リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
彼女の舌はとても苦かった。
それも当然だろう。あの時期を境にこれだけタバコを吸うようになってしまったのだから。
今でははっきりとヘビースモーカーになってしまったが、そもそも彼はこんな関係になるまで彼女が煙草を吸うことすら知らなかった。
だが決して臭くは無かった。流石に女性だけあって、彼女といえどその辺のケアだけはきっちりしていてくれているようだった。
そう、だから少年にとっても彼女との舌を絡め合う口付けは不快ではなかった。
むしろその唾液や舌の奥の苦さは、確かに彼には大人の女性の象徴のように感じた。
人の重さと心地よさを彼は彼女で初めて知った気がした。
肌と肌が触れ合う信じられないほどの気持ちよさも、もちろん初めての知識だった。
その肌と比例するように心が温かくなるような快楽は、粘膜が伝える快楽とはまるで種類が違っていて、彼はむしろそちらの方がよほど好きだった。
こんな事しなくて良いのに、と彼は思った。
ただ、裸で添い寝してくれるだけの方が少年にはよっぽど嬉しかったのだ。
もちろん、そんな事を彼女に伝えようとは思わなかったが。
彼には確かにその粘膜の快楽に拒絶と嫌悪があった。
本人は何故かよくわかっていない。だが汚されているという感覚が確かにあったのだ。
殆どの宗教、文化で姦淫暴食などが穢れとされてきたのはきっと無関係では無かった。
それは必ずしも性的な意味に限った話ではなく、あらゆる意味の快楽はつねに汚れと表裏だったから。
蛇の誘惑と象徴される堕ちる感覚は何時いかなる時も快楽の極みだった。
少なくとも、汚れる、堕ちるというそれそのものが、時に目的にすり変わってしまうほどには。
彼女の豊かで柔らかな胸がゆるりと揺れた。
薄暗い部屋で、彼女のその大きな乳房が青白くうっすらと光っていた。
その丸みは少年ですら触れたいという欲求を抱かせるほどに魅惑的だった。
その左胸の上には、植物の絵。
基本鈍感な彼は、最近ようやく彼女のその刺青が、右下の傷跡と対になっている事に気が付いた。
醜い、とすら形容できてしまう右乳房の傷跡と、左乳房の美しい刺青の形は反転していて、形から長さまでほぼ同じなのだ。
引き攣った傷と植物をモチーフにした絵という違いがあるだけで。
彼はふ、と何か閃くものがあった。
傷跡と刺青は根っこはまったく同じものなんじゃないか、と。
刺青とはつまり、小さな傷跡の集合体なのではないだろうか。
生涯消えない小さな傷跡が寄せ集まって、ただ絵に見えるように錯覚させているだけ。
なら刺青も傷跡も同じものなんじゃないか。つまり、どちらも何かの痛みの跡なのだ。きっと肉か心かの違いがあるだけで。
彼の孤独だったゆえに豊かな感性は、彼女が刺青を入れた理由を脈絡も無く洞察してみせた。
確かに彼はある種の確信を持ちつつ、熱くなった頭でこう思った。
ああ、きっとバランスを保ちたかったんだろうな、と。
そこまで考えて彼はあっ、と思わず女の子のような声を上げた。
彼女の熱く艶かしい舌が、絡むように彼自身をちろりと舐めたから。
こうなってはもう無理だった。もう何も考えられない。ただ頭は熱で焼き尽くすように真っ白になった。
きっと、熱なのだ。
少年の中の何か、例えば感性だとかなんだとか、とにかく熱に弱い部分がきっとあるのだ。
それは恐らく、細菌のように一定以上の熱で蒸発してしまうほどか弱く、繊細で。
彼女との行為は少年の何かを灼熱のように加熱させて、きっとその高温に耐えられず、少しずつ、何かがぐずぐずと蒸発し失われていくのだった。
つまり彼女との行為に嫌悪を抱くのは、自慰すら知らなかった彼にとってそれはまさに想像を絶する快楽だったからだ。
あまりに甘美すぎて、飲み込まれてしまう。
その経験も想像もした事の無い快感は、確かに少年の何かを変えていってしまうようだった。
その嫌悪の源泉はつまり、自己の変質という未知に対しての恐怖に他ならなかった。
・
ふ、と彼は目を覚ました。
ひどく懐かしい夢だった。
深海のような青い瞳を人差し指と中指でこする。
少しぼんやりしていると、げし、と彼の頬に何かがぶつかった。
どこかもみじを連想させるような、まだ幼い足。
寝巻き姿のミサトちゃんが凄い寝相でぐーすか寝ていた。
彼女に眼差しを向けて、彼はおもむろに手を伸ばした。
そっと、その人形のように整った前髪を真ん中で分ける。
しばらくの間、彼女の幼さの残る寝顔を能面のように眺めて、すっと手を引っ込めた。
そして布団をしっかりと彼女にかけ直すと、枕もとの煙草を手に取る。
まだ夜明け前らしく、カーテンすらないその部屋はそれでもまだ薄暗かった。
パイプベッドと、石油ストーブと、いくつかのダンボール。
そしてコンクリートの壁で打ち付けられたその廃墟は、寂寥感を通り越して悲しみすら見るものに感じさせた。
もちろん、彼にとってどうでもいいことだった。
無造作に煙草に火をつけるとゆっくりと息を吐いて、白い煙が溶けて消えるのを見届ける。
そして火の先をじっと見つめた。
一日の始まりの明かりが彼の形をゆるりと照らした。
灰暗い影の中で彼の輪郭と、蛍のように儚い火と、その青い瞳だけが鈍く光っていた。
だがその瞳には何の感情も宿っておらず、まさに水の底のように仄暗く。
ひどく、ひどく、凍えそうなほどに、冷たかった。
・Ⅲ『少年×女』
白い少女はそこに足を踏み入れると空を見上げた。
清々しい水色の空とその廃墟の団地のギャップは、やはり彼女の何かに触れてくるようだった。
軍艦島みたいね。
レイはそんな感想を持った。
少しにじみ出た額の汗をぬぐって、こないだの記憶を頼りにその巨大な団地を歩く。
その廃墟で形作られる影は、こんな暖かい日ですら涼やかな気配がした。
確かここだったはず。
目当ての扉の前に立って、ノック。2回、3回。
でも返事が無くて、部屋を間違えただろうか?と疑問に思い、ゆっくりとノブを回す。
鍵はかかっていなかった。
パイプベッドと、石油ストーブと、いくつかのダンボール。
どうやら部屋は間違えてないようだった。
なら入れ替わりになってしまったのだろうか?
最近少し豊かになった彼女の表情がやんわり暗くなった。
すると、それが目に入った。
どうやら元々あったらしいタンスの上に、いくつかの文庫本。
こないだ来たときには気づかなかった。
だから、彼女は落胆を誤魔化すように靴を脱ぎそれに近づいて手に取った。
ブレイク詩集。
その詩集は割と古びていて、長い間読まれているようだった。
彼、ウィリアム・ブレイクが好きなのね。
ふと、ブレイクが描いたあの悪魔の絵を思い出す。
“大いなる赤き龍”
すると、脳裏にあの五つの奇形の瞳のエヴァが一瞬よぎった。
彼女は思わずぶるりと鳥肌をたてて、その詩集を置いた。
もう一つの詩集を手に取った。
中原中也。
名前は知っていたが、彼女は読んだ事はなかった。
ぺらぺらとページをめくる。
すると、何となく気配がして目を横に滑らせた。
超至近距離でミサトちゃんが見上げていた。
彼女は思わず、わっ、と声を上げてしまった。
「おいっすー」
「あ、貴方ここで何してるの…?」
と、ミサトちゃんの髪が濡れていることに気づく。
というかまっ裸だった。それにひくっと彼女の頬が一瞬引きつった。
すると、バスルームから足音と彼の声。
「こら、髪ちゃんと拭きなさい。風邪引くよ…ってあれ?」
と、振り向いた彼女は、無表情のまま頬をりんごのように染めた。
「やあ、いらっしゃい」
サア、と気持ちの良い風が開けっ放しの窓から入ってきた。
それが緩やかに二人+一人を撫でた。
彼女はそれが止むのを待ってからゆっくりと呟いた。
「あなた…何してるの」
「えっ?風呂入ってたんだけど」
「どうして」
「いやどうしてって、ガスなんてないし、日中じゃないと水風呂寒いでしょ」
「どうして、その子と入ってるの」
「えっ?別に、ついでだけど。」
「そもそもどうして、この子がここに居るの」
「えっ?どうしてって、ここに泊まってるし」
「どうして」
「話すと長くなるなあ」
「いつから」
「一昨日から」
「そう」
「ところでレイたん」
「なに」
「君、思いっきりガン見してるね」
「そうね」
「逆に僕が照れちゃう」
「そう?良かったわね」
「別に良くはなくね?」
「で、毎日一緒に入ってるの?」
「ん?そういやそうだね」
「そう…」
彼女の瞳がすっ、と刃物のように細まった。
そして、セーラー服の袖を掴み。
「ATフィールド…」
彼はきょとんと。
「全開。」
ばさっと勢い良くセーラー服が宙を舞った。
・
ミサトちゃんはシャツ一枚のままバスタオルでごしごしと頭を拭いた。
窓につるされた幾つかの洗濯物が風に吹かれはためいた。
踊るような太陽の光と影が気持ちよくて少し目を細めた。
…だからなんで。駄目な物は駄目。だからどうして。どうしても。
あの子とは入ってたじゃない。それはそれ、これはこれ。だから…
どうやらまだあの二人は言い争ってるようだった。
仲良いわねえ、と呆れながらダンボールからパインの缶詰をとりだし、ベッドに座ってかしゅっと空けた。
「とにかく駄目。」
「冷血漢。鬼。悪魔」
「悪魔だもーん」
そんなやり取りをしつつようやく二人がバスルームから出てきた。
どうやらあの白い子は交渉に失敗したらしかった。
残念そうに床に落ちていたセーラー服をとると、仕方なさそうに袖を通す。
デニムだけ履いた彼がベッドに座って改めてタオルで髪を拭いた。
「それで君、学校は?」
「さぼったわ」
「あれ、結構不良さんだね」
「せっかくの短い春だもの。時間無駄にしたくない」
「納得。で、今日はどうしたの」
「用事がないと来ちゃ駄目なの」
「まさか。いついかなる時もウェルカムさ」
すると、彼女は一瞬だけミサトちゃんを見た。
それから彼の隣に座って、彼だけに聞こえるように声を潜めて言った。
「ここ…出た方が良いと思う」
「どうして?」
「副司令が怪しんでる」
「ここを?」
「そう。」
「ああ、こないだ来た時に?」
「ええ。今も多分監視されてる」
「別にいいよ」
それにきょとんとして。
「…どうして?」
「どうしてもさ」
「それも、マハが誤魔化してくれてるの?」
「そうかもね」
「でも、直接誰か来られたら、いくら貴方だって…」
と、その視線に気づいて、改めて横に座っている彼を見上げた。
何か暖かいような、くすぐったいような温度のある視線に、彼女は思わず目を泳がせた。
「君は、優しい子だね」
「…何が」
「僕は心配しなくても大丈夫だよ」
すると彼は、手のままパインを食べていたミサトちゃんにフォークを差し出した。
もちろん、フォークを隠す場所などあるはずも無かった。
当たり前のようにそれを受け取ったミサトちゃんを見ながら彼は囁いた。
「どうにでもなる。」
それにどう答えたらいいかわからなくて、同時に確かに説得力を感じて。
彼女はそう、と呟いて、さらに言葉を紡いだ。
「まるで、手品みたいね」
「確かに。でも、種は無いよ」
はい、と彼は真っ赤なりんごを彼女に差し出した。
もちろん、どこから取り出したのか聞くなど無意味だった。
受け取って、しゃり、と一口。
とてもとてもおいしいりんごだった。
彼の手にもやはり、りんごが合った。
しゃり、と頬張る。
彼女はりんごを食べながら、静かに囁いた。
「昨日の」
「ん?」
「貴方のこと」
「うん」
「つまり…貴方、元々は普通の人だったの?」
「そのはずだよ」
りんごを租借しながら煙草を一口。
それはやはり、思案するための間を作る動作に彼女には見えた。
「僕なりに、長い時間かけて色々調べたよ」
煙と一緒に吐き出したその言葉に、彼女はうん、と続きをうながした。
「なぜこんな存在になってしまったのか、いくつかの推測は出来た。
でも、それも確かな事じゃなくて、結局今に至るまで原因は判明していない」
彼はしゃり、とりんごをもう一口。
そして、無表情に囁いた。
「…一体『何』になってしまったのかすら、今もわからないんだ」
やはり、その横顔は全てを拒絶するかのように、ひどく冷たかった。
その横顔を少し見つめて、それから彼女は食べかけのりんごを見つめた。
彼の今の言葉を反芻しながら、でもやっぱり何を言っていいのかわからなかった。
「怖いなら、食べなくてもいいよ」
何か勘違いしたらしい彼が笑いを含む声でそう言った。
彼女はそれを無視して、しゃり、とそのとてもとても美味しいりんごをかじった。
彼が少し、目を伏せる気配がした。
「…本当に変わってるね、君」
そう?と彼女は続けた。
「昨日言ったでしょ。知ったこっちゃないわ。」
そして口に含んだ果実をこくりと嚥下した。
「貴方は、貴方だもの」
・
「一緒に入ってやればよかったのに」
ミサトちゃんは三個目のパインの缶詰を開けながらのほほんと言った。
髪をすくブラシの感触が割りと気持ちよかった。
汗かいたから私も入る。
そう言って浴槽に消えた白い少女はやはり不満そうだった。
「あの子あんたが好きなんでしょ?少しぐらい手だしてやればいいじゃない」
「それは駄目だよ」
「どってよ?」
彼はミサトちゃんを膝に乗せてその髪をすきながら、当たり前のように言った。
「彼女にはずっと無垢でいてもらわなきゃね」
ん?と首を傾げる。
「エヴァに深くシンクロするために一番必要なのは何か知ってる?」
「知らね」
「…君そんなこと知らずに乗ってるの?」
「まーねー」
「純粋と、無垢だよ」
彼女はわずかに目を丸くした。
「…初めて聞いたわ、そんなん」
「そう?でも、事実だ。親への欲求や欠けた心だけじゃ、一定以上のシンクロは出せない」
ふーむ?とミサトちゃんは首を傾げた。
「そして古今東西、無垢と純粋を維持するのに必要なのは」
「…処女童貞ってこと?」
「そう。昔から芸術家には割とそういう人多いよね。
知ってたんじゃないかな、それを維持する方法」
「いやいやいや。それを信じろっての?」
「本当だよ?少なくとも僕は、はっきりシンクロ率が落ちた」
ふむ?と彼女はうなった。
「…あんたやっぱりあのサードチルドレンだったのねえ」
「今更だね。言ってなかったっけ?」
ふ、と彼は笑った。
「…シンクロの下落はもちろん、人によって違うんだろうね。
性的な事を経験してもあまり落ちない子も居るんじゃないかな。でも、あの子がそうだとは限らない」
なるほどね、と。
「最終号機のパイロットだもんね。危ない橋は渡らないってこと」
「そう。じき、来るからね」
彼はミサトちゃんの髪をアップにしながら囁いた。
「…深き神が」
そしてゴムで縛ってポニーテールにすると、ぽんと頭を叩いた。
「本当は僕が乗りたいよ」
彼は低く囁いた。
「あれには僕が乗るべきなんだ。本来そうあるべきだ…そうでなくちゃいけないんだ。
でも無理だ。悲しいけど、僕はもう汚れた大人になっちゃったからね」
もう一生、エヴァには乗れない。
その呟きに、ミサトちゃんは心持ち静かに囁いた。
「…なんかそんな詩あったわよね」
「ん?」
「確か日本人の。なんだっけ。汚れちまった悲しみに…」
「『今日も小雪の降りかかる』」
彼女は上目で彼を見た。
彼は煙草を咥えて火を点けながら、ゆっくりと呟いた。
「『汚れちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れちまった悲しみは
たとえば狐のかはごろも
汚れちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
汚れちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れちまった悲しみは
け怠のうちに死を夢む
汚れちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……』」
そして彼は煙草を咥えたままパイプベッドに横になった。
ぎしり、と音が鳴る。
彼は窓に映る空を見た。
コンクリートの部屋の薄暗さとその空のギャップは、
一瞬、ほんの少しだけ彼の失われた残滓を撫でた。
だから彼は煙と一緒に、それをそっと吐き出した。
「…汚れちまった悲しみにい~…」
少年は、窓に映る空を見た。
情事の後、彼女はいつも優しく少年を抱きしめる。
そうして彼女の豊かな胸に彼をゆるく抱き、一緒に眠る。
でも、抱きしめるのは彼女だけで、少年の腕はいつも投げ出されたままだった。
いつものように彼のほうが早く目が覚めて、その乳房から顔を出し、彼女が目覚めるまで肩越しに、空を眺めた。
一日の始まりの明かりが彼の頬を照らした。
綺麗だった。でも、不思議と前より空を見たいと思わなくなっていた。
彼女のゆるい呼吸が彼の額をくすぐった。
青みかかった長い髪が彼の背を撫でるようだった。
そして重なった肌はとてもとても暖かかった。
だから、多分気の迷いだったのだろう。
そう、気の迷いであるはずだった。
彼はそっと、手を伸ばした。
一瞬迷って、でも、おずおずと彼女の背に手を添えた。
ぴくり、と彼女が震えるのが分かった。
いつの間にか起きていたらしい。
すると彼女もおずおずと、彼のまだ少年らしい頭に手をやって、きゅっと抱きしめた。
彼は少し目を伏せて、でも、同じくきゅっと彼女の背を抱きしめた。
彼女が、何か震えるような吐息を漏らした。
彼の頭蓋を抱く彼女の指先も少し震えていた。
その震えの意味など、その時の彼にはよくわからなかった。
ただ、彼女の暖かくどこまでも柔らかい感触が気持ちよかった。
だから。
二人は初めてお互いを強く、強く、抱きしめあった。
16/2/13
参考資料
汚れちまった悲しみに……/中原中也