リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
市内旅行計画を立てるという話に賛同したはいいが、乗り気でない自分に気が付いていた。
別に嫌、というほどではない。
だがどうにもダウナーな自分を自覚していた。
だからアスカは途中で用事を思い出したと言ってふらっと三人と別れを告げた。
そもそも沖縄の修学旅行すらあまり興味がなかった。
少し前の自分だったらきっと楽しみにしていただろう。
待機してなくちゃいけない、と告げるミサトにきっと食って掛かったはずだった。
少し前の自分なら。
アスカは高台の公園のベンチでぼんやりと座った。
ずいぶんと澄み切った空だった。
少し気分が良くなって、それから、カバンを探って先ほど買ったそれを取り出す。
ブレイク詩集。
それはシンジ少年が持っていたからお揃いのものを、などという理由ではない。
彼女はそこまでは安易な少女ではない。
実は彼女自身、よくわからないのだった。
ふと先日の黄昏を思い出して、一瞬、ぶるり、と身を震えさせた。
そんな自分に不可解さを覚えながらぱらぱらとめくった。
でもいまいち読む気になれなくて、なんとなく後ろの方までページをめくった。
すると、いくつかの挿絵が目に入った。
詩なのに挿絵なんてあるのね、と思い、そういえば画家でもあるんだっけ、と思い出す。
その詩集の巻末に収録されたモノクロのそれは詩と絵がセットの版画であった。
当然それらは現代ほど技術的に優れたものではない。
だが確かに、ブレイクが描くその版画は小手先の技術など問題にならない何かを明白に宿していた。
アスカは何となく、ブレイクの詩よりも絵の方に興味を引かれる感覚を覚えた。
ウィリアム・ブレイクは恐らく世界で最も著名な詩人のひとりであった。
そして、詩人であると同時に画家でもある。
ブレイクの詩だけを好む人もいる。
むしろ絵こそ偉大とする人もいる。
どちらも同じぐらいに愛する人もいる。
そういう、詩人であった。
ふ、と息を吐いてぱたりと本を閉じた。
アタシらしくない。
詩集をめくるのにも飽きて、カバンをおなかで抱えるようにして両手で頬杖をついた。
もう、だいぶ前からずっと自分が自分らしくないのを自覚していた。
…そもそもアタシらしい、ってどんなよ?
一瞬そんなことを考えて、首を振る。
彼女の長い髪がそれにあわせてしなやかに揺れた。
深い、ため息をついた。
本当はもう自分にある種の変質が起こってしまっていることに気づいていた。
肉になんと言うべきか、ある質量を感じるようになったのだ。
肉の重さ、といってもいい。
今まで軽やかで透明なようにすら思われた肉に確かに実態と実像とがあるのだとようやく実感したような、把握できたような。
はっきりとした原因はなんだろう?と彼女は思う。
半身のようだった弐号機が失われた日だろうか。
あるいは闇が囁いたあの夜からだろうか。
それとも、もっと前からゆっくり浸透し気が付かないうちに変化したのだろうか。
ある時期から、ごろり、とした熱量の塊が彼女の底の方に収まってる。
それはいつまでたっても無くならず。
その熱と重量のある異物感、その肉体感覚は時に彼女からバランスを失わせる。
まるでその重量に振り回されるようにふと傾いて、両足で立ってられなくなる時がある。
彼女は時に、熱を放出するためそこに指を這わそうと試みる事がある。
だが大抵はすぐにやめてしまう。単純にそこが汚ない、という感覚があるからだった。
できれば自分で触りたくない。
その個所も、あのぬるりとした体液も。
それはシンジも似たようなものだった。
彼にとっては右手で触れてしまった白濁した、滑りとした感触が、異臭が、色が、ほとんどトラウマのようになってこびりついてしまっていた。
その拒否反応は他人の汚物を間近に見て、嗅いで、手に触れてしまったのとほぼ同義であった。
つまり彼はそれが自身の肉で生成されているという事実にまだ折り合いがつけられていない。
嫌悪感は多くの場合、己の存在との距離に反比例する。
人は己(とその内側と認識した存在)のものを少なくとも他者ほどに嫌悪しない。
愛せるのなら内である。
愛せないなら外である。
彼や彼女にとって肉はまだ輪郭の外側にある。
その距離感は『もっとも近くの他人』でしかない。
よってその部位や排泄物への振る舞いはまだ他者のものとして処理される。
…体が重い。
彼女は再びそう思った。
まるでその熱の塊が重力を持っているようだった。
彼女はベンチで脚をばたばたとさせた。
何かの衝動に駆られるように、あるいはそうすることで少しでも熱を発散させるように。
すると、ぽつり、と。
まるでその熱を冷まそうとするかのような感覚が頬を突いた。
埃が混じったような、特有の匂い。
どうやらお天気雨らしかった。
思わず、と空を仰いだ彼女の空いた口に光り輝く雨がひとつぶ垂れた。
汚い、と思い。
でもその光の粒をこくり、と飲み込んだ。
これで少しは熱も冷めるだろうか、などと馬鹿げたことを一瞬考え。
それから、べっ、べっ、と地面に唾を吐きだした。
あっという間に大降りになった。
仕方ないので木の根元に避難する。
雨の匂いと、背もたれにした木の若々しい、すえたような青い匂いでむせかえりそうだった。
陽に照らされきらきら光る雨粒を見ながら彼女は思う。
…あんたが、先に触ったんでしょ。
少なくともアスカはそう思っている。
先に彼女の内側のその個所に手を伸ばしてきたのは少年の方なのだ。
じゃあ、あんたがこれ何とかしなさいよ。
あんたが責任取ってこれどうにかしなさいよ。
あんたが、この塊をなんとかして。
そんな時、彼女は睨むように目を光らせて彼を見ている。
自分がその時どんな眼差しをしているかなど彼女自身は気づかない。
彼女は時々あの少年にはっきりとした破壊衝動を抱く。
彼女の情知など関与しないとばかりに振る舞う少年の首を絞め、いっそぐちゃぐちゃにしてしまいたくなる。
その熱を帯びた衝動は、少しずつ強くなっていっているようだった。
ぐにゃり、と内臓が蠢き、熱されて重くなり、なのに底冷えするようなあの内臓感覚。
だからそういう時、彼女は自分が怖くなって彼と少しだけ距離を取る。
視線を下げて地面を見た。
もう水たまりが出来ていた。
彼女のしなやかな脚がうっすら逆さに映っていた。
…バランスが欲しい。
アスカはそう思った。
今までそれなりに(時に転ぶことはあっても)まだ制御可能だった己のバランスが崩れている。
まるで初めて自転車に乗った時のようにふらふらと。
彼女はもうこないだまでの自分がどうしていたかすらよく思い出せない。
心と肉は相互に影響しあうが、最初の一歩、始まりの浸食、または汚染は常に肉側から行われる。
いつだって肉の方から彼や彼女たちに手を伸ばして接触してくる。
だが彼も彼女もまだ肉との同期が追い付いていない。
肉体の更新があまりに頻繁に起こるため、心と遅延がある。
あるいは今を維持しようとする生物の本能ゆえに、あえて同期を拒否してる。
その同期、または侵食を受け入れたが最後、肉による不可逆の変容への予感に慄いている。
つまりアスカもシンジほど極端ではないにしてもその存在をまだ精神側に置いていた。
そのため、どこかで肉という尖兵の声明と欲求に『偽物ではないか』という感覚を抱く。
あるいは心より『下位のものである』という感覚を持ってしまう。
いっそもっと本能的であれば話は早かったのかもしれなかった。
あるいは、白い少女のように。
だが幸か不幸かアスカはどうしても考えてしまうのだった。
疑ってしまうのだった。
肉の声を己の声と信じきることが出来ない故に、『心の声こそ本物である』という感覚を捨てきれない故に。
あの夕闇の日を最後に、彼女は自ら手を伸ばせずにいる。
どうあれ、己の肉は己のものである、その当たり前の実存感覚と肉感を彼や彼女が獲得するにはまだ少し、時間はかかる。
それを獲得した時、彼も彼女もきっともう『エヴァという肉』に同期するのは困難になるだろう。
アスカは思った。
…あいつに会いたくないな。
今は、会いたくない。
見上げると、もう天気雨があがったようだった。
青い若葉に、水滴が美しく光っていた。
だからカバンをフルスイングしてばんっ、と葉を叩いた。
夥しい光る水滴が飛び散った。
一瞬また雨が降ったかのように降りかかって、彼女の顔や髪を濡らし光らせた。
犬のようにぶるぶる顔を震わせた。
すると、滴った一滴が唇の端から口元に入った。
汚い。
と、一瞬思い。
でも、こくり、とそれを飲み込んだ。
それからケータイを取り出し、さっき別れたばかりのヒカリに電話を掛け。
でもやっぱり、べっ、と唾を水たまりに吐き出した。
青ⅩⅢ 《レテ湖の水面に映りだす》
・Ⅰ
翌日、昼休み。
レイはいつも通り、頬杖を付いて透明な空気の中から窓を眺めていた。
入道雲は美しく。
きらびやかな白は目が痛くなるほどに輝いていた。
なのに空はそれと反比例するように湿度の高い、しっとりと綿密で濃厚な青だった。
彼女の透明な膜、または檻を通してすら夏の気配は強く、濃く、そして美しかった。
すると、わいわい、というような擬音が彼女の耳元に届いた。
「つーわけで市内旅行計画立てるでええー」
トウジが彼女の向かい側の席を借りて座った。
「おう、こっちの席はいいのか?綾波」
大丈夫そうだな、と、ケンスケが続く。
「じゃあ僕ここ」
シンジがわーい、と言った様子で彼女の席の隣を陣取った。
「綾波さん、お邪魔するね」
と、ヒカリも座った。
さすがの彼女も、目と口を丸くしたのだった。
みんなで賑やかに机に食料を置く。
ヒカリ以外はみんな購買で買ったパンだった。
レイはどこか不思議そうに、目の前でめいめいと繰り広げられる光景を眺めた。
「シンジから聞いたで。綾波も行くんやろ?」
「…ええ、許可が下りたら」
どこかとまどったように、レイはそう答えた。
「なんだ、まだ確認してないんだ?」とケンスケ。
「…今日は放課後ネルフに行くから、その時に聞くわ」
「そうなんだ?僕は呼ばれてないけど…」シンジが続く。
「ただの検査よ」
と、レイは言った。
そっか、とシンジは深くは聞かなかった。
するとヒカリが今気づいたようにシンジに話を向けた。
「そういえば、今日は碇君お弁当じゃないんだね」
「うん、昨日下準備忘れちゃって…」
「そういや、綾波はなんでいつも食わないんだよ」
ケンスケが前から気になってた事を言う。
するとレイは何事もないように返した。
「必要ないわ」
「なんで?」
「食事…嫌いだもの」
「いや、嫌いって言ったって…」
なにか皆が彼女を見た。
トウジが珍しいものを見る感じで口を切った。
「綾波…おまえ普段どんなもん食うてるん?」
「…基本は、ネルフで配給されるもの」
なぜか一瞬、間があった。
すると、ケンスケだけは食いついた。
「それはつまりネルフ産の完全栄養食的なそういう…?」
「…そうね」
「いいな!俺にも売ってくれないかな。いや、無理か…?つか高そう」
ケンスケはどうやら食事にリソースを割くのが面倒なタイプらしかった。
それを横目にシンジはしょんぼりした。
…綾波、ご飯食べること自体が好きじゃないのかあ。
じゃあやっぱりお弁当なんて勝手に作っても迷惑だったかも。
昨日お弁当を作るの忘れたのは逆に良かったのかな、と彼は少し寂しく考えた。
「ところで今更やけど惣流はどこいったん」
トウジがシンジに話を向ける。
「うん。なんか今日は一人で食べるって…」
「ほおん?昨日も急に一人で帰るし、相変わらずの女やなあ」
「もう俺らで勝手に決めちまう?」とケンスケ。
「それならそれであの女絶っ対怒るやん?」
「だよな。解釈一致だわ」
トウジとケンスケのそんなやり取りをしり目に。
シンジは今朝のアスカの様子を思い出した。
朝に一度帰ってきたアスカは極めて不機嫌だった。
どうやら着替えも何もなく洞木さんのところに泊まったようで。
つまり、わざわざ着替えに帰って来たらしかった。
おはよう、と言ったら無視された。
そしてそのままさっとシャワーを浴びると一人で先に登校してしまったのだった。
やっぱり、洞木さんと喧嘩でもしたのかな?
シンジはヒカリを見た。小さなお弁当をつついていた。
その様子からは特にそういった印象は受けなかった。
「なら、せめて方向性だけでも決めようぜ」
とケンスケが言う。
「せやなあ。せめてどこ行くかやな。山か川か、まあ芦ノ湖でもええけど」
「となるとやっぱキャンプかなあ?」ケンスケが続き
「普通に旅館やビジネスホテルとかじゃダメなの…?」とヒカリが言う
「なんでや?普通のとこなんて詰まらんやろ?やっぱキャンプでバーベキューや」
すると。
「肉、食べれないわ」
と、レイが言った。
「え、じゃ魚は」とケンスケ
「それも」
「ほんま普段何喰うとるねん…」
「完全栄養食だって言ってたろ。俺はうらやましい」
「でも、それなら野菜とか…?」ヒカリ
「とうもろこしとか、キノコは?」とシンジ
それは食べれる、とレイは言った。
「ほならまあ、バーベキューでもなんとかなるか」
「えっと、キャンプは確定なの…?」
ヒカリがちょっと不服そうに言う。
「ええやん。なんで委員長嫌なん?」
「だって遊園地とかそういうのもあるでしょ?」
「なんでやねん。そんなん女子供が行くとこや」
「女もいるしそもそもみんな子供です!」
ヒカリが当たり前の突っ込みを入れた。
どうやらトウジ相手には遠慮がなくなるようだった。
放課後になっても相変わらず空はしっとりと濃かった。
シンジはレイと歩を合わせながらつい、やっぱり、空を見ていた。
ああだこうだと言ってる三人の少し後をついていく。
方向性を決めようと言ったもののまだ定まらないようだった。
ずいぶんと夏の気配の濃い空だった。
真っ白な入道雲がそれに溶けていってしまうように形を変えていった。
やっぱりシンジの心がときめいた。
すると、ふわり、と。
何か、涼やかな空気が彼の腰あたりに回り込むように触れてきた。
柔らかくて、ひんやりしていて、気持ちよかった。
まるで透明な尻尾か腕か、帯か。
何かそういうものがやんわりと腰に巻き付いたかのようだった。
え、とその感覚に目をしばたかせる。
だから隣を歩く彼女に視線を向けようとして。
突然、その空気に、くい、と腰を引かれたような感覚があった。
わ、とシンジは内心で声をあげて、でも抗わずにその感覚に従った。
すると後ろからバイクがすぐ傍を走り去っていった。
どうやら空に夢中になって少し道路側に出てしまっていたと気付いた。
ああ、危ないや、とその空気に導かれるまま彼女のすぐ隣に戻った。
すると、すっ、とその涼やかな空気は用が済んだかのように引っ込んでいった。
改めて、レイを見た。
彼女は両手でカバンを持ったまま相変わらずの無表情で彼を見ていた。
当然彼女が手を伸ばしたわけがなかった。そもそも距離が合わない。
でも確かに、透明でひんやりと心地のいい空気の帯のような物がふれて、彼を導いた。
彼は一つ瞬きした。
…ありがと
彼女も瞬きした。
そう、よかったわね
目で会話して、また前を向いて歩いた。
それから彼は改めて、ふわあ、と感嘆の様な吐息を漏らしたのだった。
「私、こっちだから」
するとレイは言った。
「ほか。結局なんも決まらんかったな」
「まあ、さすがに惣流抜きで先に決めちゃうわけにもいかないだろ?」
「うん、また明日でいいんじゃないかな」
トウジ、ケンスケ、ヒカリが言う。
「そうね」
それじゃ、と彼女は背を向けた。
またね綾波、とシンジは言った。
またな、とトウジが言った。
またなーとケンスケが言った。
またね綾波さん、とヒカリが言った。
すると彼女は顔だけ振り向き、少しの間の後、言った。
「…また」
そして彼女は去っていった。
するとトウジがいっそ感慨深げに言った。
「綾波はますます変な奴やなあ…」
「そう?」
シンジは不思議そうにそう返した。
そやろ、とトウジが返す。
「別に嫌いやないけどな。んじゃ、俺らは行くか」
と傍らのケンスケに言う。
「え?いや別に四人で遊べばよくね?」
「ええから付き合えや」
すると、トウジはほなな、と言って、なんでだよおおと不服そうなケンスケを引き連れて去っていった。
シンジはヒカリと二人っきりで残されて。
それから何となく目を合わせた。
「…なんだろう?鈴原…」
「ね。変なの…」
二人は同じ感想を持った。
そのままのんびりと、一緒に帰り路を歩いた。
「そういえば昨日アスカ泊まったって」
「うん…急でびっくりしちゃった」
ヒカリは穏やかに言った。
「着替えもなくて、てっきり家出でもしたのかなって」
「え…」
「実際は違ったみたいだけど」
ううん?とシンジは思った。
それから気になったことを聞いてみた。
「その…アスカと洞木さん、喧嘩でもしたの?」
「え、どうして?」
「今朝、アスカが機嫌悪そうだったから」
「ああ…ううん、喧嘩とは少し違うの」
彼女は心持ち寂しそうに。
「私が、アスカのこと怒らせちゃったみたい…」
彼はよくわからなくて、そうなんだ…と呟いた。
しばらく沈黙して、ただ歩いた。
気まずくはなかった。
分かれ道に来た。
ヒカリがじゃあここで、と。
「あの…洞木さん」
シンジは、勇気を振り絞って前から考えていたことを告げた。
・
その墓地はとても墓地らしかった。
なぜそんな感想を持ったのかと言うと、彼の母が眠る場所はあまりにも寒々としていたらからだ。
そこに比べればそこははるかに人の想いや温かさがあった。
圧力をまとった寂寥感ではなく、包むような穏やかな哀愁がその場をたゆっている様だった。
いつもきれいにしているらしく、その墓には掃除は必要ないようだった。
でも、せっかくだから二人で軽く墓石を洗った。
彼は途中で買ってきた花をたてて、線香に火をつけた。
少しの黙とうをした。
ヒカリは邪魔しない様に後ろ手でその様子を見ていた。
それが終わって、彼はぽつりと言ったのだった。
「ありがとう洞木さん…連れてきてくれて」
「ううん…」
ヒカリもぽつり、と言った。
「…碇君のせいじゃないよ」
「…どうして?」
「だって、実際に違うもの」
「でも、僕がもっとうまく操縦してたら…」
少しの間があった。
ヒカリを見た。
彼女は寂しいような悲しいような、でも、穏やかな目をしてた。
おずおずと、シンジは言った。
「…怒ってないの」
「うん…なんにも…」
ヒカリは寂し気に、でも柔らかく言った。
その言葉に確かに真実の匂いを嗅ぎ取って。
でも、あるいはだからこそシンジはうなだれたのだった。
静かに霊園内を歩いた。
見上げると固形物であるかのように思われた白い雲は、夏空の濃さに形を維持できず。
すこしずつ溶けて形を変えていくように見えた。
ヒカリは空を見ながら呟いた。
「ねえ碇君」
「うん…」
「一つお願いがあるんだけど…」
「うん、なに?」
「あの曲、また聞かせてくれないかな」
「あの曲?」
「『貴方』」
え、とシンジは声を上げてしまった。
「ど、どうして?」
「綺麗な曲だから…もう一度聞きたいって、ずっと思ってたの」
すると彼の頬が、みるみる赤くなった。
だからヒカリは、その様子に首を傾げた。
「う、うん。わかった…こんど、また」
「うん…」
ヒカリははにかんだ。
口の端の窪みが暖かい熱を放ってた。
帰り道をぽつりぽつりと話しながらのんびりと歩いた。
「碇君、ピアノ上手いよね。習ってたの?」
「ううん。家にあったのたまに弾いてただけ」
「へえ…」
すると、なんとなくひらめくものがあった。
「碇君…もしかしてあの曲、碇君が作ったの?」
すると、擬音が聞こえそうなほど彼の頬が赤くなったようだった。
それだけでわかってしまった。
ヒカリは思わず感嘆の声を漏らした。
「すごいね…碇君」
「そ、そんなことないと思う…」
「そんなことあるよ。あんな綺麗な曲作れるなんて…」
彼女は本心から言った。
確かにどこか稚拙な旋律は、だからこそ心にまっすぐに入り込んでくる感覚があった。
それは小手先の技巧では届かない心の奥のほうにすっと届いて置かれてくるようにも思えた。
大人の計算ずくの行動より、幼子の打算のない行動がより人の心を打つことがある様に。
彼女は本当にその曲を美しいと感じ、もう一度聴きたいと思ったのだから。
「あの曲…だれかに作った曲?」
だから彼女は思ったままを口にした。
「…少し違う、けど」
「…じゃあ、誰かを想った曲?」
「わからない…でも、そう…かもしれない」
「誰か聞いて言い?」
彼はそっと言った。
「お母さん」
ヒカリは、納得したように、うん、とうなずいた。
「そっか」
彼の母の生死などは聞かなかった。
その必要はなかった。
分かれ道に来た。
「あのね、碇君…」
それからヒカリは何か言おうとした。
何か迷うような、躊躇するようにな気配を発して。
「…ううん…」
それからヒカリは、そう言ってやはり静かにほほ笑んだ。
シンジはそれを不思議そうに見た。
その代わりのようの彼女はこう言った。
「市内旅行、楽しみだね」
「…うん」
「うん」
うん、と彼も言った。
うん、とヒカリは少しはにかんだ。
彼もはにかんで言った
「じゃあ…また学校で」
「うん、また学校で」
穏やかにお別れした。
・
玄関を開けるとアスカの残り香がした。
靴も乱雑に放置されていた。帰っている様だった。
リビングの床にクッションを敷いてうつ伏せに寝転がっていた。
「…アスカ、どこ行ってたの」
「何処でもいいでしょ」
「何かあったの?」
するとアスカがそっけなくこう返した。
「最近、ずっとミサト遅かったでしょ」
「うん。でも昨日は早かったよ。あと今度からは早めに帰れそうだって」
「四号機が編入されるんだってよ」
アスカは彼の言葉を無視してそう続けた。
「…四号機?」
「そう。やっぱ聞いてないのねあんた」
「う、うん」
「でしょうよ。ハッ、ミサトらしいわ」
その言い方にははっきり棘があるようだった。
だから彼は眉を下げた。
「じゃあ…綾波復帰するのかな」
「違うみたいよ」
「そうなの?じゃあ、新しいチルドレンってこと?」
アスカは伏せていた顔をシンジに向けた。
目を光らせていた。あの底の知れない目だった。
でも、そこにはイラつきのような成分が強く混じっていた。
「さあ?そのうちミサトが話してくれるんじゃない?
言うの遅れてごみーん!!!とか馬っっっ鹿みたいにほざいてさ。」
シンジはまじまじとアスカを見た。
こんな毒々しい彼女は出会ってから初めてのように思えた。
するとそのまま彼女は立ち上がり、シンジにまっすぐ歩いてきた。
思わず、気おされて彼は一歩後退した。
目の前に彼女の顔があった。睨むように目を光らせていた。
こんな近くで彼女の顔を見たのは草原以来かもしれなかった。
遅れてふわり、とアスカの匂いが彼に届いた。
すると、待っていたかのように彼の肉が反応し始めた。
ほとんど鼻がふれそうな距離で彼女は低く呟いた。
「んじゃ…今のうちに一緒にお風呂入る?ミサトが帰ってこないうちに」
「な、なんで」
しゃべるたびに息がかかる距離の彼女と、熱を帯びてくる下腹部と、その底の知れない光る眼と、相変わらずの脈絡のない提案に彼はしどろもどろになり。
でもそんなのはお構いなしに彼女は囁くように呟いた。
「何?嫌?それとも怖い?シンちゃんびびっちゃう?」
「そ、アスカ…」
「あんたはそうでしょうよ。ハッ」
吐き捨てるように言うと、そのまま彼女は彼の横を通り過ぎて行った。
「…アスカ」
「うるさいっ!!!」
一瞬、間があった。
知り合ってから初めて向けられた剣幕に、彼は怯えたように竦んでしまった。
すると、彼女がぴたりと足を止めた。
深呼吸をする気配があった。深く吸った呼吸を止めて。
それから、長く、長く息を吐いていた。
まるで、何かがあふれ出そうになるのを耐えてる様にも見えた。
だからシンジは、よく耳を澄ませて彼女の言葉を待った。
「…今は、ほっといて…」
「…うん…わかった」
シンジは優しいような声で言った。
そのままアスカは音もたてずに部屋に消えた。
彼女のひどくイラついたような空気の残り香が部屋にたゆっていた。
・
紫色の花だった。
それはいつもネルフ本部までの道に、ぽつり、と咲いている。
それが何という花なのかレイは知らない。興味もない。
ただ、いつもその花は何か切ないような様子で一輪だけでたおやかにゆれている。
その切なさは、不思議と彼女の透明な膜を通過してもどうやら濾過されることもなく。
まるで網を潜り抜けるように、するり、と彼女に届いている。
今日は少しだけうなだれていた。
もしかしたら暑すぎるのかもしれなかった。
でも何をするでもなく、彼女はその花のそばを通り過ぎた。
それは、一つのフィルターのようなものだった。
彼女のその透明な空気の膜、または檻は不要なものはすべてを濾過する。
熱も色も光も空気も、何もかもはありのままではなく。
要らないものは何も届かず、全てが一つの透明な膜の向こう側であった。
彼女が見て触れて感じる全てはその膜に濾過され削られた後のものなのだった。
彼女が、その内側に存在することを許したもの以外には。
ふと。
彼女が行くと言ったとたん、ぱっとはにかんだ先日の彼の顔を思い浮かべた。
まるで彼女が居てくれるだけで嬉しいのだ、とでもいうような。
でも彼女はその時ただ、膜で隔たれたそれをぼんやりと眺めただけだった。
それはやはり彼女にとって目の前に存在するものではなく、本当の意味でこちら側にあるのですらもなく。
いつも無色透明な絶対強度の殻の、その向こう側の世界のものなのであった。
26/5/28
次話 『青から赤へと至るには』