リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
現状を整理しましょう、とまだ夕日が照らすリビングでミサトは言った。
「知っての通り今回の使徒は分裂型の使徒」
弐号機に両断された使徒はそれぞれが独自に動き、
しかも肉体同士がリンクしているらしく、片方を攻撃しても片方が無事ならあっというまに回復してしまう。
「つまり、同時に倒す必要があるってことよね?」
飲み込みの早いアスカが言った。
そう、そのために、と。
「だから貴方達二人には完璧に連携を取れるように…」
「今日から、一緒に暮らせっての!?」
「時間が無いのよ。なんとかN2爆雷で足止めはしたけど、リミットは三日しかない」
「あの…N2爆雷?ていうのが効いたのなら、それだけで倒せるんじゃないですか?」
シンジが当たり前の疑問を口にした。
「そうでもないのよ。今回足止めが出来たのは使徒のATフィールドがある程度中和された状態だったから。
MAGIの試算では、現在の中和されていない状況ではN2をどれだけぶち込んでもかすり傷しかつけられないそうよ」
「じゃエヴァで中和して…」
「N2を使う?それだとエヴァだって中和された状態になってしまう。使徒を倒せるだけのN2の爆発の規模を考えれば」
「エヴァだってただじゃすまない…どころか、下手すると」
「使徒だけが無事、なんて事も考えられるわね」
ううん、と二人は沈黙した。
その様子を眺めながら、それに、とミサトは言葉を重ねた。
「これ以上、日本地図を書き換える訳にはいかないの。今後のためにもあくまでエヴァを使って倒す必要があるわけ」
「つまり、今後のネルフの権限を保つ意味でも?」
「そゆこと」
わかった?と。
「だからっていきなり…」
「…レイね、弐号機とのシンクロに成功したわ」
ぴきり、と何かが鳴ったような気がして、ふとシンジは彼女を見た。
そして目を丸くする。
彼女は信じられないぐらいに、青ざめていた。
その様子に彼は思わず眉をひそめた。
「貴方が拒否するならレイに代わってもらう。それでもいい?」
彼女は何も答えず。
青ざめたまま、ただ体を震わせていた。
・
とりあえず本番は明日から。
今日のところはゆっくり親睦を深めてちょうだい、と言ってミサトはまた本部へ戻って行った。
部屋はますます赤くなっていた。
多分夕日がもっとも輝く時間だった。
あまりに赤く眩しくてシンジは目を細めた。
なのに、彼女の周りだけ青く薄っすらと影が差しているようにすら彼には思えた。
あの、と口に出して、でも何を言っていいかわからなかった。
それほど彼女のショックは凄まじかった。
綾波にパイロットの地位を奪われるかもしれない事が嫌なのかな?
つい数日前の自分を思い出した。
あの熱を出して寝込んだ日、綾波が居るから嫌なら帰っていいとミサトに言われた時、確かにシンジはショックを受けた。
だから彼女も同じかな、でも、ここまで?
ときっと自分の時とは比ではない彼女の様子に、彼はただ眉を下げる事しか出来なかった。
「…た」
彼女がぼそっと何か呟いて、え?と聞き返す。
「…喉かわいた」
彼は一つ瞬きして。
「…うん、何飲む?」
「…ミルクティー…」
シンジは静かに席をたった。
買っといたはずの紅茶を取り出して、お湯を沸かす。
ひぐらしの声が少し小さくなっていた。
しゅんしゅんとポットが音を鳴らす。
それが鳴るたびに夕日の赤も暗くなっていった。
つまり、もうすぐ三つの空を同時に楽しめる、魔法の時間だった。
確かクッキーがあったな、とキッチンの棚を空ける。
赤暗くて見えにくかった。
一瞬電気つけようかな、などと考えてしまって、その愚か過ぎる思考を振り落とした。
お湯が沸いたので、濃い目に入れる。
牛乳を多めに、氷を目一杯入れてやや甘さ控えめにして。
クッキーを乗せた皿と一緒に彼女の脇に置いた。
赤い光と、それに形作られる影が長く伸びて彼女の気配をより暗くしていた。
しばらく彼女は手を付けず、彼は手持ち無沙汰にぼんやりした。
するとようやく、彼女は顔を伏せたままおずおずコップに手を伸ばした。
彼女はちゅるるとストローでそれを流し込んだ。
ひんやりと冷たく、とても美味しいアイスティー。
その心地よさに押されるように皿に手を伸ばして、バタークッキーを一口かりっと食べた。
その様子になんとなく安堵した彼も、クッキーの皿に手を伸ばすと、さっと皿を掻っ攫われた。
かりかりもごもぐもごもぐごくん。
じゅるるるるるるすこー。
「お代わりいる?」
ふん、と彼女は鼻を鳴らし、空になった皿とコップを差し出した。
受け取って台所に立つ。
さっきより明白に赤の度合いが減っていた。
青黒く光り、灰暗く伸びる影がどこか寂しかった。
すると、彼女がすん、と鼻を啜る音がかすかに聞こえた。
さっきより、少し甘めに紅茶を入れた。
やはり彼女の脇に置いて、でも置いたとたん彼女はそれに手を伸ばし。
ふ、と止まって、クッキーの皿をそろっと彼の方に滑らした。
どうやら食べていいわよ、と言っているらしかった。
じゃお言葉に甘えて、と一枚手にとってかりっと一口食べた。
相変わらず彼女は顔を伏せたまま、ミルクティーを啜った。
何となく、彼女の影が先ほどより少しだけ明るく見えた。
もくもくとクッキーを租借する音とミルクティーを啜る音が部屋に響いた。
いよいよ部屋は灰暗くなっていった。
今なら三つの空を同時に楽しめるに違いなかった。
彼はどうしても空を見たくて、でも何となくここに居た方が良いような気がして逡巡した。
顔だけ振り向いて窓を見た。
地平線だけ赤かった。やっぱり魔法の時間になっていた。
見ないわけには行かなかった。
この時間を見過ごしてしまうのなら今日を過ごした意味がまるで無かった。
でもやはり迷ってしまって。
すると彼女は大きく息を吸って。数秒のための後、大きく吐いた。
そしてようやく、顔を上げた。
どうやらもう大丈夫なようだった。
だから彼は安心して席を立つと、窓を開けてベランダに立った。
その脈絡の無い彼の行動を、彼女は怪訝そうに観察した。
彼はベランダでひた向きに空を見上げて居る様だった。
なんとなく席を立って、彼女もベランダに立った。
彼の視線を追う。
黄昏が綺麗だった。
上を見ると、星が見えた。
少し下げると、まだ空が青かった。
地平線だけ、赤く光っていた。
綺麗ね、と、彼女は素直に思った。
日本の夏空って綺麗ね。
ドイツとはまた、別の綺麗さだわ。
それを口にしようとして、ふと彼の横顔を見た。
彼はひたむきに空を見ていた。
ただただ、ひたむきに、空を見ていた。
その様子に、彼女は開きかけた口を閉じた。
何故か、言葉を発してはいけない気がした。
言葉を紡いだ瞬間、今のこの何かが終わる気がした。
何が終わるのかなど分かりはしなかったが。
だから彼女は黙って、その何かが過ぎるまで空を見続けた。
夜の度合いが大きくなった。
地平線はまだ明るかったが、もう赤くは無かった。
探しても青い空など何処にも無かった。
虫の、なんていう名前かしらないけど、その寂しいような綺麗な声も聞こえなくなってきた。
つまり、その何かの時間も終わりだった。
彼女はぼそっと呟いた。
「…アスカ。」
うん?と彼は視線を彼女に合わせて、やっぱり幼子のように首を傾げた。
彼女は極めて不機嫌そうに、言葉を重ねた。
「アスカ。」
彼女はもう一回言った。
そしてさっ、さっ、と周囲を見回して、そろりと呟いた。
「…特別に、アスカって呼んでもいいわ」
その言葉を言い切ったとたん、彼女の肩から力が抜けた。
ふ、とまるで何かを達成したかのような吐息が聞こえて、彼はさらに首を傾げつつ。
「アスカさん?」
「さん要らない」
「…アス、カ?」
「何よ」
「…じゃ、僕もシンジで良いよ?」
「わかってるわよ」
あんた馬鹿?とでも言いたげな口調でそんな事を言われた。
あ、ごめん、と思わず口にしそうになった。
「…アタシらしくないわ」
彼女はもう一度。
「そうよ、アタシらしくない」
彼は黙って耳を傾けた。
「シンジ」
「…何?」
彼女は凛とした口調で言い切った。
「あの使徒ぶっ殺すわよ。」
ファーストになんて負けるもんですか。
「傷つけられたプライドは倍にして返すわ。」
「…うん」
「そうと決まったら!」
「うん」
「…何すりゃいいのかしら?」
「…さあ?」
二人は同時に首を傾げた。
魔法の時間は、とうに終わっていた。
・Ⅱ 『夜のぬくもり、人のぬくもり』
初日はもうあっと言う間だった。
みっちみちに詰められたスケジュールをこなすので背一杯で、夕食後二人は気絶するように眠った。
ミサトは軽い満足感を感じながらリビングで寝息を立ててる二人に毛布を掛ける。
予想以上の成果だった。
今回の作戦の一番のネックはアスカの性格だった。
彼女の事だからシンジに合わすのを嫌がるだろうと想像できたからだ。
なのに蓋を開けてみたら。
「きっちりシンジ君に合わすんですもの…」
びっくりしたわ、とミサトは独り言ちる。
正直な事を言えば、運動神経知能指数その他、シンジよりアスカの方が一回りは上なのだ。
その上シンジはチルドレンになって日が浅く、戦闘訓練やエヴァの知識も満足に修めていない。
基礎能力、熟練共に上のアスカを、シンジ君に合わせるにはどうすればいいかと実は頭を悩ませていたのだ。
それが無駄な頭脳労働だったと分かって一安心しつつ、流石に疑問に思う。
…レイの一件が相当堪えたのかしら?
レイが弐号機とのシンクロに成功したのは本当だった。
コアの変換もなしに行ったシンクロテストにミサトはリツコに素直に疑問をぶつけた。
「レイは、全てのエヴァにシンクロできるのよ」
「…どういう事?」
作戦部長の自分すら知らなかったそれに思わず声を上げる。
「原因はまだわかっていない。でも、今回の事を考えれば事実だったみたいね」
「…初号機は乗れなくなったのに?」
「あれは初号機側が拒絶してるんですもの。特殊ケースよ」
「でも…どういう事?コアの変換無しに全てのエヴァにシンクロ可能って…そんなのありえるの?」
「あの子は“ファーストチルドレン”なのよ」
リツコは落ち着いて言葉を重ねた。
「まだエヴァが実験段階からレイはチルドレンだったの。その意味は伊達じゃないって事よ」
何か隠してるわね。
ミサトはそのリツコとの対話を反芻して直感した。
レイには、何か秘密がある。
科学者でもない以上、当然ミサトはエヴァについてさほど造詣が深いわけでもない。
だが、それでも他人用に作られたコアにシンクロ可能など普通はありえないという事ぐらいは分かる。
原因は不明と言ってるけど…。ミサトは一瞬目を鋭くした。
んん、とアスカの寝息が聞こえた。
すると、彼女が寝返りを打って、こて、とシンジの背に額を当てた。
穏やかな寝息が聞こえた。
あらあ、とミサトは目を丸くした。
ふと、先の使徒戦後を思い出した。
あの時、アスカは気絶したシンジを膝に寝かせて叫んでいたのだった。
早くこの子助けてあげて!と。
その見たことも無いアスカの様子に驚いたものだったが…。
「ふううん?あのアスカがね?」
ミサトはくすりと笑って、電気を消した。
今日のビールはきっと美味しいに違いなかった。
・
二日目。
「だからそうじゃないって言ってるの!」
「だから一生懸命やってるじゃないか!」
ミサトはあちゃーと頭を抱えた。
昨日のあれはなんだったのと。
流石にアスカの堪忍袋の緒が切れたのだった。
だが無理も無い、と思った。
シンジのその近接戦闘のスキルはあまりに低すぎたからだ。
「ねえミサト、ちゃんとこいつの訓練やってるの!?」
「やってるわよ。まず銃器の扱いから、基本的な動作までね」
「じゃなんでこんな弱っちいのよ!」
「シンジ君はチルドレンになってまだ一ヶ月もたってないのよ?もちろん格闘技を習った経験も無いの」
そうである以上、近接戦闘スキルなどそう簡単に身に着くものではなかった。
だがそれを差し引いても、アスカとのそれには差があり過ぎた。
当然だろう、アスカは年齢一桁の時からチルドレンとして実戦的な訓練をしているのだから。
たとえシンジにその種の才能があっても、そう簡単に追いつけるものではない。
「こんなんじゃ接近戦なんてダメよ!作戦変更よミサト」
「銃器メインって事ね…でも…」
「こいつが死んでもいいわけ!?」
その台詞にミサトは目を丸くした。
てっきりアスカは足を引っ張られる事に怒ってると思ったのだが…。
「こんなんじゃ無理よミサト。エヴァは痛みだって共有するのよ?こいつは素人なの。前衛なんて危険すぎるわ」
「アスカ…貴方…」
「あ?何よ?」
「…ううん」
ミサトは少し笑いながら。
「そうね…今更だけど、ちょっと役割変更しましょうか。シンジ君もそれでいいわね?」
「はい…」
彼は少ししょんぼりしながらも頷いた。
そしてあっという間に夜は更けて。
二人は玄関を開けたとたん、同時にぐでっと廊下に突っ伏した。
「…疲れた…」
「…アタシもよ…」
はあ、と同時にため息をついた。
「…夕ご飯どうする?」
「なんか頼みましょ」
「お風呂は?」
「お願~い。アタシなんか頼んどく。ピザで良い?」
「いいよ」
そしてピザを食べて風呂に入って、それだけでもう二人はぐでぐでになってしまって。
何をするでもなく、すぐにリビングに敷いたふとんに同時にどてっと横たわったのだった。
「シンジ電気消して~」
「はいはい…」
うーんと背伸びしてぱちりと電気を消した。
ぐったりふとんに仰向けになって、なのに、その途端ぱちりと目が覚めてしまった。
異常に静かだった。
ふと隣を見る。
一人分のスペースを空けて彼女がこちらを背に寝そべっていた。
何となく、アスカ?と呼んでみた。
沈黙。
もう寝ちゃったのか、と思い、シンジはぼんやりと天井を見上げた。
空成分が足りなかった。
ここ二日空をゆっくりと見る余裕すらなかったからだ。
空が見たいな。
月が明るかった。
静かな部屋に、彼女の呼吸と、月が夜を照らす音だけが聞こえた。
そっとベランダに出て見ると、空が驚くほど明るかった。
満月らしかった。
でもその明かりは全てを暴くような太陽の光に比べると、やはり優しく迎えてくれるような、とても静謐な光だった。
何故か綾波を思い出した。
ぽーん、と音が鳴った。
初めて綾波の部屋に行ってからずっと響いている音だった。
シンジはゆっくり、ベランダの縁を鍵盤に見立ててその音を弾いてみた。
その音を撫でているうちに、ふと、新しい音が鳴った。
それも弾いてみた。
ただの音だったそれが、寄せ集まって、確かに別の何かに変質していくのを感じた。
シンジは夢中になって、その音を寄せ集めようとした。
でも。
「…寒いわよ」
彼女の声が聞こえて、びっくり振り返る。
寄せ集まった音は零れて消えてしまった。
「あ、ごめん…」
「何してんの」
「うん…」
彼女はひっそり呟くと、彼の隣にならんで空を見上げた。
「…綺麗な満月ね」
「うん」
「あんたって、気がつくと空ばっか見てるわよね」
「…そう?」
「そうよ。ぼへ~と口だらしなく開けてさ。空ばっかり…」
「そうかな」
「そうよ」
「そうかな?」
「そうよ。」
「…そう?」
「うん」
ううん?と彼は唸った。
彼女はその横顔をじっと見詰めた。
ふと、彼の方が自分より背が少し低いのに気づく。
女のアタシより背が低い、ちんちくりん。
ふん、と彼女は鼻を鳴らした。
「…あんたって、変な奴」
彼はきょとんと彼女に振り向いた。
「…そう?」
「そうよ」
「そうかな」
「そうよ」
「そうかな」
「そうよ!」
「そう?」
よく、分かんないや、と彼は呟いて、また空を見上げた。
彼女はやっぱりその横顔をぶすっと見た。
彼の横顔は、何となく、冷たい印象があった。
アスカは何故か、本当に何故か、急に世界に一人放り出されたような気分になった。
そんな自分の気分が不可解で、彼女はその横顔から視線を外すと、不機嫌に呟いた。
「寝ないの、あんた」
「うん。目が覚めちゃった。アスカは?」
「アタシも」
「どうしよっか」
「どうしましょっか」
「…今何時なんだろ?」
と、視線を同時に壁にかかったそれに向ける。
まだ9時だ、と同時に呟いて、顔を見合わせた。
「眠れないはずよ。今時小学生でもこんな時間に寝ないわよ」
「そうだね」
そして彼はぽつりと、言ったのだった。
じゃあ、散歩、行かない?
月でも影って出来るのね、と当たり前のことに彼女は気づいた。
確かに地面には、月が明るく照らした影がうっすらと映っていた。
その影はあまりに薄く、透き通っていて、つい存在を忘れてしまいそうなほど儚かった。
夜の散歩は、いつも少年少女をわくわくさせてくれた。
何か悪い事をしているような、秘密の何かをしているような。
だから彼女は、何となく寄ってみたそこで極めて不機嫌そうな声を出したのだった。
「シンジ、アイス食べたい」
「うん」
「あ、それとプリン」
「焼きプリン?それとも大きい奴?」
「ううん…とりあえず両方」
「うん」
夜の散歩は、たかがコンビニでの買い物すら何か特別な物にしてくれるらしくて。
「シンジ!これ何?」
「えっと、スナック菓子だよ」
ドイツには無いの?と、こういう感じのは売ってないと彼女は答えた。
どばどばっと彼が持った籠に適当に入れる。
「シンジ!これ何?」
だから彼女はあくまで不機嫌に顔を輝かせてあっちこっちをうろうろしたのだった。
と、その変な袋が目に入った。
「シンジシンジ!これなんて読むの?」
「花火だよ」
花火。彼女の目が極めて不機嫌に輝いた。
ばーん!ひゅー!
「キャー!」
火の花がロケットのようにすっとんで湖に消えた。
彼女が極めて不機嫌に歓声を上げた。
「シンジシンジ!これ何?これ何?」
「えっとね、これはねずみ花火、こっちは…」
「シンジ見て見て!」
「えっ?」
「パレッドライフル!!!」
「うわあああ!?」
彼が悲鳴を上げて逃げ回った。
おほほほと極めて不機嫌に笑いながら彼女はロケット花火の束を彼に向ける。
人に向けちゃいけないんだよ!という彼の抗議の声が聞こえた。
ねずみ花火がしゅるしゅる音を立てて彼を襲った。
彼は悲鳴を上げて逃げ回った。
彼女は極めて不機嫌にころころ声を上げて笑いながらぽいぽいそれを彼に投げた。
人に投げちゃいけないんだよ!!という彼の抗議の声が聞こえた。
「見て見てシンジ!」
バレリーナの真似!などと意味不明な事を言いながら、彼女が花火を振り回し踊った。
その火花の帯がくるりと回って、確かにあの、名前は知らないけどバレリーナのあれっぽく彼にも見えた。
彼女が鼻歌を歌った。
ふんふんふーんと即興で歌いながらそれを回す。
月明かりが火花の帯をさらに綺麗に浮かび上がらせた。
静かな湖畔に彼女の極めて上機嫌な鼻歌とぱちぱち火が弾ける音だけが聞こえた。
彼の黒い瞳にその彼女の姿が写った。
生命に満ち満ちた彼女のその姿が彼の瞳に焼きついた。
その瞳には一瞬、彼女が本物のバレリーナに見えた。
しゅ、と花火が終わった。
耳が痛くなるぐらいの静寂だった。
何故か、お互いに息を潜めあったのを感じた。
何を話せばいいか一瞬わからなかった。
ふと何ともいえない寂寥感が彼と彼女を襲った。
湖にほんの少しだけの波が生まれて、微かに音を鳴らすのが聞こえた。
「…あ、アイス」
と、ふと思い出して思わず呟く。
あ!と彼女も声を上げた。
「…溶けちゃった」
「あー!」
彼女は極めて不機嫌に。
「馬鹿シンジ!溶ける前に言いなさいよ!」
「だって忘れてたんだもん…」
「罰としてプリンは両方アタシの」
「えー!」
自分だって忘れてた癖に…と抗議して、でもしょうがないから溶けたカップアイスを一口。
結構、これはこれで美味しかった。
隣に座りあって、お菓子の袋も開けた。
ばり、と大きな音が響いた。
月明かりの湖は綺麗だった。
沈黙したまま、もくもく食べる。
嫌な、沈黙ではなかった。
すると、彼女が何かを潜ませるようにそっとつぶやいた。
「ねえ」
「うん?」
と、彼女は黙った。
プリンを食べながら、でもゆっくり口を開いて。
「こないだの」
「…こないだ?」
「こないだの使徒」
「うん」
「アタシの事、守ってくれたわね」
「…うん…」
彼女が大きく息を吸うのが聞こえた。
それが、微かに震えてるのが分かった。
だから彼は、じっと耳を澄ませた。
「…ありがとう。」
彼女は、ふ、とやはり何かを達成したかのように、息を吐いた。
彼はただきょとんとした。
彼女はそんな彼の様子に気づかず、そっと、囁いた。
「…かならず借りは返すわ」
「…うん」
「絶対よ。」
「うん」
「必ずだからね」
「うん」
「楽しみにしてなさいよ。」
「うん」
彼は微かに笑った。
やはり幼子のような笑い方だった。
そのはにかむような口の端に、アイスがついていた。
だから一瞬の気の迷いだったのだろう。
そう、気の迷いに違いなかった。
「アイスついてる」
「え?」
と彼がそれを指で拭く前に。
その唇の端のアイスを、ちゅ、と口で舐め取った。
彼はぽかーんとしていた。
その様子に気づかないように、彼女は極めて不機嫌に言った。
「…明日」
彼はどこかぼんやりしたまま相槌を打った。
「必ず倒すわよ。アタシとあんたで」
「…うん…」
そして、決戦の日が訪れた。
15/8/17