの様に冷静になれば直ぐに分かるはずの内容ではあるが、今のアリサにはそんな簡単な事すら頭の中に無かった。
既に弥生からも通達が来ている為にサクヤもハニートラップの教導の事は理解している。当事者にとっては堪った物ではないが、冷静に考えると戦う事に関しては全力ではあるが、それ以外の事になると脇が甘いのもまた事実だった。
当時は分からなかったが、今ならそれがどんな意味なのか理解出来る。どんな事情があるにせよ、ここは一肌脱いだ方が良さそうだとサクヤは考えていた。