リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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10-1《愛より 悲しみ深いのは だあれ》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春、と呼ぶには今日の気温は少し高かった。

もちろん、あの遠い昔の夏の日々に比べればよほどすごしやすかったが。

 

彼は砂浜に仰向けに寝転がりながら空を見ていた。

綺麗だった。だがそれだけだった。あの少年時代の、空を見上げるたび抱いた心の震えるような感動は、もう無かった。

 

…汚れちまったかなしみに~…

 

白い少女の涼やかな声が聞こえた。

その心地のいい響きに、彼は目を瞑って聞き入った。

 

 汚れちまったかなしみに~

 

 今日も小雪の降りかかる~

 

 汚れちまった悲しみに~

 

 今日も風さえ吹きすさぶ~

 

 汚れちまった悲しみは…

 

そこで声は途切れた。

彼は、彼のお腹あたりを枕にして詩集を広げている彼女に呟いた。

 

「どうしたの」

「ううん」

 

白い少女は彼に寄りかかり、同じく砂浜に寝そべりながら小さく囁いた。

 

「よく、わからない」

「中原中也?」

「ええ」

 

と、彼の所有物だったその文庫本を閉じた。

彼はおかしそうに笑った。

 

「あたりまえだよ。中原中也は遠い昔への憧憬の詩が多いからね」

「そうなの?」

「そうさ。失われた哀愁の詩だよ。でも君はまだ失われていない。

 これから失われるかもしれない、まさにその渦中にいるんだから。まだぴんとこないのはあたりまえさ」

 

そう?と彼女は囁いた。

そう。と彼も囁いた。

 

「中原中也の詩が心に染みるようになったら中年の始まりさ~」

 

そう言って彼女から詩集を受け取って、ぱらぱらとめくった。

彼女はその様子を眺めて、空を見上げた。

 

なんて、綺麗な空なの。

 

その澄み切った空は、確かに彼女の何かを震わせるようだった。

でも太陽はまぶしく、少し暑かった。

さっき彼の部屋で水風呂に入ったばかりなのに、また少し汗ばんでいた。

 

「夏って、こんな感じ?」

 

その呟きにまさか、と彼は笑った。

 

「こんな物じゃないよ。あまりの暑さに君なら失神しちゃうかもね」

「そう?…見てみたい」

「いつか、僕が見せてあげるよ」

「…本当?」

「本当」

「約束?」

「約束。」

 

うん、と彼女は幼子のように頷いた。

 

すると、うおおおと遠くでミサトちゃんの声が聞こえた。

観察してみると、どうやらウニ的な何かを素足で踏んでしまったようだった。

素敵よ貴方、とそのウニ的な何かを心でリスペクトした。

 

と、けほっ、と咳き込む。

 

すると、彼の手が彼女の額をすっと撫でた。

その感触が気持ちよくて猫のように目を細めた。

 

「…ちょっと君、熱あるじゃないか」

「そう?」

 

自分で額の熱を測ってみる。良く分からなかった。

でも、確かに頭が重いような感覚はあった。

彼が上半身を起こした。

 

「水風呂なんて入るから…」

「貴方たちも入ったでしょ」

「そうだけどさ。昼と夜で気温差大きいし、体調崩すのも無理ない」

 

そう言って彼女にそっとコートを羽織らせた。

 

 

 

「…凄い量ね」

「必要なもの一通り買ってきたからね」

 

彼はその山のような買い物袋を小さなテーブルの上におく。

そして彼は無造作に窓に近寄ってその景色を眺めた。

 

見下ろせば大都市。

かつて森林と湖しかなかったそこは、それが嘘のように巨大な街が出来上がっていた。

 

地下都市ってやつか。

 

その真ん中には、見覚えのあるピラミッドのような巨大な建物。

一瞬それに眼差しを向けて、それから視線を上げる。

 

空中都市。

 

そのジオフロントの壁には横から生えたようにビルや建物ができていた。

その景観に少し感嘆していると、彼女がやや遠慮がちに言った。

 

「…お金もってたの」

「うん。実はおじさんこう見えても小金持ちなの」

「…ああ、サードチルドレンだったから?」

「そう言う事。当時は保護者に管理されてたけどさ、毎月の小遣いすらあまり使わなくてね。

 チルドレン時代のお金ほぼ手付かずで残ってたのさ」

 

彼は窓から離れると袋から桃と果物ナイフを取り出し。

 

「だからそんな生活してるのね」

「そ。だからいい年して無職でふらっふらしてるの」

 

簡素なソファーに座って桃をむき始めた。

彼女はベッドに横になってぼんやりとそれを眺めた。

額の濡れタオルは大分生暖かくなっていた。

 

「君も結構良いお給料貰ってるだろ?どうしてこんな殺風景な部屋なのさ」

「必要ないもの」

 

その言葉に彼は改めてその部屋を見回した。

非常に簡素で、本当に生活に必要な最小限なものしか置いてなかった。

もっとも、かつての『彼女』の部屋に比べればよほど生活感はあったが。

 

「欲しいものは無いの、君」

「無いわ」

「何も?」

「うん。興味ない」

「そっか。僕と同じだね」

 

彼女はなんとなく目を瞬かせた。

 

「世間じゃさ、無欲が尊いみたいな価値観もあるけど。

 実際に無欲な人に言わせれば、そんな事ないよね」

 

ガラスの小さい容器に切った桃を並べる。

 

「欲しい物が一つも無いってことは、全てに意欲を持てないって事だ。

 それこそ、生きていく事にすらまともに意欲を持てないって事だ。

 欲しい物があれば、それを手に入れるために色々と頑張れるから。

 なら貪欲な方が、よほどまともで立派な人間になれるさ」

 

その横顔をぼんやり眺めていると、彼がフォークに刺した桃の切れ端を差し出した。

あん、と素直に口を開けて、ぱくり、と食べる。とてもとても甘くて美味しかった。

彼は心持ちやさしい眼差しでゆったりと聞いた。

 

「何か食べたいものはある?」

「買ってくるの?」

「いいや。作るのさ」

 

彼女は少し目を丸くして。

 

「料理できるの?」

「実はね。昨日のスープどうだった」

「…美味しかった」

「ならよかった」

 

そう言って彼は台所に立った。

一通りの調理器具はそろっているはずだった。

今まで一度も使ったことはなかったが。

 

「あの子はいいの?」

「うん。ミサトちゃんもたまには一人になりたいだろうしね」

 

その背を眺めて、すると包丁の、心地の良いリズムが控えめに部屋に響いた。

それに耳を傾けながら彼女は囁いた。

 

「明日も行くかもしれないわ」

 

すると彼の背から苦笑いのような気配がした。

 

「駄目だよ。風邪を治さなきゃ」

「大したことない」

「無理は禁物さ」

「嫌」

「…しょうがないね君は」

 

どこか暖かくやさしい色彩を帯びたその声に、彼女はよく耳をすませた。

わかったよ、何時でもおいで、と彼は言ってくれた。

そして、低く、心地の良い声でゆるく囁いた。

 

…君を蝕む気が狂いそうな恐怖と不安を、僕が少しだけ薄めてあげよう。

 

少しだけね。

 

その言葉に彼女はじっと彼の背をみつめて。

そして小さく、仄かに囁いた。

 

「ねえ」

「うん?」

「…釣り、行きたい」

「釣りねえ?」

 

彼は意外そうな声を上げた。

 

「一度、してみたかったの」

「いいね。じゃ釣竿用意しておこう」

「いつでも行っていいのね」

「いいよ、いつでもおいで。朝でも夜でも君の来たい時にね。まあ僕でもほったて小屋ぐらいにはなれるよ多分」

 

彼は野菜をむきながら囁いた。

 

「こんなぼろぼろのほったて小屋でも、上手く利用すれば少しの雨風ぐらい防げるかもしれないよ」

 

僕じゃきっとそれ以上の存在にはなれないけど。

 

その言葉に、彼女は黙って彼の背を見つめた。

ただただ、じっと、彼の背を見つめた。

 

「早く恋人でも出来ればいいね君。それまではまあ、おじさんで良ければ好きに使いなよ」

 

少しの沈黙。

それからゆっくり、そしてひっそりと彼女は口を開いた。

 

「…行って、いいのね」

「いいよ。明日も晴れだって。やっぱり二度と見れない空に違いない。

 しっかり目に焼き付けよう、生涯忘れないようにね」

「でもやっぱり行かないかも」

「あれっ。そうなの?寂しいな」

 

彼が笑いながらそう言った。

 

「…私が来ないと寂しい?」

「そうだね。寂しいね」

「やっぱり行くかも。多分ね。もしかしたらね」

「そう?じゃゆっくり寝るんだよ。出来たら起こしてあげる」

「…うん」

 

そして彼女は彼の背をみつめながら、ゆっくり目を瞑った。

 

 

 

 

ミサトちゃんは一人でぼんやりと海を眺めていた。

海の向こうで、うっすらと、何か光った。

 

2回、3回。

少しの間の後また数回。

 

彼女の瞳が細められた。

その光を見届けてから、低く囁く。

 

「明日、か。」

 

そして無意識に右手でその左胸の上をなぞる。

と、その自分の動作に気づいて、改めて不思議に思う。

 

それは、ずっと昔からの彼女の癖なのだ。

 

あの時、記憶も何もかも失ってさまよっていた時からの、古い古い癖だったのだ。

どうして左胸なのかしらねえ?とミサトちゃんは久しぶりに疑問に思う。

もちろんそこには何も無いのに。

 

でも、と。

でも、と彼女は思う。

何かが足りない。

 

何かを失ってしまっているという感覚、その喪失感はずっと昔からあった。

最初は自分の過去だとか、多分家族だとか、そういうものだろう、と思っていた。

だが、いつからか何か違う、と違和感を覚え始めた。そんな時、いつも彼女は左胸をなぞっている自分に気づくのだ。

 

ある種の確信を持って彼女は思う。

バランスが、失われている。

何か、あるべきものが失われている。

あるべきものを、自分はなくしてしまっている。

 

バランスを崩しながら生きる方法など一つだった。

その傾いた方向にただ、走り続けるしかないのだ。

そうでないと転んでしまうから。

 

そして転んだが最後、バランスを失った体では再び立ち上がるのは困難を極めるに違いないから。

 

ふと、『あの少年』の姿が脳裏をよぎった。

 

あのさまよっていた昔から、時々フラッシュバックのように脳裏をよぎるその姿。

あの全てを失った頃から、唯一の手がかりのように探し続けている、その姿。

 

薄ぼんやりとして、その顔立ちは良く見えない。

でも、いつもその少年は学生服を着ていて、黒く短い髪をしていて清潔そうで。

自分は、いつもその姿を遠くから眺めているのだ。

いつもいつも、憧憬を込めるように遠くから…ただ、眺めているのだ。

 

やはり、彼女の胸が何か握り締められるような、切ないような、痛いような感覚。

だから彼女はそれに耐えるように、いつもその少年にこう囁くのだ。

 

あんた、誰なのよ。

 

その声が聞こえたかのように、少年がふと振り向いた。

でも、その顔が見える寸前、いつもその映像は消えるのだ。

消える、はず…なのに。

 

でも、少年はそのまま振り向いて。

気が付くと、あいつになっていた。

 

煙草を咥えた、深海のような青黒い目の、無駄に背の高いあいつ。

 

それに彼女は思わず目を瞬かせて。

でもそのフラッシュバックは消えた。

彼女はそれを不思議に思いながら、まさかね、と思った。

 

まさかね…。

 

そして、彼女はやはり無意識に左胸をなぞっていた。

そこにあったはずの何かを懐かしむように。

まるで失われた欠片をなぞるように。

 

でもどれほど探し続けても、どうやっても、彼女にはその欠片が、見つからなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

青Ⅷ 《愛より 悲しみ深いのは だあれ》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・Ⅰ

 

 

 

 

葛城ミサトは、鏡に映ったその傷跡をぼんやりと眺めた。

 

彼女の豊かな右乳房の下には、醜い、とすら形容できてしまう引きつった傷跡。

そしてその反対、左乳房の上には植物をモチーフにした美しい刺青。

 

良く見るとそれは対になっていて、長さから何までそっくりだった。

ただ、刺青と傷跡という違いがあるだけで。

 

すると、アラームが鳴った。

 

ふ、と意識を取り戻したように、彼女は目を瞬かせた。

かちり、とアラームを止める。

そして服を着ると、棚からそれを取り出した。

 

やや小さめの、銃。

 

それに無表情に眼差しを向けて、懐にしっかりと入れる。

す、とふすまを開けた。

と、彼女は振り返って、もう一度鏡に写った自分を見た。

 

でもすぐ興味を無くした様に、彼女はそっけなくふすまを閉めた。

 

 

 

 

 

 

「猫も杓子もアスカ、アスカかあ」

 

まいど、とケンスケは差し出された金を受け取って、空を見上げた。

足元には隠し撮りしたらしい、女子の写真の束。

今日も暑い日だったが、体育館裏の日陰はそこそこ汗ばむ体を涼しくしてくれた。

 

「まあ、見てくれだけなら文句ないからなあ」

 

トウジが相変わらずジャージ姿でぼんやり相槌をうった。

いい加減慣れたがその姿はやはり見ているだけで暑苦しかった。

 

「そやろ、シンジ」

「うん?うん」

 

同じく隣に座ってぼんやり空を見上げていたシンジが、やはりぼんやりと呟いた。

 

「綺麗だもんねえ、アスカって」

 

その言葉にケンスケとトウジは一瞬顔を見合わせた。

 

「なんやなんやなんや。やっぱあれか?おまえ惣流とできてるんか?」

「できてる?」

 

意味がわからなくてシンジは少し首をかしげた。

 

「何カマトトぶってんねんおまえ。実はもう惣流とあんなことや…」

「そんなこと。」

「あげくのはてには」

「こんなことまで…」

 

二人は同時に声をあげた。

 

「「しちゃってるんじゃないの~!?」」

 

やっぱりシンジ少年はきょとんと首をかしげる。

その無反応っぷりに二人は少しつまらなそうにため息をついた。

 

「まあシンジやからなあ…」

「もったいないなあ…」

「…えっと、何が?」

「何がってナニがや」

「そうだよ、一緒に暮らしてるっていうし」

「そもそもなんで一緒に暮らしてるねんおまえら」

「えっと、なんかミサトさんがそう言ったんだって」

「ふん?」

 

両方ともエヴァのパイロットだから、防衛上の問題、とかかな?とケンスケは一人納得した。

 

「まあいいや…じゃあ、おまえらにとっておきを見せてやるよ」

 

懐からすっと写真を取り出す。

写っているのは、アスカの風パン後ろ姿。

トウジはおお!と思わず声をあげた。ケンスケがふふん、と得意げに言った。

 

「な。近年まれに見る傑作だろ?」

「へ~アスカのパンツって小さいね」シンジがのほほんと。

「はんまや。なんでこんな小さいねん。ええ仕事や…仕事熱心な女やなあ…」

「だろ~?これはお前らだからこそ見せてやるんだからな?」

「おい、かせや」

「なんだよ。おまえ惣流嫌いだろ」

「それはそれ、これはこれやろ。使わせろって」

「しょうがねーなあー」

「使うって?」

 

そのシンジの呟きに、二人の体が止まった。

 

まじまじと少年を見る。

シンジはその二人の様子にやはりきょとんとした。

それに二人は乾いた笑い声を上げた。

 

「いやまたまた!」

「そうや!流石のシンジかて…」

「冗談だ…よ…な…」

 

彼はやっぱり幼子のように首を傾げた。

 

「…なあシンジ。これお前にやるよ」

「えっなんで?」

「遠慮すんなって。友情の証だ」

「そや。お前に譲ったる」

「いやいらない」

 

…。

 

「…いや遠慮はいらんて。な?存分に使えや」

「え?だから使うって…?」

「そりゃもちろん…」

「一体ナニにかしらね?」

 

その声に二人はびくう、と体を震わせた。

ぎぎぎ、とその声の主に視線を合わす。

 

振り返ると奴がいた。

 

 

 

 

「痛いわ…ガチ殴りしやがったあいつ」

「お袋にも殴られた事無いのに…」

 

二人は渡り廊下で腫れた頬を撫でながら校庭を見下ろした。

ぷりぷりしている惣流とおろおろしているシンジが見えた。

 

「メガネひび入ってるし。許せねえ惣流…」

「メガネはお前の一部やもんな」

「つまり惣流は俺の魂にもひびを入れたって事だ。何時か必ず泣かしてやる」

「俺も手伝ったるわあ…とりあえず毛虫やな」

「は?」

「ん?」

「毛虫?」

「ああ、惣流泣かすんやろ?男が女を泣かすっつったら毛虫バッタにゴキブリと相場がきまっとるやろ」

「お前も相当ガキっぽいよな…」

「何がや!?それが古来より女泣かす三種の神器やろが!他にどんな方法で泣かすねん?」

「…ああ…まあ、いいか。まあ驚きの顔を激写してやろう」

「おうそれが良い。奴の変顔ばらまいたれ」

 

するとケンスケはしみじみと言った。

 

「にしてもさ…凄いなシンジ」

「流石に…なあ。あそこまでとは思わんかったわ」

 

トウジは深く相槌をうった。

うん、とケンスケも頷く。

 

「写真すら必要無いほど想像力が豊かとはな。いっそ羨ましい」

「そやないやろ」

「…やっぱりそうか?…そう言う事?14歳で?」

「そうやろ…信じられんけどシンジならなあ」

「シンジならなあ…」

「ちょっと尊敬すらするわ。俺なんか小5からやぞ」

「へ~結構遅いんだな。俺小2からだよ」

「小2…小2!?」

「え?なんでちょっと引いてんの?」

「引くやろ!小2て!年齢一桁って!せめて高学年まではいたいけな少年で居ろや!」

 

おまえの親御さんが泣いてまうやろ!トウジは全力でつっこんだ。

 

「そうか?低学年はやっぱおかしい?」

「おかしいわ。俺ですら引くぞ。どんだけエロやねんお前…覚醒早いなあ…」

「ああ…やっぱむっつりエロかなあ俺。うっすら自覚はあったんだけどな」

「だからカメラ少年になってしまったんとちゃう?お前腐ってるで…早すぎたんや。

 生き急ぎすぎや。そんな急いで何処行くのん?」

 

人生はマラソンやぞ、ペースを考えろ。

その言葉にケンスケはうむ、とうなった。

 

「しかしそんな覚醒早いなら小坊の頃天国だったんちゃう?女風呂かてフリーパスやん」

「ああ、まさしくパラダイスだったよ。我が小学生時代に一片の悔いも無い…」

 

ケンスケはすっと目を細め遠くを見た。

その瞳には深い哀愁が宿っていた。

 

「羨ましいわ。でももう少しいたいけな瞳でいてやれや。瞳が可哀想やろが。即新古車やん。

 10年にも満たず汚されてしまった瞳の気持ちを考え。だから愛想つかされて視力落ちたんやぞお前」

「やっぱりかあ…そんな気はしたんだよ。嫌われたんだな」

「嫌われたんよ。僕は要らない子なんだねって泣きながらどっかいってしもうたんよ。お前の視力」

「しかし早くチェリー捨てたいなあ」

「唐突にも程があると思うで?」

「でも捨てたいだろ?」

「無論や。論ずる価値も無いやろが。口に出すのもはばかれるわ」

「だよなあ。いつ捨てられるかなあ?」

「中学生の内は…なあ?」

「出来れば…ううん…難しいかもな…」

「でもせめて高校生ぐらいまではなあ」

「ああ、せめて十代の内にはな?」

「卒業したいわな」

「したいなあ…でも俺ら全然もてないよな…」

「欠片たりともモテへんな」

「むしろやや避けられてるな」

「それは言わない約束やで」

「まあ、大体理由はわかるけどな」

「そやな」

「…こんな人通りの多いところで堂々とこんな話してたらなあ」

 

ひそひそと女子のきもっ系な話。

指をさしてる女子すらいた。

 

「何。別にええやろが」

「しかしわざわざこんな所でする必要もなくない?」

「なんでや。こそこそ隠すなや。エロで何が悪いねん!?

 エロい話も堂々と。男たるもの隠しはしない。鈴原トウジです」

「ああ…おまえ男の中の男だわ」

 

しっかしシンジが羨ましいなあ。と。

 

「ミサトさんに惣流まで同居だぞ?」

「そうかあ?ミサトさんはともかく惣流なんて嫌やで。ノイローゼになるわ」

「でもさ、やっぱ一つ屋根の下で暮してる以上エロハプニング的なさ…」

「ううん。まああるかもな。でも仮にあってもシンジやで?猫に小判とはこの事やがな」

「…下手すると俺らで最初に卒業するのシンジだったりしてな…」

「いや無いやろ?」

「そうか?でも意外とあんな奴の方がさ…シンジに先越されたら俺立ち直れないかも」

「う~ん。でもシンジやで?あいつが押し倒すなんて無いやろ?」

「つまりシンジが今の環境で卒業したらそういう事じゃないの?」

「あっ…ああ!」

「な!?そういう事だろ?つまり、押し倒されるのは」

「シンジの方…」

「ミサトさんに押し倒されるシンジ…」

「あるいは惣流に押し倒されるシンジ…」

 

…。

 

「あっしまった。前かがみになってしまう」

「お、俺もや…まいった」

「な!?シンジ羨ましいだろ!?」

「ああ…確かに。多少はな」

「多少じゃないだろ!?全力で羨ましいだろう!」

「そか?俺は女に主導権握られるなんて嫌やで。どっちかと言えば押し倒したいわ」

「俺は押し倒されたい。常日頃から押し倒されたい」

「俺らモテるわけないなあ」

「だよなあ…」

 

とくだらないやり取りをしつつ。

そしてトウジは、はあ、ため息をついた。

 

「でも実は俺なあ…最初はシンジの奴、カマトトぶってるのかと思ったわ」

「ああ、俺も。でも違うなあれ。マジだ」

「ああ違うな。マジもんやな」

「マジもんだ」

「どういう環境で育ったらああなるんやろ?」

「さあな…」

 

でも少なくとも、と。

相変わらずおろおろしながら惣流の後を付いていく少年を見下ろし、少し声を潜めて言った。

 

「…まずもって、普通の環境じゃなかったんだろうなあ…」

 

 

 

 

「信じらんない!」

 

いやらしい!

 

男子ってこれだから、と惣流アスカラングレーはどすどすとアスファルトを歩いた。

彼女の長い緋色の髪が、その怒りを表願するかのように右に左に乱暴に揺れた。

 

つくつくぼうしの声がよく響いていた。

 

やっぱり空はまだ青みかかっていて、でも太陽は少しオレンジに眩しかった。

少年はその眩しさに目を細めながら、一体何に怒ったんだろう、と首を傾げる。

だから素直に聞いてみることにした。

 

「あの…」

「何よ」

「いや…だから、何に怒ってるの…?」

「はあ!?あんた馬鹿あ!?」

 

彼女は勢い良く振り向いて。

 

「そんなの決まってんでしょ!」

「うん」

「だから…」

「うん」

「そ、その…だから…あれよ」

「うん?」

「だから!あ、あの…」

 

ナ、ナニの事よ…。

 

…。

 

すると、彼女の頬がかああと赤く染まった。

 

それを誤魔化すようにぎろぎろっとシンジ少年を上目に睨む。

でも、その赤くなった頬と少し充血してるような瞳は、何故かあんまり怖くなかった。

それでも彼女はしばらく睨むと。

 

ていっ。ぺしっ。イテッ。

 

「何?なんなの…?」

 

叩かれた額を撫でながら少年は少し不服そうに呟く。

知らない!と彼女はまたどすどすと歩き始めた。

 

「だから何なのさ?」

「はあ!?まだ言う…」

 

と彼女は、ん?と首を傾げた。

振り返ってまじまじと少年を見る。

何ともなしに見詰め合って、彼女はぼそっと呟いた。

 

「…あんた、もしかして本当にわかんないの?」

「うん。だからさっきから言ってるじゃない」

 

ナニって何なのさ、と。

彼女はそれに呆れたような、でも何でだか落ち着いたような吐息をもらした。

その奇妙さにやっぱり少年は首を傾げた。

 

「はあ、なんかびっくり。あんたみたいな奴いるのねえ…」

「ねえ、だから何なのさ。ちゃんと説明してよねっ」

「うっさい。お子様シンジにはまだ早いわよ」

 

そう言って彼女はふん、と歩き出した。

でもその歩幅はさっきより短くて、彼女の長い髪もゆるやかに揺れていた。どうやら怒りが収まったようだった。

それを不思議に思いながら、ああ、もしかして盗撮されたの怒ったのかな?と少年は一人納得した。

 

気が付くと、同じ歩幅で歩いていた。

 

さっきより空が眩しく光り、蝉の声も心持ち小さくなっていた。

綺麗な入道雲が、オレンジに光る斜陽を少しだけさえぎっていた。

でもその雲のカーテンは薄く、その入道雲をなぞる様に光の帯がまっすぐ伸びていた。

 

その光の帯を視線でなぞって空を見上げた。

 

少しだけ仄暗くなった青空に、緋色の光の線が走って、切れ目を入れていた。

まるでその切れ目から別の世界が覗いてる様に少年には思えた。

 

彼は、少しだけ前を歩いている彼女の背を見つめた。

 

やっぱり彼女の緋色の髪は、斜陽に照らされ黄金に輝いているように見えた。

綺麗だな、と少年は思った。

やっぱりアスカの髪って綺麗だな、と思った。

 

すると、彼女は囁いた。

 

「ねえ」

「なに」

 

突然、彼女がガードレールの上にひょい、と飛び乗った。

白いガードレールがオレンジに光り、深い影を作っていた。

その緋色と白の影で出来た線の上を彼女は危なげなく歩いた。

 

「あんたってさ。」

「うん」

「ここに来る前どこに居たの」

 

突然じーじーと蝉が大きな声で鳴って、彼は少し驚いた。

すぐそばの電柱に蝉が止まっていた。でも、すぐに逃げるように飛んでいってしまった。

それを視線でなぞり、でもその影は太陽の光に溶けて見失ってしまった。

 

「叔父さんの所」

「ふうん。親戚?」

「多分」

「多分?」

 

振り向いた気配がした。

でも、太陽はさらに眩しくなって、彼女の影は濃く、表情はよく見えなかった。

 

「多分って…どういう事よ」

「…よく、わかんない」

「…何それ」

「ね。」

 

なんだろ。

 

すると、彼女がその線の上で座り込んだ。

見事なバランス感覚だった。僕だったらそもそも歩くのすら無理だなあ、と思った。

彼女は少し低く、そして呆れたように囁いた。

 

…あんたってわけわかんない…。

 

でも、その表情は太陽が邪魔して見えなかった。

だから、少年にはまるで影が喋っているように思えた。

 

そうかなあ、と彼は思った。

すると彼女は言った。

 

「変よ」

「そう?」

「うん」

「そう?」

「そうよ」

「そう?」

「そうよ!」

 

ううん?と唸って。

 

「ちなみにアスカは、どこにいたの」

「ドイツに決まってんじゃない」

 

そういえばそうだ、と少年はぼへぼへっと思った。

彼女は立ち上がってやっぱりガードレールの上を歩いた。

 

「…ママの所よ」

「お母さん居るんだ」

「うん。あんたのママは何してるの」

 

少し、ひぐらしが鳴きはじめていた。

 

彼女は耳をすませて、相変わらず綺麗でどこか寂しい声ね、と思った。

すると、彼がいつまでも返事しない事を不思議に思って、横目で後ろを見た。

 

彼の横顔がオレンジに照らされていた。

でもその影は濃く、彼のまだ幼さの残る凹凸を際立たせていた。

彼の視線を追うと、見事な入道雲が太陽にかぶさり、淡く美しい影を作っていた。

 

綺麗ね、と彼女は素直に思った。

それからもう一度彼に視線を合わす。

やっぱり、その横顔は少し、冷たい印象があった。

 

「居ないよ」

 

その少年の仄暗い声に、彼女はただ、そう、と呟いた。

 

遠くのスピーカーから音楽が聞こえた。

つまり青空が終わり、夜空が始まる時間になったらしかった。

 

もちろんドイツで育った彼女にはその曲の題名を知るわけがなかった。

でも、その哀愁の宿るメロディーは確かに彼女の何かに触れて、

その胸に悲しいような寂しいような情動を、僅かにたゆらせるのだった。

 

すると少年が、あ、と口を開いた。

 

「僕、こっちだから」

「は?」

 

彼女はきょとんと。

 

「何よ。家帰らないの」

「うん。用事あるんだ」

「何?」

「うん」

 

お母さんの、墓参り。

 

彼女はその言葉に、ふと、改めて彼に眼差しを向けた。

 

少年はやっぱり空を見上げていた。

当然だった。こいつはいつだって空ばかり見ているのだから。

だからなんとなく、彼女も同じように空を見上げた。

 

彼は赤黒くなっていく空を眺めて思った。

 

今日は母さんが死んだ日。

 

なら。

 

 

父さんも、来るかなあ。

 

 

じーーじーーと蝉が鳴って、

それに合わせる様に、りん、りん、とひぐらしが鳴いた。

 

もうすぐ魔法の時間だった。

それに何か淡い期待か、希望か。

あるいは恐怖のようなものを感じて。

 

彼はただ、飽きもせず空を見上げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16/2/16

 

参考資料

汚れちまった悲しみに……/中原中也


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