リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
何かが、彼女のその檻、または膜に触れてきた。
「あの…どうしたの?」
どちらにしろネルフ本部に呼ばれていたので、ぼんやりと彼女の後を追うように歩いていたシンジは、ぴたりと突然歩みを止めた少女におずおずと声をかけた。
「…いいえ。わからない…」
その口調には嘘は感じられなかった。
彼女自身、彼女のその透明な檻、または膜を撫でる感覚の正体が良くわからなかったのだ。
だが。
「きっと何かあったわ。急ぎましょう」
・
「ごめん遅れた!」
ミサトが発令所に飛び込むなり声を上げた。
「電話でざっくりした事情は聞いたけど、どういう事?」
「零号機が再度暴走したんです!」
日向マコトはあわててミサトに言った。
「でも、とっくに内部電源は切れてるはずでしょう!?」
「そのはずですが…映像は?」
マコトはシゲルに話を向ける。
「もうすぐ…着ました!写します」
モニターに写ったのは、オレンジ色の繭だった。
いや違う、とミサトは驚愕に目を開いた。
脳裏に過ぎったのは、セカンドインパクトの、あの。
マコトは訝しげに呟いた。
「これは…ATフィールド…なのか?」
「解析、間違いありません、先の使徒とは比較にならない出力のATフィールドを卵状に周囲に展開しているようです」
それにシゲルが答える。
その時冬月の声が聞こえた。
「ふむ…変質しようと、しているのか…?」
ミサトは低い声で話を向ける。
「副司令…リツコ達は?」
「意識を失っているが命の別状は無い。赤木君も伊吹君も無事だ」
それにミサトは胸を撫で下ろし、その疑問を口にした。
「…変質、とは?」
「何、ただの思い付きを言ったまでだよ。まるでさなぎの様だからね」
冬月は飄々とそう言った。
それにミサトは心持ち目を細めつつ。
「ですが、何故?どうしてこんな事に?」
「私にもわからないよ。頼りの赤木博士はしばらく意識が戻りそうにないしね」
さて、どうしたものか、と冬月は独り言ちた。
ミサトはその様子を横目に観察しながらおずおず口を開いた。
「副司令…今の零号機の姿、その…見覚えがあります」
「ほう?どこでだね?」
「セカンドインパクト。」
その会話を盗み聞きしていたオペレーター達が一斉にミサトに振り向いた。
冬月は、ふむ、と顎に手を当てる。
そしてしばらくの後。
「…ここに至ってはしかたあるまいな。よかろう、これよりエヴァ零号機を使徒と認定する。直ちに殲滅したまえ」
葛城三佐、方法は君に任す、と言って冬月は司令塔に上がっていった。
どうやら傍観する予定のようだった。
ミサトは、声を上げた。
「…了解。初号機の発進準備を!急いで!」
・
「あの…エヴァが、使徒になったんですか」
着替えた二人は発令所でミサトを見上げた。
やっぱり背の高い女の人だなあ、とシンジは思った。
「その…いえ、乗っ取られたのよ」
「使徒に、ですか…?」
「そう。だから遠慮する必要は無いわ。シンジ君、訓練どおりやるのよ」
すると、白い少女が挙手した。
「私が乗ります」
「レイ…」
ミサトは少し迷う。
確かにレイは長い間戦闘訓練している、つまり兵としての熟練は上。
でも、シンクロ率は圧倒的にシンジ君が上…。ミサトは瞬時に判断した。
「いいえ、レイは待機してて。…シンジ君、貴方に乗ってもらう…いいわね?」
シンジは小さく、躊躇しながらはい、と返事した。
レイは、それを横目におずおずと手を下げ。
そして目を伏せた。
『ではエヴァ初号機、出撃!』
ぐお、と遠心力のようなものを感じながら初号機は危なげなく足を踏み出す。
いくつもの隔壁に、大きな穴が開いていた。
その向こうに、何かオレンジ色の光。
『いいシンジ君、あれがATフィールドよ』
「中和、ですか」
『そう、やり方は前訓練したわね?慎重にやって』
「はい…」
パレッドライフルを構えながら、それを展開した。
「使徒のATフィールド、どんどん中和されていきます!」
「凄いなシンジ君は…」
マコトは思わず感嘆した。
「シンクロ率の高さといい、ATフィールドの出力といい、本当に凄い子ですね…」
「そうね。正真正銘の天才かも」
ミサトは相打ちながら。
きっと、あの子は嬉しくはないでしょうけど、と呟いた。
白い少女は、その様子を能面のように眺めていた。
シンジはどんどんそれを溶かしていった。
はっきりと、その硬い卵みたいなものが薄くなっていく。
『いいわシンジ君…ライフル撃って!』
目標をセンターに入れて…スイッチ。
夥しい弾丸がそのオレンジの卵に吸い寄せられていった。
煙と炸裂音。
と、何か浮遊感のような物があって。
もちろん、シンジの意識はそこで途絶えてしまっていたのだった。
綾波の匂いがする。
ふと、目を開けた。
赤い瞳が、彼を見下ろしていた。
「起きたの」
はっと意識を戻す。
上半身を起こして、自分が担架に乗せられているのを確認した。
彼女はまだ白いプラグスーツのままだった。
「あれ?僕…」
「また、気を失っていたのよ」
「あの…使徒は?」
「初号機が倒したわ」
周りを見回す。
今更ながら大勢の人で騒がしかった。
紫色の巨人が片膝をついて座っていた。
それは雄々しく、力を内包しているような、シンジが見てもカッコイイなと思う姿だった。
その向こう、隔壁の向こうの残骸を見て、首を傾げる。
巨大な何か。なんだろうあれ?真ん中に赤い玉が暗く光ってる。
しばらく見て、ああ、きっとエヴァの胴体だ、と気づく。
そう、コアがついたままの、巨大な胴体。
食い散らかされ、アバラ骨が突き出し、夥しい血と肉片と巨大な内臓がそこらじゅうに飛び散った。
首も、手も千切れた、人間そっくりの、ただの巨人の胴体だった。
シンジの喉からきゅ、と変な音がした。
そして、夥しい量の胃液を自分の膝の上に吐き出した。
Ⅲ『“見つかった少年”/“見つかった少女”』
「…とにかく、二人ともご苦労様。もう帰っていいわ。
あとシンジ君、あたしは今日は帰れないだろうから、戸締りはしっかりね」
うんざりするほどの精密検査の後呼び出された発令所で、憔悴したようにミサトはそう言った。
やはりどこか気まずい感覚があって、シンジは、はい、と静かに口を開いた。
「…碇司令は」
と、突然の少女のその言葉にシンジはぴくりと反応した。
「忙しくてね、まだ帰れそうにないわ」
「そうですか」
シンジは彼女の横顔をそっと伺った。
まるで能面のようで、内面が何も覗けなかった。
・
彼女はそっとその眼鏡を撫でていた。
すると、ぽたりと水滴が落ちた。
水?
彼女は不思議に思って天井を見上げた。
別段雨漏りなどしていなかった。
したたった水は、その一滴だけだった。
彼女は少し首を傾げ。
そのひびをなぞる様に落ちたしずくを指でぬぐった。
ちくり、と痛み。
指先から赤い液体。
雫とその血が混ざって、薄くガラスを染めた。
・
「あの…綾…波?」
「何」
シンジはプラグスーツを着替えながら、同じくカーテン一枚隔てたとなりで着替えてる彼女に呼びかけた。
涼やかな声。
どうやらすでに着替えを終えたらしかった。
「…エヴァって、何…?」
少しの沈黙があった。
「どうしてそんな事聞くの」
「あの…綾波は、前から初号機に乗ってきたんだよね?」
「そうね」
シンジはぽつりと言った。
「…怖く、ないの…?」
「どうして」
「だって、だって…」
さっきの残骸を思い出して、また口の中が酸っぱくなる。
あわてて脳内のその映像を頭を振って打ち消した。
「だって、あんなの…」
「怖いなら、逃げれば」
彼女はそっけなくそう言った。
「貴方が乗らないなら、私が乗るから」
その言葉に、シンジは小さく呟いた。
「…綾波は、どうしてエヴァに乗っているの?」
「絆、だから」
ふと思いついた言葉をシンジはそのまま口にした。
「…父さん、との?」
沈黙。
カーテンの向こうで、彼女が席を立つ気配があった。
しゃ、とカーテンが開かれる。制服に着替えた彼女は、まだ着替え途中の彼を無視してドアに向かった。
「あ、あの」
「でも、きっと必要ないわ。」
シンジはその意味を図りかねてきょとんとした。
彼女は平坦にこう続けた。
「だってもう、貴方が居るもの」
そして彼女は振り向きもせずこう言った。
「じゃ…さよなら。」
しゅ、と扉が閉まった。
耳が痛くなるような静寂があった。
突然放り出されたような寂寥感があって、更衣室を見回す。
その薄暗さは寂しさを通り越して悲しみに似た恐怖を彼に与えるようだった。
そして彼はそれに気づいた。
壊れた眼鏡。
様子を見た限りでは、彼女にとってとても大事な物のようなのに、どうやら彼女はまた忘れたようだった。
忘れんぼさんなのかな?と思い、その眼鏡を手に取り、ふ、と直感した。
何の脈絡も無かった。ただ確信したのだ、根拠もなく。
ああ、きっとこれは父さんの眼鏡だ、と。
彼女が去った扉を振り返る。
もう一度その眼鏡を見た。
何か赤い所があった。
触れてみる。
薄く赤い液体だった。
彼の頭で何かが鳴った。
彼は急いで扉を開いて廊下に出た。
もう人の姿は無かった。
そして手に取ったその眼鏡をもう一度見て。
『じゃ…さよなら。』
彼の眉が、きゅっと、歪んだ。
・
彼女は、彼女を妨害する全てを脱ぎ捨てると、足首を湖につけた。
ひんやりと気持ちよかった。
黄昏の空を反射した水面はとても美しかった。
その水面に彼女の輪郭だけが逆さに写っていた。
彼女は腿まで水につかると、そっと両手で水をすくった。
少しずつ、指の間から零れ落ちるそれを眺めた。
彼女が捨て去った包帯の一房が湖の底に沈んで行った。
もうすぐ、行くわ。
だから彼女は前に一歩踏み出した。
腰が水に浸かった。
さらに一歩。
乳房が水に浸かった。
もう一つ、前へ。
彼女は音もなく頭まで浸かると、そっと泳いだ。
その瞬間、確かに彼女は人ではなく、水族になった。
そして、深き、深き、いと深き深遠へ…
すると、突然水中に何かが落ちたような大きな音が聞こえた。
彼女は思わず水面で振り返る。
赤黒く染まった水面に影。人の影。
どうやら、溺れている様だった。
彼女はとっさに、まるで魚そのもののように手を使わず素早く泳いで、その影を掴んだ。
水面に顔を出すと、その人物が大きく咳き込んだ。
聞き覚えのある声と、顔だった。
「…碇、君?」
「あ、綾波…」
彼女は目を僅かに丸くして驚きの表情を作った。
彼は相変わらず咳き込みながら、息も絶え絶え声を出した。
「だ、大丈夫!?」
「…どうして」
「だって、溺れてるんじゃないかって、だから助けなきゃ…って…あれっ?」
僕が助けられてる…?とシンジは不思議そうに呟いた。
「貴方…もしかして泳げないの?」
「え…あっ」
彼は今更ながら思い出したかのように声を上げた。
そして、かあああと顔を真っ赤に染めた。
「…そうだった…」
彼は恥ずかしそうに言った。
僕、泳げなかった…。
彼女は、何度か目を瞬かして、静かに言った。
「貴方…変な、人ね…」
その口調は何か、シンジの何かに触れるような言い方で、彼をまじまじと彼女を見ようとした。
でも残念ながら夕日の逆光で、彼女の表情は良く見えなかった。
「…とにかく、陸に上がりましょ」
「え?う、うん…」
と彼女は彼を支えていた両手を一瞬離して、とシンジは怖くて思わず彼女にしがみ付いた。
「何?」
彼女の涼やかな、でも決して冷酷ではない不思議なトーンの声が耳元で囁かれた。
その声が心地よくて、シンジは一瞬ずっと耳元で聞いていたいなあ、などと思ってしまった。
「あ、あの…僕、泳げなくて」
「ええ」
「あ、あの…どうしよう?」
すると、彼女は彼の背中にそっと手を添えた。
改めて彼女の体の感触に意識が向いて、その心地よさにシンジの琴線がちゃりんと鳴った。
「暴れないで。力を抜いて」
「う、うん…」
そして彼女に導かれるように陸に上がって。
シンジはぐったりと地面に座り込んでしまったのだった。
「それで…どうして、貴方ここに居るの」
「だって…」
彼はぐったりしながら。
「だって、去り際にさよならなんて言うから…」
彼女は一つ、瞬きした。
「それで?」
「後…これ忘れてるし」
放り出したままだった鞄からそれを取り出す。
碇司令の眼鏡。彼女はふ、と目を伏せた。
「だから…なんていうかその…自分でもよく分からなくて…」
「…うん」
彼女は続きをうながした。
「それで、君の家に行ったら居なくて、でも何か探さなくちゃいけない気がして…」
そして彼は湖に今まさに沈もうとしている彼女を見つけた。
「で、咄嗟に…」
「泳げないのに?」
「あ、うん。だから、それはその…」
忘れてたから、と彼は頬を染めながら言った。
「そう」
と、沈黙が流れた。
彼はおずおずと、立ったまま彼を見下ろしている彼女を見上げた。
彼女は無表情に彼を見つめていた。
目が合っても、そらす気配が無かった。
ただただ、じっと、彼の目を見つめていた。
彼も見つめ返して、相変わらず彼女は裸で、産毛も無いそれを隠そうともしなかった。
やっぱり綺麗だなあ、とシンジは思った。絵の中の人みたいだ、と考えた。
でも、彼女の裸身を見上げているうちに何か、熱くなるような感覚があって。
やはり身体の中心が疼く様な感覚があって、シンジは無自覚に頬を染めて目を伏せた。
彼女はようやく口を開いた。
「貴方、その格好どうするつもり」
彼は制服を着たまま飛び込んだのでパンツまでびしょぬれだった。
もちろん着替えなど用意しているわけもなく。
「どうしよう…?」
彼は途方に暮れた。
すると、彼女はそっと囁いた。
「…家に、来れば」
彼は彼女の瞳を覗き込んだ。
でもやっぱり無表情で。
シンジには、この時の彼女の内面を推し量る事は出来なかった。
・
「まあ無事で良かったよ、赤木君」
「ご心配かけました」
包帯を頭に巻いたままのリツコはため息混じりにそう言った。
冬月はふむ、と唸る。
「それで…今回の件、君はどう思う?」
「零号機のコアに定着するまで、あの子の素体をかなり使用しています」
「…つまり?」
「あくまで推測です。ですがもしかすると…“寄せ集まって”変質したのかもしれません」
「つまり…零号機に観測されたS2らしき熱源は…」
「はい、一定の量の素体が飽和点に達し転換して、質に変化した可能性を否定出来ません。S2機関自体まだ良く分かっていませんから」
「良く分かっていないのはS2だけではないだろう。エヴァも使徒も、地下のあれも…あの子の事すら、良く分かっていない。
分からないものを利用してでも生き残ろうとする。人の業だなまったく…赤木博士、継続して今回の解析を」
「はい。慎重に、ですね」
「ああ、今回の出来事は第一級で秘匿する。あくまで寄生型の使徒に侵食された、で通す。特に、老人どもには知られるわけにはいかんな」
「ええ…初号機の件もあります」
「ああ…」
冬月はため息混じりに言う。
「…今回の初号機は、流石に、私も恐怖を感じたよ」
「あら、副司令でもですか?」
「当然だろう。私だって人間さ。そちらも君に頼むよ」
「はい…」
そして冬月は、背を向け窓を眺めた。
リツコは、冬月という人物の底を見通すように、目を細めその背をじっと見つめ続けた。
15/7/22