リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
綾波成分が足りない。
シンジは思った。
綾波に、会いたいなあ。
あの涼やかな声が聞きたいな。
熱い日差しに、彼女の水面のような空気が恋しくなって。
その窓際の空席に眼差しを向けて、ふと、思いつく。
お見舞い、行こうかな。
多分、あの時の戦闘で怪我したんだろうし。
嫌いな食べ物を教えてもらって、それからミサトさん達の様子も見に行こう。
うん、学校終わったら本部に行こう。
少年は白い少女の席を見ながら微笑んだ。
すると、ふと、アスカと目が合った。
その眼光はやはり一見睨みつけるようで。
でもやっぱりその光は、少年にはよく分からない色彩だった。
すると、何事も無いように彼女は視線を戻した。
今朝からアスカの様子は少し変わっていた。
彼女は喜怒哀楽が激しい少女だから、機嫌だけなら少年にも比較的分かりやすかったのだが。
なのに、今朝からまるでその内面が読めない。
昼食の騒動もそうだったが、今までの彼女ならあんなことしないはずだった。
アスカという少女がますます、さっぱりわからなくなってしまった。
それに、うーん、と少年は嘆息したのだった。
Ⅲ 『手を伸ばすわ、あたしから』
日直 綾波レイ
碇シンジ
す、と黒板のそれを消す。
一人の日直を済ませて、赤い廊下を歩いた。
今日の夕焼けはとてもとても赤かった。
その夕日で形作られる影は驚くほど濃く。
まだ本格的な夕暮れになる一歩手前の空を見て、今日は素晴らしい黄昏に違いないと確信する。
胸が躍るようなときめきに、人気の無い校舎の哀愁を堪能しながら靴を履いた。
遠くから運動部の声。
みんみんと、気のせいか普段より控えめな蝉の声に混じって、フルートの旋律。
どうやら初めてのフルートらしかった。がんばってと少年は囁いた。
カキ…ン…と、バッドの鳴る音が微かに響く。
どうやらファールらしかった。ファイト、と少年は心で囁いた。
少年にはそれらの喧騒がそれぞれ組み合わさって、まるで音楽を奏でているように聞こえた。
まさに即興ライブ。もちろん二度とは再現されないに違いなかった。
題して下校の曲、とか、かなあ?と彼は考えた。
どうやら彼に音楽の才能はあってもネーミングセンスは無いようだった。
一秒ごとに、夕闇が濃くなっていった。
信じられないほど赤く、なのにその密度はどろりと濃く。
こんな夕日は初めてかもしれない。少年はそう思った。
眩しくて手をかざす。
太陽の光もどこか濃密で。
その濃厚な夕日に照らされ、校門に寄りかかっている女生徒の影が長く伸びて、やはり真っ黒な影を作っていた。
ふ、とその影に見覚えがあるような気がして、手で光を遮りながら目を細めた。
手持ち無沙汰に顔を下げて、足をぶらぶらさせているその女生徒の横顔。
でも、長い髪が僅かに緋色に鈍く光っているように見えた。
…アスカ?
その影絵のような横顔がふ、と振り向く。
「え、どうして?」
…何がよ。
そう彼女はぶっきらぼうに。
「いや、だって僕日直だし。一人だから時間かかるし」
「だから」
「あの、だから、先帰ったんじゃないのかなあ、って…」
「ふうん」
少しの後。
やや低い声で。
「何?嫌なの?」
「えっ全然…」
と、何か空気の抜けたような息。
それから彼女は鼻を鳴らした。
かつん、かつ、かつ。
彼女が蹴った石ころが帰り道に妙に響いた。
赤。
赤。
赤。
そして黒。
眩しくて目を細める。
赤と黒のコントラストが凄まじかった。
その濃厚な夕闇は、まるで自分が別の世界にきてしまったんじゃないか。
そんな馬鹿みたいな思考に僅かな説得力すらもたせていた。
「…ねえ」
彼女が極めて不機嫌そうに。
「ミサト、いつ帰ってくるって?」
「わかんない」
「ふうん…」
彼女はカバンを後ろ手に持ちながら、彼より二、三歩先を歩いて。
また、かつ、と石を蹴った。
ねえ、と。
「あんた今日、作んの?」
「料理?」
「うん」
「…どうしよう。今から本部行くし」
彼女が振り向いた気配がした。
でも、やはり影絵のようで表情は見えなかった。
「…なんでよ?」
「うん。お見舞い行こうかなって」
「誰の」
「綾波。後、ミサトさんの様子も見たいし」
しん。
何か、ひんやりとした、重いような空気が流れた。
彼は何となくその気配に眉を下げた。
あの、アスカ?
でも彼女は無視して。
かつん、かつ、かつ、かつ、つ、つ…。
彼女が蹴っていた石を遠くへ蹴り飛ばした。
何でか、気まずかった。
だから彼も何も話さず、ゆっくりと歩く。
すると、彼女が突然道をそれた。
一人で帰るのかな?と首を傾げた。
でもそっちは家とも本部とも別の方向のはずだった。
アスカ?とおずおずと声をかけて。
でもやはり返事がなくて。
一瞬迷って、でもなんとなく、彼は彼女の後を着いて行った。
真っ赤な夕日は、まるで霧のような質感すら感じるほどだった。
いつもの澄み切った空が水彩画だとするなら、今日のそれはまるで油絵のような。
彼女の行き先がまさにその斜陽で、やっぱり染み入るほど眩しかった。
あまりの眩しさに手でかざしながら目を細める。
やはりその光が彼女の輪郭を真っ赤に光らして。
なのにその影はやはり、まるで底なしの穴のように真っ黒だった。
あの、どこ行くの?と、またおずおず話しかけて。
すると、彼女はこんなことを言った。
どこ行く?
え?と少年はぼんやり。
「だから、どこ行く?」
「え。いや、どこって僕…」
「どっか行きましょっか」
その囁きはそっけなかった。
ひどく、ひどくそっけなかった。
何を言ったらいいかわからなくて。
でも彼は、しばらくの後、そっと囁いた。
「何処に…?」
彼女はやはり囁くようにこう言った。
少しかすれた声で。
どこか、さび付いたような声で。
…何処かに。
かあかあ、とカラスが鳴いていた。
それから彼女の足音と、彼の足音が響いて。
少しひぐらしが鳴き始めていたようだった。
彼は、口を開きかけて、すると。
「うっそーん。」
彼女はやはりそっけなく言って。
ば~かば~かば~かぁしんじぃ~。
彼はその呟きにどう反応したら良いかわからなかった。
「アタシ先帰るから。あんた行ってくれば」
「…う、うん」
「じゃあね。」
でも。
「あの…でも、そっち家の方向じゃないよ」
「だから何よ」
「いや、だからって…」
彼女は返事せず。
やはり後ろ手にカバンを持ち、ふらふらと歩いた。
彼は眩しさに目を細めつつ空を見た。
ますます夕日は濃く。
きっと、この種の夕闇は滅多に見られないに違いなかった。
でも、この夕日を堪能していたらきっと遅くなってしまう。
そんな時間にお見舞い行っても大丈夫なのかな、と。
もう一度彼女の背を見つめた。
ふと、その影絵のようなシルエットはなんとなく。
なんとなく、まるで本物の影絵のように薄く思えた。
彼はやんわり息を吸って、吐いた。
すると、彼女が振り向く気配がした。
後を着いてくる少年をしばらく見つめて。
そっと、目を逸らした。
ひどく静かだった。
少年はそれを不思議に思った。
だって、ちゃんと蝉やひぐらしは鳴いているし、遠くから電車や車の走行音だって聞こえる。
なのに、やはり静かだな、という印象をもってしまって。
つまりもしかすると、今日の夕闇があまりに存在感がありすぎて。
その濃厚な存在感の前に音にまで意識が向かないのだろうか、と考えた。
彼女の歩いた道をなぞるように良い香りが漂って来た。
その香りに導かれるように、ただぼんやりと彼女の後を追った。
陸橋から見下ろしたその川はまるで血の様に濃く、どろりとしていて何かの血脈のように見えた。
坂道を登って、見上げた高層ビルは真っ黒で、一瞬墓地のように思えた。
赤に浮かぶ入道雲は見事な輪郭をつくり、まるで焼け焦げたように真っ暗だった。
気がつくと、彼女と彼の影が重なって見分けがつかなくなっていた。
ふと、世界に一人きりのようないつもの寂寥感に襲われた。
いや、二人きりか。と、彼は思った。
いつのまにか並んで歩いていた。
彼女が歩みを彼に合わしたようだった。
何せ彼女の足は長く、彼よりも歩幅は大きいのだから。
草原を、凪ぐように歩いた。
振り返ると高層ビルの群れ。
見覚えがあった。
ああ、前に家出したとき来た草原だ。
ついこないだのはずなのに、少年にはなぜか遠い昔のことのように思えた。
隣り合って草原に座って、空を眺めた。
触れ合うかどうかの肩から、彼女の熱を僅かに感じた。
ふと、彼女の横顔を見た。
真っ赤な夕日に照らされた横顔は何か、哀愁があった。
それに気づいたように彼女も振り向いた。
『何よ』
『ううん』
目で伝えて、空に再び視線を合わせた。
いよいよ視界が赤くなった。
やはり、今まで見たことが無いほど鮮烈な赤だった。
あまりに眩しくて目を瞑っても瞼に夕日の残像が写った。
ふと、うっすらと鳴くひぐらしと、風が草原を凪ぐ音が聞こえた。
さっきまでまるで聞こえなかったのが不思議だった。
やはり、夕日の存在感のせいで意識が向かなかったらしかった。
風に乗って、彼女の髪がなびいて彼の頬をするりと撫でた。
とてもとても良い匂いが鼻をくすぐって、ふと彼女を見た。
すると目が合った。
どうやら彼女はさっきからじっと、彼を見ていたようだった。
相変わらず睨むように、でもふと、その深緑の瞳が潤んでるように見えた。
そしてやっぱり、僅かに、僅かに揺れていた。
やはり、まったく同時に動いた。
こないだ学んだように、前歯が当たらないよう斜交いで、くちびるを合わせた。
少し口を開いて、お互いの息を吸った。
甘い吐息。
すると、彼の舌をなにかが突いたようだった。
柔らく気持ちのいい感覚だった。
また、おずおずと彼の舌に触れて。
でも自分から差し込んだくせに、触れたとたんびっくりしたようにちじこませた。
うっすら目を開けて、すると彼女の瞼とまつ毛が震えていた。
この薄暗さでもはっきりわかるほど頬全体が真っ赤だった。
きっと自分もそうだろう、と彼は思った。
また、舌が触れた。
さっきよりも、少し、でも控えめに。
やはり、驚くほど気持ちよくて、彼も、おずおずと、彼女の舌に触れた。
お互いに、おっかなびっくりと少し舐めあって、それから絡めて。
もう、そこまでくれば意思は関係なかった。
まるで、身体が別の何かに乗っ取られたようだった。
ただお互いの意思とは無関係に、次に、次に、とただ本能の赴くまま舌を絡めた。
サア、と草原が凪いだ。
その爽快感すらある音を背景に、ひどく粘着質な音が聞こえた。
ごく、と喉を鳴らす音が大きく響いた。
どちらが鳴らした音かわからなかった。唾液は無味無臭だった。
ただ咥内に溜まった相手の唾液を飲んで、舌を絡めて、それをすすった。
荒い吐息が熱かった。
気がつくとお互いを強く抱きしめあっていた。
彼のそれはかつて経験ないほどに硬く膨らんでいた。
あまりに硬くなってじんじんと痛かった。
ん、と喉をならし、呼吸が苦しくなって、舌を絡めたまま少し口を開け息を取り込んだ。
彼女もまったく同じように。
それからまた、しゃぶる音と、唾液をすする音と、喉を鳴らす音と。
どれぐらい時間がたったか分からなかった。
もう舌が痺れて動かなかった。どうやら彼女もそうらしかった。
ようやく口を離して、一つ、二つ、唾液の橋ができてぷつりと切れた。
お互いの口元はお互いの唾液でひどく濡れていた。
まるで、子供を抱っこするように抱きしめあった。
お互いの肩に互いの頭を乗せてただ熱い息を吐いた。
首元にかかる彼女の吐息は驚くほど熱かった。
その吐息がかかった場所がその熱で溶けてしまいそうだった。
ふと、彼は自分の下半身がぬれていることに気づいた。
なにかねちねちとした不快な感覚があって、これはなんだろうとぼんやりした頭の片隅で疑問に思った。
だがそれよりも、彼にとって周囲が暗くなっていることの方が重大だった。
空を仰いで、黄昏が過ぎ始めているのを知った。つまり、いつの間にか魔法の時間が過ぎていた。
彼はそれに心底驚いた。
愕然とすらした。
今日は、きっと凄まじい美しさだったに違いないのに。
それを見過ごしてしまった自分が信じられなかった。なぜか裏切られたような気分だった。
悲しくなって泣きそうになった。
すると耳元で熱い吐息。
彼女のひどくかすれた、低く、甘い囁き。
逃げちゃおっか。
それにどこか朦朧としながら意識を向けた。
脳が熱を帯びて発熱しているように重かった。
思考がまともにできなかった。
「もう、アタシ弐号機ないし」
でも少年はよく耳を澄ませて。
「遠くへ」ピリリリリ
着信。
彼は朦朧としつつ、咄嗟にそれを取ろうとして。
すると彼女が手を伸ばして、ぱし、と手首を掴まれた。
静かな草原に、不釣合いなケータイのチープなメロディが流れた。
彼女の表情を見ようとして、でも暗くて。
すると、彼女はふ、と笑いのような吐息を漏らし。
そっと、彼から身体を離した。
『あ、シンジ君?もうご飯食べちゃった?』
いいえ、とミサトの声に返事して。
『ようやく一段落着いてね。ようやく帰れるわ。これから三人で食事行きましょ』
はい。
見上げればもう、夜に分類される空だった。
まだ熱く火照った頭で、どうして見過ごしてしまったんだろうと彼は思った。
取り返しがつかなかった。これほどの夕闇と黄昏を見過ごすなんて。
自分に裏切られた気分だった。これじゃ今日を生きた意味がまるでなかった。
そう、確かに、その過ぎた時間はもう二度と取り返しがつかないのだった。
「じゃ帰りましょっか」
彼女が、さっきまでのそれが嘘のようにあっけらかんと言った。
だからシンジは思わず、さっきまでのそれが夢だったんじゃないか。
一瞬の幻を見ていたんじゃないか、そんな錯覚すら起こした。
そして彼女はすっと立ち上がった。
カバンを後ろ手にもって、鼻歌を歌いながらぶらぶら歩く。
その様子に彼はただきょとんとするしかなかった。
・
カバンで前を隠しながらなんとか家にたどり着いて。
どうやらミサトさんはまだ帰ってないらしかった。
だから急いで部屋で着替えようと脱ぐと、生臭いような匂いがした。
まじまじとブリーフについたそれを見る。
白濁した、液体。
これはなんだろう、と混乱するしかなくて。
でも、その生臭い匂いやその白濁した色は嫌悪感しかもてなくて。
ただひたすら気持ち悪くて、どうしようもなく汚らしく思えて。
彼はいそいでそれをゴミ箱に捨てると、きゅ、と蓋をした。
ふと、指先にぬるりとそれが付着していた。
彼は急いでハーフパンツだけ履き、洗面台に行くと、こすれそうなほど手を洗った。
石鹸で何度も何度も、まるで穢れを落とすように。
何度も、何度も、何度も。
・
彼女はさっとシャワーを浴びて、元シンジ少年の自分の部屋でラフな格好に着替えた。
そしてベッドに腰かけて。
それから信じられないぐらい顔を赤く染めた。
いや、顔だけじゃなかった。首も、胸元も、まるでりんごのように染めて。
そのままぼふ、とベッドに横たわって枕に顔を埋めた。
そして足をばたばたばた!と。
でも、突然エネルギーが切れたかのようにふっ、と静かになった。
「…馬鹿シンジ…」
彼女はまだ火照っている下腹部にそっと手を当てて。
そして、何か泣くような。
でも、熱く甘いような吐息を漏らした。
16/3/12