リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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14ー2 七つまでは白のうち、十四までは銀のうち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なあシンジ、まだ修学旅行の班決まってないだろ?俺らとどうだ」

 

今日は昨日の晴天が嘘のような曇り空だった。

 

一見涼しげに見える空模様とは真逆にじめじめと暑く、シンジ少年は少し残念そうに空を眺めつつ。そのケンスケの言葉に、ごめん、と答えた。

 

「あの、実は僕行かないんだ」

「え?なんで?」

「その、エヴァのパイロットだし、待機してなきゃいけないって」

 

昨日遅く帰ってきたミサトさんに、言い忘れてたと謝られた。

最近ミサトさんも忙しいようで、すっかり忘れていたそうだ。

アスカは意外にも、そう、とぶっきらぼうに言ったまますぐ部屋へ戻ってしまったが。

 

昨日、アスカの様子は変だった。

ずっと部屋に籠ったままで、食事すらとろうとしなかった。

 

洞木さんと、何かあったのかなあ?

そんな風にぼんやりしているシンジにケンスケは、納得したように声を上げた。

 

「あー…そういうことか」

 

それにはケンスケも確かにそりゃそうだ、と思い。

 

「トウジ、シンジたち沖縄行かないんだってさ」

「は?なんでや」

 

自分の席に戻ってトウジに今の話を報告する。

 

「というわけ。まあしょうがないわな。旅行中にあの怪物出たらどうすんだって話しだし」

「ほか…じゃ綾波や惣流もか」

「多分な。まあ、悪いけど俺らだけで楽しんでこよう。お土産忘れずにさ」

 

すると、しばらく考え込んでいたトウジが突然。

 

「ケンスケ。俺らも行くのやめるか」

「はあ!?」

 

その突拍子もない言葉に思わず声をあげ。

 

「なんでだよ?」

「そらそうやろ。シンジら俺ら守ってくれてんねんで。なのに俺らだけ楽しんでどうすんねん」

「そりゃあ…」

 

ある種の説得力を感じてしまって口をつむぐ。

 

「別に遠くに行かなきゃええんやろ?なら俺らとシンジでどっか遊び行こうや」

「…いや、でももう修学旅行の金とか払ってくれてるんだぜ?」

「返してもらえばいいやん」

「まあ、そうだけどさ」

 

親友の発想にあきれながら。

 

「おまえ、本気?」

「本気やで」

「おまえらしいというかなんと言うか…」

 

ケンスケも沖縄にやや未練を残しつつ。

 

「…そうだな。それもいいかもな」

「そやそや」

 

すると、トウジはぼそっと

 

「…なんなら委員長も誘うか」

「へ?」

 

ケンスケは今度こそ驚いて

 

「おまえ、まさかそれ目当てとかじゃないよな?」

「なんでやねん。そんなわけあるか」

 

ぶっきらぼうな物言いに嘘を感じなくて。

ううん?とケンスケは不思議に思い。

 

「おまえ委員長と何かあった?」

「何もあるかぼけえ。どうせシンジにゃ惣流もついてくるやろ。ついでや」

「ふーん?まあ、いいけどさ」

 

なんとなくケンスケは親友の顔をながめた。

 

「委員長、修学旅行辞めにせえへんか」

「え?」

 

突然鈴原に話しかけられぼんやりしてたヒカリはきょとんと。

 

「いや、シンジたち行かないらしいねん。エヴァのあれで」

 

ああ、と。

 

「実は私も、行かない予定なの」

「え?委員長も?」

 

ケンスケは不思議そうに聞いた。

 

「…うん。」

 

何か、歯に詰まったような言い方だった。

 

「ええと、どうして?」

「その、色々、事情があって」

 

やはり何か言いにくそうにしてる様子で。

 

「そっか…」

「なら丁度いいやん」

 

トウジが嬉しそうに言った。

 

「みんなが沖縄行ってる間俺らだけで遊ぼうや」

 

で。

 

「アタシも誘ったってわけ?」

「う、うん」

 

お昼休み。

 

アスカとシンジは二人でテーブルを並べて弁当を食べていた。

最近、トウジとケンスケは遠慮してか二人の輪に入ることがあまりない。

シンジとしては本当は4人で食べたいな、と思うのだけれど、するとアスカが不機嫌になるので黙っていた。

 

「ふうん」

 

アスカはシンジ特性の肉大盛り弁当にがぶりつき。

どうやら昨日夕食を抜いたせいでずいぶんお腹が減ってるようだった。

 

「別に、いいわよ」

 

意外だった。昨日から何か不機嫌な様子の彼女はてっきり断ると思ったからだ。

最近になってようやくシンジはアスカがトウジとケンスケをあまり好いてないことに気づいていた。

嫌い、とまではいかないようだが。

それでも、仲良くしてくれればいいのに、と思っていた彼は少し安心して、弁当のから揚げを口に入れた。

 

すると。

 

「ファーストは?」

 

ひどく、ひどくそっけない言い方だった。

まるで何の関心もないかのような口調で紡がれたその言葉に虚をつかれ。

 

「あいつも呼ぶつもりなの?」

「…ううん、だって、ずっと忙しいみたいだし。学校もこないし」

 

本当は綾波も誘いたかったけど。

 

ふと窓の席を見た。

昨日の出来事をまざまざ思い出し、ふと指先を見る。

ビーカーの破片で切ったはずの傷はもううっすらと治りかけていた。

 

少し寂しくなって、視線を戻す。

アスカが、そんな様子の彼をあの目で見ていた。

怒っているような、睨んでる様な、でもそれとは少し違う、底の見えない目。

 

やはり困惑してると。

 

「ごはん、ついてる」

 

すっと彼の口に手を伸ばし、ご飯粒を取ると、あたりまえのようにそれを自分の口に入れた。

シンジはなんとなく恥ずかしくなって、少し顔が赤くなった。

 

「おまえらもう結婚しろよ…」

 

すると、ケンスケがそういいつつテーブルをシンジたちにくっつける。

遅れてトウジ、ヒカリも。

 

「学校でいちゃつくなや」

「えっと…お邪魔します…」

 

と、アスカのまゆがちょっとゆがんだ。

 

5人で食べる昼ごはんは騒がしかった。

もっぱら騒いでるのはトウジとケンスケだったが。

シンジはふと気になって、アスカの隣で食べてるヒカリに話しかけた。

 

「…あの、委員長さんも、修学旅行行かなくていいの?」

「うん。最初から行かない予定だったの」

 

そうやって会話したのも久しぶりだった。

どうしても気まずくて、でも不思議と、今はすっと会話することができた。

 

「そっか…」

「うん。だから、みんなで遊びましょ」

「泊まりで?」

 

とアスカがそっけなく。

 

「ええんちゃう?ケンスケおまえキャンプとか得意やろ」

「いやまあ、慣れてるっちゃ慣れてるけど」

「みんなは二泊三日で沖縄だろ?俺らも二泊三日でキャンプすっか」

「それだとお風呂とかどうすんのよ?」

「ドラム缶風呂、とか?」

「あんたら絶対のぞくでしょうが!」

「私も、それはちょっと…」

 

アスカの怒声にヒカリもおずおずと賛同する。

 

そんな会話をしつつ、アスカも自然にトウジやケンスケたちとやりとりしてるのを見て。

シンジは少しだけ安心した。

 

すると、委員長と目が合った。

と、すっと目をそらされた。

それにシンジは少し、首をかしげた。

 

どうしたの、と話しかけようと、口を開いて、その教室の違和感に気づいた。

 

しん。

 

さっきまでの喧騒が聞こえなくなって、それにどうしたんだろうと違和感を覚えて。

でも、涼やかな気配がして、そのなじみのある空気にシンジは咄嗟に後ろを振り返った。

 

あ、と口を開いた。

 

「なんや綾波やん。久しぶりやのー」

 

トウジがのほほんとした感じで話しかけた。

白い少女は一瞬トウジを見て、それからシンジを見て。

 

そうね、とだけつぶやくと、何事もないように自分の席に座った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・Ⅱ 七つまでは白のうち、十四までは銀のうち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

授業が始まって、でもシンジはぼんやりと白い少女を眺めていた。

 

彼女は相変わらず頬杖をついて窓の景色を眺めていた。

久しぶりに登校した彼女に一瞬だけざわめいたクラスメート達もすぐに静かになった。

どうやら皆彼女には特に関心がないようだった。

 

彼は話しかけたくて、でもどう話しかければいいか迷ってるうちに昼休みが終わってしまった。

その纏う空気は相変わらず涼やかで。

あの空気の内側に招かれるような感覚は何度思い出しても不思議だった。

 

相変わらず彼女は食事をとらなかった。

ぼんやりと彼女の後姿を眺めて、そういえばいつか彼女にお弁当作ろうとしていたことを思い出した。

 

「では、綾波。」

 

その声に我に返って、シンジは改めて彼女を眺めた。

 

先生から指されて、はい、と静かに立ち上がる。

そして彼女は涼やかな声で朗読した。

 

 

 

わたくしという存在は。

 

 

 

「…わたくしという存在は、仮定された有機交流電燈の、ひとつの青い照明です」

 

 

りん、と彼の琴線が美しい音を鳴らした。

 

 

「…あらゆる、透明な幽霊の、複合体。」

 

 

彼は、とっさにその朗読を聞き逃さないように耳を済ませた。

 

 

 

 風景や、みんなと一緒にせわしくせわしく明滅しながら

 

 いかにも確かにともり続ける、因果交流電燈の、ひとつの青い照明です

 

 

  ひかりはたもち、その電燈は失われ

 

 

 

 これら二十二箇月の過去とかん感ずる方角から、紙と鉱質インクをつらね

 

  すべて、わたくしと明滅し、みんなが同時に感ずるもの

 

 

 ここまでたもちつづけられた、かげとひかりのひとくさりづつ

 

 そのほとりの心象スケッチです…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ようシンジ、帰ろうぜ」

 

 

シンジは、ケンスケの声に我に返った。

 

放課後だった。

 

放課後?

 

後ろにはトウジとアスカとヒカリも居た。

どうやら5人での市内旅行計画をたてるつもりのようだった。

 

あ、とシンジは咄嗟に口を開いて。

 

「あの…ごめん、今日はちょっと用事あるんだ」

 

なぜか、そんな嘘をついた。

なぜそんな嘘をついたか自分でもわからなかった。

 

でも、そうか、とケンスケは納得したようで。

 

「わかった、じゃまたな。明日にでも色々決めようぜ」

 

そう言って後ろを振り向き皆で教室を出て行く。

寸前、アスカと目が合った。

 

やはりあの目だった。

でも、すぐにそらして、ヒカリと肩を並べて教室を出て行った。

 

まだ、教室は残った生徒で騒がしかった。

 

改めて綾波を見ると、彼女は帰り支度もせず、ただぼんやり空を眺めているだけだった。

 

彼もそれをなぞる様に空を見上げた。

みんみんゼミがいっそううるさく鳴いていた。

 

 

『わたくしという存在は、仮定された有機交流電燈の、ひとつの青い照明です』

 

 

美しく、涼やかな彼女の朗読がずっと耳に残っていた。

セミのうるささもそれを消すことはできなかった。

 

少しだけ空に斜陽の光が混ざり始めていた。

 

もうすぐ夕暮れに分類されるかもしれない狭間だった。

 

ようやく、教室は静かになっていた。

残っているのは、彼と彼女だけだった。

 

彼はそっと席を立って、彼女の席に近づいた。

 

 

あ、あの。

 

 

すると、彼女はようやく窓を眺めるのをやめて、彼をそっと見上げた。

 

「あの…その」

 

にぎ、にぎと右手を開いて閉じて。

それから意を決したように。

 

「…一緒に、帰らない?」

 

少し間があった。

 

それから彼女はカバンをとると、すっと立ち上がった。

するとそのまま彼の側をすり抜け、出口に歩んでいった。

 

彼はその様子を見て、少しうなだれた。

と、彼女は足を止めて、彼に振り向いた。

 

それに彼はきょとんとして。

そして彼女はそっと口を開き。

 

…帰らないの?

 

と、そう言った。

 

 

 

 

日が暮れ始めた空の隙間から、ようやく光が見えた。

 

 

斜陽の光はオレンジにまぶしく、でも分厚い雲の向こうは湖のように澄んでいた。

 

夕暮れが近いというのに、ひどく明るかった。

でもそれは太陽のまぶしさではなく、空気そのものの明るさに思えた。

 

何もかもが透明で、透き通っていて、空の向こうさえも見渡せるように思えた。

まるで美しい水彩画のようだった。

 

彼女とは寸分違わぬ速度で歩いた。

 

別段どちらかがどちらかへ合わす必要が無かった。

彼と彼女の歩行はまるで最初から合わせたかのようにぴったりだった。

 

一言も、しゃべらなかった。

でも、彼女とのその沈黙は当然、何の苦痛も無く、ひどく少年の心を落ち着かせてくれた。

 

ふと、彼女の横顔を見た。

 

相変わらず白かった。

髪は色を忘れたかのように白く。

すこしだけ暖色が混じった肌の白は陶器のように艶があって、汗一つかいてなかった。

 

ふと、目が合った。

やはり、美しい赤だった。

 

 

なに?

 

ううん。

 

 

目で話して、そのまま視線を前に向けた。

 

セミが鳴く音に、気づいた。

こんなにうるさく鳴いてるのに、今の今までまったく意識の外にあった事に驚いた。

 

突然、ジジ、と大きな声を鳴らして、セミが飛んできた。

 

びっくりして、思わず背をちぢ込ませると、ぴたり、とセミが彼女の肩にとまった。

彼女は驚いてはいなかったが、目を寄せてきょとんとした表情をした。

初めて見る表情だった。

 

彼女は少し困惑したように、彼を見た。

その訴えるような視線も初めてで。

 

だからそっと彼女の肩に止まったままのセミを手に取ると、ぱっと空に放り投げた。

オレンジに彩られた水面のような空に、羽音を鳴らしながら飛んでいった。

 

それをしばらく二人で見届けて、同時に目を合わせた。

何となく、彼は微笑んだ。

 

それからは、ぽつりぽつり、と言葉を重ねた。

 

「学校、これるようになったんだね」

「少しの間だけ」

 

その返答が意外で。

 

「…実験、終わったんじゃないの?」

「いいえ。一時中止になっただけ。すぐに再開されるわ」

「じゃあ、また来れなくなるの?」

「そうね」

 

そっか、と彼は少し残念そうにつぶやいた。

それから、そうだ、と彼は思い出したように。

 

「あの、修学旅行さ、やっぱり行っちゃだめって言われて」

「そうでしょうね」

「でもさ、トウジたち自分たちも休んでがみんなで遊ぼうって」

「そう?」

 

あまり関心なさそうに彼女は言った。

 

「だからあの…綾波もこない?」

 

それに意外そうな様子で目をぱちくりさせ。

あ、今のも初めて見たな、と彼は思った。

 

「どうして?」

「どうしてって、その…?」

 

なんて言えばいいんだろう、と悩み。

彼女はぽつりと。

 

「行けるかどうか、わからない」

「…そっか」

 

きっと忙しいだろうし、しょうがないか、とか彼は思った。

すると、その彼の様子を眺めていた彼女は、しばらく考えるかのように足を止め。

 

「…許可が下りれば、行くわ」

 

それに彼は顔を輝かせて。

 

「本当?」

「…ええ」

「よかった」

 

彼はまるで幼子のようにはにかみながらそう言った。

彼女はその笑顔をぼんやりと見つめた。

 

「明日も学校来るの?」

「その予定よ」

「あの、綾波って嫌いな食べ物あるの?」

 

その質問に、彼女は今度こそ不思議そうに口を切った。

 

「…どうして?」

「えっと、なんていうか…」

 

お弁当作るって言って迷惑がられたらどうしよう、と一瞬怖くなって。

すると、しばらくの間の後やはりぽつりと彼女は言った。

 

「…肉」

 

つぶやかれた言葉にそっか、と。

 

「どんな肉が苦手なの?」

「全て」

「…えっと、豚とか鳥とかも?」

「ええ」

「お魚は?」

「それも」

「あの、じゃあ、好きな食べ物は?」

「ないわ」

「そ、そうなんだ?」

 

ううん、と彼は困ってしまって。

肉も魚も全部駄目ならどんなお弁当作ればいいんだろうかと悩み。

 

「どうして、そんなこと聞くの」

「ええと」

 

正直に言うのが何か恥ずかしくて、なんとなく困ったあげく。

彼はこんなことを口にした。

 

「あ、綾波の好きなものが、知りたくて」

「…私の、好きなもの?」

「あの、別に食べ物の話だけじゃなくて、他にも色々」

 

少しの沈黙があって。

変なこと聞いちゃったかなあ、と彼は少しだけ後悔し始め、でも。

 

「無いわ」

「…何も?」

「ええ」

 

涼やかに言った。

 

「欲しいものも?」

「そうね」

「…そっか」

 

彼はそっとつぶやいた。

 

「僕と、同じだね」

 

少しだけ降ってきた。お天気雨だった。

だからバス停で雨宿りしつつ。

ふと、となりにある自販機でサイダーを二本買った。

 

ありがとう、と静かに言って彼女は受け取った。

 

雨が降りながら、でも光はまぶしく、雨を銀色に光らせた。

美しかった。シンジの心がふんわりときめいた。

 

横を見て、彼女が缶を仰いだ。

こくり、と小さく喉がなって、そのまま目を下した。

 

いくつかの水滴が彼女の頬や髪を濡らして、そのままぽたりと落ちた。

 

普段にもまして彼女が透明に見えて、まるで水彩画で描かれた人のように思えた。

一瞬彼女が透きとおったような錯覚を起こして、ふと、そのまま消えてしまわないかと恐怖にかられた。

 

すると、しばらくの沈黙の後。

彼女は小さくつぶやいた。

 

…見てみたいもの

 

そのつぶやきがあまりに小さくて、だがら彼は聞き漏らさないようによく、よく耳を澄ませた。

 

「見てみたいものは、あるわ」

「…何?」

「雪」

 

と、そのあまりなじみのない言葉にしばし悩んで。

 

「雪?」

 

うん、とつぶやき。

彼女は地面に落ちる銀色をながめながら、そっとつぶやいた。

 

「雪を、いつか見てみたい」

 

彼は、そっと空を見上げた。

 

斜陽の光を含んだ水滴が降り注いでいた。

 

常夏になった後に産まれた彼ももちろん見たことがなかった。

水の底のような暗い空から、白い結晶が降ってくるその景色を夢想した。

それは確かに美しい光景に違いなかった。

 

雪。

 

なぜか白が舞う海を夢想した。

 

ふと、音が鳴った。

 

わずかな音だった。ほんのわずか、寄せ集まっただけのまだなり損ないの音だった。

彼はしばらく透明の鍵盤でその音を鳴らして、しっかり覚えてから、そっとつぶやいた。

 

…いつか。

 

彼女が意識を彼に向けた気配がした。

 

「いつか…、その、見せてあげる」

 

彼女は少し不思議そうに。

 

「碇君が?」

「う、うん。いつか」

 

彼女は少しだけ目を伏せると。

 

うん、と幼子のようにうなずいた。

 

 

ようやく雨があがって、ゆっくりと帰り道を歩いた。

 

雨上がりの空はますます澄み切っていた。

 

夕暮れの赤すらどこか優しく透明で美しく。

それを噛みしめるように、ゆっくりと歩いた。

彼女も、当たり前のように同じ歩調で歩いた。

 

でもやっぱり、すぐに分かれ道についてしまった。

 

残念そうに立ち止まって、それじゃ、と声をかけた。

すると、碇君、と涼やかに呼ばれ。

 

うん、と次の言葉をまった。

 

彼女はなにか逡巡しているようだった。

それが不思議で、彼はやはり耳を澄ませて彼女を見た。

 

しばらくの後、彼女はそっと口を切った。

 

「…また、明日」

 

それに目をぱちくりさせ、それから少しだけはにかんで、彼も言った。

 

「…また、明日」

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼんやり歩きながらシンジはその景色を夢想した。

 

たった1フレーズだけ紡がれたその音を透明な鍵盤で鳴らしながら。

 

それから、ああ、そうだ、明日のお弁当の材料を買いに行かないとと考えた。

その顔は無自覚に微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レイはぼんやりと団地へ向かう道を歩きながらその景色を夢想した。

 

白が舞う海。

 

彼女は知っていた。それがやがて訪れる風景なのだと。

そして同時に知っていた、とうに知っていた。

 

自分がその景色を見ることはきっとないのだろうと。

 

ぽつり、と手に水滴が落ちた。

 

また、降ってきたのだろうか、と思い。空を見上げる。

もう夜に分類される空は晴れ、雨雲はなかった。

 

彼女は不思議そうに首を傾げ。

 

そして、何事もなかったかのように、夜道に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「エヴァを3機も独占か。その気になれば世界滅ぼせるわね」

 

いえ、もしかすると初号機一機で十分かしら、とミサトは思い。

 

「でも、実戦配備にはもうしばらく時間はかかるわ」

「コアの調整、そんなに難しいの?」

「慎重にやってるだけよ」

 

ミサトの傍らでリツコがくわえタバコでつぶやく。

 

「それより、まだシンジ君たちに話してないの?」

「…うん」

 

ミサトが少しばつが悪そうに。

 

「まさか本人の口から言ってくれれば、なんて思ってないでしょうね?」

 

少し図星を指されてミサトは沈黙した。

はあ、と思わずため息をつく。

 

「言いにくい理由はわかるけどね。アスカにもシンジ君にも。でも、そのうちわかることよ。」

「わかってる…今度ちゃんと話すわ」

 

その言葉に少し疑いを持ちつつ。

リツコは改めてそれを見た。

 

遠目からキャリアーにつるされた巨人。

 

それは一見白く輝いて見えた。

だが良く見ると白というには鈍く黒ずんでいるように見えた。

 

そう、少しだけ黒ずんでしまった白。

 

 

つまり、銀色だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20/8/10

 

参考文献・宮沢賢治「春と修羅」

 

 


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