リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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12-2 闇の囁き

 

 

 

 

 

 

 

 

あの感覚はなんだったんだろう。

あの恐怖はなんだったんだろう。

 

その感情にいつも怯えていて、なのに、その正体がわからなくて。

でも、今ならなんとなく、分かる気がする。

 

きっとあの恐怖の正体は、つまり。

 

 

 

 

ぱしゃん。

 

シンジは、浴槽でゆったりと身体をくつろがせた。

 

『先に入ってて』

そう言った彼女はやっぱりどこか弱々しく。

そしてうっすらと暗い気配をまとっていた。

 

一体、どうしたんだろう?

 

流石の少年でも、最近のアスカが妙なのには気がついていた。

やはり、弐号機を失ってからだろうか?

だが今のところ初号機、というよりエヴァに特に思い入れの無い彼にはその感覚はわからない。

 

アスカという少女が、さっぱり分からない。

だから彼は、ゆっくりとお湯に肩まで浸かって、ふ、と力を抜いた。

 

…入るわよ。

 

その声が聞こえて、うん、と返事をする。

 

がら、と扉を開ける音が浴室に響く。

彼女は髪をタオルでアップにし、バスタオルで前を隠しながら、よそよそしく入ってきた。

そして、シャワーの前に座る。

 

彼はぼんやりと、彼女の丸見えになっている背中を見た。

綾波とは逆だな、と彼は思った。

ちなみに彼の記憶にある限り生身の女性の裸身など綾波レイが初めてで。

それしか知らない以上、どうしてもそれと比べてしまう。

 

白い少女の裸身はすべてが柔らかで白く、そのまま空気に溶けていってしまいそうな気配すらあった。

でもアスカは全体にとてもしなやかで、まるで野生の獣のような、そういった自然美を宿らせていた。

 

ふと、彼のその部分がやんわり膨らみ硬くなった。

それに困惑のような、恥ずかしいような感覚があって、頬を染めつつ顔を伏せた。

ときどきそういう現象が起こるのだった。

そんな時、彼はどうしたらいいか分からなくて、ただ収まるのをじっと待つしかなかった。

 

シンジでも性交、セックスという行為の存在自体は知っている。

学校の授業でもやんわりと習うし、少年が読んでいた本にもたまにそういう描写があったから。

でもやはりその知識に実像など欠片もないのだった。

 

そういった実像を伴う知識は、普通は父親や男兄弟や、または男友達との交友の中で自然と学んでいくはずだった。

だが少なくとも7歳以降その全てが居なかった少年に、具体的なそれを教えてくれる人などおらず。

自慰すらも知らない以上、日に日に多くなっていくその現象に少年はただ困惑するしかなかった。

 

まるで、身体が自分のものでなくなっていくような。

まるで別の意思をもった生物に自分が乗っているような。

その自身の肉体に対するリアリティ、実存の欠如は、確かに少年を少しずつ不安定にさせていた。

 

そしてその肉へのよそよそしさこそ彼のエヴァへのシンクロを安易にさせていた。

そう、それが全てではないが、確かにシンクロには己の肉へのよそよそしさが必要なようだった。

 

ぱしゃん。

 

浴槽に背中合わせで浸かる。

彼女の素肌の感触が気持ちよかった。

 

「ねえ」

 

彼女はかすれたように囁いた。

 

「う、うん」

「…何か言いなさいよ」

「な、何を…?」

 

沈黙。

 

ふと、彼女が動く気配がした。

浴槽に張られた湯がそれにあわせてゆるりとたゆる。

 

すると、彼の肩に掌の感覚。

 

でも、その指先は少し震えていて、首にかかる彼女の吐息がこそばゆくて。

それから柔らかい、しっとりとした丸みがやんわり背に押し付けられた。

もちろん、少年でもそれが乳房だと分かって、彼のそれが痛いくらい硬くなった。

 

「あ、あの」

 

何よ、と。

 

「あ、の、の」

 

彼は顔を赤く染めて。

 

「のぼせそうだから先に出るね!」

 

彼は返事も聞かず浴槽を出た。

 

そして浴室のドアをがらっと閉めて、一息つく。

彼はタオルで身体を拭きながら、その収まらない自分の下半身に目を向けて。

 

はあ、と息を吐いた。

 

 

 

 

彼女は身体を伸ばしてゆったりと湯船に浸かった。

 

ぴちゃん。

 

天井から滴ったしずくが一滴落ちて、浴槽に波紋を作った。

それから彼女はゆっくり浴槽の縁に腕を組んで。

 

そして、ふ、と息を漏らし、組まれた腕に顔を埋めた。

 

 

 

 

 

 

 

・Ⅱ 『闇の囁き』

 

 

 

 

 

 

 

「喉、乾いた」

 

ようやく少年のそこも元に戻って、ぼんやりとリビングでテレビを見ていると、湯上りの彼女の声。

 

「冷蔵庫にジュースあるよ」

「ミルクティーがいい」

 

どうやら作れという事らしい。

だから彼はソファから立って、ふと入り口に立って髪を拭いている彼女を見た。

 

彼女はシャツ一枚だった。

カモシカのようなしなやかな太ももが艶やかに光っていた。

いつもはホットパンツを履いたりしているのに、今は下着だけだった。

その根元のきわどさについ、目を寄せてしまった。

 

すると彼女はやはり何か暗い気配をまとっていて。

彼は改めて疑問に思った。どうして急に一緒にお風呂入ろうなんて言ったんだろう。

 

ふと背中に当たった乳房の感触を思い出した。

つい、また硬くなってしまいそうな気がして何となく照れつつ、台所に行こうと彼女の横を通る。

すると、すれ違いざま驚くほど良い匂いが彼の鼻をくすぐった。

 

アスカってこんな良い匂いだったっけ?と、いつの間にか慣れて意識しなくなったそれに今更気づく。

何となく、頬を染めながら台所に立った。

 

しゅんしゅんとお湯がなる。

手持ち無沙汰でぼんやりして、あ、そうだ、と。

 

お弁当作ろう。

明日は綾波も来るかもしれないし。綾波何が好きなのかな?今度聞いてみよう、と、頷いて冷蔵庫から材料を取り出す。

 

ふ、と視線。

 

アスカがまだ髪を拭きつつ、入り口の柱に身を預けて立っていた。

シンジは首をかしげ。

 

「ミルクティー出来たら持ってくから、待ってなくていいよ?」

 

彼女は返事をせず、やっぱり髪を拭きながら、でもその目元は髪とタオルが邪魔して見えなかった。

すると、彼女はかすれたような声で呟いた。

 

「…あんた、何してんの」

「うん。お弁当作ろうと思って」

「え…また、作るの?」

 

彼女が心持ち、あどけないような口調で声を上げた。

 

「うん。アスカは何が良い?」

「…肉」

「うん。他には?」

「肉。」

「う、うん」

「…あともう少し多めにして」

「量足らなかった?」

「足んない」

「わかった…ところでお弁当美味しかった?」

 

一瞬の間の後、彼女はあっけなく言った。

 

「美味し…かった。」

 

彼はそれに目を瞬かせて。

それから嬉しそうに微笑んだ。

何か鼻歌でも歌いたい気分になって材料をそろえる。

すると彼女がねえ、と一声。

 

「…いくらなんでも量多いわ。アタシそんな食べらんないわよ」

「ううん。三人分だから」

「三人?もう一人誰よ」

「綾波だよ」

 

沈黙。

 

ふと、シンジはその沈黙に何かひんやりしたような空気を感じた。

 

思わず彼女に振り向く。

でもさっきと別段様子は変わってるように見えず。

うん?と首を傾げて、気のせいか、と台所に視線を戻した。

 

すると彼女がぼそっと。

 

「…シンジ」

「うん」

「髪、乾かして」

「…え?」

 

そして慣れない手つきでドライヤーを持つ。

 

「もっと離して。髪痛んじゃうから」

「う、うん」

 

彼はその緋色の髪の手触りのよさに感嘆すらした。

やっぱりアスカの髪って綺麗だなあ、と何十度目か分からない感想を抱く。

すると彼女がぼそっと。

 

「…シンジ」

「うん」

「ブラシ」

「う、うん」

 

櫛で、おずおずと。

 

「…もうちょっと強くて良い」

「うん」

 

櫛なんて必要ないんじゃないか、と思えるほど艶やかな彼女の髪を梳きながら。

ふと、洗面台の鏡に映る彼女を見る。なんとなく柔らかな気配で目を瞑っていた。

彼もなんとなく、柔らかい表情で彼女の髪を丁寧に梳いた。

 

「…今日。リビングで寝るから」

 

その脈絡の無い提案に顔を上げて。

 

「え、なんで…?」

「…ミサト居ないんだから別にいいでしょ」

「いや、だからなんで?」

「嫌なの?」

「嫌じゃないけど…」

「じゃいいじゃない」

 

ドイツで住んでたからここの部屋狭いの。

 

だからたまには広いとこで寝たい、という説明にそういうものかと彼は納得した。

なら別段少年がそれに付き合う必要など無いのだが、当然そこまで頭は回らなかった。

しっかり弁当も用意して、歯を磨いて、ふとんを敷く。

 

ぱちり、と電気を消した。

 

少しだけ距離を空けたふとんに寝そべって、彼女を見る。

相変わらずTシャツ一枚でこちらに背を向けていた。乱れた裾から小さめの下着が覗いていた。

 

そっと、目を逸らして窓を見た。

今日はあまり月は光っていないようだった。

 

まるで闇のように暗く、濃厚な夜の気配。

 

やはり静かで、でも耳を澄ますとアスカの呼吸が聞こえた。

それに何か、ふと、暖かい感情が胸に広がった。

それが不思議で、彼はよく自分の心に耳を澄ませてみた。

 

確かに、手が届く距離に人の気配と熱を感じる。

つまり、彼は今現在一人ではないのだった。

何を当たり前のこと考えてるんだろう?と彼は首をかしげる。

そう、隣にアスカが一緒に寝ているのだから一人ではないに決まっている。

 

そう、僕は今一人じゃない。

 

…僕は今、一人じゃ、ない…。

 

その事実の不思議さ。

自分が誰かの側で一緒に寝ている、一人ではないのだという事実。

彼はその奇妙さに何故か感動のような情動を覚えて、ふと彼女に声をかけたくなって、でも何を言えばいいかわからなかった。

 

すると彼女が起きる気配がした。

 

足音が遠ざかる。

どうやらトイレらしい。

彼はなんとなく心臓を下にして横になった。

少しの後、流す音が聞こえた。

 

足音。

 

と、すぐ背中の空気が動いて、とても良い匂いと、熱。

彼は目を瞬いた。

 

「あの…アスカ?」

 

アスカが、彼の背中のすぐ後ろに寝そべっているらしく。

ふとん間違えちゃったのかな、とそっと声をかける。でも返事は無かった。

 

どうしよう、と眉を下げた。

 

寝ちゃったのかと彼は思って、まあいいか、と目を瞑った。

首にかかる彼女の吐息がひどく熱くこそばゆかった。

その香りはとても心地の良くて、何か、包まれるような感覚があった。

 

濃い夜に、彼女の呼吸の音がかすかに響いた。

 

それを耳元で聞いているうちに、何か安心するような感覚。

すっと、力を抜く。と、さっきより背中が熱かった。

彼女が、彼の寝方をなぞるようにぴったりと身体を寄せていた。

 

まるで、パズルのピースのように。

 

すると、おずおずと、手の感覚があった。

片方は彼の肩に添えられ。彼女のもう片方の手が、彼のわき腹から伸びて。

そっと、そっと背中から彼を遠慮がちに抱きしめた。

 

背中に当たる彼女の吐息が、少し震えるような気配がした。

背中から伝わる彼女の輪郭が熱をもって、彼の何かを暖めてくれた。

背中に触れる彼女の乳房の柔らかさが気持ちよかった。

 

いつの間にか彼女の額が彼の首元にふれていた。

彼女の長い髪が彼に少しだけ絡んで、その艶やかさがこそばゆかった。

彼女の鼻が彼の首にぴた、とあたって、ひんやり気持ちよかった。

 

そして。

 

 

…ママ…。

 

 

微かな、微かなその闇からの囁きを聞き逃す事が出来るわけがなかった。

 

だからシンジはほとんど無意識に、でもおずおずと。

彼の胸に回された彼女の手に、そっと自身のそれを添えた。

 

ふ、と背中の吐息が乱れたような気配がした。

 

少しだけ鼻をすする音がした。

何か耐えるような吐息が聞こえた。

彼女が、身を震わせてる気配がした。

 

どうして泣いてるんだろう、と彼は思って、でもその思惟が無為だとすぐに気づく。

だって、きっと彼女自身なぜ自分が泣いてるのかわかりはしないのだ。

ただ、ただ、わけも分からず、悲しいのだ。

 

ああ。

そっか、とシンジは思った。

 

ああ、そうなんだ。

アスカは同じなんだ。

 

彼は唐突に、でも確信を持って洞察した。

 

アスカは僕と同じなんだ。

 

 

 

 

ふと、深夜に目を覚まして。

 

まっくらで、何も見えない。

一瞬、自分は誰なのか分からなくなる。

 

世界に一人なのだという思惟が浮かび。

その実像の濃さに身を震えさす。

だから、そっと誰かを呼ぼうとして、口をつむぐ。

 

一体、誰の名前を呼べばいいんだろう。

 

 

今、彼女を襲っているのはあの感覚なのだ。

 

指先がちりちりして。それからじいいん、と痺れるように痛くなって。

自分の輪郭が外側から、ぐずぐずと錆びて、腐って、崩れ落ちていくあの感覚。

 

シンジは確信を持って再び、こう思った。

アスカは、僕と同じなんだ。

僕とアスカは、同じなんだ。

 

名前を呼びたくても、誰も居ない。

 

 

 

 

 

 

それはいつも突然襲ってくるのだ。

 

きっとそれは常に影のように少年の側に居て、そしていつだってその機会をうかがっている。

少年が隙を見せた瞬間、心の隙間に入り込んでくる。

 

例えば、夕闇の帰り道。

 

遠く校庭から聞こえる子供の声や。

足元に写る自分の影や。

夕暮れの知らない家の窓の光や。

あるいは深夜ふと目が覚めたときの、そのカーテンの隙間や。

 

そこに潜んでる闇がいつも少年に甘く優しく囁くのだ。

 

 

 おまえは誰にも望まれず。

 

 

 

 

“おまえは誰にも望まれず”

 

“誰にも愛されず”

 

“誰にも必要とされず”

 

“おまえを好きな人なんて、どこにもいやしない”

 

そうかな。

 

“そうさ。”

 

“誰一人”

 

“何一つ”

 

“おまえを愛してなんていないよ”

 

“きっとこの先も”

 

そうかな。

 

“そうさ。”

 

“事実、おまえの母は居なくなったじゃないか。もう二度と会えやしないよ”

 

うん。

 

“事実、おまえの父は迎えに来ないじゃないか。一生、迎えにきやしないよ”

 

うん。

 

“誰からも必要とされず。

 

 おまえを好きな人なんていない。

 

 望まれてもいない。

 

 死んでも生きてても同じだ。

 

 おまえは、最初から居ないのと同じなんだから。”

 

そうかな。

 

“そうさ。いっそ生まれてこなければ良かったのに”

 

そうかな。

 

“そうさ。おまえはいつ死んでもかまやしないさ”

 

そうかなあ。

 

“そうさ。”

 

 

 

 

どれほどの巨樹でも最初は苗なのだった。

踏まれただけで終わる。

 

どんな偉人や天才も生まれた時は幼子なのだった。

親に捨てられた時点で生きてはいけない。

 

子供は、きっと本能で自分がか弱い存在だと知っている。

だからこそ庇護を望み、本能で大人に好かれようとする。

その外見、声、性格、その存在全てで魅了しようとする。

 

じゃあ、それでも親や大人に好きになってもらえなかった子供はどうすればいいのだろう。

自分のか弱さに愕然としながら、その自分のあまりの弱さに怯えながら。

 

どうやって、生きれば。

 

シンジは直感した。

アスカという少女にとってのエヴァ弐号機とはどういう存在なのかを洞察した。

そしてそれが失われてしまったという、その意味を。

 

子供のままで庇護を得られないなら、あらゆる方法でもって好かれるほかないのだ。

大人になりたくても時間は早くには進んでくれない。なら大人になるまで、強く生きられるようになるまで、せめて。

どんな方法を、使ってでも。

 

だって僕たちはこんなにか弱い。

あまりにか弱くて怯えてしまう。

 

寄せ集まらないと、か弱くて、生きていけない。

 

この時、シンジはこんな風に言語で理解したわけではない。

幼子の理解は言葉に依らず、常に感覚だった。

それゆえ時に動物や自然と心を通わせることが出来るのだから。

彼も同じく、ただそれをその形のまま取り込んだだけだった。

 

そう。きっと彼女も帰り道を探していたのだろう。

惣流アスカラングレーは放浪者だった。

 

ただただ膿み疲れた、とてもうら若き放浪者だったのだ。

 

 

だから彼は囁いた。

 

なぜその言葉なのか彼にもわからなかった。

でも、彼は迷わずその言葉を選んだ。

 

「僕、どこにもいかないよ」

 

優しい、でもどこか幼い声で。

ぴくりと、彼女の指先が動いた気配がした。

 

「どこにも、行かないよ」

 

もう一度彼は囁いた。

あの闇が彼に甘く囁くように。

 

「僕、ここにいるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

昼のチャイムが鳴った。

 

とうとう綾波は登校しなかった。

シンジはしょんぼりとそのお弁当に目を落とした。

 

「なんや、綾波も委員長もまた休みか」

 

机を並べたトウジが、とシンジのそれを見て。

 

「お、また弁当作ってきたんか」

「うん…」

「器用な奴やの~。一回食ってみたいわ」

「…食べる?」

「へ?ええのん?」

「うん」

 

余ったの詰めただけだし、と何故だか嘘をついて。

 

「おおおお!さんきゅうー!」

「あ、ずりいぞトウジ」

 

同じく机を並べたケンスケが。

 

「俺にもちょっと分けろよ」

「いやや。これは俺とシンジの友情の結晶やねん。誰にもやらへん」

「トウジ…なんかホモ臭いぞ…?」

 

そんなやり取りをしていると、気配。

緋色の髪の彼女。

 

「シンジ、アタシのお弁当」

 

あ、うん、とそれを差し出す。

すると、やはり近くの机を移動して、当たり前のように少年の机にぴったりとくっつけた。

 

「…アスカも一緒に食べるの?」

「そうよ。何?嫌なの?」

「ううん全然」

「あ、そう」

「うん」

 

そしていただきます。

一口、二口。良い出来だった。

 

と視線を感じて目を上げると、アスカが弁当も空けず。

頬杖をつきながら、じっと、光る目でシンジを見つめていた。

 

「…何?」

「何がよ」

「いや…」

 

彼女のその眼光は鋭く。

三白眼ぎみに上目使いのそれは、一見睨んでいるようにしか見えなかった。

でも、その目に宿る光は、怒りだとかそういう物じゃなくて、なんというか…。

 

と、少年の語彙ではどう当てはめていいか分からなくて。

じっと彼女の深緑の瞳を覗きこんだ。

 

彼女は目を逸らさなかった。

ただじっと少年の瞳を睨むように、見つめていた。

ただただ、じっと、見つめていた。

 

やっぱりその瞳に宿る色彩が少年には分からなくて、つい首を傾げた。

すると、彼女は低く、そっと囁いた。

 

「ごはん、着いてる」

 

え、と少年が口元に手をやる寸前、ふわっと良い香り。

それから、ちゅ、と口の端に、くちびるが…。

 

一瞬の間。

 

えええええええええ!?

 

クラスが騒然となった。

トウジが悲鳴を上げた。ケンスケも悲鳴を上げた。

シンジ少年はぽかーんとしていた。

 

するとアスカはそんな喧騒など聞こえないかのようにマイペースに弁当の蓋を開けた。

肉野菜炒めにから揚げにその他もろもろ。

 

ふむ、と頷いて、ぱくりと一口。

 

うんめ。

 

 

そして彼女は満足げに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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