リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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13-2 そして優しく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…おかえり。」

 

アスカは、シンジと目が合っても逸らさなくなった。

いや、そもそも最近みたいに頻繁に目が合う機会もなかったから、実際はどうかわからないが。

それでも、じっと覗き込むようなことはあまりなかったはずだった。

 

つまり、今のように。

 

「あ…うん、ただいま」

 

そのそっけない口調に、怒ってるのかな…?と少年は首をかしげる。

でも、まだ夕飯まで時間はあるし、お腹すいたから怒ってるわけじゃなさそうだし。

 

ダイニングテーブルに座って頬杖をつきながらのその眼光は、相変わらず睨みつけるようだった。

なのにやはりそれに宿っている光が何なのかよくわからなかった。

 

「…どこ行ってたの」

「あ、うん。マヤさんとちょっと喫茶店行ってた」

「マヤ?」

 

誰そいつ。

その言葉にシンジはちょっと呆れた。

 

「誰って、リツコさんの助手?のオペレーターさん…」

「ああ、あれね」

 

思い当たったようで一つ頷く。

 

「…ふうん」

 

そして極めて不機嫌そうに鼻をならす。

その眼差しに何となく耐えられなくなって思わずシンジは目を逸らした。

すると彼女は心持ち低い声で囁く。

 

「なんであんたがそいつと遊んでんの」

「あ、うん。たまたま送ってもらえることになって、ついでにちょっと」

「ついでにちょっと?」

「えっと、なんというか…」

 

と、手に持ったままのそれをテーブルに置く。

 

「あ、ケーキおみやげ。マヤさんから」

 

ボックスを開けてショートケーキを取り出す、とその瞬間ズバッとケーキを奪われる。

一瞬で包みを剥がし。

はぐ。一口でショートケーキは姿を消した。

 

…やっぱりお腹すいてたのかな?

 

「あの、何か飲む?」

「いい」

「…そう?」

「うん」

 

口の端にクリームがついたまま拭こうともしない彼女を眺めつつ、自分も食べようかな、と少年もシュークリームを取り出し。

はぐ。彼女の一口でシュークリームは半分姿を消した。

 

「あー…」

「ふぁによ」

 

もぐもぐしながらぎろっと睨みつけられた。

でも口の周りにクリームの残骸が割りとべっとりついててあんまり怖くなかった。

 

「どうせ食べてきたんでしょ?」

「う、うん。そうだけど…」

 

ふん、と鼻を鳴らし。

 

「ならいいじゃない」

「え、でも」

「なら、それ食べなさいよ」

「う、うん」

 

しょうがないので半分になったシュークリームを手のまま頬張る。割とおいしかった。

と、彼女を見ると、そこはかとなく視線がうろうろしていた。

 

「…えっと、何?」

「別に。」

 

そのままじっと少年を睨みつける。

 

しばしの間。

 

すると、彼女は明白に眉を吊り上げて。

突然最後の一つのシュークリームを奪って不機嫌そうに部屋に消えた。

 

…口の周り拭いたほうがいいと思うけど?

 

もちろんシンジ少年は首をかしげる以外なかったのだった。

 

 

 

 

「参号機、良かったね」

「…まあね」

 

何となく今日は出前を取って、食後のココアを飲みつつシンジはおずおず言った。

 

でも、その返事は妙にそっけなかった。

あんまり嬉しくないのかな?と思わず疑問に思ってしまう。

 

「…嬉しいわよ、もちろん」

 

すると彼女はそれを読んだように。

 

「コアは弐号機のだしさ。実質弐号機が新しく生まれ変わったって思えばいいんだけど」

 

彼女はまだ、弐号機が失われたことを消化しきれていないようだった。

それにシンジは納得しつつ、だから話を変える。

 

「そういえばミサトさんは何時ごろになるんだろ」

「使徒の事後処理があるから深夜だって。」

 

そっか、と、シンジはぼそりと。

 

「…使徒、今回は簡単に倒せたね」

「そーね」

「みんな褒めてくれたよ。加持さんとか、青葉さんとか」

「ふうん」

 

その気のない返事を不思議に思う。

前、アスカは人に褒めてもらいたいからエヴァに乗ってる、みたいな事言ってたような。

だからシンジは素直に聞いてみた。

 

「…嬉しくないの?」

「別に。そーでもないわよ」

「そう?」

 

やっぱり彼女の様子に疑問をもちつつ。

すると、彼女は頬杖をつきながらけだるく、でもやっぱり睨むように、シンジの瞳をじっと覗きこんだ。

 

ふと、その視線から逃げるように、何となく彼女の唇に視線を下げる。

急に、あの草原でのくちづけを思い出してしまってやんわり頬が熱くなった。

それを誤魔化すように席を立つ。すると彼女が心持ち低い声でつぶやいた。

 

「…どこ行くの」

「え?…いや、お風呂の掃除」

 

シンジは彼女のその声のトーンになんでかそわそわしつつ、ややおずおずと答えた。

 

「後でいいでしょ」

「そ、そう?」

「それよりゲーム。」

「え?」

 

25戦25敗。

シンジはしょんぼりとうなだれた。

 

「…あんた相変わらず弱いわね…」

「…アスカが強すぎるんだよ…」

 

呆れた様子で横に座ってる彼女に視線を合わせて、と、脇からブラジャーがちらりと見えて、つい視線を逸らした。

実は、シンジは最近彼女を長く見ていられないのだった。

 

…アスカってこんな薄着だったっけ?

 

今まで彼女の服装などまったく意識が向かなかったのでわからないのだが。

ふとしたひょうしに彼女の服の隙間から今のように下着が見えたり、胸元が見えたり。

その度にあのくちづけを思い出して、そこが硬くなってしまいそうで。

もっとちゃんとした服着てくれないかな、と彼は眉を下げつつ思うのだった。

 

「また一緒にお風呂入る?」

「…え?」

 

ひどくそっけない口調だった。

突然の脈絡の無いその提案に聞き間違いかな?と少年は首をかしげた。

 

「どうせミサト帰るの遅いでしょ」

 

その意味が通っていない理由に少年は内心わけがわからず。

 

「えっ、でも」

「嫌なの?」

「そういうわけじゃ…」

「じゃいいでしょ。」

「いや、でも」

「…何?やっぱり嫌なの?」

 

彼女の声が剣呑な色彩を帯びた。

肉食獣のようなその瞳には、はっきりと怒りが宿っていて。

それにちょっとびびりつつ、でも彼は正直に言った。

 

「う、うん、ちょっと…」

 

少しの沈黙。

 

「…そ。」

 

一瞬気まずいような空気が流れて、すると彼女はそっけなくリビングを出て行った。

やっぱり少年は不思議に思いながらその後姿を眺めるしかなかった。

 

 

 

 

アスカは一人で浴槽に浸かりながら、二の腕をすっと撫でた。

自分で触っても滑らかでぴちぴちの肌だった。

ふん、と不機嫌に鼻を鳴らして、ふと囁く。

 

「…馬鹿シンジ」

 

『参号機、よかったね』

 

エヴァ参号機か。

先ほどの少年の言葉を思い出し、そう独り言ちる。

 

…なんであんまり嬉しくないんだろ。

 

彼女自身それが不思議だったのだ。

 

弐号機が失われた以上、彼女は自分がチルドレンとして抹消されるかもしれない。

そんな可能性すら考えていたのだ。

なのに蓋を開けてみたら新型を、しかもわざわざ彼女用にカラーリングを変えるサプライズまでして。

 

「どうして?」

 

いや、参号機を用意してくれた理由はわかる。

冷静に考えれば貴重なチルドレンの自分を遊ばせる理由は無い。

そもそも弐号機も彼女のミスで失われたわけではないのだから。

それに考えが及ばない時点で、こないだまでの自分はよほど混乱していたのだろう。

 

何より。

そう何より。

彼女の父親は、あの男なのだから。

ある意味ネルフ司令よりも高い権力を持つ、あの男。

 

ママを捨てた、あの男。

 

思い出したくない人物に、彼女はぎりっと口を噛み、その思惟を消し飛ばした。

だから別のことを考えようとして、ふと脳裏に過ぎる、あの草原でのくちづけ。

彼女の頬や首元が、のぼせとは別の理由で赤くなった。

 

だから彼女を翻弄する、その熱くなる下腹部をそっと撫でて。

そして、ぞっとするほど冷たい声で囁いた。

 

…あんたはアタシの言う事だけ聞いてりゃいいのよ。

 

己の肉に放たれたその重い言葉は、浴槽に消えて言った。

 

 

 

 

少年の部屋の夜を、少しだけ月が照らしてくれていた。

 

寝付けないままぼんやり仰向けで天井を眺める。

すでに見知った天井になっていた。

 

「アスカかあ…」

 

ついつい独り言を呟く。

最近ますます未知になっていく彼女に困惑する。

 

だがシンジでも、彼女が自分に何かして欲しがっているのは分かるのだ。

でも当然、彼にはそれが何なのか把握すら出来ないのだった。

 

…口で言ってくれればいいのに。

 

心底そう思う。

言葉にしてくれなきゃ分からないよ。

綾波なら、別かもしれないけど。

 

ふと、ドアの向こうに気配を感じて、シンジはなんとなくドアに背を向けるように寝返りをうった。

 

す、とドアが開く。足音、それから彼女の香り。

ぼふ、とベッドがたゆんだ。

背中越しの彼女の熱を意識を向けて、そして呼吸に耳を澄ませた。

 

その呼吸のリズムに落ちつくような感覚を抱いて、やはりシンジは疑問に思う。

いつからか時々、アスカはこうやって彼が寝静まるかどうかという時に勝手に彼の部屋に入ってその隣で寝るのだった。もちろん目が覚めたとき初めて隣にアスカが居たときは彼も驚いたものだった。

 

『部屋間違えた。』

 

目覚めた彼女のそっけない第一声にとまどいつつ、まあ、そういうこともあるのかなあ、と彼も納得したのだが。

それでも数度そういうことが続けばさすがの彼でも彼女がわざとそうしてると気づく。

 

彼は思った。

そう、きっと、多分、恐らく。

 

また、闇が囁いたのだろう。

 

彼は一種の確信をもって彼女のその行動理由を洞察していた。

そう、きっとまた彼女に囁いたのだ。隙を見ては陰から囁きかけるあの闇が。

 

彼女の呼吸にわずかにすん、と鼻を鳴らすようなノイズが混じった。

 

とても良い香りとそれに彩られた呼吸と熱に確かに暖かいような何かがシンジの中で広がった。

だから彼はその背に触れるかどうかという彼女の熱と、その彼女の形に意識を向け。

 

 

そっと、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

ふっと目覚めると、彼はその深海のような目を人差し指と中指でごしごしとこすった。

 

 

一瞬、そのコンクリートの天井に違和感を覚えてとまどう。

あれ?なんで僕は綾波の部屋に居るんだろうか?さっきまでアスカと一緒に部屋にいたのに、などと考えた。

もちろんその思惟は一瞬だった。極々わずかな錯覚。その錯覚に彼は思わず苦笑いした。

 

夢から現実へ浮かび上がるわずかな境界線。

 

その境界線を抜けるときに必ず起こる軽い混乱を振り払うように頭を振って、枕元に手を伸ばす。

タバコを探しだし、と、その小さい箱を持った、夢のそれよりも一回り以上大きくなった自分の手を眺めた。

そして、あれ、人の手ってこんな形だったろうか?などと考えてしまって、どうやらまだ寝ぼけているようだと再び苦笑いした。

 

「何笑ってるのあんたきもいわね。きもいわよあんた」

 

と、すぐ側で聞こえた幼い声に思わず視線を滑らせる。

おかっぱの少女が彼のすぐ横でうつ伏せに寝転がって頬杖をついていた。

 

だれ?

 

ああ、いやいやだれもないだろ、とまだ夢から覚醒しきってない自分にあきれた。

 

「おはようミサトちゃん。よく眠れた?」

 

彼はいつもの調子を意識して装いつつ、伸びをして改めて現状認識を回復しようと周囲を眺めた。

何もないコンクリートの部屋。あるのはパイプベッドといくつかのダンボール。

 

シングルのパイプベッドは無駄に背が高くなった彼には少し小さかった。ミサトちゃんと一緒ならなお更だった。

いつもなら大抵すごい寝相でぐーすか寝てるミサトちゃんを改めて眺める。どうやら今日は早起きだったようだ。

 

ふと開けっ放しにしてた窓から少しだけ肌寒い空気が流れた。それでもやはりその風は冬のそれではなく春のそれに近かった。

彼にとってはあまりにも久しいその冬以外の気配が心地よかった。

 

「…まあね」

 

そうやく返事をしたミサトちゃんのアンニュイな様子に首をかしげた。

ふと、少しだけ不安を感じて彼は聞いてみた。

 

「…僕、寝てる間に何か言った…?」

「ん?ううん別に」

 

別段嘘は感じなかったので、彼はわずかに安堵の息をもらした。

それでもミサトちゃんはぼんやりと彼を見ていた。その眼差しに懐かしさを感じて少し目を細める。

 

遠い昔、そう、まだ彼が少年だった頃。

目が覚めたとき彼女は時にこんな視線で彼の寝顔を眺めていた。

ふと大人だったころの彼女の体温と肌のぬくもりが一瞬蘇って、だから彼はその残像を一瞬で振り払った。

 

「どうしたのさミサトちゃん。何か変だよ」

 

やはりミサトちゃんはぼんやりと彼を見ていた。

そしてぽつりとつぶやく。

 

「…あんたさ」

 

うん?と彼はタバコに火をつけながら続きを促した。

朝一番のタバコは絶品だった。

 

「記憶をなくす前のあたしを知ってるのよね」

「そうだね」

 

ぷかーと煙を吐いた。

そして何か、ごにょごにょと口ごもる彼女を目の端に捕らえて彼は囁いた。

 

「ようやく、知りたくなったの?」

 

彼女は一瞬口ごもり。

 

「…何よ、それ」

「だって、君いつまでたっても僕にそのこと聞こうとしないからさ。躊躇してるのかなって」

「だからなんでよ」

「過去は過去だからね。それに囚われてしまうのは愚かだし、今を維持するためなら過去なんていらない」

 

あくまで維持するだけならだけど、と彼はつぶやいた。

 

「…どういう意味」

「そのままだよ。自己を維持するだけなら過去はいらないが、克服したいなら過去を振り返るのは必須だもの」

「じゃあ、過去がない奴はどうやって今の自分を克服すんのよ」

「まず過去を探すことからはじめなきゃなんじゃないかなあ、多分」

 

ミサトちゃんは何か考えるように少しだけうなだれた。

彼は煙をわっかにしながらぷかあと吐いて、どこか優しくつぶやいた。

 

「それで、どうしたい?」

 

彼は静かに続けた。

 

「君が知りたいなら全部教えてあげるよ、何もかも。ただ」

 

ただ?とミサトちゃんは促した。

 

「ただ、受け入れるには…少し、重い過去かもしれないね」

 

彼女は一瞬沈黙して。

それからしばらくして躊躇するように低くつぶやいた。

 

…昔ね。

 

「うん」

「…昔からね、ちょっち疑問に思ってたことあんのよ」

「うん」

「あたし、ずっと昔記憶なくしてふらふらしてたって言ったでしょ」

「言ってたね」

「どこでふらふらしてたかって言うとね…爆心地にいたのよ」

 

彼女はやはり躊躇するような口調で言った。

彼はうんともすんとも言わず黙って聞いていた。

 

「サードインパクトの爆心地に居たの。あたし一人で、誰も居なくて。そこでさまよってて」

 

うん、と彼はやはり感情をまじえずに相槌をうった。

 

「誰もいなくて…なのにどうしてか生きてて。どうしてそんなとこで一人っきりでいたのか不思議で」

「うん」

「そこに突然、あいつがやってきて…」

 

それが誰を指してるのか彼は一瞬悩んで、でもすぐに、ああ、と頷いた。

彼女はその様子を眺めながら躊躇した声でそっとつむいだ。

 

「…ひとつだけ、教えて」

「いいよ。僕に教えられることなら」

「あいつは、つまり、あたしの過去を知ってるの?」

「あいつって誰のことさ」

 

彼はすっとぼけたようにそう言った。

もちろんミサトちゃんはそれを無視して。

 

「知り合いなんでしょ。あんたあいつと」

「そうかもね」

「…あいつ、知ってるのね?」

「もちろん、君の上司は全て知ってるよ」

 

彼は感情をこめない口調で言った。

 

「彼女は全部知ってるよ。…アスカは何もかも知っていて、君に隠してるのさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

・Ⅱ 『そして優しく』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レイは春の気温と海鳴りを堪能しながらすとん、と彼に背を預けた。

 

無駄に体の大きい彼は彼女の小さめの体が座るために作られたようにぴったりだった。

どうやら彼には椅子の才能があるようだった。類まれな才能に違いなかった。

 

今度から彼を専属の椅子にするのもいいわね、と彼女はぼんやり思った。

当然だった。せっかくの持って生まれた才能を生かさないのはあまりに愚かすぎた。

 

などと考えつつ。

この気温では人の体温は少し暑かったが、それでもすっと力を抜いた体を預けた。

 

「やっぱり甘えん坊だね君」

 

彼は面白そうに笑いながら、あぐらに座る彼女に覆いかぶさるように背を丸めた。

そして釣竿を適当に流す。でも竿を持ってるのは彼だけだった。

釣りをしたい、と言ったくせに当の彼女は興味がないようだった。

 

「どこをどう見たらそういう解釈になるの」

 

頭のてっぺんが彼のあごあたりにあったので、偶然を装ってこつん、と頭突きしてみた。

痛てっと彼はつぶやいた。その声を無視して、ちょうど胸の前で組まれた彼の両手に意識を向けた。

油断すると乳房に触れそうな距離にある二の腕は、何か守られているような安心感があった。

どうやら彼にはシートベルト的な才能もあるようだった。多才な人なのね、と彼女は心の中だけで賞賛した。

 

「僕にはどう見てもそういう解釈にしかできないけど…?」

「そう?ならあなた目が腐ってるのね。残念ねあなた」

「うーん。それは残念」

 

心地良い人の体温と呼吸と僅かに男臭い体臭に、気を抜くとまどろんでしまいそうだった。

すると、す、と彼の手が彼女の額をなでた。

男にしては繊細な手の感触が心地よくて目を細めた。そもそも他の男の手など知らないのだが。

 

「うん、熱は完全に下がったね」

「気にしすぎよ」

「するに決まってるじゃない。僕には君が何より大事だもの」

 

真面目な口調でそんなことを耳元で囁かれて、彼女は思わず動揺してしまった。

僅かな頬の熱を自覚しながら、今の動揺を気づかれなかったろうか、と不安に思いつつ、とっさに誤魔化すように話題をそらした。

 

「あの紅いエヴァ…」

「うん」

 

彼の空気が少し変わったのを感じた。

 

「調査が始まるそうよ」

「そうやく解凍できたんだ?」

「いいえ。『右手』で溶かすことになったの。今日にも」

「なるほど。そうでもしなきゃ確かに難しいだろうね」

「一応スキャンはとっくにすませたけど、その限りじゃ特に今までのエヴァと違いは見受けられないって」

「次は分解解剖して精密検査ってとこか」

「多分ね」

 

彼女は頭のすぐ斜め上にある彼の顔を見上げた。

能面のように無表情だった。その表情に、彼女はなんとなく、視線をうつむかせた。

すると彼が何かごそごそとポケットをまさぐり始めた。と、腕が僅かに乳房に触れて、彼女は図らずも頬を染めた。

やっぱりそれを誤魔化すように、彼女は極めて平静な声が出るように心がけつつつぶやいた。

 

「またタバコ探してるの」

「うん。でも切らしたみたい。つい忘れちゃう」

 

彼女は前から疑問に思っていることを聞いてみた。

 

「タバコもりんごみたいにもってくればいいじゃない」

「もってくる?」

 

彼はきょとんとして聞き返した。

 

「…どこからかもってくるんじゃないの?」

「ああ」

 

彼は納得したように彼女の顔の前で手を握ると、ぱっと開いた。

今日は小さめの青りんごだった。

はい、と差し出されたので受け取って一口かじった。甘酸っぱくておいしかった。

 

「そんなわけないじゃない。そもそもどこからどうやって持ってくるのさ」

 

笑いの気配をまといつつそんな事を言うので、彼女は素直に疑問を口にしてみた。

 

「…ディラックの海、とかから?」

「虚数空間にりんごが落ちてるなんて知らなかった」

「違うの?」

「違うよ。そんなことできたらそれこそ使徒じゃないか。ATフィールドが心の壁だってのは知ってるでしょ?もっと言えば心の形を具現したものなんだ。

 だから応用すれば空だって飛べるし、虚数空間だって作れる。でも僕は空も飛べないし、虚数空間だって作れない。心の壁を具現することもできない」

 

つまり、やはり僕は使徒ではないんだろうね。

その言葉に彼女は食べかけの青りんごをまじまじと見つめた。

 

「じゃあ…これはどこから?」

「どこからでもないよ。そこにあったの」

 

首をかしげる。

 

「最初からすべてがあるんだよ。見渡す限り何もかもが」

「哲学の話?」

「どうかな」

 

やはりわからなくて目をしばたかせた。

彼はどう説明しようか思案するように、ゆっくり口を開いた。

 

「いつから具体的にこういうことができるようになったか僕もわからない。

 でもね、僕がしてるのは大した事じゃない。ただ“寄せ集めた”だけだ」

 

彼女は黙って続きを促した。

 

「そこにあったものを寄せて、集めて、すると別のものに変質する」

「…つまり、作ったの?」彼女はおずおずと。

「まさか。何も作っていないよ。何も増えていないし、何も減ってない。ただ“変質”したんだ」

「…寄せ集めると、どうしてりんごになるの?」

「りんごにしようとしているからだよ」

 

彼は笑った。

 

「例えば詩は、言葉が寄せ集まって出来ているだろう」

 

うん、と頷く。

 

「でも、言葉は有限だ。日本語ならたかが50程度の組み合わせに過ぎない。なのに、そのたかが50音を寄せ集めて作られた詩は、それぞれ別のものなんだ。ここまではわかる?」

 

頷いて、続きを促す。

 

「でも、それは逆に言えば、50音の言葉がただそこにあるだけなんだ。

 翻訳されたブレイクの詩も中原中也の詩も同じ物の組み合わせに過ぎない。元は同じものなのに、寄せ方を変えればそれぞれ別のものに変質する。りんごになればスプーンにもなる。

 音楽だって同じさ。たったいくつかの音が寄せ集まって、でも第九にもカノンにもなる」

 

彼女は思案した。

 

「僕の出来ることなんてくだらないことさ。僕には言葉を寄せ集めて優れた詩に変質させることはできない。音楽だって、寄せ集めることはできるけど出来の悪いまがい物だ。なのに、僕はなぜか他の人が動かせないものを“寄せる”ことが出来る。その気になれば自分を“寄せて”、遠くへ移動する事だって出来る。だがそれがなんなのさ?」

 

どこか嘲笑するような言葉をつむぐ。

 

「どうしてこんなことが出来るのか、そしてこれに一体どんな意味があるのか、それすら今もわからない」

 

彼女は深甚な何かを感じて、考えた。考えた。

寄せ集める、すると変質して何かが出来る、生まれる。

りんごや、スプーン?いや、そもそも誕生する。新しく生まれる。寄せ集めて?

 

『創造する?』

 

彼女は驚愕に目を見開かせた。

いや、それはつまり、それは、いや、でも。

それが出来る存在。

 

それって、つまり…?

 

彼女は目を見開いてまじまじと彼を見上げた。

彼は無表情に、深海の瞳で彼女を見下ろした。

 

「言わないで」

 

彼は機を制するように言った。

 

「僕に対してそんな解釈をする人たちもいた。だがくだらない。僕はそんなものじゃない」

 

そして搾り出すように、吐き捨てた。

 

「…こんな奴が、そんなものであってたまるか。」

 

 

 

 

 

 

ミサトちゃんはぼんやりと窓から外を見下ろした。

 

結局、何も聞かなかった。聞くことも出来なかった。

今日が最後のチャンスだったはずなのに。

 

彼女はそんな自分をあざ笑うように息をもらした。

それはもう確信に近い予感。

 

『あの少年』

 

脳裏に浮かぶその少年はやはり、やはり。

気がつくと背の高い、青い瞳をした元サードチルドレンのあいつになってて。

 

成長を止める手術を受けるとき、彼女はほとんど躊躇も無く同意した。

それはこれからもエヴァに乗りたかったからでもある。彼女にはエヴァに乗って暴れる、それが生きがいだったから。

だがもう一つ理由があった。

 

あの少年。

始めはずっと年上だったはずの脳裏に浮かぶあの少年に日に日に年齢が近づいていく。

このままではいつか、脳裏のあの少年を超えてしまう。ただ一つの手がかり、過去の手がかり。

 

たった一つの、執着。

 

だから。だったのに。

 

彼女はバスルームでひび割れた鏡に映った自分を見た。

約10歳の体。死ぬまで永遠に変わらないこの体。

なぜ考えなかったのだろう?その少年が生きてるという可能性を。

あの少年もやがては大人になると、なぜ疑いも無く少年のままだと。

 

止めてなかったら、恐らく自分は22か23の体だったはずだった。

 

もう。

 

彼女はふっと笑った。

何も無い、平らな左乳房の上をなぞった。

 

そうよ、あたしはエヴァにのって暴れればいいの。

他に何もいらない。何も。だって。

 

だって、最初から何もないもーん。

 

だから、彼女はきっと何かがあったはずのその左胸の虚無に爪をたてて。

 

そして、寂れたように笑った。

 

 

それより約4時間後。

二度目の第一種警報がかつて第三新東京と呼ばれた廃墟に鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

17/10/25


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