普段であれば自室の水音を聞く機会はそう珍しくはない。それは自分が利用するから当然ではあるが、残念ながらこの部屋の主は水場ではなく、ベッドに座っていた。
そうなれば当然、他の誰かが利用している事になるが、それもまたこの部屋ではある意味ではよくあるはずの音。しかしながら問題なのはその音の発生源だった。
元々今回の件に関しては寝耳に水でしかなかった。しかし、今の支部の事情を考えればある意味では仕方ないとさえ考えていた。
本来であれば回避する事も可能だったはず。にも拘わらずそれを受け入れた以上、ある意味では腹を括るしか無かった。突然の出来事に未だにどう反応すれば良いのか判断する事が出来ない。
元々永続的な話ではなく、短期だった事も影響したからなのか、安易に返事をしただけに過ぎなかった。しかし、今の現状でそれが本当になると話は大きく変わる。
コウタとて、もう何も知らない子供では無い。だからなのか、コウタは一人ベッドの上で悶々と悩んでいた。
「あの……もう良いかな?」
「へ…あ、ああ……大丈夫だよ」
ガラッと空いた扉の向こうに居たのは、先程までシャワーを浴びていたマルグリット。まだ髪に少しだけ水分が残っていたからなのか、仄かに香る柑橘系の香りはコウタを理性を試そうとしている様にも思えていた。
「でも、本当に良かったの?コウタだったら実家も近いんだし……」
「いや。マルグリットが気にする必要は無いよ。別に俺達だけじゃないみたいだから」
マルグリットもまたコウタが座っているベッドの横に腰を下ろしたからなのか、その重みで僅かに軋んでいた。本来であればマルグリットが言う様にコウタにも他の手段があったのは間違いなかった。しかし、打診された際に、そんな考えは既に無かった。
確かに多少の下心が無かったかと言えば嘘になる。しかし、そんなコウタの考えなど最初から無かったかの様にここまで手回しが早かったのは想定外の事でしかない。今になって当時の自分が何でそう言ったのかを問い詰めたいとさえ考えていた。
「コウタがあれだったら、私は別に屋敷の方でも良いんだけど……」
「お、俺なら大丈夫だから…マルグリットが気にする事は無いよ」
「そう………」
そう言いながらもコウタもまた内心は緊張に溢れているからなのか、心臓の音がやけに煩く感じている。実際にマルグリットがコウタの部屋を訪れるのは珍しい事では無かった。
お互い普段であれば気軽に話しをするものの、今になってからはそれすらも憚られる。2人の間に流れる沈黙は大いに緊張している証でもあった。
「こちらコウタ。対象のアラガミ討伐が完了したんで、帰投の手配をお願いします」
《了解しました。ヘリの手配をしますで暫しお持ちください》
「了解。それまでは素材の回収でもしてるから」
《コウタさん。それと、戻りましたら支部室までお願いします》
「支部長室……榊博士からだよね?」
《そうですね。詳細については不明ですが、帰投後直ぐに来て欲しいとの事でしたので、帰投後に直ちに出頭して下さい。その際に副隊長でもあるマルグリットさんも同席して欲しいとの事です》
討伐を終えたばかりだからなのか、通信機から聞こえるテルオミの言葉にコウタは内心疑問を持っていた。ここ最近のミッションでも大きな被害も無ければミスも無い。
だからと言ってテルオミの声には焦りすら感じられない。事前に何らかの情報でもあれば良かったが、それすらも感じられなかった。
未だ横たわるアラガミを背後に、コウタは耳朶に届く情報を色々と精査するも、やはり該当する情報は何一つ無いままだった。
「詳しい事は今の時点では分からないって事なんだよね」
《そうなりますね。お疲れの所、申し訳ありませんが》
これ以上は何を言っても判断するだけの材料は無かった。幾らテルオミに話を聞いても、分からない人間同士が話す事に意味は無い。
コウタはそう考えたからなのか、今は全員が合流してから考えるより他無かった。
「って事があってさ。取敢えずは戻ってから直ぐに出頭なんだよ」
「でも、何でしょうね。全く覚えもないですし、コウタが何も聞いていないなら私も知らないですよ」
帰投のヘリの中でもやはり話題は榊の話だった。
既にこの距離からはアナグラの全容が見える。到着の時間を考えれば然程かからないとは思うものの、やはり何を意味しているのか見当すらつかなかった。
今回のミッションは然程厳しい内容では無かった為に、エリナだけでなくエミールもまた外を眺めている。部隊長と副隊長を呼び出すのであれば何らかの意味があるのは間違い無い。
今更何を考えた所で結果的には出たとこ勝負でしかなかった。
「藤木コウタ以下、第1部隊入ります」
「忙しい所済まないね。実は君達に少しだけお願いがあるんだ」
コウタとマルグリットを待ち受けていたのは榊だけでなく弥生とサクヤもだった。
緊迫した空気は漂っていないが、それでもこのメンバーがここに居る時点で何らかの問題が発生している可能性が高い事だけは間違い無い。これまでの様に榊だけや弥生だけなら話はともかく、サクヤまでとなれば事実上の機密に近い物があるのは間違い無かった。
これまでの経験がそうさせているからなのか、コウタだけでなくマルグリットもまた同じく息を飲んで榊の言葉を待っていた。
「って事なんだけど、頼めるかい?」
榊の細い目が更に細くなったからなのか、コウタは暫しどうした物かと考えていた。
今回の内容は確かに機密ではあるが、それと今直面している問題とはどこか筋違いの様にも感じる。事実、隣のマルグリットもまたどうすれば良いのかを判断し兼ねているからなのか、どこか思案顔だった。
「それは構いませんが、緊急時の時には何かと問題もあるんじゃ……」
「その件に関しては一時的な物だから、君が気にするまでもないよ。今はブラッドも特殊な任務が入っている訳じゃないからね。エイジ君達も常駐しているんだ。多少の時間の融通位は何とでも出来るよ」
榊の提案は、近々極東支部に視察が入る為に、一時的に部屋を開けてほしいとの事だった。
元々極東支部でも外部からの来訪者が多くなっている為に、常に居住用の部屋には余裕を持っている。しかし、今回の視察に関しては数はそれ程ではないが、問題なのはその階級だった。
ここアナグラでの部屋は一般用とベテラン用、妻帯者用と幾つかの分類に分かれている。通常のゴッドイーターの受け入れだけであれば一般用に放り込めば問題無いが、今回来るのは佐官級の人間と一般人、その護衛の人間だった。
護衛は一般用でも問題ないが、佐官級の人間を宿泊させるためには最悪でもベテラン用の部屋を提供する必要がある。しかし、ベテラン用の部屋も実際にはそう多くは無い。
今回のゲストの中でも佐官級の人間と一般人はどうしてもベテラン用の部屋を利用する必要があった。当然来る人間が事実上のVIPに近い性質を持っている。
本来であればコウタには全く関係無いはずの話。しかし、今の現状では妻帯者用を動かすよりも、身軽な人間に一時的に開けて貰う事で凌ぐ以外に無かった。
「コウタ君。無理にって話じゃないの。私としてもマルグリットちゃんなら屋敷でも構わないし、実際には部屋にも余裕があるから特段の問題は無いのよ。それか、コウタ君が一時的に実家に行っても距離的には問題無いはずだから」
「ですが……部隊を率いる立場で考えると、流石にそれもどうかと……」
弥生の言葉にコウタの反論は尤もだった。そもそも一般隊員ではなく部隊長が緊急時に指揮が執れないのは問題しかない。
確かにクレイドルやブラッドが居る為に緊急時における行動はそれ程気にする必要性は無い。しかし、万が一の際にはやはり自分達の都合だけを優先する事は不可能でしかなかった。
これまでにも何度も緊急時の襲撃があった事はコウタが一番理解している。弥生の言葉も分からないでは無いが、それでもやはり譲れない部分が多分にあった。
「だったら2人一緒にってどう?お互い付き合ってそれなりなんだし、別に問題無いわよね?」
「そ、それって………」
特大の爆弾をサクヤ放り込まれたからなのか、お互いが顔を見た途端固まっていた。
確かに付き合っているのは間違いないが、まさかサクヤからそんな事を言われるとは思っても居なかった。
お互いの部屋に入る事はあっても時間になれば自分達の部屋に戻る。そんな当たり前の日常があっさりと崩れる内容だった。
そんなサクヤからの言葉に2人からは反論の言葉が何も出ない。そんな状況を見たからなのか、弥生は内心では面白い事を思いついたものの、表面上は穏やかな状態にして2人に迫っていた。
「その件なら気にする必要は無いのよ。期間も1週間程だし、今回の査察は特段問題になる事では無いの。嫌なら無理にとは言わないけど。マルグリットちゃんの部屋の準備は直ぐに出来るから」
コウタとマルグリットに話しながらも弥生は少しづつお互いの意志を誘導していた。元々今回の視察が何なのかは事前に聞いているからなのか、弥生としても気にする程の内容では無かった。
一部の技術交流と、それらに関する契約の確認。本来であれば極東支部に来る必要はなかったが、相手の希望を聞いたが故の結果だった。
多少なりとも本部での発言権があるならば、何かをするにも障害は少なくするにこした事は無い。それがコウタとマルグリットの件を抜きにした本当の所だった。
「ちょっと待ってください。一つ確認したいんですけど、部屋はどっちの方を使用するんですか?」
「今の状況だとコウタ君の部屋は生活する分には問題ないのよ。本当の事を言えば、マルグリットちゃんの部屋も今の階級を考えれば合わないから、今回の件は引っ越しのついでみたいに考えてくれると助かるわね」
コウタの質問に弥生は内心ニヤリと笑いたい気分だった。そう考え居ている時点で既に一緒に生活するのが前提になっている。
元々今回の件が終われば一度内装のクリーニングをしてそのまま引っ越しを予定していたのは紛れもない事実。態々誤魔化す必要性が無いからなのか、その点に関しては弥生だけでなくサクヤもまた同じだった。
お互い確認した訳では無いが、それぞれが同じ事を考えているからなのか、サクヤもまた弥生と同じ心境だった。
「私の時もリンドウが戻って来てからは一緒だったでしょ。今回もそれと同じよ。無理にって訳じゃないんだけど」
「…言われてみれば確かに」
リンドウが戻って来て早々の事をコウタは思い出していた。
事実上のMIA認定からKIAに変更される際にヨハネスの計画を阻止し、その後戻った際には既にリンドウの部屋は無くなっている。
その時は事実上の特例に近い内容でサクヤとリンドウは一緒の部屋だった。もちろん、当時の事はコウタも記憶している。だからなのか、今回の件も同じ様に考えていた。
「じゃぁ、決まりで良いかしら?」
「俺は問題無いです」
「じゃぁ、直ぐに手配しておくわね」
当然の様な流れでコウタとサクヤの話は終了していた。しかし、今回の件に関してまだマルグリットの意見は何も聞いていない。既に手配をする為なのか、サクヤはタブレットで指示を出している一方、弥生もまた同じ様に作業を始めていた。
「ねぇ、コウタ。私はこれからどこに引っ越すの?」
「あ………」
コウタは思いっきり失念していた。弥生とサクヤの言葉に納得した為にそのまま話は進んでいたが、肝心のマルグリットに関しては何の発言もしていなかった。
既に手続きが進められているからなのか、サクヤと弥生もタブレットを操作している。一方の榊は既に用件を伝えた事で部屋から退出していたからなのか、この場には居なかった。
「コウタ。手続きは終わったから、この後直ぐにお願いね」
「あの…サクヤさん。もうですか?って因みにマルグリットの事は……」
「あれ?一緒の部屋よね」
「その話の前提でやってたんだけど、何かあったかしら?」
サクヤと弥生の言葉にコウタだけでなくマルグリットもまた絶句するしかなかった。
確かにコウタの話の流れだけを聞けばそれが前提となっている。しかし、その一方で自分に意見が求められなかった事に少し違和感があった。
元々屋敷でも部屋を用意されるのであれば特段問題無い。マルグリットの考えはその程度でしかなかった。
そんな中での2人の言葉にマルグリットもまた改めて考えていた。確かにコウタと一緒でも良いとは思うが、まさかこんな性急な話になるとは夢にも思っていない。
突拍子も無いままに進んでいたからなのか、どこか他人事の様にも感じていた。
「へ~コウタがですか。また随分と大胆な事しましたね。でも、嫌じゃないんですよね?」
「まぁ、そうなんですど……」
コウタ達の部屋割の変更はどこの誰かが意図的にリークしたからなのか、既にラウンジでは待ち構えていたかの様にアリサだけでなくリッカとヒバリも待っていた。
既に何か言いたげな視線の意図はマルグリットにも理解出来る。遅かれ早かれヒバリ辺りはその手の手続きをしている為に、確実に聞かれる事は間違いない。
女は度胸。誰かが言った言葉では無いが、今のマルグリットにとってはそんなイメージが脳内を過っていた。
「でもさ、何でそんな話が急に出てきたの?」
「実はまだオフレコなんですが、近々本部の人間がここに視察に来るらしいんです。で、その関係で居住スペースの確保が必要なんですよ」
「え?だって、まだここって余裕があったよね?」
リッカの疑問は尤もだった。そもそも部屋が不足するなんて話はこれまでに一度も聞いた事が無かった。事実、どんな人間であっても来客用のスペースが常に確保されているのが常であり、今回の様なケースは完全にイレギュラーでしかなかった。
今でこれならば将来的にも同じ様な可能性は当然有り得る。疑問に思いながらもその答えはヒバリが用意していた。
「実はここ最近になって外部からの徴用が一気に増えたんです。例の神機兵の暴走で防衛班も多大な人間を失いましたので……」
そう言うヒバリの表情は少しだけ影を落としていた。
シロガネ型神機兵の暴走は未だにその尾を引き摺る部分が多々あった。
元々少数精鋭を気取っている訳ではないが、どうしても支部以外の防衛にも一定以上の技術水準が求められてしまう。その件があってなのか、自然とゴッドイーターの人員も増加するしかなかった。
サテライトは支部の近くにあるだけではない。アラガミが近寄りにくい場所に建設する為に、どうしてもこちらの戦略からは大きく外れる部分も多々あった。そうなれば常に常駐するメンバーが出てくる。今回の件はそれに問題があった。元々ここの所属であればサテライトへの一時的な移動もお願い出来るが、外部からの徴用となればそうは行かない。
あくまでも彼らはお客さんであって、ここの人員では無い。一時的な人員を動かすにはそれなりの大義名分が必要になっていた。
当然の事ながら極東支部所属の人間を一時的に移動させるしかないが、それもまた困難を極めていた。
簡易メンテナンスが可能になればアナグラに顔を出す機会は自然と薄れていく。だからといって、勝手に部屋を動かす訳にもいかない。その結果、不在がちになりながらも事実上の家主は居るからなのか、部屋割りを勝手に動かす事は出来ないでいた。
当然、その皺寄せはどこかにやってくる。今回は
「でも、サクヤさんも弥生さんも同じ意見なんだよね。だったら何が問題なの?」
「えっと……その……」
当たり前の様にリッカが話したものの、今回のそれはこれまでの人生の中で経験した事が無い物だった。
今のメンバーを見れば独身なのはリッカだけだが、そのリッカも何だかんだと屋敷に顔を出している事はマルグリットも知っている。アリサやヒバリに関しては既に既婚である為に何も言えない。
過去にギースとの付き合いは確かにあったものの、まさかここまで踏み込んだ事は一度も無かった。これまでの生活が一瞬にして逆転する。そんな変化にマルグリットはまだついて行く事が出来ないでいた。
「だって、以前は付き合ってた人居たんだよね?だったらそんなに問題にする事は無いんじゃないの?」
リッカの言葉にマルグリットは改めて当時の事を思い出していた。
まだ極東に来た当初はゴッドーターではなく、リッカと同じく整備士として来ていた。
しかし、当時のフライアに助けを求めてからの状況は一転していた。整備から実戦の場への変更。
当時の事を今さら悔やむ気持ちは毛頭無いし、ギースに対しての感情も全くと言って良い程に無い。冷徹と言われればそれまでだが、既に過去を振り返るには余りにもここに来ての生活が濃すぎていた。
屋敷での戦闘教導から始まるそれは、これまでに何一つ経験した事が無い物。料理程度ならまだしも、失われつつある文化の継承や部隊の副隊長などやるべき事は多岐に渡る。
コウタとの考えを優先すればする程過去の物は消え去っていた。
「あの、参考に聞きたいんですけど、皆さんは初めて一緒に生活した時ってどうったんだですか?」
「…………」
「…………」
「…………」
マルグリットの言葉に初めて3人は固まっていた。どうやら悩んでいるのは嫌な気持ちではなく、どうやって過ごしたかの一点だけ。
しかも、それに答えるとなれば自分達の日常を公開する事になる。先程までの優越とした表情はなく、気が付けばお互いが牽制している様にも見える。
だからなのか、マルグリットを除く3人は珍しく三竦みの状態になっていた。
「やっぱり、ここは既婚者の2人に聞いた方が早いと思うんだけど……」
「それならやっぱりこの中で一番早かったアリサさんの方が……」
「え~っと。私よりもここは………」
2人の視線は既にアリサへと向けられていた。気が付けば既にアリサに退路は無かった。
2人の視線だけでなく、マルグリットもまた同じ事を考えていたからなのか、どこか目が輝いている様に見ている。アリサは少しだけ溜息を吐く以外に何も出来なかった。