リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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14-3 心、それから肉。

 

“2016”

 

 

 

心か体、どちらか片方でも健在ならどうにかなる。

 

それがミサトの信念であった。

心と体は相互に影響しあう、つまりどちらかが瀕死であっても片方で引っ張れる。

 

彼女は学生時代、加持とのセックスに溺れた。それこそ依存症手前まで溺れた。

その焼き切れるような肉の快楽は彼女の心を灼熱させ心臓マッサージするかのように脈動させた。

 

そうやって肉の熱の余波で冷えた心も少しずつ熱を帯びて行った。

心が温度や色どりをはっきりと取り戻していったのだ。

 

そう、だから肉が健在ならなんとでもなる。

それは逆の場合でも同じだ。

実に彼女はその両方を身を持って知っているのだから。

 

 

少年は、今のところ肉は健在だった。

 

若者らしい健やかさである、と言えた。

でも、眼差しだけは彼女の肉を貫通して、いつも遠くを見ていた。

 

それでも少し前の彼からすればよほど生気を取り戻してくれたように思えた。

ただ、息をしているだけのような、生きているのか死んでいるのかもわからないような、その時よりはよほど。

 

ふと、彼女の乳房に埋もれて寝ていた少年の息が乱れた。

 

その息が彼女の左胸の刺青にかかった。こそばゆい感覚があった。

また、うなされているのかもしれなかった。

 

だからミサトは、彼を起こさない様そのまま、改めて胸に抱きしめる。

そうすることで確かに心が温かくなるような感覚があった。

 

彼を温める余熱で彼女自身もいつの間にか温められていた。

分け与えるつもりが、確かに彼女も何かを与えられていた。

 

でも、抱きしめるのはいつだって彼女だけだった。

 

彼の腕はいつも放りだされたまま、彼女を抱きしめ返すことは一度もなかった。

 

少年に、壁があるのはわかっていた。

というより、彼はもはや全てに心を閉ざしている様に思えた。

 

あるいは、もう心の中では彼女を憎んでさえいるのかもしれない。

いっそそれなら良い、そう彼女は思った。

 

憎しみは、生きていく理由には十分だから。

 

ふと少年の短めの、だが柔らかい髪が鼻先をくすぐった。

 

男の匂い、とまではまだ言わない、だが確かに男の子の香りだった。

陽と、何か若草の様な、シトラスが混じったかのような。

 

それをわずかな寂寥感と共に吸い込んだ。

 

 

でも、ケータイのバイブが鳴ってしまった。

今日はリツコに呼ばれている。

 

だからミサトは、服を着るために体を起こした。

 

 

 

 

乱雑な研究所でリツコはひっきりなしに煙草を吸っていた。

 

その様子にミサトはわずかに眉を顰める。

するとリツコが彼女を見ないまま口を切った。

 

「来たのね」

「ええ。…コアの件、何か進展があったの?」

「最近、彼の様子はどう?」

 

リツコはミサトの質問に答えずそう返した。

ミサトは少し怪訝に思いながらも素直に返す。

 

「…多少は元気になったと思う。少なくとも今は食事もできてるし、睡眠もとれてる」

「なによりね」

 

リツコは、ふ、と煙を吐いた。その煙を眺めながら、自分も一本貰う。

リツコの煙草から火をもらって、すっと吐いた。

 

吸うと言うより飲む、と言った方がいいような堂に入った吸い方に、リツコは少し皮肉気に言った。

 

「ミサト、あなたもすっかりヘビースモーカーになったわね」

「…あなたは随分やつれたわね」

「…こんな状況じゃね。そもそも、それをあなたが言うのかしら?」

 

リツコは泣きボクロの目を細めどこかシニカルに笑った。

でもミサトは厳しい顔のまま、そっと口を切る。

 

「…で、要件は?」

「チルドレンがエヴァにシンクロするのに必要な条件は二つあるわ」

 

リツコは当然そんなことを言い出した。

ミサトは疑問に思いながらも黙って話を聞いた。

 

「まず一つが純粋にエヴァという存在へのシンクロ適性。そしてもう一つがコアとの親和性…」

 

彼女は煙を吐き出しながら続けた。

 

「仮にシンクロ適性があったとしても、コアと親和出来ないならシンクロ率以前の話になる。かといってコアと親和性があったとしても、適性がないならどっちにしたってエヴァは起動できない」

 

すでにわかりきっている話なのでミサトは無言で続きを促した。

 

「…チルドレンはA10神経でコアに接続されてるのは知ってるわね」

「さすがに知ってるわよ、なんなの今更?」

 

ミサトは怪訝そうに答える。

リツコは変わらず続けた。

 

「だからコアの生体インストールにはチルドレンの近親者が使われる。一番は母親がいいだろうと言われているわ。でも当然、近親者だったら誰でもいいわけじゃない」

 

家族や親子だからって愛し合ってるとは限らないからだった。

だから事前にちゃんとその辺も審査される。

 

「それももう知ってる、一体何が言いたいの?」

 

ミサトは今度こそ眉をひそめてそう聞き返した。

つまりね、とリツコは言った。

 

「それはある別の可能性も考えられるって事なのよ。記録上は試した例はないけど」

「…ねえリツコ。回りくどいわ。はっきり言って」

「A10神経、つまり愛情の報酬系を司る神経を接続するというなら、必ずしも血の繋がりがある必要はないんじゃないかって可能性よ」

 

ふと、ミサトは何かの予感に沈黙した。

 

リツコはトーンを変えず口を開く。

 

「前々から義理の家族やいっそ恋人同士なんかでもコアを介したシンクロは不可能ではないのではないか?とは議論されている。ただしやはり確実性の問題から実施されたことはない…」

 

リツコは煙をくゆらせると、少しだけ沈黙した。

ミサトはじっとリツコのそんな様子を見つめた。

 

「…あなたも知っての通り、もう生体インストールがすんだまともな赤色コアがない。エヴァとチルドレンが居ても肝心のコアがない。」

 

なにか、リツコは疲れ果てている様だった。

 

「そして、今更彼以外にチルドレンを任せられる子もいない。でも彼にはコアの素材になれるような近親者はいない。なら今からシンクロ適性のありそうな新しいチルドレン見つけてその親族に無理やりでもコアになってもらって一からエヴァの操縦や訓練する?ばかばかしいわ、現実的でないにもほどがある」

「…リツコ」

「これはね、ある意味あなたと彼が本当の家族か、あるいはどういう種類であれ何かしらの愛情が流れてるかが試されるわ。でも可能性は0じゃないと思えた、それだけ。もしダメだったらすべてが無駄になる。誰一人幸せにならない結果になる…」

「リツコ。」

「もちろんぎりぎりまで考え続けるわよ。でもあまりにも時間が足らない。今のところこれ以外思いつかないの。だからね、いっそ断ってくれたらうれしい」

「リツコ、リツコ…あんた、ひどい顔よ」

 

ミサトは少しだけかすれた、でも優しいような声でそう言った。

リツコは寂れたように微笑んだ。

 

「ねえミサト。長い付き合いね」

「ほんとね…」

「だから正直に言うわ。なんなら返事は今すぐでなくてもいい。でも、そうあまり長くは待てない」

 

ミサトは静かに、でも凛とした口調で返した。

 

「…いいわ。言って頂戴。」

 

そしてリツコは告げたのだった。

 

「あなたがコアになってミサト。シンジ君がまたエヴァに乗るために…皆が、生き延びるために」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“2030”

 

 

 

ふわ、とミサトちゃんは目を開けた。

 

あら?と小さな手で目をこすった。

 

何か白昼夢のようなものを見ていたような気がした。

時々そう言う事がある。もしかしたら過去の夢なのかも、とも思う。

 

でも、いつだって何を見たかは思い出せない。

 

…今、あたしはどんな夢を見たのかしら?

 

「冷たっ」

 

すると当然吹いた風の冷たさに思わずつぶやいた。

色々強化されてたって冷たいものは冷たい。

 

ずいぶんと急激に冬らしい気温に戻ったようだった。

もっともここ数日がおかしかっただけなのだが。

いっそ雪でも降ってきそうだった。

 

白くなり始めた息を見て、ふとヤニが欲しいと思った。

別れ際にあいつから何本か分けてもらっとくんだった、と後悔する。

 

代わりにミサトちゃんは懐の銃を取り出して、ぼんやり見つめた。

 

彼女の手には少し大きすぎた。とてもなじみがあると思えなかった。

でも、それを手渡した彼曰く、これは彼女のものであったらしい。

 

今の体でも大きいのなら、記憶をなくす前の七歳以前で満足に扱えてたとはとても思えない。

そもそも七歳で銃に馴染んでるってどんな人生よ、とも思う。

 

だがミサトちゃんは、すでにある予感を抱いていたのだった。

 

彼女の一番最初の記憶。

サードインパクトの爆心地。

 

あの爆心地で何も思い出せず真っ裸でうろついていた時、ある違和感を真っ先に抱いたのだった。

 

 

…なんでこんなに、体が小さいの?

 

 

その最初の違和感は今でも鮮明に覚えていた。

 

正確には今もその違和感を持ち続けていた。

もっともそれは幼年固定してしまったがゆえのもあるのかもしれないが。

 

夜の手前の、まだ青が残る空にかざす様に自分の手を広げてみる。

 

小さい子供の手。やっぱり、違和感がある。

おかしいでしょ、という違和感。

 

「過去か」

 

ぽつり、と独り言。

 

ミサトという名前は、ババア上司がまだ若かったころにつけたものだった。

当然ただの偽名だと思ってた。

だが、記憶をなくす前の知り合いと自称する彼は、会ったその日に彼女のその名を当てた。

 

…つまり、もしかして本名なわけ?

 

彼女は、それこそ最初の数年は必死に自分の過去を探そうとしたのだ。

 

だが手掛かり一つ得られなかった。

その過程で付けられたその名を戯れに調べたこともあった。

だが何もヒットしなかった。サードインパクトで色々な資料が失われたのもあるのかもしれない。

 

そうして何もわからず、いつからか何かを諦め、刹那的に日々を過ごすようになった。

脳裏に焼き付いた少年の正体もわからないままに。

 

まさか今更手掛かりを得られるだなんて。

 

…なーんにもないってのに、今更。

 

彼女は、過去が見つからないのをいいことに積み重ねる事を怠ってきた。

いや、それは正確に言えば積み重ねるための土台そのものが見つからなかったのだ。

なら、刹那的に生きるしか彼女には方法が見つからなかった。

 

だが彼が言うには、あのババア上司は彼女の過去を知っているという。

もしそれが真実ならステゴロしてでも追及しなきゃならない。

 

どんな過去なのか、なぜ黙っていたのか。

 

「…過去と向き合うのが必須、か」

 

そもそも神の出現は、約半年後だと推定されている。

 

だが、なぜ来るのかとか来てなにするとかそんなのは気にしたことはない。

彼女は明日のことになんぞ欠片たりとも興味がなかったからだ。

 

でも、と思う。

 

滅びそこなった人類を改めて滅ぼしに来る親玉だとか、そういう類だとするなら、いくらなんでも世界が静かすぎやしないか、とミサトちゃんは感じている。

 

そう、世界が静かすぎる。

本当は世界はとっくに滅んでて、あたし一人だけ、終わった後の夢でも見ているかのような。

 

ふとした拍子に彼女を襲ってくるいつもの虚無感に、ミサトちゃんは頭を振った。

 

あるいはババア上司はそれも知ってるのかもしれない。

それも問い詰めてやろう。

 

「向き合いましょか。」

 

自分の過去と、そしてまず目の前の現実と。

まず知らなきゃならない、ちゃんと。

 

ミサトちゃんは凛とした表情をしていた。

それは確かに、大人だったころに彼女がしていた表情だった。

 

目標は定まった。なら、走り抜けるだけだった。

どうあれ救助の予定までもうあまり余裕はない。

 

急ごう、と走り出し。

 

そして一瞬振り向いた。

 

脳裏に焼き付いた少年のきっと成れの果てであろう、無駄に背の高い無駄に顔が良かった男。

服装だけは駄目駄目だった、数日一緒に過ごした、水の底の様な目をしたきっとかつての少年。

 

…まあ、せめて神の襲来とやらの前には。

 

また、会いましょう。

 

そのとき、敵か味方かわかんないけどさ。

 

 

だからミサトちゃんは駆けた。

 

バランスが傾いた体で倒れ込むように走った。走った。

もう迷いはなかった。目的が定まったなら一直線だった。

 

走れ、走れ、走れ!

 

彼女は手に馴染まない銃を片手に、冬の始まりの廃墟都市を駆けて駆けて駆け抜けた。

 

 

 

 

 

だが、舞台はもう少しの間、2015年へと戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ⅲ 『心、それから肉。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“2015”

 

 

 

 

 

ルノーの車内は、いつも大人の女性の香りがした。

 

 

だが、人それぞれ体臭が違うのだから『大人の女性』というカテゴリーはおかしいはずである。

 

でも、ミサトのそれは彼と同年代の少女とは明らかに別種の異物が混じってる。

やっぱり化粧とか香水なのかな、とシンジは助手席で考えた。

 

本来の体質のにおいに、人工物(少なくとも彼はそう思っている)が混じってる。

それ自体が大人であることを物語っている様に少年には感じられる。

 

だが、人工物のその匂いは慣れていない少年にはいつも大げさで、わざとらしく、過多に思えた。

人にほら、いい匂いだろう?という感想を強制してくるような。

 

事実、良い匂いだった。

だからその感想の強制には別段、何も間違いはなかった。

 

だがその強引さはどうしても、自然のものではない、という異物感を少年に抱かせる。

その異物感がミサト個人への感情とは別に、まったくの無意識でもって彼に一種の線を作らせた。

 

彼にとってミサトは自分とは最も遠い所にいる『大人の女性』という人種の代表であった。

 

 

「なんかほんと、ここ最近ほっといちゃってごめんね~」

 

ミサトは明るい口調でそう言った。

相変わらず少し運転は荒かった。

 

「いえ…忙しかったんですか」

「うん…ちょっと、ねー」

 

少しだけ、低い声で彼女は答えた。

 

首までぴっちり隠したノースリーブからは脇が見えた。

外食のためにわざわざ着替えてイヤリングまでつけ直した彼女を彼はぼんやり眺めた。

 

ミサトは外ではいつも装いに気を使う。

それは彼女が外界に対して一切気を緩めず、常に武装し続けている、という意味なのだが、もちろん今のシンジにそんなことはわからないし、彼女はそんな印象を務めて人に与えようとしない。

 

ただ、その内と外の鮮やかなまでのコントラストをシンジはいつも印象深く感じるだけだった。

 

「でも、そっちは一段落着いたから明日からは早く帰れると思うわ」

「はい」

「だから今日はお詫びもかねてちょっち良い所で食事と思ったのにさ~…」

 

ミサトは少し感慨深げに続けた。

 

「…アスカがお泊まりするぐらい仲いい子が出来たのは意外ね」

 

それはシンジも同感だった。

 

『今日はヒカリのとこ泊まるから』

 

ミサトが帰ってくる少し前にアスカからシンジに連絡が届いたのだった。

初めてだったのでシンジも意外に思ったものだった。

 

「その泊まる相手ってどんな子?」

「洞木さんって、クラスの委員長さんです」

「…洞木?」

 

ミサトが少しトーンを落とした。

それにシンジは首をかしげる。

 

「…ううん、なんでもない」

 

 

ちょっちいい所と言ってステーキハウスを選ぶのは大変ミサトらしかった。

 

「そういえば、修学旅行のことも改めてごめんね」

 

西部劇っぽい内装のレストランは初めて来る場所だった。

レアを注文しつつミサトは明るく言う。

 

「それ自体もそうだし、もっと早くに言わなきゃいけなかったことも含めて」

 

シンジはレアは少し苦手なのでよく焼いてもらうことにした。

 

「いえ…でも、アスカはもっと怒るかなって」

「それね。実は私も思った」

 

ミサトはアスカは相当に怒るであろう覚悟だったのだが、彼女はあまりにそっけなかった。

まるでそんなものはどうでもいいとばかりに。

 

「アスカ…最近何かあったの?」

「いえ…」

 

と、少し濁すような言い方でシンジは返した。

彼自身、どう答え、どう言えばいいかわからなかったからだ。

 

「あ…でも、今日みんなで市内で旅行しようって話になったんです」

「市内旅行?」

 

学校での一連の話を報告する。

 

「へ~、なるほどね。いいじゃない」

「…いいんですか?」

「もちろん。昨日も言ったけど、待機が必要なのはいつ使徒が来るかわからないからだもの。逆に言えば対処できる範囲であれば泊りだって旅行だって可能よ」

 

よかった、とシンジははにかんだ。

 

「でも、いい友達もったのね」

「…はい」

 

友達のために自分たちの修学旅行も辞めようなんて、なかなかできる事じゃない。

それは大切な思い出になるはずだ。

もっとも、ミサトは修学旅行などいけなかったのでよくわからないのだが。

 

「ちなみに何人?」

「えっと六人です。アスカと、トウ…鈴原君と、相田君と」

「前に来てくれた子ね」

「それから洞木さんも」

「ああ…そうなのね」

 

そっか、と。

 

ミサトは内心、このタイミングで四号機の事告げるべきかな、と考え。

少し探るようなことを言った。

 

「その、洞木さんって子、何か言ってた?」

「何か?」

 

きょとんとしていた。

その様子からまだ言ってないのだろう、とあたりを付ける。

 

「ううん、いいのよ」

 

…なら、まだいいか。

 

実戦配備はもう少し先なんだし…最低でもそのめどが立ってからでも。

もしかしたらアスカには本人が言ってるのかもしれないし、と。

 

ミサトはそうして、またしても、つい、その話を先延ばしにした。

 

「それで、あと一人もクラスの子?」

 

グラスジュースを飲みながら話を向ける。

本当は赤ワインが良かったが車なので我慢するしかなかった。

 

「いえ…綾波です」

「…レイ?」

「はい、許可下りれば来るって」

「あらあ」

 

どこか嬉しそうに、はにかんで告げるシンジを見ながらミサトは思わず目を丸くした。

レイがそんなこと言うのねと思いつつ、少しの不安がもたげる。

 

「ちなみに…レイとアスカって、学校ではどうなの?」

「どう?…」

 

と、シンジは返事に窮した。

そういえばあの二人が絡んでる姿をほとんど見たことがない。

 

そのことに彼は今更ながら気づいて、あれえ?と思わず声を上げた。

少年の様子を見て、ふむ、とミサトは嘆息する。

 

弐号機が大破した日のアスカのレイに対する暴力が不問になったのは、あくまでレイが望まなかったからだった。

 

そもそも本来怒りの対象は私でしょう、ともミサトは思う。

レイはミサトの命令に従っただけなのだから。

 

だが、市街地への被害が大きかったことや、それの対処やらが最優先で後回しになった結果、レイが被害報告を出さなかったこともあって、ある意味なあなあに処理されたのだった。

 

…まあ、一応は二人に任せましょうか、とミサトは結論付けた。

 

子供同士の間に大人が入り込むのもあれだし、どのみち、保安部が常に子供たちを警護を兼ねて監視しているのだから。

 

 

頼んでいたステーキが運ばれてきた。

なのでしばらく食事に専念するように舌鼓を打つ。

 

シンジはステーキなんて久しぶりなのでマナーだとかは忘れてしまっていた。

先に前掛けするんだっけ?

よく焼いてもらった肉は少し硬かったがとてもおいしかった。

 

ふと、小さいとき、父と母の三人で行ったことがあるのを思い出した。

三人一緒に外食なんて滅多にないので覚えていた。

ゲンドウは家に居ない日も多く、あまり共に食事を取ることも少なかったのだ。

 

…今の父さんはどんな生活を送ってるんだろうか。

ちゃんと、食べてるのかなあ。

 

そんな事を考えていると、ミサトが少しだけトーンを落として言った。

 

「ねえ、シンジ君…ちょっと話は変わるんだけど」

「はい」

 

ミサトはわざわざナイフとフォークを置いてこう言った。

 

「…その、お父さんとは、最近どう?」

「え?」

 

まるでシンジの内面を推し量ったかのようなタイミングの質問に彼は不思議そうに答えた。

 

「…別に、何も」

「ん…そっか」

 

するとどこかおずおず、とした口調でミサトは言った。

 

「…碇司令って、家じゃどんな感じだったの」

「…家に居ない事が多くて、あんまり、覚えてません」

「そう…」

 

ミサトは目を伏せた。

 

脳裏には、血のように赤いカード。

 

シンジのクラスメートが新しく選出された時点でその情報の価値は確かだった。

少し、目を伏せた。まるでその情報が間違ってればよかったのに、とでもいうように。

 

…今はまだ、確定ではない。

そう、確定じゃないもの。

 

ミサトはレアステーキを切りながらそう心でつぶやいた。

 

まるでまたしても、何かを先延ばしにするかのように。

 

 

 

 

久々にあそこ寄りましょうか。

 

 

そう言って、ミサトはあの場所に車を走らせた。

 

ちょうど陽が沈む寸前だった。

 

その狭間の時間は、やはり何度経験してもシンジの胸をときめかせた。

また見たいから明日を迎えようかな、と思う程度には。

 

でも、あの時のように別段ビルが生えてきたりはしなかった。

ここしばらくは使徒も来ず、第三新東京は城塞都市としての役割を果たさずにすんでいた。

 

最初から生えたままの高層ビル群が斜陽に照らされ真っ赤に染まっていた。

なのにその背景の空は青く、暗く、鮮烈なコントラストを作り出していた。

 

二人は黙ってその美しく終わりゆく空を眺めた。

 

でも、ふと、シンジはなんとなくこんなことを呟いた。

 

「…そういえば、ミサトさんは修学旅行どこ行ったんですか?」

「ん、私は行ってないのよ。セカンドインパクトだったからね」

 

あ、そっか、とシンジは思い。

 

「…ごめんなさい」

「いいのよ、別に」

 

ミサトは笑って答えた。

 

「だから、貴方たちも行けなくなったのが実は心苦しくてね。でもよかったわ、楽しんでらっしゃいな」

「…はい」

「…本当はね、それだけじゃないのよ、修学旅行行けなかった理由」

 

シンジはその言葉に、改めてミサトを見た。

青い空を背景に、彼女の顔は驚くほど赤く染まっていた。

 

「ずっと入院してたの。だから私中学は半分ぐらいしか行ってないのよ。まあ、セカンドインパクトでみんな学校どころじゃなかったってのもあるけど」

 

ミサトはどこか憂いのある表情で静かに言葉をつづけた。

 

「でも回復してからは死に物狂いで勉強して、大学合格して…我ながらよくがんばったわ。もうあんな勉強漬けの日々は二度と嫌よ」

 

苦笑いしつつそんな事を言った。

でも、と。

 

「そこでリツコや加持とも知り合ってね。ようやく、青春を取り戻せた」

 

シンジはふと、思いついた。

ミサトさんはセカンドインパクトの爆心地に居たって言ってた。

 

「…使徒、ですか」

「うん…一時生死をさ迷う様な大怪我してね。でも、立ち直るのに時間がかかったのは体よりも、むしろ心の方だった」

 

なにか遠いものを見るように、彼女の表情は赤く彩られていた。

 

「…使徒を憎んだわ。父を殺して、大勢を死なせて、多くのものを奪って、私からも奪いつくした。でも、それももしかすると方便で、私は、…」

 

と、そこまで言って口を閉じた。

 

それからやはりがしがしと頭を掻いた。

なんど訂正されてもその女性らしからぬ癖はどうにも治らなかった。

 

何を言ってるの私は、と彼女は思った。

なぜ、この子の前だとこんな話をしてしまうのよ、と。

 

彼女はシンジを見た。

夕日の光が、まだ僅かに幼さを残す端正な顔を柔らかく暖色に照らしていた。

 

彼は耳を澄ます様にじっと、静かに彼女の話を聞いていた。

そしてやはり、前と同じように、彼女をまっすぐな瞳で見ていた。

 

その正面から最短距離で届く眼差しは、いつも彼女の何かに触れてくる。

その何かを柔らかく、いつも愛撫するようにそっとなぞってくる。

 

やはり、今も何か柔らかい感覚を感じてしまって、つ、と空に目を反らした。

 

彼女が長年必死に築き上げた外界へ対する武装は、少年にはあまり機能しなかった。

この少年はなぜかいつもあっけなくその強固なはずの彼女の防壁をすり抜けてくる。

 

思えば知り合ったときからそうだった。

どうしてなのだろう、と、内省をしない彼女はただ不思議に思う。

 

それから彼女はそっと口を開いた。

 

「…あなた、前に言ってくれたわね。私の復讐に協力してくれるって」

「…はい」

「どうして、そう言ってくれたの」

 

ミサトの横顔は赤く彩られて、綺麗で、でもどこか哀愁があった。

どうしてそんな悲しそうなんだろう、と思いながら彼は口を開いた。

 

「ミサトさん…使徒が、憎いって」

「ええ…憎いわ、とても。父の、仇だもの。」

「その…だから」

 

ミサトは再びシンジに視線を合わせて聞いた。

 

「だから…どうして?」

 

どう、言っていいかわからなかった。

それはただ彼自身がはっきりと言語化していなかったからだった。

 

だから彼は今それを言語化することを迫られた。

それは形を整えられ型にはめられ何かが確定されるという意味でもあった。

 

彼は考えた末、口を切った。

 

「…ミサトさんが」

 

そっと、こう答えた。

 

「僕を、必要としてくれたからです…」

 

彼女は少しの間の後。

 

そっと、息を吐くようにして呟いた。

 

「…そう…」

 

そのまま、沈黙が流れた。

 

二人は今度こそ黙って、ゆっくりと、赤く彩られていくのを待った。

 

 

 

 

帰りは心持ち行きより運転が静かだった。

 

シンジは久しぶりにステーキなんか食べたせいかうつらうつら、と舟をこいだ。

 

「眠い?」

「…少し」

 

寝ていいのよ。

その言葉に、シンジは、はい…と素直に返した。

 

信号待ちで、少年にまなざしを向ける。

あっけなく寝入ったようだった。

相変わらず、少年は素直で無防備だった。

 

青信号になったので、そっと車を発進させる。

 

それから、彼女はぼんやりと、この少年と同い年だったころを思い出した。

 

 

 

 

バランスが欲しい。

 

彼女はあの白い病棟で白い壁を虚ろに眺めていた。

 

ただ、息をしているだけだった。

生きているのか死んでいるのかもわからなかった。

言葉を発することすらも出来なかった。

 

それでも彼女は祈るように思っていた。

 

バランスが欲しいの。

走るために。

突破するために。

 

あの白い壁を突き破るために。

 

でもどこにもバランスが見つからない。

それがどうしたの、だったら傾いたまま立ち上がればいい。

そうよ、バランスなど知った事か。

 

立て。立つの。立つのよ。さあ、立って。

甘ったれるんじゃない、ほら立て。

 

さあ走って。良いから走れ。

前へ前へ前へ。

 

走れ、走れ走れ走れ!

 

 

走って!!

 

 

そして彼女はあの白い壁を突き破った。

 

どっちが前なのかすらわからないまま駆け出した。

 

 

突破した後は?

 

バランスを崩しながら、方々にぶつかりながらそれでも走り続けた。復讐へ。

父の復讐?もちろんそれもある、けどきっと本質は違う。

 

これは、私の復讐。

 

私の、私による、私のための復讐。

 

 

『お前の復讐すべき相手は使徒じゃないぜ』

 

 

いつかの加持の言葉に、ふ、と吐息を漏らした。

 

また赤信号で止まって、それからうなだれるように、ハンドルに額を当てた。

まるで、何かに祈る様に。

 

あるいは実際に、彼女は何かに祈っていたのかもしれなかった。

 

 

 

 

バランスが欲しいのよ。

 

大学生の頃、彼女はそう思っていた。

 

片方のバランスが崩れてる。

いつも何かが片側に傾いてしまっている。

傷跡のある側がいつも重い、あるいは軽い。

 

その傷跡を見るたびに違和感があった。

奇妙な不条理を感じていた。

 

なんで『そっち』だけに痕が残ってるの、と。

 

おかしいでしょ。

そんなのフェアじゃない。

これじゃバランスがおかしい。

 

それじゃ、まっすぐ走れない。

 

だからミサトはある日、衝動的に刺青を入れた。

その傷跡と対になる様に。反転するように。

 

何かがカチリ、と、はまった音がした。

あるべきところにあるべきものが収まった。

 

そうして、隠されていた彼女の本来の痕が浮かび上がった。

 

 

葛城ミサトはバランスを手に入れた。

 

 

彼女はそう信じた。

 

なら傾いた体を休ませる支えはもう必要なかった。

 

彼女はそう信じた。

 

 

だから、彼女は加持リョウジのもとを去った。

 

 

 

 

 

 

ふと、うなだれていた顔を上げて少年の横顔を見た。

 

その横顔はいつもどこかひんやりしていた。

でも、寝顔のときはますます幼く柔らかで、そんな印象を受けなかった。

 

彼女はそっと手を伸ばした。

 

少年の髪をするり、と指で撫でて。

 

 

それから、まだ柔らかさを残す頬を指先でなぞった。

 

 

 

 

 

 

ミサトは風呂場で鏡に映る自分を眺めた。

 

右下の傷跡。

左上の刺青。

 

彼女は、傷跡をなぞった。

 

でこぼこしていた。見なくても触れただけではっきり傷跡がわかる。

皮膚を無理やり引っ張って結合させたのだから当たり前だった。

 

傷跡が、終わった。

刺青が、始まった。

 

植物をモチーフにしたその跡は、特に、でこぼこなどしていなかった。

触っただけでは、そこに刺青があるなどわかりはしなかった。

 

そして、刺青の終わりに着いて。

そのまま、自分の肩を抱いた。

 

 

 

 

シンジはとっくに風呂を浴び終えて、宿題も済ませた。

 

後は寝るだけだった。でも帰りに寝てしまったせいかあんまり眠くなかった。

だから、枕を鍵盤に見立てて、改めてその1フレーズだけの旋律を鳴らす。

 

まるで、一つ、二つ、今にも雪が降り始めたかのような旋律だった。

 

でも、まだそれだけだった。

それ以上はまるで降り注いではくれなかった。

 

どれが正解なんだろうか、と考えながらいくつか透明な鍵盤を鳴らした。

しばらくそんなことをして、でもあんまりしっくりこなくて、ふ、と吐息を漏らした。

 

そういえば、こんな事も最近はしなかった。

 

 

ここに来る前、一人の夜を過ごすとき。

 

彼はよく何かを慰めるように、いつ埋まるかわからない空白を埋めるように。

弾けないピアノの代わりにいつも透明な鍵盤を鳴らしていた。

 

ぼふ、と枕にうつ伏せに頭をうずめた。

なにか静かだなあ、と感じた。

 

ああ、アスカがいないからか、と彼は思った。

なにか、色が抜け落ちたように感じた。

アスカと言う少女はそこにいるだけで場を色鮮やかにしてくれるようだった。

 

あ。

 

っとシンジは小さく声を上げた。

 

綾波のお弁当。

夕食と一緒に下準備するつもりだったのに、急に外食になったことですっぱり忘れてしまっていた。

 

仕方ないか、と彼は思った。

体がだるくて、さすがにもう今から作る気力がなかった。

 

すると、ふと、扉の前に気配がした。

 

「…シンジ君」

「はい」

 

少しの間があった。

何か用かな、と思って、シンジはわざわざベッドを降りてふすまを開けた。

 

「ん、もう寝ちゃってた?」

「いえ…」

 

思いのほか近い距離にミサトがいた。

 

いつものように胸の下で手を組んでいた。

そんな仕草をするものだからますます胸が目立った。

 

でもなんとなく、その仕草からは何か、横腹あたりを隠すような、守るような。

そんな印象を彼に抱かせて、おなか痛いのかな?と彼は一瞬思った。

 

それから、しっとりとした質量のある、匂い立つような香りがした。

何か包んでくるような、そんな暖色の匂い。

 

ミサトさんの、本来の匂い。

 

シンジはやはり、こっちのミサトの匂いの方が好きだった。

香水なんてつけなければいいのに、とすら彼は思った。

 

でも、遅れて、その匂いにわずかに。

ほんのわずかに何か焼けたような、臭いような、でも不思議と嫌いじゃない粒子。

 

煙草の匂い。

 

だからシンジはまじまじ、とミサトを見上げた。

香水の代わりに煙草の粒子をまとって、彼女は言った。

 

「あのね…シンジくん」

「…はい」

 

どこかおずおず、とミサトは口を切った。

 

「…お父さんの事」

 

彼は一つ瞬きした。

 

「お父さんの事…好き?」

 

どういっていいかわからなかった。

なんでそんなことを聞くのかもわからず、でも彼は正直に答えた。

 

「…よく、わからないです…」

「…そう」

 

そのまま、沈黙が流れた。

 

彼女は彼にそむけるように視線を下げていた。

手持ち無沙汰になって彼も目線を下げた。

 

いつも通りミサトの乳房が目の前にあった。

改めて見ると重そうだった。

 

タンクトップだったので豊かな左胸から植物の刺青が見えた。

まるで彼女の乳房に覆いかぶさるように広がり、絡みつくようだった。

でも、そういえば何の植物なんだろうか、と考えた。

 

すると、何か下腹部に熱が帯びてくる感覚があった。

 

だから彼は、頬が赤くなるのを感じて。

急に恥ずかしくなって、今まで意識した事もなかった彼女の乳房からそっと目をそらした。

 

…嫌だな。

 

彼は眉を下げながら思った。

 

日を追うごとに肉はどんどん身勝手になっていくようだった。

常に肉は独りよがりであり、彼の心など少しも考えてはくれなかった。

 

すると、ミサトは静かに囁いた。

 

「…これ、気になる?」

 

そっと、なでるように、胸の刺青を指先でなぞっていた。

乳房がわずかに柔らかく、たゆんでいた。

 

だからシンジは頬がひどく熱くなるのを感じて、目を反らしながら咄嗟に返した。

 

「い、いえ、その…何の植物なのかなって…」

「これはね、ヨモギ」

「ヨモギ、ですか」

「そう…正確には、ニガヨモギの葉よ」

 

ヨモギはなんとなくわかったが、そちらはシンジにはよくわからなかった。

 

そのままミサトは何かを考えている様だった。

ずっと左胸の刺青を撫でていた。そのたびに乳房がわずかに揺れた。

 

だがそれは何かを意図しているというより、どうやら無自覚の動作であるように思えた。

 

「…ごめん、変なこと聞いたわ。忘れて…」

 

そう言ってミサトは踵を返そうとし。

 

でも、やはり何かを忘れたかのように振り返った。

それから、なにか躊躇するように、彼の頭に手を伸ばした。

 

彼女は時々そんな仕草をするのだった。

少年の頭を撫でようとして、でも、何か迷うような、躊躇するような。

 

そのたび彼は不思議に思う。

彼はミサトに頭を撫でられる感覚は、別に嫌ではなかったから。

 

なのにやはり彼女はおずおずと、彼のまだ少年らしい形の頭蓋を一撫でした。

 

「…おやすみ、シンジ君」

「…おやすみなさい、ミサトさん」

 

それからその手を一瞬遊ばせるようにして、やはりおずおずとひっこめた。

 

 

 

シンジはふ、と息を吐いて改めてベッドに横になった。

 

…一体、何だったんだろう?

 

彼女の重みのある、ゆさり、とした乳房と、その丸みにかぶさった刺青が脳裏に残っていた。

 

ニガヨモギの刺青。

 

彼は何となく、ケータイを手にして調べてみた。

どうやら逸話のある植物らしかった。するといくつかの花言葉が目に入った。

 

 

『苦悩』

 

『離別』

 

『別れの哀しみ』

 

『克服』『不在』『冗談』『浄化』…

 

 

随分と花言葉の多い植物なんだなあ、と思い。

 

ふ、と息を吐いてケータイを置いた。まだ少し頬が赤い感覚があった。

だから、やんわりと熱を帯び固くなったそこに意識を向けない様に、横向きになった。

 

…今まで、こんなことなかったのにな。

 

どうしても彼女の豊かな乳房と、その刺青がまぶたに焼き付いて。

 

 

だから彼は鍵盤を鳴らそうとした。

 

彼はかつて、いつもいつもそうやって透明な鍵盤を鳴らしていた。

いつ埋まるかわからないその空白を埋めるように。

 

あるいはもう一生埋まらないかもしれないその空白に音を響かせるように。

 

 

でもどうやら、今は何も響いてくれないようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ミサトはビールを一缶だけ手に取って部屋に戻った。

 

それから机の引き出しに残っていた、何年前のものかわからない煙草の箱を再び手に取った。

もう一本だけ吸ってしまおうか、と考え。

 

でも、やはり部屋の隅に放り投げた。

その顔は厳しく、だが悲痛さが混じっていた。

 

カシュ、とプルタブを開け缶を傾けた。

あまり、喉越しは良くなかった。

 

 

赤いカード。

 

そう、彼女はしなければいけない事があった。

それは急務ですらあった。

 

例え子供達をほったらかしにしてでも、加持と一時的に協力しあってでも。

彼女には、全てに優先しなければいけない事があったのだから。

 

今調べられることは調べ尽くした。

だが、彼女はまだそれを消化しきれていない。

 

わかったのは『予言』が存在しているという事。

実際にその予言通りに使徒が現れていること。

そして加持の言う通り“神”の出現も預言されていること。

 

また、幾つかの計画が並行して動いているという事。

 

『ダミー計画』

『ラストチルドレン計画』

 

そして『人類補完計画』…

 

キャッチできたのは今はその三つだけ、まだ名称しかわからない。

後は加持の追加の情報を待つしかなかった。

 

だがどうやらネルフは使徒をせん滅することだけを目的とした組織ではない。

 

 

彼女はやはり、放り投げた煙草を拾うと、一本取って百円ライターで火を付けた。

 

腹の底の方に深く吸い込む。

二本目とはいえ久しぶりの煙草は頭がくらくらした。

長く放置していたので少々いがらっぽかった。

 

ゆっくり煙を吐き出す。

 

 

そして彼女が一番知りたかった情報、セカンドインパクト。

 

彼女も参加した葛城調査隊、まるでその失敗とその後のセカンドインパクトを最初から予見していたかの様なその前後の碇司令の動向。

 

彼女は思った。

…今はただの状況証拠の蓄積に過ぎない。

 

そうよ、はっきりとした証拠は残されていない。残すわけもない。

何処まで行っても状況証拠の累積に過ぎない。

 

でも、人生で一度も彼女を欺いたことのない直感はとうに耳元で囁き続けている。

 

 

彼女の面差しに、影が走った。

 

 

こつり、と気だるく後頭部を壁に当てる。

それから、彼女は先ほどの少年の姿を思い浮かべた。

 

相変わらず女の子の様な整った顔立ちだった。

 

さっぱりとした髪型はだが精悍さではなく清潔さを少年に付与していた。

髪質の柔らかさのせいだろう。

実際、彼の髪はさらり、としていて触るととても心地よい。

 

首も手もまだ細く、彼女には繊細な細工の塊のように見えた。

 

彼はぼんやりと彼女の乳房を見ていた。

よくあることだった。身長差のせいでちょうど目線がそこに来る。

 

だがミサトはそれを不快に思ったことはない。

そもそも何の他意もないのはわかるから。

 

でも、さっきの彼は、急に瞳をわずかに潤ませ、揺らした。

すると突然、頬を染めて。

それから何か困ったように、恥ずかしいように。

 

ふいっ、と彼女の乳房から顔をそむけた。

 

ひんやりとした横顔を裏切る様に、その頬と耳朶にはさっと赤みがさしたままだった。

 

 

『おまえの復讐すべき相手は碇ゲンドウだ。この子の、父親だ。』

 

 

だから彼女は、煙草を持ったままの右手で左胸の跡に触れた。

 

それから中指と薬指の腹で、そこをそっとなぞる。

まるで、少年の視線の跡をそこに押し広げるかのように。

 

その分だけ乳房がゆったりと重く、ゆるいだ。

 

 

だがやはり、触れただけではそこにニガヨモギがあるなど、誰にもわかりはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

26/05/24




次話 15-1《レテ湖の水面に映りだす》(仮題) 多分近日更新予定。予定は未定
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