リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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12-3 手を伸ばすわ、あたしから

 

 

 

 

 

 

 

 

綾波成分が足りない。

 

シンジは思った。

 

綾波に、会いたいなあ。

あの涼やかな声が聞きたいな。

 

熱い日差しに、彼女の水面のような空気が恋しくなって。

その窓際の空席に眼差しを向けて、ふと、思いつく。

 

お見舞い、行こうかな。

 

多分、あの時の戦闘で怪我したんだろうし。

嫌いな食べ物を教えてもらって、それからミサトさん達の様子も見に行こう。

 

うん、学校終わったら本部に行こう。

少年は白い少女の席を見ながら微笑んだ。

 

すると、ふと、アスカと目が合った。

 

その眼光はやはり一見睨みつけるようで。

でもやっぱりその光は、少年にはよく分からない色彩だった。

すると、何事も無いように彼女は視線を戻した。

 

今朝からアスカの様子は少し変わっていた。

 

彼女は喜怒哀楽が激しい少女だから、機嫌だけなら少年にも比較的分かりやすかったのだが。

なのに、今朝からまるでその内面が読めない。

昼食の騒動もそうだったが、今までの彼女ならあんなことしないはずだった。

 

アスカという少女がますます、さっぱりわからなくなってしまった。

 

それに、うーん、と少年は嘆息したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ⅲ 『手を伸ばすわ、あたしから』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日直 綾波レイ

   碇シンジ

 

 

す、と黒板のそれを消す。

 

一人の日直を済ませて、赤い廊下を歩いた。

今日の夕焼けはとてもとても赤かった。

 

その夕日で形作られる影は驚くほど濃く。

まだ本格的な夕暮れになる一歩手前の空を見て、今日は素晴らしい黄昏に違いないと確信する。

胸が躍るようなときめきに、人気の無い校舎の哀愁を堪能しながら靴を履いた。

 

遠くから運動部の声。

 

みんみんと、気のせいか普段より控えめな蝉の声に混じって、フルートの旋律。

どうやら初めてのフルートらしかった。がんばってと少年は囁いた。

 

カキ…ン…と、バッドの鳴る音が微かに響く。

どうやらファールらしかった。ファイト、と少年は心で囁いた。

 

少年にはそれらの喧騒がそれぞれ組み合わさって、まるで音楽を奏でているように聞こえた。

 

まさに即興ライブ。もちろん二度とは再現されないに違いなかった。

題して下校の曲、とか、かなあ?と彼は考えた。

どうやら彼に音楽の才能はあってもネーミングセンスは無いようだった。

 

一秒ごとに、夕闇が濃くなっていった。

 

信じられないほど赤く、なのにその密度はどろりと濃く。

こんな夕日は初めてかもしれない。少年はそう思った。

 

眩しくて手をかざす。

 

太陽の光もどこか濃密で。

その濃厚な夕日に照らされ、校門に寄りかかっている女生徒の影が長く伸びて、やはり真っ黒な影を作っていた。

 

ふ、とその影に見覚えがあるような気がして、手で光を遮りながら目を細めた。

 

手持ち無沙汰に顔を下げて、足をぶらぶらさせているその女生徒の横顔。

でも、長い髪が僅かに緋色に鈍く光っているように見えた。

 

…アスカ?

 

その影絵のような横顔がふ、と振り向く。

 

「え、どうして?」

 

…何がよ。

 

そう彼女はぶっきらぼうに。

 

「いや、だって僕日直だし。一人だから時間かかるし」

「だから」

「あの、だから、先帰ったんじゃないのかなあ、って…」

「ふうん」

 

少しの後。

やや低い声で。

 

「何?嫌なの?」

「えっ全然…」

 

と、何か空気の抜けたような息。

それから彼女は鼻を鳴らした。

 

 

かつん、かつ、かつ。

 

彼女が蹴った石ころが帰り道に妙に響いた。

 

赤。

赤。

赤。

そして黒。

 

眩しくて目を細める。

赤と黒のコントラストが凄まじかった。

 

その濃厚な夕闇は、まるで自分が別の世界にきてしまったんじゃないか。

そんな馬鹿みたいな思考に僅かな説得力すらもたせていた。

 

「…ねえ」

 

彼女が極めて不機嫌そうに。

 

「ミサト、いつ帰ってくるって?」

「わかんない」

「ふうん…」

 

彼女はカバンを後ろ手に持ちながら、彼より二、三歩先を歩いて。

また、かつ、と石を蹴った。

 

ねえ、と。

 

「あんた今日、作んの?」

「料理?」

「うん」

「…どうしよう。今から本部行くし」

 

彼女が振り向いた気配がした。

でも、やはり影絵のようで表情は見えなかった。

 

「…なんでよ?」

「うん。お見舞い行こうかなって」

「誰の」

「綾波。後、ミサトさんの様子も見たいし」

 

しん。

 

何か、ひんやりとした、重いような空気が流れた。

彼は何となくその気配に眉を下げた。

 

あの、アスカ?

 

でも彼女は無視して。

 

かつん、かつ、かつ、かつ、つ、つ…。

 

彼女が蹴っていた石を遠くへ蹴り飛ばした。

何でか、気まずかった。

だから彼も何も話さず、ゆっくりと歩く。

 

すると、彼女が突然道をそれた。

 

一人で帰るのかな?と首を傾げた。

でもそっちは家とも本部とも別の方向のはずだった。

アスカ?とおずおずと声をかけて。

でもやはり返事がなくて。

 

一瞬迷って、でもなんとなく、彼は彼女の後を着いて行った。

 

 

 

真っ赤な夕日は、まるで霧のような質感すら感じるほどだった。

 

いつもの澄み切った空が水彩画だとするなら、今日のそれはまるで油絵のような。

彼女の行き先がまさにその斜陽で、やっぱり染み入るほど眩しかった。

 

あまりの眩しさに手でかざしながら目を細める。

 

やはりその光が彼女の輪郭を真っ赤に光らして。

なのにその影はやはり、まるで底なしの穴のように真っ黒だった。

 

あの、どこ行くの?と、またおずおず話しかけて。

 

すると、彼女はこんなことを言った。

 

 

どこ行く?

 

 

え?と少年はぼんやり。

 

「だから、どこ行く?」

「え。いや、どこって僕…」

「どっか行きましょっか」

 

その囁きはそっけなかった。

ひどく、ひどくそっけなかった。

 

何を言ったらいいかわからなくて。

でも彼は、しばらくの後、そっと囁いた。

 

「何処に…?」

 

彼女はやはり囁くようにこう言った。

少しかすれた声で。

 

どこか、さび付いたような声で。

 

 

…何処かに。

 

 

かあかあ、とカラスが鳴いていた。

 

それから彼女の足音と、彼の足音が響いて。

少しひぐらしが鳴き始めていたようだった。

 

彼は、口を開きかけて、すると。

 

「うっそーん。」

 

彼女はやはりそっけなく言って。

 

ば~かば~かば~かぁしんじぃ~。

 

彼はその呟きにどう反応したら良いかわからなかった。

 

「アタシ先帰るから。あんた行ってくれば」

「…う、うん」

「じゃあね。」

 

でも。

 

「あの…でも、そっち家の方向じゃないよ」

「だから何よ」

「いや、だからって…」

 

彼女は返事せず。

やはり後ろ手にカバンを持ち、ふらふらと歩いた。

 

彼は眩しさに目を細めつつ空を見た。

 

ますます夕日は濃く。

きっと、この種の夕闇は滅多に見られないに違いなかった。

 

でも、この夕日を堪能していたらきっと遅くなってしまう。

そんな時間にお見舞い行っても大丈夫なのかな、と。

 

もう一度彼女の背を見つめた。

ふと、その影絵のようなシルエットはなんとなく。

 

なんとなく、まるで本物の影絵のように薄く思えた。

 

彼はやんわり息を吸って、吐いた。

すると、彼女が振り向く気配がした。

後を着いてくる少年をしばらく見つめて。

 

そっと、目を逸らした。

 

 

 

 

ひどく静かだった。

 

少年はそれを不思議に思った。

 

だって、ちゃんと蝉やひぐらしは鳴いているし、遠くから電車や車の走行音だって聞こえる。

なのに、やはり静かだな、という印象をもってしまって。

 

つまりもしかすると、今日の夕闇があまりに存在感がありすぎて。

その濃厚な存在感の前に音にまで意識が向かないのだろうか、と考えた。

 

彼女の歩いた道をなぞるように良い香りが漂って来た。

その香りに導かれるように、ただぼんやりと彼女の後を追った。

 

 

陸橋から見下ろしたその川はまるで血の様に濃く、どろりとしていて何かの血脈のように見えた。

 

坂道を登って、見上げた高層ビルは真っ黒で、一瞬墓地のように思えた。

 

赤に浮かぶ入道雲は見事な輪郭をつくり、まるで焼け焦げたように真っ暗だった。

 

 

気がつくと、彼女と彼の影が重なって見分けがつかなくなっていた。

ふと、世界に一人きりのようないつもの寂寥感に襲われた。

 

いや、二人きりか。と、彼は思った。

 

いつのまにか並んで歩いていた。

彼女が歩みを彼に合わしたようだった。

何せ彼女の足は長く、彼よりも歩幅は大きいのだから。

 

草原を、凪ぐように歩いた。

 

振り返ると高層ビルの群れ。

見覚えがあった。

ああ、前に家出したとき来た草原だ。

ついこないだのはずなのに、少年にはなぜか遠い昔のことのように思えた。

 

隣り合って草原に座って、空を眺めた。

 

触れ合うかどうかの肩から、彼女の熱を僅かに感じた。

ふと、彼女の横顔を見た。

真っ赤な夕日に照らされた横顔は何か、哀愁があった。

それに気づいたように彼女も振り向いた。

 

『何よ』

『ううん』

 

目で伝えて、空に再び視線を合わせた。

 

いよいよ視界が赤くなった。

やはり、今まで見たことが無いほど鮮烈な赤だった。

あまりに眩しくて目を瞑っても瞼に夕日の残像が写った。

 

ふと、うっすらと鳴くひぐらしと、風が草原を凪ぐ音が聞こえた。

 

さっきまでまるで聞こえなかったのが不思議だった。

やはり、夕日の存在感のせいで意識が向かなかったらしかった。

 

風に乗って、彼女の髪がなびいて彼の頬をするりと撫でた。

とてもとても良い匂いが鼻をくすぐって、ふと彼女を見た。

 

すると目が合った。

 

どうやら彼女はさっきからじっと、彼を見ていたようだった。

相変わらず睨むように、でもふと、その深緑の瞳が潤んでるように見えた。

そしてやっぱり、僅かに、僅かに揺れていた。

 

やはり、まったく同時に動いた。

 

こないだ学んだように、前歯が当たらないよう斜交いで、くちびるを合わせた。

少し口を開いて、お互いの息を吸った。

 

甘い吐息。

 

すると、彼の舌をなにかが突いたようだった。

柔らく気持ちのいい感覚だった。

また、おずおずと彼の舌に触れて。

でも自分から差し込んだくせに、触れたとたんびっくりしたようにちじこませた。

 

うっすら目を開けて、すると彼女の瞼とまつ毛が震えていた。

この薄暗さでもはっきりわかるほど頬全体が真っ赤だった。

きっと自分もそうだろう、と彼は思った。

 

また、舌が触れた。

さっきよりも、少し、でも控えめに。

 

やはり、驚くほど気持ちよくて、彼も、おずおずと、彼女の舌に触れた。

お互いに、おっかなびっくりと少し舐めあって、それから絡めて。

 

もう、そこまでくれば意思は関係なかった。

まるで、身体が別の何かに乗っ取られたようだった。

ただお互いの意思とは無関係に、次に、次に、とただ本能の赴くまま舌を絡めた。

 

サア、と草原が凪いだ。

 

その爽快感すらある音を背景に、ひどく粘着質な音が聞こえた。

 

ごく、と喉を鳴らす音が大きく響いた。

どちらが鳴らした音かわからなかった。唾液は無味無臭だった。

ただ咥内に溜まった相手の唾液を飲んで、舌を絡めて、それをすすった。

 

荒い吐息が熱かった。

 

気がつくとお互いを強く抱きしめあっていた。

彼のそれはかつて経験ないほどに硬く膨らんでいた。

あまりに硬くなってじんじんと痛かった。

 

ん、と喉をならし、呼吸が苦しくなって、舌を絡めたまま少し口を開け息を取り込んだ。

彼女もまったく同じように。

 

それからまた、しゃぶる音と、唾液をすする音と、喉を鳴らす音と。

 

どれぐらい時間がたったか分からなかった。

もう舌が痺れて動かなかった。どうやら彼女もそうらしかった。

ようやく口を離して、一つ、二つ、唾液の橋ができてぷつりと切れた。

お互いの口元はお互いの唾液でひどく濡れていた。

 

まるで、子供を抱っこするように抱きしめあった。

お互いの肩に互いの頭を乗せてただ熱い息を吐いた。

首元にかかる彼女の吐息は驚くほど熱かった。

その吐息がかかった場所がその熱で溶けてしまいそうだった。

 

ふと、彼は自分の下半身がぬれていることに気づいた。

なにかねちねちとした不快な感覚があって、これはなんだろうとぼんやりした頭の片隅で疑問に思った。

だがそれよりも、彼にとって周囲が暗くなっていることの方が重大だった。

空を仰いで、黄昏が過ぎ始めているのを知った。つまり、いつの間にか魔法の時間が過ぎていた。

 

彼はそれに心底驚いた。

愕然とすらした。

 

今日は、きっと凄まじい美しさだったに違いないのに。

それを見過ごしてしまった自分が信じられなかった。なぜか裏切られたような気分だった。

悲しくなって泣きそうになった。

 

すると耳元で熱い吐息。

彼女のひどくかすれた、低く、甘い囁き。

 

 

逃げちゃおっか。

 

 

それにどこか朦朧としながら意識を向けた。

脳が熱を帯びて発熱しているように重かった。

思考がまともにできなかった。

 

「もう、アタシ弐号機ないし」

 

でも少年はよく耳を澄ませて。

 

「遠くへ」ピリリリリ

 

着信。

 

彼は朦朧としつつ、咄嗟にそれを取ろうとして。

すると彼女が手を伸ばして、ぱし、と手首を掴まれた。

 

静かな草原に、不釣合いなケータイのチープなメロディが流れた。

 

彼女の表情を見ようとして、でも暗くて。

すると、彼女はふ、と笑いのような吐息を漏らし。

そっと、彼から身体を離した。

 

『あ、シンジ君?もうご飯食べちゃった?』

 

いいえ、とミサトの声に返事して。

 

『ようやく一段落着いてね。ようやく帰れるわ。これから三人で食事行きましょ』

 

はい。

 

 

見上げればもう、夜に分類される空だった。

 

まだ熱く火照った頭で、どうして見過ごしてしまったんだろうと彼は思った。

取り返しがつかなかった。これほどの夕闇と黄昏を見過ごすなんて。

自分に裏切られた気分だった。これじゃ今日を生きた意味がまるでなかった。

 

そう、確かに、その過ぎた時間はもう二度と取り返しがつかないのだった。

 

「じゃ帰りましょっか」

 

彼女が、さっきまでのそれが嘘のようにあっけらかんと言った。

だからシンジは思わず、さっきまでのそれが夢だったんじゃないか。

一瞬の幻を見ていたんじゃないか、そんな錯覚すら起こした。

 

そして彼女はすっと立ち上がった。

 

カバンを後ろ手にもって、鼻歌を歌いながらぶらぶら歩く。

その様子に彼はただきょとんとするしかなかった。

 

 

カバンで前を隠しながらなんとか家にたどり着いて。

どうやらミサトさんはまだ帰ってないらしかった。

 

だから急いで部屋で着替えようと脱ぐと、生臭いような匂いがした。

まじまじとブリーフについたそれを見る。

 

白濁した、液体。

 

これはなんだろう、と混乱するしかなくて。

でも、その生臭い匂いやその白濁した色は嫌悪感しかもてなくて。

ただひたすら気持ち悪くて、どうしようもなく汚らしく思えて。

彼はいそいでそれをゴミ箱に捨てると、きゅ、と蓋をした。

 

ふと、指先にぬるりとそれが付着していた。

 

彼は急いでハーフパンツだけ履き、洗面台に行くと、こすれそうなほど手を洗った。

石鹸で何度も何度も、まるで穢れを落とすように。

 

何度も、何度も、何度も。

 

 

彼女はさっとシャワーを浴びて、元シンジ少年の自分の部屋でラフな格好に着替えた。

そしてベッドに腰かけて。

 

それから信じられないぐらい顔を赤く染めた。

 

いや、顔だけじゃなかった。首も、胸元も、まるでりんごのように染めて。

そのままぼふ、とベッドに横たわって枕に顔を埋めた。

そして足をばたばたばた!と。

でも、突然エネルギーが切れたかのようにふっ、と静かになった。

 

「…馬鹿シンジ…」

 

彼女はまだ火照っている下腹部にそっと手を当てて。

 

そして、何か泣くような。

でも、熱く甘いような吐息を漏らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16/3/12


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