リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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1-2 廃墟幻想

 

 

 

「埃が凄いね、予想以上だ」

 

 

その中学校は、ひどく荒れ果てていた。

もっとも、この廃墟都市ではむしろ荒れてない建造物の方が遥かに珍しかったのだが。

 

彼女は蒼いマフラーで鼻と口を押さえながら、斜め前を歩いている彼の後姿を眺めた。

その歩みには、ここまで来る途中も含めてまるで迷いが無かった。

この都市を知っているのだ。もしやかつての住人であったのかもしれない。

 

ある部屋の扉を開けると、そこにはピアノや様々な楽器が無造作に置かれていた。

 

「ところでインパクトからもう15年近く経ってるのに、どうして都市を復旧させようとしないの」

 

埃を被ったピアノを観察しながら彼は興味なさそうに尋ねた。

彼女がどう答えようか迷っていると、ああ、と彼が得心したように声を上げる。

 

「一種のカムフラージュか。関係者は皆ジオフロントに住んでるものね。ダミー都市ってわけか」

「…驚いてなんてやらないわ」

「そう?残念」

 

彼は埃に咳き込みながらピアノの屋根を開いて弦を確認する。

15年経ってるにしてはまあまあだな、と独り言。

 

そして前に回りこんだとき、彼の体が一瞬止まった。

 

その視線の先には、ピアノの鍵盤の上で干からびた、かつて花であった残滓。

彼は震えるように、そっと、本当にそっと、その花の残骸に指で触れた。

 

それを待っていたかのように、その残骸は崩れて消えた。

 

まるで最初から存在しなかったかのように、崩れて消えた。

 

「ピアノ、本当に弾けるの?」

「…うん?うん」

 

彼女は一瞬反応の遅れた彼を怪訝に見て、だが彼は何事も無かったようにコートを脱ぐと埃を払ってイスに座った。

 

「と言っても随分弾いてないからね。多少音程がずれたり失敗しても大目に見てもらえるかな」

「考えておくわ」

 

彼女は窓際の縁に座ろうと窓に近づいて、ふとその横の壁にかかったグリーンボードが目に入った。

 

夥しい画鋲の数々。

どうやらポスターのような何かを止めていたらしい。

だがひどく乱暴に破いたようで、例外なく画鋲に紙切れが挟まっていた。

 

その切れを手にとって、ああこれは全て楽譜だったのだな、と彼女は納得した。

だが、だからどうしたのだろう?

そう彼女は思い直し、改めて窓の縁に座って彼の準備を根気良く待った。

しばらくの後、納得したらしい彼が、うん、と頷いた。

 

彼女も、こくりと頷いた。

 

すっと、空気が変わった。

 

 

そして響いたのは、とてもとても美しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・Ⅱ 『廃墟幻想』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

演奏が終わった後、その余韻が波のように彼女の胸を揺らしていた。

 

美しい、曲だった。

 

その題名に相応しい、まさに雪の降る景色のような、恐いくらい美しく哀愁があり、

それでいて深い情動を宿した、本当に美しい曲だった。

その情動に浸るように目を瞑っていた彼女に、彼は何故か冷たいような口調で静かに言った。

 

「どうだった」

 

その言葉に、彼女は瞑っていた目をゆっくり開くと、擦れた声でそっと囁いた。

 

「…良い、曲ね」

「そう?とりあえず音程間違えなくて良かったよ。

 この曲弾いたの15年ぶりくらいなのに、やっぱり若いとき覚えたものって忘れないものだね」

「間違いないわ…思い出したもの」

 

彼女はひどく揺さぶられている心を落ち着かせるように、勤めて冷静な声で紡いだ。

声が震えないように、細心の注意を払いながら。

 

「この、曲よ。間違いないわ。ずっと、ずっと、幼い時から探していた曲…」

「そっか」

 

彼はどこか平坦な口調でそう言うと、煙草に火を点ける。

 

「どうして私は知っているの?」

「言ったろう。僕が聞きたいよ」

 

彼は無表情に囁いて煙を吐いた。

煙草の臭いような、でも不思議と嫌いではない匂いが充満した。

彼女はその様子を眺めながら疑問に思った。

 

どうして彼は急にこんなそっけない印象になったのだろう?

 

彼女に向けている彼のその横顔は無表情で、ひどく冷たく、全てを拒絶しているように見えた。

 

と、彼は、視線の先にそれを見つけた。

少し蓋が開き、中が見えている、その埃塗れのバイオリンケース。

 

ぽろり、と咥えたままの煙草から灰が落ちた。

 

「気が済んだろ、もう帰りな」

 

彼はやはり平坦にそう囁くと、立ち上がってそのバイオリンを手に取った。

彼女はきょとんとして、少し不服そうな様子で同じくらい平坦な声を出した。

 

「貴方にはまだ何も聞いてないわ」

「何を聞く必要がある」

「何物なのか、どうやってこの都市に潜入したのか、どうして私の名前を知っているのか」

「関係者なんだ。今度からお世話になるよ。よろしく」

 

彼女はすっと目を細めた。

 

「嘘ね」

「どうして?」

「なら貴方の名前を聞かせて」

「お魚さん」

「ふざけないで」

「そうでもないよ。お魚さんって呼んでくれると嬉しい」

「ふざけないで、と言ったわ」

「ふざけてるのは、君だよ」

 

それはひどく無感動な冷たい声だった。

彼女の目が更に細められやや剣呑に光った。

 

「ついさっき会ったばかりの男に、こんな所までのこのこ着いて来て、何を考えてるの」

「…そう仕向けたのは、貴方よ」

「もちろんだよ。連れ込んで君にあんな事やこんな事するのが目的だからね」

「嘘を言わないで」

「何故嘘だと分かる?名前も素性も知らないこんな怪しい男なのにさ」

「分かるものは分かるもの」

「笑わせるなよ、無防備にも程がある。本当にそのつもりならどうする?」

「銃があるわ」

「何度も僕に奪われているのに?」

「襲う気なら奪ったその時出来たでしょう」

「外だったじゃないか。万一人に見つかる可能性もあるし、何より外じゃ寒いだろ。寒がりなんだ」

「そんな遠回りする人には見えない」

「言ったろう。何が分かる」

「どうしてそんな事言うの」

 

彼女は責めるように彼を睨みつけた。

彼はそれを真っ向から無表情に、ひどく冷たい青い瞳で受け止めた。

 

「分かっちゃいない。君は、何も分かっちゃいない」

「私が何を分かっていないの」

「君が死んでも代わりは居ないんだよ」

 

それは、確かに、そうだろう。

だが、彼のその言葉には別の意味が宿っているように感じて、彼女は少し混乱した。

 

「頼むよ。もう少し用心してくれ。いい加減にしてくれ…」

 

そう言ながら彼はバイオリンをそっと弾く。

ぴん、と弦が切れた。

彼は少し目を伏せて、静かにバイオリンを元のケースに閉まった。

 

彼女は、彼のそのあまりにも身勝手な言い分に流石に怒りを感じて、僅かに眉が吊り上がった。

 

「一体何が目的なの。言って」

「君を拉致監禁する事」

「いい加減にして。どうしてわざと怒らせようとするの」

「そんな時もある。特に僕は気まぐれだからね」

「貴方は何なの。何がしたいの?」

「等価交換といこうか」

「私に何をさせたいの」

「見せてよ」

 

彼女は少し首を傾げた。

 

「君が乗ってるエヴァ、見せてよ」

 

彼女の眉がきゅっと歪んだ。

 

「エヴァンゲリオン最終号機、コードネーム―」

 

彼女の目が驚愕に見開かれた。

 

「―…僕に見せて。」

 

電光石火だった。

この時彼女は寸分の迷いすらなかった。はっきりとした敵意でもって彼に銃口を向けた。

だが、彼はやっぱりそんな物見えないように新しい煙草を吸い始めながら呟いた。

 

「どうしたの、そんな恐い顔して」

「どうして知ってるの」

「何をさ」

「エヴァの事よ」

「そりゃ知ってるよ。僕が関係者なら、エヴァ最終号機を知らないはずないだろう」

「そうね。でも貴方あの名を言ったわ」

「あの名って?」

「最終号機のコードネーム」

「言ったっけ?」

 

彼女は一瞬の油断も無く彼を厳しい瞳で射抜いた。

 

「そのコードネームを知っているのは、本当に、本当に中枢の、極一部だけよ」

「そんな大層な」

「何故、貴方が知ってるの」

「そりゃ知ってるよ」

 

彼は旨そうに煙草をふかして当たり前のような口調でこう言ってのけた。

 

「あれにその名前付けたの、僕だからね」

 

そのあまりにも予想外の返答に、彼女は不覚にも口を半開きにして唖然とした。

そんな表情は彼女の14年間の人生でもしかしたら初めてかもしれなかった。

 

「いやあ我ながら素晴らしいネーミングセンスだね。惚れ惚れしちゃうよ」

 

その台詞と正反対の吐き捨てるような口調で彼は無表情にそう呟いた。

彼女は、どう判断していいか分からなかった。

何故か、まったくの口から出任せのようにも思えなかった。

 

「…本当に?」

「君が判断しなよ。君が信じようが信じまいが事実は変わらない。この世は無常さ。

 ところでさっきから言おうと思ってたけど安全装置」

「外れてる」

「弾無いよ」

「あるわ。一度もそんな距離に近づいていない」

 

彼は無造作に彼女に近づいた。

 

「止まりなさ…」

 

彼女の言葉の方が止まってしまった。

なぜなら、彼のその手には弾のマガジンがあったから。

彼女は本気で愕然とした。

 

彼はそっと手を伸ばすと自失した彼女の手から銃をもぎ取った。

そして、その銃から弾倉を取り出し再度装填して彼女に返す。

慌てて確認するときっちりと入っていた。

 

じゃ彼が手に持ってる弾は?

 

彼は後ろ手に回すと、彼女のよりも少しだけ大きい銃を取り出し、マガジンを装填した。

やはり何事も無かったかのように腰にしまう。

殆ど詐欺のようなそのフェイクに、もう彼女はあっけに取られるしかなかった。

 

彼は、覆いかぶさるように彼女を窓際に追い詰め、冷たい目で至近距離で見下ろしながら低く囁いた。

 

「いい加減にしろと、言ったよ…」

「…どうして?」

「何度でも言うよ。分かるまで言うよ。君に、代わりは、居ないんだよ。

 なのにそんな不注意でどうする。そんな無警戒でどうするんだ。何を考えてる…」

 

彼のその言葉には、一種本気の怒りが混じっているように思えた。

彼女もやはり真剣に怒りがこみ上げてキッと睨みつけた。

だが彼はそよ風すらも感じていないようだった。

 

ただ能面のような無表情で、そして低い声で、そっと独り言のように囁いた。

それは本当に小さい囁きで、よく耳を澄ませてなければきっと聞こえなかったほどの。

 

…いっそ本当に監禁して僕のものにしてやろうか…。

 

その時、彼女は一瞬ぞっとするような寒気を覚えた。

その囁きに真実の匂いを嗅ぎ取ったから。ようやく洞察した。

この男はつまり、しようと思えば本当に、実際に、そんな事が出来る人物なのだと。

 

が、彼のそんな態度も一瞬だった。

あっという間に興味をなくしたように、彼はそっけなく背を向けるとピアノの前に座った。

それに安堵と不可解さの両方を感じながら、彼女はおずおずと呟いた。

 

「…貴方の事、報告するわ」

「好きにすれば」

「貴方は多分スパイか、それに順ず」

「早く帰んなよ。日が暮れるからね」

 

きりっと口を噛み、彼女は剣呑な目で彼を睨みつけると、ドアを開けて部屋を出る、瞬間。

 

「…気をつけて、帰りなさい」

 

その言葉の、本当のまごころの篭ったようなトーンに、彼女は思わず振り向いた。

彼は相変わらず無表情にピアノのイスで煙草をふかしていた。

 

その横顔はやはり全てを拒絶するようにひどく冷たく、あまりに近寄り難かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女は校庭に出ると、空を見上げた。

 

また少し雪が降り始めていた。

その曇り空に混ざるように夕日の赤が妖しく光っている。

 

赤紫色の空、降る雪。

 

この景色は中々見られない。

だから彼女は少し機嫌を直して、早く帰ろうと歩き始めた。

 

ふと、遠くでメロディーが聞こえた。

 

ピアノの音、あの男が弾いているのだろう。

直りかけた機嫌がまた曲がりかけて、でもその旋律の美しさに、どうしても耳を傾けてしまった。

 

あの『雪』という曲とは違う。

でも、やはりどこか哀愁があって、でも何か希望を宿しているような。

 

夕闇の曲。

 

そんな言葉が彼女の脳裏を過ぎった。

夕暮れの、日が落ちる前の黄昏、一番綺麗で、一番寂しい時間の残滓を寄せ集めて作られた曲だ。

 

もちろん彼女は今まで聞いた事が無かった。

彼女はあのメロディーを探すために、その年齢に不釣合いな程ありとあらゆる分野の音楽に造詣が深かった。

その自分が知らない、ならきっと、これもあの人が作った曲だろう。

 

その演奏が終わるまで、彼女は目を瞑って聴き入った。

それを聴き終えた後、なにかさっぱりしたように、彼女は紫色の珍しい夕暮れを堪能しながら、帰り道を歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

彼はその演奏を終えると、静かに鍵盤の蓋を閉めた。

『貴方』という題名のその曲を弾いたのも実に何年ぶりだろう。

 

そういえば、この曲を弾く時はいつもこんな夕暮れだったな、と彼は気づいて、そのめぐり合わせに微かに笑う。

そう、この曲を弾くときは、何故かいつもいつも、いつだって、

夕暮れのその日が終わる、幕が閉じる瞬間の、一番綺麗で、そして一番…

 

と、彼はその思念を振り払うように頭を振った。

そして煙草に火を点け、腹の底まで吸い込み、ゆっくりと息を吐く。

 

もちろん白かった。

 

 

だが、その白にはきっと寒さゆえのそれはもう、混じっていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15/6/15


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