リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
綾波レイとのくちづけは、いつもシンジの心を揺さぶってくる。
熱く甘い痺れが胸いっぱいに広がって、その感情の放流はそれまで経験したことすらなく。
白い少女とのそれはひたすら少年の心と琴線を愛撫してくるのだった。
それに対してアスカとのそれは逆だった。
ひたすら身体の芯が熱くなって、その情動と熱ももちろん経験したことは無く。
その熱に促されるように、もっと、もっと、と貪りたくなるのだった。
あの時のくちづけを思い出す。
またそこが膨らみ硬くなってしまって、それにやはり少年は困惑する。
この欲求は何なのだろう、と。
いや、正確には性欲というものなのだろうと少年にもわかる。
叔父の家で暇つぶしに本を読み漁ってきた彼には一応知識としてその存在はしっている。
だが実像を伴わない知識などいくらあった所で豚の餌にもならないのだった。
彼はアスカが好きだった。
それはもう大分前から少年の中で論ずる価値も無いほど当たり前のことだった。
でも、その好意がどれに分類されるのか彼に判別できるわけが無かったのだ。
少年は恋を知らない。つまり初恋すら、ない。
さらに彼は自慰、自分で処理するという行為もその存在すらも知らない。
学校の授業でマスターベーションのやり方など教えてくれるわけも無いのだから。
つまり恋愛も性欲も知らない彼にとって、アスカに対するそれが恋なのか、友人のそれか、家族なのか。
そもそも、その好意のどこまでが性欲でそうでないのか見分けられるわけがなかったのだ。
そして彼には、それを分別し区別するという概念すら最初からなかった。
なぜなら、それがどういう種類のものであれ、彼がアスカという少女がとても好きなのは変わりないのだから。
・
精神こそ至上または善、肉欲は唾棄すべき悪であるという思想、あるいは信仰は古今東西多い。
あるいは大体の宗教、道徳においてそれが大半であるのかもしれない。
人は初め精神、つまり心で成り立ち、そして成長によって少しずつ肉の方向へずれてバランスを手に入れる。
つまり幼子にとってはつねに己=精神なのだった。
なら生命の始まりがつねに幼子である以上、原初のそれこそが至高、最も尊いという価値観が存在するのは必然だった。
そして必ずしもそれは間違いとは断言できないのだった。もちろん正しいともやはり断定できないのだが。
そして少年にもやはり上記に近い感覚があったのだ。
つまり、アスカに抱くその欲求が汚らわしい、と言うような漠然とした嫌悪感が。
その性質において明白に幼子、つまり、己という存在をほとんど精神に宿らしている少年にとって。
その肉の欲求は、何か自分のものではないように、彼の意思とは無関係に彼を翻弄するのだ。
肉に振り回される、その欲求に翻弄される。それは思春期の通過儀礼なのだろう。
『己=心』であった子供たちが『己=肉×心』という大人への、強いて言えば馴染むための期間なのだった。
結局、肉と精神は等価値なのかもしれなかった。
精神は肉の影響から脱することは出来ないし、逆に肉もまた精神の影響を回避できない。
その二つは本来、自己という存在のきっと表裏にすぎないのだから。
だが、惣流アスカにとっては己の肉はまさしく度し難い侵略者に他ならなかった。
成長するたびに肉体が無理やり彼女を変えてくるような、そんな感覚があったのだ。
その肉への嫌悪は、生理というものが始まってからなおさら激しくなった。
子供なんて欲しくないのに。
男に生まれればよかった、そんな風にすら彼女は考えることがあった。
肉の成長、それに伴ってはっきりしてくる肉体の属性に心がついていかない。
なのに彼女の心とは無関係に、肉は明白に心に影響し彼女の承諾なしに彼女を変えてくる。
肉体の形に自分の心が削られ、むりやり当てはめられていく感覚。
では、肉によって削られた心の残りカスはどこへいってしまうのだろう?
彼女が恐れるのは日々女らしくなっていく肉だった。膨らんでいく乳房が憎らしかった。くびれていく腰が気持ち悪かった。
『アスカ』という個人である前に『女』という属性に無理やり当てはめられるその支配が許し難かった。
ちなみに彼女は後年、エヴァが子供しか動かせないのは己=精神だからなのではないかと推測する。
エヴァへのシンクロとはまさにエヴァという肉への同調に他ならないからだ。
なら、すでに『己という肉』と同調している大人が『エヴァという肉』に改めて同調できないのはあたりまえだった。
そしてチルドレンでもっとも心が幼い、つまり極端に自己=精神属性であったシンジ少年のシンクロ率に勝てなかったのも。
その認識は彼女が後にエヴァの開発に関わるようになって大いに役に立つ。
だがそれは今はまだ余談であり、そして未来の話である。
Ⅲ 『肉と心』
シンジは叔父の所に居た頃、時々深夜に家を出ることがあった。
そもそも、彼は用事が無いときは滅多に外に出なかった。
学校から帰るとずっと離れにこもってまずピアノを弾いて、それから図書館で借りた本を読んだり。
何故か、人の目が苦手だったのだ。
いつも周りの人に変な目で見られているような気がして、だから昼間は外に出る気になれなかった。
だが、深夜は別だった。
そもそも彼は早寝早起きだった。日が暮れるとピアノを弾けなくなるからだ。
つまり、夕食を済ませてしまうとすることなど何もなかったのだ。
だから時には夕食後すぐに寝て、夜明け前、場合によっては0時過ぎに起きることも珍しくなかった。
そんな時、彼は何となく、夜を歩く。
深夜の街は、それこそ人の気配などまるでなかった。
そこがあまり都会ではなかったのもあるだろう。
でも、そんな夜中に一人っきりで、なのに彼はまったく欠片たりとも怖いと感じなかったのだ。
むしろ人の気配の無い夜を歩いてるとき、シンジは何故か包んでくれるような優しさを感じた。
後になって振り返ってそれを不思議に思う。
だが、確かに夜だけがその頃のシンジの時間だったのだ。
変な連中に絡まれたり補導されなかったのはきっと運がよかったのだろう。
夜の空は美しかった。
特に月の出る夜は0時を回ってからが一番美しい時間だった。
目的も無くふらふらと散歩しながら、彼はやっぱり空ばかり見ていた。
月に照らされる田舎道は綺麗だった。
地平線まで続く田んぼや森がゆるりと柔らかく光って、昼間とはまるで違う顔を見せてくれた。
深夜の空気はひどく澄んでいた。
耳を澄ますと、キーンと音がなるほどどこまでも澄みきっていた。
確かに自然や景色は、深夜人が居なくなってから別の顔を見せてくれるようだった。
昼間何とも思わなかった景色が、深夜月に照らせれると彼の琴線をかき鳴らした。
同じ景色でも少し見る角度や時間が変わるだけで、ときに魂が震えるほどの美しさを垣間見せてくれるのだと学んだ。
だがその美しさはひどく寂しく、それゆえどこまでも優しかった。
恐らく、と後になって彼は思う。
その当時はまるで自覚していなかったけど、と。
探していたのだろう、多分。
夜に優しく撫でてもらいながら、夜明けまであても無くただふらふらして。
きっと、帰り道を探していたんだろう。
少年は七歳で、家族も、故郷も、帰る場所も失っていた。
きっとその時からずっとさ迷い続けていたのだ。
碇シンジは放浪者だった。
ただただ膿み疲れた、とても幼い放浪者だったのだ。
・
中心からはもう大分離れていたので、あの酸で溶けたような異臭も、喧騒も届かなかった。
少年は空を見上げた。
やはり深夜の空は澄みきって、キーンと音を鳴らしていた。
満月ではなかったが、半分に欠けたような月がやんわり夜を照らしてくれた。
アスカの髪は、まるで色彩を失ってしまったようだった。
いつもは緋色に輝くその艶が、少年には確かに鈍く、そして薄く見えたのだ。
少しだけ前を歩く彼女の後姿を身ながら、一瞬、その身体が透けたような錯覚すら起こした。
お互い、まだ一言も言葉を発していなかった。何も、喋らなかった。
彼はただ彼女の後を見つめながら夜を歩いた。
最初どこかに行くのかと思ったら、ただ当ても無くふらふらしているようだった。
高層ビルの群れが遠くに見えた。
なのに、少年たちが今歩いてる場所はそのビル郡が嘘のように深い自然に囲まれていた。
ぽつん、ぽつん、と配置されている電灯が、ジジッと鳴った。
ふと、遠くに儚いような明かりが見えた。
自販機のようだった。少し、肌をさする。
この時間はTシャツではほんの少しだけ肌寒かった。
そこで、ホットココアとホットミルクティーを買った。
がちゃん、という音がびっくりするぐらい夜に響いた。
それを手に持ち、きっと彼女は先に行ってしまっただろうから、早歩きで、と。
すると、すぐ近くに背を向けたまま彼女が立っていた。どうやら彼を待っていてくれたようだった。
それに彼はちょっとびっくりして、それからゆっくり、ミルクティーを差し出した。
少しの間の後、彼女は顔を背けながらそっけなく受け取った。
彼もココアを飲みながら、さっきよりゆっくりと歩いた。
すん、と彼女が鼻を鳴らす音が、僅かに聞こえた。
少年はでも声をかけられず、着かず離れず、の距離で彼女の背を見つめた。
坂を上って、高台にある広い公園に入った。
初めて見る公園だった。こんな所にこんな良い公園あるんだな、と彼は思った。
でもやっぱり人影はまったくなかった。まるで廃墟のようだった。
でも、公園を囲むように咲いている花園はとても綺麗だった。
金網の向こうに細い川が見えた。
川の流れが半月にやんわり照らされてちろちろと光っていた。
ふと、その川の流れは一体どこに続いてどこに行くんだろうと考えた。
きっと海なのだろうか、と少年はぼんやり思った。
ベンチに背中合わせに座って、ココアを飲んだ。
彼女がミルクティーを飲むたび、その動作で彼の背中に緋色の髪が当たった。
まるで背中をくすぐるようなその感触がこそばゆくて、ちょっとだけ背を丸めた。
すると彼女が、深く息を吐いた気配がした。
何か、囁きが聞こえたので、その声を逃さないように、じっと耳を澄ませた。
…使徒。
うん、と少年は続きを促した。
「使徒…あんたが一人で倒したんだってね」
「…うん?…うん…」
彼女が鼻で笑ったような気配がした。
なのにその笑い方すら何か弱々しかった。
「流石シンジ様よねえ?もうチルドレンあんた一人でいいんじゃない?
ぽっとでの癖にさ、シンクロ率もアタシに迫る勢いだし?それともやっぱり親がネルフ司令だから?
もしかして色々贔屓して貰ってるのかしら?流石!親の七光りは伊達じゃないわよね!」
「えっ?う、うん?」
もちろん。
少年は彼女のそのどこか弱々しい挑発にきょとんとしただけだった。
すると彼女が肩を震わせるような気配がして。
そして何かに耐えるような声で言った。
「…そもそもなんであんたアタシについてくるわけ?」
「いや、なんでって…?だって、なんか…心配で…」
「なんであんたが心配すんのよ」
「えっ?あたりまえでしょ、一緒に暮してるんだし…」
「はあん?余裕がおありな事。流石シンジ様ねえ?勝者の余裕って事かしら?」
やっぱりその下手でどこか自暴自棄な挑発に、彼はそっと。
そっと、優しく囁いたのだった。
「…どうしたの?アスカ…」
その囁きには本当に、心の底から彼女を心配しているような温度が篭っていて。
いくら彼女でも、その温度に気づかない振りをすることはできやしなかった。
ぎりっと彼女が歯を食いしばった音がした。
「…うるさい!」
その怒鳴り声に合わせて彼女の髪が乱暴に揺れた。
その揺れた髪の一房がぱしりと彼の背を叩いた。
「うるさい!うるさい!同情なんてするな!」
やっぱり意味が分からなくて、少年は聞き逃さないよう耳をさらに澄ませた。
「アタシは一人で生きるの!誰の助けもいらないの!
同情なんていらないの!アタシは誰にも!誰にも…」
誰にも…。
その夜に溶けてしまうような囁きに、少年はどうすればいいかわからなかった。
ただ、緋色の髪が震える感触が背に伝わって。
必死に歯を食いしばって、その声が漏れないようにしている彼女の気配に眉を下げて。
しばらく深夜の公園に、ささやかに、うっすらとすすり泣く声が響いた。
少し風が吹いて、ちょっとだけ寒かった。
だからなんとなく、とん、と背中を少しだけ彼女の背に合わせた。
相変わらず彼女は声が漏れないように必死に耐えてるようだった。
その背中から伝わる震えが彼女の必死の、でも無駄な努力を少年に伝えていた。
どれぐらいたったのだろう。
ほんのりと、触れ合った背中が温かかった。
彼女の食いしばった口から漏れる声が小さくなった。
背から伝わるその震えも、ゆるくなっていた。
と、今更ながら少年は、ああ、そういえば弐号機…と気づいた。
彼は白い少女を心配するあまり、それには今の今までまったく意識が向かなかった。
でも、弐号機はアスカのエヴァなんだ。それがあんな風になってしまったから…?
やっぱり彼は、じっと背中に伝わる温度に意識を向けて目を伏せることしか出来なかった。
しばらくして、彼女の嗚咽がやんだ。
やっぱりキーンと耳鳴りがするような静けさだった。
ふと彼女が彼の背中に、少し、やんわりと身体を預ける気配がした。
お互いを背もたれにして、夜を見上げた。
しゃっくりのように時々彼女の身体が少しだけ震えた。
暖かかった。
触れ合った背中から彼女の鼓動と脈動を感じた。
しばらくすると、どこまでが自分のそれで彼女のそれか分からなくなった。
見分けがつかなくなった背中と、その呼吸にふと安心感を抱いて。
すると、突然彼女が立ち上がった。
少年は支えを失って思わずうわあ、と声を上げた。
倒れこんだ顔で見上げて、彼女の姿が逆に映っていた。
と、彼女が突然駆け出した。
少年は逆さに写ったままの彼女をきょとんと見つめた。
ぼんやりみてると公園の端で止まりくるりと振り返る。
と、ものすごい勢いで彼の方向に駆け出した。
わあ、早い。と感嘆しながら少年はもちろん首をかしげた。
すると、彼女が彼の向こう側にあった金網をとあっ!と勢いよくたった一歩で駆け上がり。
そしてずざざざーと土手を駆け降りて。
ばっしゃーん!と音をたてて服のまま川に飛び込んだ。
…えー…。
流石の少年も目が点になった。
すると、いつまでたっても彼女が川から出てこない。
それに、彼は心配気に眉をゆがませて、彼も金網を飛び越えて土手を何度か転びかけながら降り、川辺に立つ。
アスカ!と声を上げる。
川の流れはとても緩やかだったが想像よりも深いようだった。
彼は本気で心配になって、もう一度彼女の名を大声で呼んだ。
すると、ざばあー、といきなり彼女が水面から身を出した。
彼は当然うわあ、と声を上げた。
ずぶぬれで顔を伏せている彼女は幽霊的な何かのようだった。
貞子も戦慄するレベルで悪霊っぽかった。
彼はちょっと怖くなって、恐る恐るアスカさん?と声をかけた。
思わずさん付けになってしまった。
「…る」
すると彼女が、その姿にがっちりはまる幽霊みたいなか細い声で何か呟いた。
え?と耳を済ませる。
「…する」
「…する?」
何を…?
「…え…する…」
彼はその声がよく聞こえるように、彼女の口元に耳を傾けて。
ふふっ…と彼女が喉を鳴らすようにゆるく笑った。と、その手をゆっくり、そっと彼の首に回し。
そして巴投げで少年を投げ飛ばした。
彼は、うわあ?と半疑問系で声を上げた。
ばしゃーん、と背中から川に。
「バーカバーカ馬~鹿シ~ンジい~!」
彼女が極めて不機嫌そうにころころ声を上げて笑った。
た、助けてえ!という少年の声が聞こえた。
おほほほ、と彼女は極めて不機嫌に笑い。
すると、少年がうんともすんとも言わなくなって、流石に顔色を青く染めたのだった。
「…あんた泳げないの!?」
「だってしょうがないでしょ!」
何がよ!と川辺で何とか助け出した少年に声を上げて。
だって、と。
「水の中息できないじゃない。」
「…うん。まあ、そりゃそうよ…?」
「でしょ?なら泳げるわけないじゃないか…」
何言ってるの?とでも言いたげな口調で。
「…う、うん。ううん…?」
流石の彼女もちょっと困って眉を下げた。
空が明るみ始めていた。
しばらく川で遊んだので二人とも少し疲れていた。
でも、その疲れは心地よかった。
川辺に二人で座って始まりの明かりをぼんやりと眺めた。
ちろちろと川が流れる音が心地よくて彼はよく耳を澄ませた。
すると、彼女がぽつりと呟いた。
…エヴァね。
「うん」
「アタシ、7歳の頃から乗ってたの」
少年はその囁きを聞き逃さないように。
「弐号機さ、当時の最新型でね…ホントはさ、最初ママが乗ってたのよ」
「…うん」
「でも…」
ほんの少しだけ彼女は声を震えさせて。
「…シンクロ中の事故でね。ママ乗れなくなっちゃった」
彼はそっと、彼女の横顔を見た。
「そのときはまだ子供しか乗れないってはっきり分かってなくてさ。
エヴァって大人が乗ると危険みたい。それすら判明してなかった頃で…」
それから次のパイロットにアタシが選ばれて。
「だからさ。弐号機はさ」
「うん」
「アタシにとって…」
「うん」
すると、何か言おうとして、でも彼女はやっぱり口を閉ざした。
「…ううん。いい」
彼はやっぱり彼女に眼差しを向けて。
でも、少年は何も言わず、そして言えなかった。
かつん、と彼女の蹴った石が彼の靴に当たった。
だから彼もかつ、と蹴って彼女にパスした。
まるで魔法の時間が逆再生したみたいだった。
まだ空は暗く、でも地平線の夜明けの光に高層ビルが照らされて、美しい輪郭を作っていた。
でもぐっちゃぐっちゃと歩くたびに鳴る靴音が響いて、その美しさを割りと台無しにしていた。
隣り合って、どちらかともなく石を蹴り合って、お互い同じ歩調で歩いた。
少し肌寒かった。
仕方ないので先ほどの自販機で今度はコーンポタージュを買った。
彼は缶の底にたまった粒が取れなくて、こんこん、と缶を叩いた。
彼女は隣でおしるこの缶を飲みながら、いいわねこれと呟いた。気に入ったようだった。
と、缶を逆さに一生懸命叩いている少年を見て、そっと呟いた。
「…さっきのさ」
「うん?」
彼はあーんと口を開けて、逆さにした缶を振っていた。
「あれよ」
「うん?」
「だから、あれ。七光りだとか、それ」
ああ、と少年。
すると彼女が少し息を吸って。
そして吐いて、でもやっぱり、その吐息は少しだけ震えていた。
だから彼は横目で彼女に眼差しを向けて。
…ごめん。
やはり、ふ、と何か達成したかのような吐息とその微かな囁きに、彼は彼女の方を向いて、そのとたん缶の底の粒が落ちてきた。
あ、と頬に粒とスープの残滓がかかった。
「ばーかばーかば~かシ~ンジい~」
彼女はそんな風にそっけなく、でもなんでだか柔らかい口調で囁いた。
そしてさっきからずっと蹴り合ってた石を、とう!と蹴り飛ばした。
かつん、かつ、かつ、と遠くで石が鳴る音に耳を済ませた。ナイスシュート、と彼は思った。
それから仕方ないので彼はTシャツをめくってごしごし顔をぬぐう。
すると、蹴った石にぼんやり意識を向けていた彼女が、まだ着いてるわよ、と。
ふわりと良い匂い。
そしてやっぱり彼女は、彼のその頬の粒の一つをちゅ、と口で取った。
それをこく、と嚥下する。
彼は目を瞬かせて、ふ、とお互いに至近距離で瞳を覗きあった。
彼女の深緑の瞳は美しかった。
生命に満ちきらきら輝く美しい瞳だった。
でも、その瞳は少し充血していて、僅かに、僅かに揺れていた。
彼のその黒い瞳はつぶらだった。
空のようにどこまでも澄みきって綺麗だった。
でも、その瞳は少し潤むようで、僅かに、僅かに揺れていた。
それは本能的なものだったろう。
このとき、二人は寸分の狂いも無くまったく同時に唇を触れ合わせた。
でも、少し勢いあまって前歯がかつっと当たった。
ん、と同時に声を上げて、少し力を抜いて。
もう一度、今度は歯が当たらないように斜交いに、くちづけした。
お互いの息を吸いあって、肺の空気を交換し合った。
彼女の瞼が震えていた。
眉は極めて不機嫌そうに歪められていたが、その頬の赤みがそれを裏切っていた。
もちろん彼も長いまつげを震わせて、女の子のような顔を赤く染めていた。
それからやはりまったく同時に、唇を離した。
お互いに息がかかる距離で、顔を伏せた。
夜明けの光が明るくなって、二人の輪郭を照らし薄い影を美しく地面に形作った。
ぽつり、と彼女は目を伏せたまま言った。
「…ミサトは?」
「うん…何日か本部に泊まるって」
「…そ。」
じゃあ、しばらく二人っきりね。
その低い囁きに、彼は伏せていた目を上げた。
でも彼女はもう背を向けていてその顔を見れなかった。
でも、その腰まで伸びる緋色の髪はまだ濡れていて。
それに写る夜明けの光が信じられないほど彼女の髪を輝かせていた。
綺麗だな、とやっぱり彼は思った。
アスカの髪って、本当に綺麗だな、と思った。
その黄金にも見える、清く輝く彼女の髪をじっと見つめて。
そして、彼は夜明けの明かりを見上げた。
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