リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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9-2 男×少女

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蟹的なあれに挟まれたその指先から一滴血がしたたった。

 

藍色の髪をした彼女は、まだ小さいその指をぺろりと舐める。

すると、傷口が見る見る内に塞がった。

まるで動画を逆再生したかのようなそれを当たり前のように眺めて、空を見上げた。

 

日差しが気持ちよかった。

少女にとって初めて体験する冬以外の気温。

これを春と呼ぶのかしらねえ?と水色に近い空を飽きもせず見上げた。

 

すると、白く小さい何かがはためいてるのが見えた。

なんだろう?と首を傾げる。

 

それがふわふわと近づいてきたので、思わず幼さの残るその手を差し伸べた。

すると、その白い何かが指先にふわりと止まった。

 

…蝶だ。

 

モンシロチョウ。

 

初めて見たそれに、ミサトちゃんはほえ~と感嘆の声を上げた。

すると、まるでその声に驚いたかのように、あるいは少女をからかうかの様に蝶は飛び去ってしまった。

あっ!まあああてえええええ!と声を上げて彼女は飛び跳ねた。

 

白い少女はその様子を砂浜に座って眺めながら、いい仕事ね、とその蝶に賞賛の言葉を送った。

 

春のような日差しは暖かく。

なぜか、海鳴りすらもどこか柔らかく、そしてやさしく響いてくるようだった。

レイは、その撫でてくるような海鳴りに耳を傾けながら、もう一度彼の名を囁いた。

 

「…しんじ」

「うん」

 

彼は相変わらず彼女のひざの上でこの世の春を満喫しているようだった。

 

「…シンジ?」

「そう」

 

彼はゆっくりと、どこか暖かい口調で呟いた。

 

「碇シンジ。それが僕の名前だよ」

 

ざざん、ざざんと心地の良い海鳴りはやはり春を喜んでいるようだった。

 

「碇…さん?」

「君」

 

彼女は少し首を傾げた。

 

「碇君て呼んでくれると、おじさん泣いて喜んじゃうかも」

「ずっと年上の貴方を、君って呼ぶの?」

「そう。ためしに呼んでみて」

「…碇君」

「うん。もう一回」

「碇君」

「うん。更にもう一回」

「碇君」

「もういっちょ」

「碇君」

「更に一声」

「碇君」

「なに、綾波」

 

その言い方に妙な違和感を覚えて。

でも彼は空を見たまま彼女に視線を合わせようともしなかった。

それを不思議に思いながらも彼女はおずおずとつぶやいた。

 

「碇…君?」

「なに」

「…大人の貴方を君づけで呼ぶって、やっぱり変」

「なら、好きに呼んで良いよ。君は君だもの」

「じゃあ………シンジ。」

「うん」

 

彼女はぼんやり海を眺めた。

そして海鳴りが五つ鳴った後、ぽつりと言った。

 

そう、貴方が、と。

 

「…貴方が、あのサードチルドレンだったのね」

「ばれちゃった」

 

彼は悪戯がばれた子供のような口調で言った。

 

「だから言ったじゃない。その筋じゃ有名人だって。

 シンジならともかく碇なんて苗字めったにいないもんねえ。だから言いたくなかったのさ」

 

そう言いつつ、よいしょと顔を上げると、体をずらして彼女の隣に座った。

 

「でも下の名前はよく有るわ。ならそっちだけ教えてくれても良かったのに」

「言われて見ればそうだね…おじさん最近頭鈍くてさ、そんな発想もできなかったよ」

 

すると、彼は改めてこんなことを言い出した。

 

「…本当に怖かったろ?」

 

彼女はその深い声に耳をすませた。

 

「初の実戦だものね。しかもあんな恐ろしい相手に」

「…でも、もっと上手くやれた気がする。手だって一回の使用ですんだかも…第三眼だって」

「それは無茶だよ。僕の初陣なんてそれはもうめちゃくちゃだったよ。どうやって使徒に勝ったのかすら覚えてなかったんだから」

「…最強のチルドレンの貴方でも、そうだったの?」

「実績とシンクロ率だけなら最強だったかもね。でも僕よりよっぽど強いチルドレンは居たよ。

 女の子だったけどさ。そんな僕に比べたら…君はずっとずっと、立派さ。」

 

その呟きに彼女は少し目を伏せて体育座りになると、自分の膝の上にあごを乗せた。

そしてどこか儚く、寄せ返す波を見つめた。

 

するとボッと音がして、また臭いような、でも何故か嫌いではない落ち着く香りが漂って来た。

まだ吸うのね、と彼女は少し呆れながら、隣に座って同じく海を眺めてる彼を見つめた。

 

「ん?」

 

彼はその視線に気づいて、でも視線を海に合わせたままそう呟いた。

彼女はそのひんやりした横顔を見つめながらゆっくりと口を開いた。

 

「タバコ」

「うん」

「吸いすぎだと思う」

「そう?」

 

彼は海を眺めながら、その青黒い深海のような瞳を細めてくすりと笑った。

 

「体に悪いわ」

「いやあ、何せ三度の飯より煙草が好きでね。墓までお供する予定さ」

 

それに、と。

 

「体に悪いだとか何だとか…僕にそういうのが当てはまると君は思うの?」

 

彼はようやく目の端に彼女を捕らえると、横顔を向けたまま口角を少し上げて笑った。

その笑みは彼の横顔の冷たさと相まってなにか悪魔的な、ぞくりとするほどの冷酷な色彩を宿しているように見えた。

だから彼女は思わず目を背けて、囁くように低く呟いた。

 

「…つまり」

 

うん、と彼が視線を海に戻して相打つ。

つまり、と彼女はもう一度呟いて。

 

「…貴方は、使徒なの?」

 

その問いに、彼は何事でもないように口を開いた。

 

「まあ、そう思うのが普通だよね。でも、僕が使徒なら色々おかしいと思わない?」

 

彼女は少し思案して。

 

「元サードチルドレンの貴方が、使徒…?」

「それもあるね」

「…15年前の使徒戦で寄生型の使徒は確認されてる」

「確かに。でも使徒は全部で12体だった。それは全て殲滅されたはず」

「嘘なのかもしれない」

「どうして?」

「最終号機のS2機関の事だって私知らなかった」

「おかしな話だね」

「なら、つまり貴方は…使徒に、なってしまった?」

「それが仮に正しいなら、やっぱりおかしくない?」

「何が」

「僕は何度も“使ってる”よ」

 

その意味を一瞬考えて、ああ、とひらめく。

 

「パターンブルー?」

「そう。僕が使徒なら検出されてなくちゃおかしいはずだ」

「それもマハに大目に見てもらってるんじゃないの?」

「まさか。そもそもパターンの検出系統はマハに直轄せず独立している」

「じゃあ…」

「もしかしたら、僕が元サードチルドレン碇シンジって言うのから嘘かも」

 

彼女は一瞬考えて、即否定した。

 

「そんな嘘をつくとは思えない。意味ないもの」

「嘘つきを、知らないんだね。嘘つきが嘘をつくのに理由も意味もないよ。

 何故なら嘘をつくことそのものが目的だから。つまり愉快犯なのさ」

 

いいえ、と彼女はやはり否定して。

そして、おずおず呟いた。

 

じゃあ、と。

 

「…貴方は、何?」

 

それに彼は一瞬だけ目を細め。

 

「それをこの世で一番知りたがってるのはね、綾波」

 

そして平坦な声でこう紡いだ。

 

 

「…僕だよ。」

 

 

 

 

 

 

「プラグの回収は済んだのね?」

 

伊吹マヤ副司令は発令所でクレバーに、だがどこか怒りを感じさせる声を発した。

報告しに来た職員は少し緊張を纏いながらも事務的に言葉を紡ぐ。

 

「はい。ですがパイロットは脱出したらしく無人でした。現在残留物の解析を急がせてます」

「脱出したパイロットの行方は?」

「それが…第三眼の使用が原因でマハの探知システムが約13分37秒間ダウンしていました。

 その間に都市外に逃げたのか、現在新東京市、ジオフロント内共に不審人物は観測されていません」

「…それもどこまで信用できるかしら」

「はい?」

「いえ、継続して探索を続けて。それとアンノウンの解析は?」

「それも急がせていますが…いかんせんレベルコキュートスで凍結されてます。

 解凍に相当時間はかかるでしょう。いっそ最終号機で『手』を使ったほうが早いかもしれません」

「そう、なら貴方に任す。事務処理が済んだら私もそっちに参加するから、それまでには何とかしなさい」

「はい」

「それと、先に言ったようにラストチルドレンの監視を厳重に。24時間継続させて」

「はい…ですが」

「命令よ。」

 

何か言いたそうにしてる職員を無視して彼女は平坦に言葉を続けた。

 

「ちなみに今は?」

「…上の廃墟のFー23G34地点の海辺に居るようです」

「一人?」

「はい」

「煙草は?」

「は?」

「空気成分に何かしらの不純物は混じってる?」

「いえ…そんな形跡はありませんが…?」

 

その言葉にふむ、と一つ頷いて。

…上の監視カメラの予算、ケチるんじゃなかった、とマヤは独り言ちた。

 

マヤは職員が去った発令所でぼんやりとそれを眺めた。

 

ドックに佇む、凍結された紅のエヴァ。

改めて禍々しい、と彼女は思った。

明らかに悪魔を模した角、その形相、何もかもが邪悪と悪意に満ちている。

 

誰が、一体何の目的でこんなエヴァを?

 

彼女は睨みつけるように眼を光らせ、じっとそれを見続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・Ⅱ『男×少女』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうやらモンシロチョウは遠くへと旅立ってしまったようだった。

 

あんたそんな急いでどこに行くの~?とミサトちゃんは心で囁いた。

 

が、一瞬で興味を無くして砂浜に座ってる二人に早歩きで駆け寄った。

そしてポケットに手を突っ込んだまま、ん、と彼に口を差し出す。

 

すると、彼は小さな煙草を取り出して彼女の口にくわえさせた。

彼女は少し耳をかき上げながら、彼が吸っている煙草と煙草の先端を斜交いに合わせた。

 

シガーキス。

それを隣で眺めていた白い少女は眉をひそめた。

 

その二人の一連の動作は妙にこなれていて、そのミサトちゃんの仕草は外見に反して異様に大人びていて。

何か、一種の色気のようなものすら感じてしまって、さらにさらにレイの眉間の皺が深くなった。

 

彼は海に小走りで走っていくミサトちゃんの背を少し眺めて視線を戻す。

すると目と鼻の先に紅い瞳があった。流石の彼も思わず、うわあ、と声を上げた。

 

「…え、何?どうしたの」

「ん」

 

と、白い少女は至近距離で口を差し出した。

 

彼は、ん?と首を傾げた。

彼女はさらに口を差し出した。

 

「ん」

「ん?」

「ん。」

「んっ?」

「ん!」

 

彼女は仕方なく呟いた。

 

「タバコ」

「ん?」

「ちょうだい。」

「えっなんで」

「いいから。」

「君、煙草吸わないんじゃないの?」

「いいの。」

「だめだめ。煙草は二十歳になってから」

「じゃなんであの子は吸ってるの」

「いやあ、あの子ああ見えて44歳だし」

「ふざけないで。」

 

その鋭い眼光にしょうがないなあ、と彼は呟いた。

小さな煙草を彼女に差し出す。彼女はぱくりと咥えた。

そしてやはり、ん、と煙草の先端を彼に差し出す。

 

彼は、ん?と首を傾げた。

彼女は眉間に皺を寄せさらに口を差し出した。

 

「ん」

「ん?」

「ん。」

「んっ?」

「ん!」

 

ああ、と彼は、ぽんと手を叩いた。

ライターを差し出して、ぺし、とその手を叩かれた。

痛て、と彼は呟いた。

 

「ん!!」

 

彼女はさらにさらに煙草の先端を彼に向けて。

ああ、と彼は今度こそ納得したようにぽん、と手を叩いた。

 

その様子に、彼女もうんうんと頷く。

ようやく彼は自身の咥えてる煙草を彼女のそれにそっと近づけた。

 

彼女の頬が心持ち赤くなった。

そしてその先端の火が斜交いに触れる。

 

寸前彼はライターで彼女のそれに火をつけた。

 

…。

 

しばし見詰め合う。

 

すると、彼女は、まるで花が開いたかのようににっこり微笑んだ。

彼も、うれしそうに満面の笑みでにっこり微笑んだ。

 

ざざあん。

 

ざざあん。

 

「いやあ、流石の僕も一日で二回殴られるの初めてかも」

「私も一日で二回人を殴ったのなんて初めてよ…」

 

彼女は砂浜に横たわって咳き込んだ。

彼は海鳴りに耳を傾けながら、だから言わんこっちゃない、と微笑んだ。

 

「大丈夫?」

「タバコなんてもう一生吸わない…」

「そっちのほうがいいよ。煙草なんて百害あって一利もないからね」

「じゃ貴方はどうしてばかすか吸ってるの」

「だよねえ。どうして世界はこんなに不思議に満ち満ちてるんだろう…?」

 

彼はすっと遠くを見ながらそう呟いた。

それを無視して、彼女は咳き込みながら、うっすらと呟いた。

 

「…どういう意味なの?」

「なにが」

「さっきの」

 

彼は少し首を傾げた。

 

「一番知りたがっているのは、貴方だって」

「ああ…」

 

そう呟いてまた新しい煙草に火を点けた。

 

「そのままの意味さ」

 

それに少し思案して、彼女は正しい答えを導き出した。

 

「どうして、そうなったのか、わからないって事…?」

「そ。気が付いたらこうなってたのさ」

「…よく、わからない」

「だよねえ…僕もさ。」

 

彼は深く、深く煙草の煙を吸うと、数秒息を止める。

それから、ゆっくりと吐き出した。

 

彼の今の言葉を反芻しながら、でも、何を言っていいのかわからなくて。

すると、海を眺めるのに飽きたらしいミサトちゃんが無造作に駆け寄り、彼の両足の間に座った。

レイの眉間の皺が深くなった。

 

「…その子のことも、まだ聞いてない」

「ん?…言ったじゃない。立て込んでるから機会があれば話すって」

 

その眼光に気づいてないかのように彼はのほほんと続けた。

 

「…本当に、話すと長くなる。」

「古い、知り合いって言ってたわね」

「そうだね。ふるーい知り合いさ」

「あたしはあんたのこと知らないけどね」

 

と、ミサトちゃんのその言葉にレイは少しだけ目を丸くする。

 

「…どういうこと?」

「この子、昔の記憶をなくしてるんだ。だよね?」

「まあ、そうだけど」

 

こて、と背中を彼に預けながら、彼の口元の煙草をかっさらう。

一口吸い、美味しそうに煙を吐き出しながらミサトちゃんは呟いた。

 

「あたしも聞きたいわね。あんたがあたしの何を知ってるのか」

 

レイはその意外な成り行きに沈黙を守りつつ観察した。

 

「だから言ってるじゃない。君が記憶を無くす前の知り合いだって」

 

彼は、ん、と呟いて、するとミサトちゃんは手に持ったまま彼の口に煙草を咥えさせた。

そのまま美味しそうに吸うと、すっと煙を吐く。ミサトちゃんもその煙草を咥え、同じく美味しそうに吸い込んだ。

 

レイはそんな二人の様子にやっぱり眉をひそめつつ、改めてその幼さの残る少女を観察した。

 

年齢はたぶん10歳かそこら、行ってても小学生なのは間違いないだろう。

藍色のボブカットの髪は人形のように艶やかで顔立ちもよく、将来大変な美女になる予感を抱かせた。

だからこそ、レイは一種の危機感と敵意でもってじろっとミサトちゃんを睨みつける。

 

…だって、彼、ロリコンだもの…。

 

出そうな杭は打つべし。

 

そう思いつつ、すると、その視線に気づいたミサトちゃんが、んべ~と舌をだした。

レイは更に刃物のようにすっと目を細めた。

 

「まあいいじゃない。それより一週間だけの春を楽しもうよ」

 

彼は空を眺めながらやはりゆったりと囁いた。

 

「生まれて初めての春を満喫しよう。楽しまなきゃ損だ。

 きっとこの空も二度と見れない、最初で最後の空に違いないよ」

 

その言葉にレイは空を見上げた。

空の水色が大分濃くなっていた。

 

確かに、彼の言うとおりに違いなかった。

 

「しっかり目に焼き付けよう。忘れないようにね」

 

 

 

水色と言うより藍色に近くなった深みのある空は、確かにはじめて見る色彩だった。

 

正午をとうに過ぎた太陽は、疲れたように少しずつ身を横たえ始めていた。

どうやらもう少しで交代の時間のようだった。

 

海鳴りは相変わらず何千、何万回聞いても飽きなかった。

ふと、きっと同じ海鳴りは二度と聞けないのだな、と彼女は気づいた。

その形作る波もそうして生まれる音も、きっと最初で最後の初めての物なのだった。

 

彼女は仰向けに横たわりながら、背中で彼の体温を感じた。

 

彼の呼吸にあわせて少しだけ揺れるリズムが心地よかった。

まどろみながら、僅かに脈動する彼の鼓動を感じた。

いつからかまったく同じ音を奏でていて、どちらがどちらの鼓動なのか良くわからなかった。

 

すると、うおおおお、と遠くでミサトちゃんの声が聞こえた。

うっすら目を明けて観察してみると、どうやら蟹的な何かに鼻を挟まれたようだった。

いい仕事ね。仕事熱心なのね貴方、とその蟹的な何かを心でねぎらった。

 

冷たい風が緩やかに吹いて、少し寒かった。

 

彼女はゆっくりうつ伏せになると、彼の胸に顔を埋めた。

耳元で確かに心臓の鼓動が聞こえた。それに安心したように、体から力を抜く。

 

相変わらず背の高い彼は、その体の上で彼女が寝そべってもまだ面積があまっているようだった。

今度から彼をベッドにするのも良いわね、と彼女はまどろみながら思った。

 

すると彼の繊細で長い指が彼女の髪をすっと撫でた。

それが心地よくて彼女は、ん、と息を漏らした。

 

「さあ、日が暮れるよ。もう帰りなさい」

 

深く低い声が心地よくて、さらに彼の首筋に深く手を回した。

彼が少し苦笑いした気配がした。

 

「君って結構甘えんぼなんだね」

「どこが」

「いや…どこがって君…」

「気のせいよ」

「そう?」

「そうよ」

「そう?」

「そうよ」

「そうかなあ?」

「そうよ。自意識過剰も大概にしてくれる」

「…そう?」

「ええ。みっともないわ貴方。いい加減にして。」

「うーん。了解」

 

彼女はさらに首筋にまわした手をきゅっと強く結ぶ。

そして彼の首元で大きく息を吸った。

男の体臭と交じり合った煙草の匂いが胸いっぱいに満ちた。

 

彼は彼女の髪を優しくすきながら、ゆっくりと囁いた。

 

「…僕が怖くないの、君」

 

彼女はまどろみながらどうして、と同じく囁いた。

 

「どうしてって、僕は使徒かもしれないじゃないか」

「でも、使徒じゃないんでしょ」

「多分ね。でも…」

 

すると、彼は彼女の目の前に掌を差し出した。

 

一瞬だけ握って、開く。

その手には、真っ赤なりんごが握られていた。

 

彼女は一度だけ瞬きをした。

彼はしゃり、とそのりんごをかじり、そしてゆるりと囁いた。

 

「君は僕を、人だと思う?」

 

その問いに、彼女はそっけなくこう答えた。

 

そんなの、と。

 

「そんなの、知ったこっちゃないわ。」

 

彼から微かに困惑の気配がした。

そして少しの間のあと、ゆるく低い声で笑った。

 

「君は変わった子だね、綾波」

「…名前」

「うん?」

 

彼はやっぱり微笑みの気配を纏ながら呟いた。

 

「…レイ?」

「うん」

「レイ」

「…うん…」

 

彼はもう一度彼女の名前を呼んだ。

 

レイ。

 

その響きの心地よさに、あるいはその体温の暖かさに。

 

 

彼女はすっと、意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

白いプラグスーツの自分=彼女が、いつものように青い水面に立っていた。

 

やはりいつものように寂しいと訴えるのだろうか、と彼女は思い、

でも、いつまでたっても彼女=私の声は聞こえなかった。

 

突然、あのメロディーが遠くから聞こえた。

ああ、なんて、なんて美しい旋律。

 

すると、ゆっくりと、白が降ってきた。

 

 

雪だ。

 

 

それを不思議に思っていると、水面の彼女がゆっくり顔を上げた。

 

一瞬目が合う。

やはり、血のような紅い瞳。

 

そして、彼女はまるで雪で出来ていたかの様に、すっと水面に溶けて消えた。

 

 

 

 

 

 

声が聞こえた。

 

…レイ。

 

彼の声?いや違う。

中年の男の、低い声。

聞いたことのない、はず、の声。

 

レイ。

 

あなた、誰?

 

だがそれは言葉にならなかった。

変わりに、彼女はこう口を開いた。

 

…―――司令。

 

 

 

 

 

 

ふ、と目を開ける。

 

見慣れた天井だった。

いつの間にか自分の部屋で寝ていたようだった。

 

ふとんを上げて、視線を下げると、シャツ一枚だった。

壁に黒いセーラー服が綺麗にかけられていた。

 

とっさに首に下げたお守りを確認する。

しっかりとあの紅い玉は入っていたので、安堵の吐息を漏らす。

 

一瞬どこまでが夢だったのだろうか、と思い、周りを見回した。

 

簡素な部屋。

その小さなテーブルの上に、鍋が乗っていた。

ベッドから降りて、それを手に取ろうと、ふとその横のメモが目に入った。

 

『温めてから飲むように。それから、風邪を引かないようにゆっくり休みなさい』

 

もちろん、彼に違いなかった。

想像通りの、繊細で綺麗な字だった。

 

彼の上でまどろんだ所までは夢じゃなかったらしい。

でも、どうして自分の住まいを知ってるのだろう、などと無意味な疑問は持たなかった。

そんなのは考えるだけ無駄だった。

 

だからそのメモを手にとって、何度か読み返し、そっと、胸に当てた。

 

鍋はコーンスープだった。

どうやらインスタントではないらしいそれはとても美味しかった。

 

まるで心まで、あったかくなるようだった。

 

 

 

 

ミサトちゃんはその廃墟の屋上でぼんやりと仄暗い夜空を見上げた。

風が吹いて、おかっぱの髪がさらりと凪いだ。

 

すると、見上げた先に光。

蛍火のような、僅かな光。

 

彼女はすっと目を細めた。

 

「何見てるの」

 

彼がいつの間にか彼女の横に立って同じく夜空を見上げた。

彼女は驚くでもなく平然と口を開いた。

 

「多分、あたしをキャッチしたと思う」

 

ふうん、と彼は煙草に火をつける。

 

「救助はいつぐらいになりそう?」

「二、三日後ってとこじゃない?多分ね。」

「そっか。じゃあ、もしかすると春が終わる前にお別れだね」

 

彼は指に挟んだ煙草を、そのまま彼女の口に差し出す。

彼女は手を使わずそれを咥えると、深く息を吸いゆっくりと吐いた。

 

かすかに、白かった。

 

それはあっという間に夜に溶けてなくなった。

ぼんやりそれを見届けてから彼女はしみじみと口をきった。

 

「しかしあんたって変な奴ねえ」

「何がさ」

 

彼は咥え煙草で街を見下ろした。

なんて美しい廃墟都市。

だがそれを眺めてる彼の横顔はひどく冷たく写った。

 

「あの白い子が最終号機のパイロットなんでしょ?普通敵のあたしに会わす?」

「君はそれを喋っちゃう子かな」

「別にそんなつもりはねーわよ。興味ないもん」

「じゃいいじゃない。それに、君の組織はとっくにあの子の情報を掴んでるはずだよ」

「そう?」

「あたりまえさ。じゃなきゃマハの裏をかくなんて出来っこない。である以上別段隠す必要もないさ」

 

彼女はふ~んと鼻を鳴らした。

 

「じゃ、マハを欺いてあたしを匿ってるあんたは何者よ」

「企業秘密。」

 

彼は目だけでくすりと笑って。

彼女はふん、とやっぱり鼻を鳴らし。

 

「あたし、もう少しであの子殺すとこだったのよ?」

「そうだね」

「じゃなんでふっつーにあたしら仲良く会話してんのよ」

「人は遅かれ早かれ死ぬよ」

 

静かに囁く。

 

「それに、そもそもあの子はきっと、死ななかったろうしね。」

 

まるでそう決定されてるようなその呟きが意味不明で、彼女は首を傾げた。

 

「第一…君も十分変な子さ」

 

彼を吸殻を捨てると、新しい煙草を咥える。

すると、何もしてないのにその先端にぼ、っと火が灯った。

 

「僕のこと、もっと怖がるかと思ったよ」

「べっつにい」

 

彼女はそれを横目に本当にどうでもよさそうに呟いた。

 

「あんたが使徒だろうがなんだろうがどうでもいいわ」

「それは良い風に受け取っていいのかな?」

「お好きに。あたしはね、ただ暴れたいの。それでいいの」

 

無表情に街を見下ろし。

自身のまだ平らな左胸の上をそっとなぞって、彼女は紡いだ。

 

それ以外、どうでもいいのよ~ん…。

 

その仄暗いような、かすれたような呟きに何か感じるものがあって、彼は横目で少女を見た。

目を伏せたその幼い横顔がふと、彼の何かに触れた。

 

デジャブ。

 

ああ、と彼は心で囁いた。

その横顔は確かに。そう、確かにあの時の。

 

一瞬、彼の脳裏にあのミニチュアの美しい夕闇の絵がよぎった。

 

 

“私には、貴方が、必要よ。”

 

 

だから彼はそっと目を逸らして、廃墟の街に視線を落とした。

 

見下ろせば、哀愁を寄せ集めて作られたような街。

過去の街。

 

すでに、あらかじめ失われている、街。

 

 

やはり彼にはそれが、まるでミニチュアの街のように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16/2/11

16/2/13加筆


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