夏の強い日差しに目を細めながら、一人の男が家の縁側に佇んでいた。
近くに海があるらしく、さざ波の音が潮風とともに時折聞こえてくる。
男の目元にはふかい皺が刻まれ、それが男の年齢を表していた。おそらく五十代半ばに差し掛かっているだろう。男の名は森重長一郎といった。とある藩で勘定方を勤めたが、すでに家督を息子にゆずって、隠居した身である。
そして、今は町の子どもたち相手に学問を教える寺子屋を開いていた。
その授業の準備をし終わり、子どもたちが来る間しばしの休憩を取っていたところであった。
藩校に通っていたころは剣の腕前もそれなりにあり、今でも鍛錬を怠っているわけではないが、寄る年波には勝てず、体力が落ちてしまっている。
やれやれ、ずいぶんと年をとったものだ、とそんな自分の身体の様子に苦笑して、長一郎は立ち上がった。
準備がしっかりとできているか最後に確認する。そうして四半時ほどたった頃、表が少し騒がしくなってきた。子どもたちがやってきたのだろう。
「先生、こんにちは!」
そう元気な声がして、子どもたちが入ってきた。
「さて、今日はここまでだ」
授業を終え、子どもたちもそれぞれ、向き合っていた床机から離れ、仲の良い者同士で固まって帰る準備を始めた。それを見て、長一郎も立ち上がると、幾人かの子どもたちが駆け寄ってきた。
「先生、最近噂になっていることを知っていますか?」
「ん、どのような噂だい?」
ここに手習いに来ている子どもたちは武士の子どもが多く、それなりの礼儀作法を身につけているが、まだ子どもである。自分達が知ったことを誰かに話したくて仕方ないのだろう。嬉しげに語りかけてくる。
「なんでもこの近くの浜辺に夜、でるらしいのです」
「ほお、なにがでるのかね」
長一郎は何がでるのか、全く分からないという表情で聞き返す。こういう流れで、でてくるものと言えば昔から相場が決まっているが、子どもの話すことにのるのも大人の役目である。
「決まってるじゃないですか、先生!幽霊ですよ」
そこまで言うと今まで話していた子の、隣の子も話し始めた。
「なんでも女の子の幽霊だそうですよ。それで浜辺で毎日夜になるとすすり泣くとか」
「違うよ、老人の幽霊だよ」
どうやら幽霊の噂は一つではないらしく、その場で子どもたちが、幽霊の噂について議論を始め、先ほどまで帰ろうとしていた子どもまで議論に加わり始め、だんだんと騒がしくなってきた。
これ以上騒がしくなるとまずいと思い、長一郎が止めに入る。
「こらこら、たかが噂一つで、そこまで熱くなる必要も無いだろう。それに、そろそろ暗くなる頃合いだ、早く帰りなさい」
もう既に日が暮れかかっており、夕陽が窓から差し込んできている。
すると話に盛り上がっていた子どもたちも、それに気づき、皆、口々に別れの言葉をつげ、急いで帰っていった。
「しかし、幽霊か」
長一郎も若い頃に、友達連中と肝試しとして幽霊がでると噂の場所に行ったものである。結局なにも見つからなかったが。
そうして昔を思い出して、片付けをした。
片付けをし終わった、長一郎は休んでいると、もしかすると子どもが浜に行くかもしれない、と思った。
好奇心旺盛な子どもたちである。幽霊の正体を確かめようとする可能性がある。
真夜中に子どもたちだけでは、なにか起こるかもしれない。そう思った長一郎は念のため脇差しを腰に差し、出かけた。
浜辺についた長一郎は、しばらく浜辺を歩き回り、特に誰もいないことを確認すると、地面に腰を下ろして休んだ。
「しかし、酒でも持ってきてくれば良かったな」
そう長一郎は呟いた。
空には綺麗な満月がかかっていて、月見酒にはもってこいである。しかし残念ながら酒はないので、名残惜しく思いながらも立ち上がると、少し離れている所の娘が立っているのを見つけた。
先ほど見たときにはいなかったと思ったが、月を見ていたときに来たのだろう、と自分の中で納得した。見ると十一、二歳のようである。
しかし、もう深夜といっていい刻限である。なにか理由があって来たにしても、早く帰りなさいと注意しようと思い、娘に近づいた。
だが近づくにつれて、なぜか娘に違和感を覚え始めた。相手はまだ幼い娘である。なのになぜこんな違和感がするのだろうと、自分自身分からず、その違和感を振り払うように首を振る。
すると、こちらの気配に気付いたのだろう、娘がこちらに顔を向けた。
その顔を見たとき、長一郎の体が固まった。
娘の顔は端整に整っていたが、その顔はどこか儚げで、悲しんでいるかのようである。だが、それによってその幼気な姿から、艶やかさが醸し出されていた。
しかし、長一郎はその容姿に見惚れた訳ではない。
これは、この世のものではない、という感覚にひたすら襲われていた。
娘にそれを示すような印はないが、体の奥底から、娘がここに相容れぬものである、と告げていた。
「お前は何者だ!」
そう言いつつ、長一郎は腰の脇差しに手をかける。
「⋯」
娘はその様子を見ても、ただ寂しげにに佇んでいるだけである。
「答えよ!」
今度は怒気もいくらか含んだ声で長一郎は叫んだ。
娘はそれにも怯まずただ佇んでいたが、やがて、口を開きなにかを呟いた。それは、娘との間に膜があるかのように、かすかにしか聞こえず、娘が何を言っているのかは分からなかったが、なにか訴えかけているかのようだった。
だが、今まで対峙したこのない、正体不明の存在と対面し、恐怖が極限にまで高まっていた長一郎にとって、それは、こちらを呪う言葉のように聞こえていた。
気付いたときは、脇差しを鞘から引き抜き、娘に斬りかかっていた。
たとえ、相手がどんなモノであろうとも、見た目は幼い娘であり、それがただの雰囲気の変わった娘である可能性もまだあ少なからずあった。
慌てて刀を止めようとするが、そのときには刀は娘の頭の一寸ほどにまで迫ってしまっていた。そのまま刀が娘の頭から切り裂こうとしときである。
娘がふっと、まるで元からその場にはいなかったかのように姿を消した。娘を切り裂くはずだった刀は、そのままの勢いでやわらかい砂へと、ずぶり、と音をたてて食い込んでいった。
しばらくの間、長一郎は娘が消えた場所を、ただ呆然と、立ちすくんでいた。
次の日の朝、長一郎は自室で渋い顔をしていた。
結局あれはなんだったのだろうかと、浜から帰ってきた後考え続けたが、答えはでないままである。もしかしたら、ただ狐狸の類に化かされただけかもしれないとも、考え始めていた。
しばらく考え込んでいた長一郎は、急に顔を上げると立ち上がり、家の奥に「少し出かけてくる」と声をかけ、出かけていった。
四半時ほど歩いた長一郎はつぶれかけ、貧相な様子の寺の前に立っていた。まわりは木で囲まれているが、海が近くにあるので波の音と潮の匂いが風に乗ってやってきている。
長一郎は右手に途中で買った酒がぶら下げながら、その破れ寺同然の建物に入っていった。
寺の中は見た目に反してそれなりに片付けられていたが、いくらか埃臭かった。
「おい、いるか」
その中に入りながら長一郎が呼びかけるが、返事がないので、何度か呼びかけていると、奧から足音が聞こえてきた。
「なんじゃ、うっさいのう。人が気持ちよく昼寝しておったというに」
ぶつくさと呟きながら出てきたのは、長く白い顎髭をたくわえ、所々、つぎはぎの見える袈裟を着た老僧である。
「長一郎だ。久方ぶりだな、蓮命」
「ああ、お主か、まあ確かに久しぶりだのう。それで何か、儂に用か」
「なに、少し相談したいことがあってな。お前の好きな酒も持ってきた」
「おお、そりゃ、ありがたい。最近、酒にゃ、全く縁がなかったからな。こんな所で立ち話もなんだ、上がってくれ」
この蓮命と呼ばれた僧とは昔からのつきあいであり、長一郎も慣れた様子で、寺の中に入っていく。
「しかし、お主が相談事で来るとは珍しいの」
卓の上で向き合いながら、蓮命が訊ねた。長一郎が今までここに来たのは、友人として訪れたのがほとんどである。相談をしにきたというのは今回が初めてだった。
「どうも私の手には負えそうにないもので、お前の得意分野のようでな」
「ふむ、ということはお主の身内に狐憑きでもでたか?」
蓮命はこんなところでいつもは怠惰に暮らしているのだが、里ではそれなりに有名な妖払いとして名を馳せていて、実際の収入も寺としてのものよりも、そちらの方面が多い。
「いや、私の身内は皆元気だ。実は昨日、妙な目にあってな」
長一郎が昨夜のことについて話している間、蓮命は彼の持ってきた酒を飲みながら話を聞いていたが、話が終わると面倒くさそうな顔をした。
「お主もまた、変なものと出会ったのう」
「まあ、自分でもそう思うが⋯。それで何か分かるか?」
「さあのう。お主が見た娘、ただ狐狸が化けただけかもしれんし、それ以外かもしれん。儂にも分からん」
「そうか⋯」
「だが、ちと気になるし、今夜一緒に浜まで行くか?お主のことだ今日も行くのだろう?」
蓮命が杯に残っていた酒を一息に飲み干して言った。
それを聞いた長一郎はほっとした顔で「頼む」と言った。ここに来たのは蓮命の力を借りるためだったので、それができてそれなりに心の余裕ができたのだろう。口をつけてなかった杯の酒を飲み始めた。
「夜までは時間がある。それまではゆっくりしていけ」
そうして、ひっそりと建っている寺で、酒宴が開かれた。
夜の道を歩きながら長一郎は溜め息を吐いていた。
「しばらく、酒とは縁がなかったのではないのか?」
「ただ飲む時間がなかったじゃ」
あの後、長一郎が持ってきた酒がなくなると、蓮命はどこからか酒を引っ張り出してきて、結局日が沈むまで、酒盛りをすることとなった。
おかげで、もう少し早くにいくはずだったのにすでに真夜中であった。
「そう文句たれるな。ほれ、着いたぞ」
話している間にかなり歩いていたのだろう。すでに娘に会った場所に着いていた。
娘がどこか探していると視界の端に見覚えのある着物が見え、そこを見ると昨日の娘がいた。
とっさに長一郎が刀に手をかけるが、それを蓮命が止める。そして、蓮命が娘に語りかけた。
「お嬢ちゃん、お前さんはどうしてこんなところにおるんじゃ?」
「⋯」
蓮命は娘に優しい口調で問うが、娘は答えない。そうしてしばらく沈黙が続くと娘が何かを呟いた。それはやはり、なにかを訴えかけているようだが、長一郎には聞き取れなかった。しかし、蓮命はなにかを聞き取ったようである。うむ、と頷いた。
それを見た娘はなにかに安堵したかのように微笑み、消えた。
長一郎は驚き、辺りを見回すが、蓮命は落ち着いていた。
「さて、長一郎、お主なにか砂を掘る物はないか?」
「いきなりなんだ。一応、家に帰ればあると思うが」
急に聞かれたことに長一郎は訝しむが、蓮命にせき立てられ、渋々家に道具を取りに行った。
しばらくして、家から二つの鍬を持ってくると、蓮命が立ち上がり、「よし、そこを掘るぞ」と言って、先ほどまで少女が立っていた場所を指さした。
今度はなぜと問おうとした長一郎から鍬を奪うように取ると、そこを掘り始めた。長一郎も溜め息を着くとそこを掘り始める。
砂を掘ってしばらく経つと蓮命が掘るのを止めた。そこから手で慎重に掘ると何か白い物が見え、少しずつ掘るとその全体像が分かった。それは真っ白な人の骨であった。
長一郎は蓮命の寺に来ていた。
あれから、すでに一週間ほど経っている。その間に浜で見つけた骨は蓮命が供養し、幽霊の噂もあまり聞かなくなった。
さざ波と潮の匂いを感じながら長一郎と蓮命は酒を酌み交わしていた。
「結局、娘はあの骨の人物の幽霊だったのか?」
長一郎の問に蓮命が笑いながら答えた。
「まあ、半分正解と言ったところかのう」
そのはぐらかすような答えに、長一郎が目を細める。
「どういうことだ?」
「確かにあの娘はいわゆる幽霊と呼ばれるものであろうよ。しかし、あの骨は男の物じゃ」
「何だと?ではあれはなんだったのだ?」
元々蓮命は僧であり、骨などには見慣れている。蓮命がそういうならそうなのだろう。
しかし、それではあの娘がなぜあの場にいたか分からない。
「そこを探るのは無粋だろうよ」
蓮命は穏やかな顔でそう言った。
長一郎はその顔を見て押し黙ると、そこにはたださざ波の音だけが響いていた。
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