リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
無色透明なものを描け。
そう言われたとき、取れる方法は限られているだろう。
もっともわかりやすいのは、その外側を埋めていくことである。
つまり対象=ポジの形を直接描くのではなく、
周りの輪郭=ネガの形を描くことで相対的にポジを浮かび上がらせる手法だ。
つまりは透明人間に巻かれた包帯、着せられた衣服、その頭蓋に乗せられる帽子である。
その表現自体は別段珍しいものではない。
映画や小説と言った物語表現においてすらも昔から存在している。
だが徹頭徹尾、ただそれだけに特化した表現も存在する。
『詩』であった。
詩が一見異常に思えるほど行間や文章の位置にこだわるのはそのためだ。
構図を緻密に計算された絵画のように、行間の広さや、句読点や、折り返しすら計算される。
まるでそれら一つを間違えただけで成り立たなくなるのだ、とばかりに。
あるいは、可能な限りわかりやすく観測者にそれを伝えるために。
それはその行間=空白こそが本丸だからだ。
詩で描かれる言葉はどれほど美しくても、それは丁寧に巻かれた包帯であり、美しく着飾られた衣服であり、その無色透明なものを閉じ込めるための綿密に編まれた檻に過ぎない。
だが詩が描きたかったものは、そこではない。
詩の本質は、そこにはない。
・
詩は諦観の表現であり、最初から言語をある程度見限っている。
文学者が言語の敬虔な信徒とするなら、詩人は信徒に潜むただの背信者である。
だから詩人はひたすらに言葉を研ぎ澄ます。
まるでそうでもしなければ言語などという『なまくら』は役に立たないのだ、とばかりに。
そぎ落とし、研ぎ澄ませ、刃物のようにひたすら鋭利であろうとする。
文学という、言葉を信じるからこその蓄積と質量の表現とはまるで逆を行く。
だが“巻かれた包帯”という詩的構造を認識したとして、
輪郭から透明人間を知覚できたとしても、
その横顔から想像されうる顔立ちはその人の内側にしか存在しない。
それがどれほどの美貌であろうと、醜悪であろうと、それはその人にしか見えてはいない。
詩的構造によって作り出されるその空白には常に観測者が写りだす。
詩によって映し出される個所や細部が異なるだけだった。
例えそこに空白しか見えなかったとしても。
あるいは、だからこそ。
・
話を戻そう。
『詩』とは言語表現のある到達点である。
にもかかわらず言語に対する失望と諦観から出発したあるアンチテーゼである。
言語でもってなお『言語化できないもの』を形にしようとあがく、特異で、いびつで、不屈ですらある、いっそ挑戦的な、奇形の表現なのであった。
成立している矛盾
相反する両立
肯定された自己否定。
それが、詩である。
つまり、綾波レイは必ずしも詩人ではない。
だが、その存在はあまりにも、常軌を逸するまでに“詩的”であった。
「あの…そっちは終わった?」
シンジは額の汗を手でぬぐって、彼女のきっと涼やかであろう返答を待った。
・
日直 綾波レイ
碇シンジ
黒板のそれをすっと消す。
それから同じ歩幅で教室を出た。
二人の影が、少しだけ背伸びしたように廊下に伸びた。
・
「旅行、今日も何も決まらなかったね」
夕暮れと言うにはまだ少し早かった。
でも青空と言うには空は眩しすぎた。
彼はちょっとだけ手で太陽を遮った。
空と雲の割合が絶妙だった。
きっと今日の夕暮れは大変美しいに違いなかった。
彼は彼女と全く同じ歩幅で歩きながら、その予感に胸をときめかせた。
「そうね」
と、彼女は相変わらず涼やかに返した。
なにせアスカが参加しようとしないのだった。
今日も一切誰とも関わろうとせず、授業が終わるとすぐ帰っていった。
あの女なんやねん、というトウジの抗議の言葉を思い出す。
これじゃいつまでたっても決まらないじゃん、とケンスケも文句を言っていた。
だから彼も、ずっと様子のおかしいアスカに、どうしていいかわからず嘆息した。
「…でも綾波、旅行の許可下りてよかったね」
「そうね」
「うん」
彼は、はにかんだ。
音楽室からかすかにピアノの音が聞こえた。
カノンだった。
でもちょっと音程を間違えていた。
そうそう、そこ難しいよね、と彼は共感した。
「あ、そういえば、ノート本当に必要ないの?」
彼は思い出したように言った。
実は綾波が復帰した時のためにノートをとっておいたのだった。
「ええ…教科書読めば、わかるもの」
え、と少年は言った。
「えっと、教科書を読むだけで、全部?」
「ええ」
「…ただ読むだけで?」
「ええ」
「…すごいね」
「…そう?」
彼女はどこか不思議そうに返した。
そういえば綾波はいつどんな授業でも指されると簡単に答えた。
休みも多く授業もあんまり聞いてる様子もないのに不思議だったのだが。
だから平凡な成績の彼はのほほんと、綾波ってすごいなあ、と感心しただけだった。
ちなみに、余談だが。
彼は実母の碇ユイがある界隈では知らぬ者がいないほどに優秀な研究者であった、などという事実は知らない。
カキン、と校庭で音がした。
ファール、と声が聞こえた。
ファイト、と少年は心で囁いた。
やっぱりそれぞれの喧噪が組み合わさって彼には音楽を奏でてるように聞こえた。
そういえば、と気になっていたことをふと聞いてみた。
「…綾波、食べるの嫌いだって」
「そうね」
「…お昼抜いて、おなかすいたりはしないの」
「ええ。必要ないもの」
彼は彼女を見た。
相変わらず肌は白かった。
でも、その肉付きは、すらりとはしていたが別段痩せすぎと言うほどでもなかった。
儚く感じる少女だったが、その印象は別の理由に起因しており、必ずしも不健康そうでもなかった。
「その、ネルフの栄養食?ってそんな便利なんだね」
一食とかで栄養満点、おなか一杯みたいなものなんだろうか。
すごいな、仙豆みたいだな、などと少年はのほほんと考えた。
「…いいえ」
その返答に、うん?と首を傾げた。
「そんなもの、ないわ」
彼は目を瞬かせた。
「…じゃあ、何食べてるの?」
「特に、何も」
シンジは不思議そうに彼女を見た。
「そう…なんだ?」
「ええ」
「まったく?」
「ええ」
「…今まで、一度も?」
「…たまには食べるわ」
「…何を?」
彼女は少し間をおいて言った
「…お菓子」
そうなんだ、と彼は言った。
それから。
一体、どういうことなんだろう、と頭で整理した。
つまり食事自体は必要ないが、食べたりすること自体はできるという事だろうか。
確かに何度もココアをご馳走になった。あれは飲み物だけど。
特に必要はないけど、甘いものは嫌いじゃない、とか、そういう事だろうか。
と、いうか。
…何も、食べなくても、平気?
…本当に、何も?
そんな体質の人をもちろん彼は聞いたことがなかった。
だから彼は不思議そうに隣を歩く彼女を見た。
相変わらず透明に思われるほど白く、端正な横顔だった。
うっかり油断すると、向こう側の空まで見えそうだった。
「後は…料理」
「…綾波の?」
「いいえ」
彼女はこう続けた。
「碇司令の」
「えっ」
彼は、一瞬聞き間違いかと思った。
「…父さんの、料理?」
「ええ…」
彼は感嘆するかの様子で言った。
「僕、知らなかった…父さんって料理できるんだね」
すると、逆に彼女が少し不思議そうな様子で彼を見た。
相変わらず赤い目が綺麗だった。
「…知らないの?」
「うん…一緒に暮らしてた時は、父さんが料理するの見たことない」
「そう…」
そうなのね、と彼女は、何か考える様に目を伏せた。
彼は純粋に興味を惹かれて言った。
「…父さんて、どんな料理作るの?」
彼には巨人のようで髭を生やしたあの父が料理する姿をいまいち想像できなかった。
少しだけ、寂しいような情動がたゆった。
でも彼はそれを、ぽい、とストレートで放り投げた。
すると彼女は涼やかな声で答えた。
「知りたい?」
「うん」
そう、と彼女は呟いて。
「じゃ…行きましょ。」
「…え?」
カキーンと、遠くで音が大きく鳴った。
幾つかの悲鳴が上がってた。
どうやら、場外ホームランらしかった。
Ⅲ 『綾波詩的構造体』
シンジは緊張しっぱなしだった。
それはもう緊張しっぱなしだった。
突然降ってわいた機会に彼はどうすればいいかわからなかった。
なにか買っていかなくていいのかな、とすら彼は思った。
そう言ったら逆に彼女に不思議そうにされた。
ジオフロントに降りるモノレールに乗りながら彼はもう緊張しっぱなしだった。
そんな彼の今の状態を一言で形容するならこうである。
はわわ。
彼はそれはもう、はわわ、はわわだった。
どうすればいいのかもわからず、でもどうしても興味があって。
そして彼は、改めて父がネルフ本部内に住んでることすら知らなかったことに驚いた。
途中でセキュリティもあった。
一応は最高司令も住む居住区と言うならそれもそうだろう。
でも、彼女は自分のカードであっけなく通った。
彼も一緒に通れた。僕のカードでは通れるのかな?と彼は思った。
その部屋はずいぶん奥の離れたところにあった。
でもそれだけだった。
見た感じはそれほど他とは変わらないように思えた。
何か、期待か、恐怖か。
何かが混沌とまじりあった微熱が彼をはわわさせた。
すると彼女はあっけなくインターホンを鳴らした。
彼は心の準備がまだだったのではわわした。
数秒の後、低い声がした。
『何の用だ』
「食事を」
数秒、間があった。
すると電子音が切れる音がした。
彼は、こく、とつばを飲み込んだ。
それから、扉がスライドしてゲンドウが姿を現した。
ゲンドウはカッターシャツにズボンと言うラフな出で立ちだった。
そして色付きではない普通の眼鏡をかけていた。一応は勤務時間外らしかった。
そしてやっぱり、首が痛くなるぐらい背が高い人だった。
…ああ、昔の父さんだ。
こちらに来てから初めて見たネルフ司令以外の姿に、ふと彼に郷愁に近い感覚がよぎった。
ゲンドウはしばらくレイを見た。
それから彼に視線を移した。
情愛がこもってるわけではない、でも冷たいわけでもない。
ただ、シンジを見ていた。
そうだった、父さんはいつもそんな眼差しで僕を見ていた。
サングラス越しではない数年ぶりのその眼差しに彼は懐かしさを感じた。
「…なぜ、初号機パイロットがいる」
「私が、呼びました」
「…何のつもりだ」
ゲンドウは低く言うと再びレイを見下ろした。
彼はこくり、とまたつばを飲み込んだ。
数秒の、間があった。
彼女は何も返さなかった。
だから彼はうなだれながら、…あの、と言いかけて。
するとゲンドウが一瞬だけシンジに視線を移し。
「…パスタぐらいしか用意できん」
パスタ。
父さんの口から、パスタ。
碇ゲンドウの辞書にパスタなんて単語があっただなんて。
と彼はある種失礼なことを考えた。
「かまいません」
彼女は涼やかに言った。
それから、再び間があった。
あっ僕?と彼は咄嗟に思い。
「あ、あのっ、別に、僕も大丈夫…」
それからゲンドウは少しの間の後ゆっくり言った。
「…ならば入れ」
う、うん、と彼は返した。
恐る恐る、玄関を上がった。
ネルフ司令の住居と言うには、ずいぶんとシンプルで、質素だった。
明白に単身用の住まいと言う感じだった。
ダイニングテーブルに、その奥にソファ。
奥の部屋は寝室と私室だろう。
必要最小限のものしかなく、何か、ある種、綾波の部屋に近い気配がした。
なので彼は思わず目を瞬かせた。
ふと、部屋の隅の方に小さな灰皿があるのに気が付いた。
ああ、そうだった。
父さん時々、タバコ吸うんだった。
滅多に吸わない人だったけど、ほんの時々、庭で一人で吸ってる姿を目撃することがあった。
でもシンジの前や家の中じゃ決して吸わなかった。
小さなとき、お菓子でよく真似してたっけ。
すっかり忘れてたのを思い出して、彼は不思議な気持ちになった。
一応は四人掛けのダイニングテーブルに座る。
彼は、緊張のあまり座り方すらぎこちなかった。
そうしてゲンドウが台所に立つのをぼんやり眺めた。
ちゃんと料理道具も揃ってる様だった。
それをますます感慨深く眺めた。
…本当に父さんが料理してる。
でもちょっと台所が低いようだった。
というより、ゲンドウの背が高すぎるのだろう。
少しだけ背を丸めてやりにくそうだった。
なので彼はおずおず、と立ち上がって言った。
「あ、あの、父さん…僕も手伝おうか?」
少しの間の後、振り向かないでゲンドウは言った。
「…かまわん。座っていろ」
「う、うん…」
彼は所在ないように再び座った。
隣りに座ってる綾波を見る。
彼女はぼんやりゲンドウの背中を見ていた。
彼も追うように、やたら広い背中を見た。
意外と、料理の手際は悪くなかった。
トマト缶二つも使ってソースもわざわざ最初から作る様だった。
彼は目をぱちくりさせた。
そうしてあっけなくパスタを作り終えた。
トマトソースだけのひどく質素なパスタだった。
綾波が肉とか無理だから仕方ないのかもしれなかった。
ゲンドウも自分の分を置くと、テーブルに座った。
どうやらついでに自分の分の食事も済ますつもりのようだった。
でもなぜか皿じゃなくてボールにパスタを入れていた。
普段はどんな食生活してるのかな、と彼は思った。
意外と作ってるのかな。それともいつもはやっぱり外食とかで済ますのだろうか。
目の前のゲンドウに彼はますます緊張した。
こんな近くで見るのはこっちに来てから初めてかもしれなかった。
確かに、記憶の姿よりも、年を取っていた。
すると、髭や髪の間にぽつりと白く、光るものがあった。
何か、白い傷跡のようにも見えた。
何だろう?と持って。
あ、と、彼は思った。
どうやら、近くで見ないとわからないぐらい、わずかに白髪があるようだった。
何かの感情が、正体を把握する前に彼の心を走りすぎて行った。
「…食え」
「え?あっ、う、うん」
彼は我に返った。
自分でもよくわからないほど動揺していた。
一瞬だけフォークが震えた。
いただきます、と彼は言った。
いただきます、と隣でも涼やかな声が聞こえた。
意外にも、美味しかった。
荒くつぶしたトマトの果肉がちょうどよくパスタに絡んだ。
味付けもちゃんとしていた。
むしろ余計な具材がない分トマトの酸味と旨味をより引き出していた。
綾波は綺麗な食べ方だった。
彼も意識して綺麗な食べ方をした。
ゲンドウはあっけなく自分の分を食べ終えると、流しに食器を置き、インスタントコーヒーを取り出した。
マグカップを二つ出して、ポットからお湯を注いだ。
それからまるで何かの儀式のように、砂糖とミルクポーションが入った容れ物と一緒にテーブルに置いた。
「それを飲んだら帰れ。私は忙しい」
彼はまだモクモク食べたまま、う、うん、と言った。
話したいことが一杯あったはずだった。
でもやっぱり、全部どこかへ消えてしまっていた。
するとゲンドウは少し離れたところにあるソファに座った。
特に何をするでもなく。
でも、自室に戻ろうとはしなかった。
どうやら、二人が食べ終えるのを待っているらしかった。
そのいかつい横顔を、彼はぼんやり見た。
彼はコーヒーはまだ苦手だった。
だから、綾波はどうしてるのかな、と見て、彼女を真似る様に同じ飲み方をした。
砂糖を多めに入れて、ミルクを二個分流した。
黒に白が溶けて、ミルクコーヒーになった。
そうなったら二度とコーヒーは元には戻れないようだった。
と、彼はゲンドウが何も飲もうとしないのに気付いた。
ふと、思いついた。さっきも一人だけ皿が違っていた。
つまり、マグカップや食器が二人分しかないのかな、と。
綾波は何かの儀式のようにじっとコーヒーに視線を移してた。
ぼ、と言う音が聞こえた。
ゲンドウが煙草を吸い始めたようだった。
彼は目を伏せた。
シンジは視線を落としたまま、コーヒーをすすった。
コーヒーに交じって臭いような、でも嫌いではない匂いが彼の鼻をかすった。
まだ半分ぐらいコーヒーは残っていた。
でも、彼は言った。
「…その、飲み終わったよ」
すると、ゲンドウはまだ吸い始めの煙草を消して立ち上がった。
綾波が少しシンジに視線を移した気配がした。
彼女はまだ飲み終わってないようだった。
「では、帰れ」
うん、と彼は立ち上がって、玄関に向かった。
綾波も少しの間の後、ゆっくり立ち上がった。
「その、美味しかった、…です、…」
彼は扉の前でぎこちなく言った。
「…そうか」
ゲンドウはただそう言った。
…はい、と彼は答えた。
「それじゃ…」
「…ああ」
しゅ、とドアがスライドして閉まった。
かち、と鍵の音がした。
彼は綾波の後を数歩遅れて歩いた。
彼女のうなじが白くて綺麗だった。
でも彼は少し振り向いて。
また視線を戻した。
でも、やっぱりもう一度だけ振り向いた。
別に、再び扉が開いたりはしなかった。
・
ジオフロントを登るモノレールの窓に彼と彼女が写っていた。
彼は何もしゃべらず、ただその二人の子供の影をぼんやり眺めた。
・
ゲンドウは食器を流しに置いた。
三人分の食器を見下ろして、ふと、魔が差すかのような思惟が彼に入りこんだ。
あるいは、こんな可能性もあったか。
シンジと、ユイと。あるいは、レイと、シンジと。
と、彼はそこで思考をやめた。
無為な思考であった。
彼はとうに、はるか昔に失われた後なのだから。
彼はすでに、決断した後なのだから。
彼には、滅ぼさなければならないものがあるのだから。
彼の眼鏡の奥で鈍く、暗い光が走った。
ちろちろと、ちろちろと。
だからゲンドウは、何かを払うように、三人分の食器を手早く片付け始めた。
・
外はまだ明るかったが、ちょうど夕日が終わり始める時間だった。
彼女の影が長く伸びて、彼の足元をひどく暗く照らしていた。
予想通り美しい夕暮れだった。
でも、全盛期は見逃してしまったようだった。
その哀愁を堪能しながら、ぽつり、とシンジは言った。
「…今日はありがとう」
「何が」
「…父さん、少し迷惑がってたよ」
「…そう?」
彼女は少しの間の後、静かにそう言った。
横顔が驚くほど夕日に染まっていた。
「…いつも、父さんの処に食べに行くの?」
「いいえ。たまに」
「…今日みたいに、連絡もなしで?」
「ええ。…そういう、約束だもの」
約束。
それがどんなものか想像つかなくて、彼はぼんやりと彼女の横顔を見た。
「でも、時間作れないときもあるんじゃ…?」
「そういう時は、待つわ」
そうなんだ、と彼は言った。
昔は、と彼女は言った。
「…昔は、一緒に暮らしてたの」
「…そうなんだね」
じゃあ。
「…父さん、きっと綾波のために料理覚えたんじゃないのかな」
「…そう?」
意外そうな反応だった。
うん、と彼は穏やかに言った。
「だって僕ほんとに見たことないもん。多分父さん料理なんて出来なかったと思う。
綾波と一緒に住むようになって、それから、覚えたんだよきっと」
綾波のために、と彼は言った。
…そう、と彼女は静かに言った。
彼はふと思った。
もう、あの小さかった頃から遠くに来ちゃったんだなあ、と。
すると、夕日の赤が何かゆがんだ。
彼は空を見上げた。
やっぱり水の底から見上げたみたいだった。
ぐ、と口をつぐんだ。
何かがこぼれない様に彼は耐えた。
すると、彼女が立ち止まった気配がした。
そして、小さな声で言った。
「泣いてるの」
「…違う、」
でも、あっという間にそれがあふれ出た。
彼は咄嗟に口をふさいだ。
「なぜ、泣くの」
「ちがう、…」
彼が息が荒くなってきた。
嗚咽が漏れた。必死で口をふさいだ。
彼女は、とても静かに、幼いような声で言った。
「…どうして、泣くの」
「ちがう、ちがう…」
まるで何かが決壊したようだった。
彼はなんで泣いてるのかわからなかった。
ひどい懊悩が彼に襲い掛かった。
ぐう、と声を上げてその夥しい感情に耐えようとした。
でも手で塞いでも無駄だった。
声を殺そうとしても次から次に漏れた。
まるで長い間溜まりに溜まったダムが崩壊するようだった。
たまらず声をあげて彼は泣いた。
くぐもった泣き声が塞いだ口から漏れ続けた。
夥しい涙が彼の頬と手を伝って濡らした。
彼女は、どうしていいのかわからない様子で、立ち尽くしていた。
目を伏せた。
それから彼女は顔を上げると、本当の方の腕を、そろり、と伸ばした。
シンジは最初、その頬に触れる感覚の正体がわからなかった。
でも、何かが優しく、彼の頬を撫でていた。
一瞬、悲しみを忘れたように、そこを見た。
何もなかった。
でも、とても柔らかくて気持ちのいい感触が確かにそこに在った。
すると、涙が一粒、空中に浮いていた。
彼の涙が、まるで透明な何かの上を滑るように、つ、と落ちた。
彼はただそれを見た。
それから、彼女に視線を移した。
少しだけ離れた場所で、綾波はいつもの立ち方をしていた。
カバンを両手にもって、つま先を外に開く様な。
綾波特有の立ち方だった。
すると、その空気が急に実態をもったように形を作り始めた。
その何かが彼の胴に巻き付いた。
彼はその感覚に目を瞬かせた。
やはり帯かあるいは尻尾の様な。
先日、彼の腰に巻き付いたのと同じものに思えた。
でも彼はなんとなくその透明な何かの形状を、改めてこう感じた。
これは、もしかしたら、ヒレだろうか、と。
と、その巻き付いた透明なヒレが彼を持ち上げた。
わ、と彼は声を上げた。
本当に、浮いていた。
幻覚ではないようだった。
だから彼は思わず空中であたふたした。
すると彼女は静かに言った。
「暴れないで。静かにして」
なので彼は首をつままれた猫のようにすん、と静かになった。
彼はなすがまま、空中から彼女の顔を見下ろした。
相変わらず無表情だったが、柔らかさを感じた。
それがいつも不思議だった。
彼女のアーモンド形の目はどちらかと言うと鋭利で、涼やかで、本来柔らかさとは真逆のように思える。
なのに、確かにその面差しはいつも柔らかいのだった。
彼女はいつもそうだった。
無表情の中にも、その静かな声質にも、佇まいにも。
硬質に思える中に、常に相反するような柔和さがあった。
それはつまり、彼女の本質そのものの発露ではないのか。
肉の振る舞いを貫通して、根源の、そういうものが自然とにじみ出ているのではないのか。
だからまるで両極に思えるものが、両立している。
彼は彼女が近寄りがたいなど、一度も思ったこともなかった
彼女はカバンを片手にもって、もう片方の腕を上げた。
それから、彼は海に潜る様に彼女の空気の内側に入った。
そのまま、彼女は上から沈んでくる彼を抱き止めた。
彼の背中に、やんわりと手を回した。
すると、ヒレの方でも改めて彼を抱きしめるのが分かった。
大きくて、上半身がすっぽり抱きしめられたような感じだった。
彼も、彼女を抱きしめた。とても細い肩だった。
なのにどこに骨があるのかわからないほど柔らかかった。
吐息が漏れた。
彼女に触れると、いつも嬉しいような哀しいような感覚が波のようにたゆって、彼から言葉を失わせる。
でも、今回は極め付きだった。
涙も忘れて、ただただ息をついた。
そして彼は思った。
ついに思った。
とうとう、思った。
綾波は、一体、何者なのだろう。
何も食べなくても平気で、透明な空気の中に居て、やっぱり透明なヒレのようなものを持ってる。
綾波は、…
と、彼はすぐ思考をやめた。
綾波は綾波でそれ以外は些事だったからだ。
特に意味はなかった。知ったこっちゃなかった。
なので、いっそ僕も綾波みたいならよかったのにな、と意味不明なことを考えた。
すると彼女はすぐ耳元で言った。
「…ごめんなさい。余計なことをしてしまったのね」
相変わらず涼やかなのに柔らかい声質だった。
くすぐったいように彼は一瞬身を震えさせた。
一聴すると冷淡のように思えて、なのに幼子のような柔和さがあった。
本来決して混ざるはずのないものが混ざりあったような声だった。
こんな心地の良い声質の人、綾波以外にいるのだろうか、とすら彼は思った。
彼女が朗読するならどんな道端の詩さえ優れた詩に代わるように思えた。
「違う、違うよ。だって、僕のために連れてきてくれたんでしょ?」
「…うん…」
彼女は幼いようにそう返した。
彼はいつの間にか涙を忘れて言った。
「…なんか、数か月ぐらい前の感覚だったんだ、父さんに捨てられたの」
でもちょっとしゃっくりが出た。
「でも、七年もたってるんだなって…本当はもう、ずいぶん遠いところに来てたんだなって」
それを実感しただけ、と彼は言った。
そう、と彼女は囁いた。
「…僕は、やっぱり父さんが恋しいとか、必ずしも、そういう事じゃないんだと思う」
ただ、と言った。
「ただ…また朝までぐっすり眠れるようなところに帰れないかって。安心して、休めるようなところに、でもやっぱり僕もう、帰る処ないんだなあって。そんなのとっくに、知ってたけど」
知ってたけど、ともう一度言った。
「もう、二度と元には戻れないんだなって…わかっただけ。それだけ…」
それから彼は口をつぐんだ。
すると彼女が人の方の手で、彼の背を少し撫でた。
ヒレの方の手も、ますます柔らかく彼を抱きしめた。
彼の中で琴線の音が激しく鳴り響いて、もう鳴りやまなかった。
「…帰る場所が、欲しいのね」
「…うん」
「なら、いつでも帰ると良いわ」
彼は顔を動かして、すぐ横の彼女を見た。
彼女も動かす気配がした。
ぺたり、と頬が触れあった。
ひんやり気持ちよかった。
赤い目が彼を見た。
彼は呟いた。
「…何処に?」
彼女はそっと、囁いた。
「私の処に」
彼女の瞳は夕日と同和したように赤かった。
・
夜以外で彼女の空気の内側に招かれたのは初めてだった。
だから、彼はその内側から外の景色を改めて見て感嘆の声を上げた。
全てが、淡かった。
見上げた空はまだ青く、でも外で見るよりも透き通っていて、向こう側すら見通せるように思えた。
まるで目の奥に、すっと浸透してくるような青だった。
斜陽の赤も刺すようなものではなく。
柔らかな、まるで水の中から見たようなまろやかさだった。
視線を下げる。
足元の影ですらはっきりとした黒ではなく、すっ、と青みがかったような色をしていた。
影ですら淡く、澄んでいるようだった。
空は再び吐息を漏らした。
綾波の内側から見た世界は、まるで海のようにすら思えた。
では、綾波が纏うこの空気は、あぶくだろうか。
僕は、綾波のあぶくの中にいるんだろうか、と彼は考えた。
同じ歩調でゆっくり帰り路を歩いた。
あぶくの内側は、彼女の香りで満ちてるように思えた。
それでもやはり、静謐な匂いだった。
何かを押しのけてまで香ろうとはしない香りだった。
それ自体が、彼女そのものを物語ってるように思えた。
それから彼はそっか、と何か気づいたように言った。
「ちょうど、七歳で僕と綾波は入れ替わったんだね」
「…そうね」
ぴったり半分ずつなんだな、と彼は思った。
「綾波は、七歳以前はどこにいたの?」
沈黙があった。
彼は不思議に思って彼女を見た。
彼女は赤い目で彼を見返した。
あ、と彼は今更ながら、本当に今更ながら思った。
綾波って少し母さんに似てるんだな。
彼は思いついたことを口にした。
「…覚えてない、とか。なの?」
「いいえ。知らないの」
でも多分、と言った。
「…きっと、海に居たわ。」
綾波の部屋の前まで送った。
出来るだけ一緒に居たかった。
四〇二号室。
あっけなく着いてしまった。
彼女は扉の前に立って彼を振り返った。
白い分だけ何の抵抗もなく、赤く染まっていた。
ふと、彼は聞いてみた。
「…父さんの事、大事?」
間があった。
彼はその間を少し意外に思いながら、返事を待った。
それから彼女は少しの後、こんな風に言った。
「わからない…」
「…でも、わざわざ父さんの手料理食べに行ったりするんでしょ?」
「ええ…確かめたいもの」
彼は少し首をかしげて言った。
「…何を?」
「絆」
すると、空気のヒレが彼の背に回るのが分かった。
やっぱり気持ちいい感触だった。
もちろん、彼は何も抗わなかった。
やっぱり例によって彼女は目をつむらなかった。
そう、決して彼女は目をつむらない。
まるで、彼の瞳から何かを確認しようとでもするようだった。
なので、斜交いにまつげが触れ合うような距離で見つめ合った。
相変わらずの、触れ合うだけの様な口付けだった。
でも少しだけ肺の空気を交換し合って、それから確認し終えた、とばかりに彼女は口を離した。
ふと、前々から不思議に思っていたので彼は聞いた。
「…これも、確かめてるの?」
まつげが触れ合うまま、彼女は答えた
囁く様な、でも柔和な声だった。
「そうかもね」
ちゃんと答えてはくれなかった。
彼の唇に彼女の息がかかった。
もし、と彼は言った。
「…もし、どこにも絆がなくなってしまったら、どうするの」
すると彼女は少しだけ、目を細めた。
それから小さく、幼子のように囁いた。
…その時は、帰れるわ。
何処に。
とは、彼は聞かなかった。
怖くて、聞けなかった。
なので彼は衝動のままこう、口を開いた。
「…綾波に、代わりなんていないよ」
「…どうしてそれがわかるの、と言ったわ」
彼女は何事もないように涼やかにそう返した。
「僕にはいないからだよ」
彼女は一つ瞬きした。
彼は幼いようにこう言った。
「…きっと、この先も」
それから、彼はもう一度口づけした。
さっきより少しだけ深く。
ん、と彼女の声が漏れた。
彼女の目が少しだけ丸くなった。
不意打ちらしかった。
と、彼女の背が扉に当たった。
彼女の人の方の手が彼の腰あたりに回った。
それから彼のシャツを、く、と掴んだ。
ヒレの方の手も、おずおずと改めて彼の背中を抱きしめた。
彼もどこに骨があるのかわからない彼女を抱きしめた。
それから今度は肺の奥までゆっくりと空気を交換し合った。
彼女が彼の瞳の奥を隅々まで確認できるように。
彼女が、何処かへ帰ってしまわない様に。
・
それからお別れした。
でも、振り返って赤く染まった団地を見た。
なんとなしに彼女の部屋あたりを見上げてみた。
あ、と彼は口を開けた。
綾波がまだ、扉の前で彼を見下ろしていた。
だから彼は嬉しくなって、手を振ってみた。
少しの間があった。
すると、彼女もおずおず、と言った様子で手をふった。
とても小さい振り方だった。
もしかしたら、ヒレの方の手も振ってくれているかもしれなかった。
すると、赤く彩られた団地の壁に影が走った。
彼は今度こそ口を大きく開けた。
薄く、大きなヒレの影が、ゆっくり手を振っていた。
無色透明だけどやっぱり実態はある様だった。
薄く、本当に薄く、影すら透明なように見えた。
まるで、透明なクジラがバイバイと手を振っているようだった。
・
彼は、わき道をそれた。
不思議と遠回りしたかった。
だから、今まで行ったことのない道を歩いた。
裏側に土手があった。
僅かな河川が赤く流れていた。
何かの血脈のようだった。
彼はあまり言語的思考に慣れていなかったが、この時、彼は言語で思考しようとした。
なぜだろう。
あるいは、何かの道筋を記憶しておきたかったのかもしれなかった。
付箋を、残しておきたかったのかもしれなかった。
だから彼は慣れない言語でとてもつたなく考えた。
…世界が存在を許しているもの以外、最初から存在してないのかな。
彼は土手から夕陽を見た。
三つの空と言うには、夜と夕日の度合いが大きかった。
ひどく空は暗いのに、痛いぐらい眩しかった。
今日はどうやら青空は不利らしかった。
夜と夕日の間にちょっとだけ挟まって、四苦八苦してるようだった。
そういう日もあるよね、と彼は心で囁いた。
あるよね。知らんけど
と、上下に挟まれて身が狭そうな青空が囁いた気がした。
夕日も、雲も、空も、別に美しくなろうとしているわけではなさそうだった。
ましてや、見るものに美しいと思われようとしているとは思えなかった。
ただ、そこに在るだけだった。
ただ存在しているだけだった。
それは、存在そのものの美しさではないのか。
そしてそれは、それの存在を許している世界自体の、美しさではないのか。
別れ際の彼女とのやり取りが過ぎった。
また、来ていい?
好きな時に来れば
いつでもいいの
ええ
…どんな時でも?
ええ
彼女は赤く染まりながらあっけなく言った。
鍵は、いつも開いてるわ。
彼の中で何かが灯った。
横からの赤がますます眩しかった。
綾波の瞳の中みたいだった。
光をつかむように手を広げてみた。
真っ黒な手の影に、手のひらだけ真っ赤に移った。
今ならその赤を掴めそうですらあった。
きゅ、と握ってみた。
残念だったね、と夕日の粒子が指の間からにゅるり、と逃げた。
逃げた赤を見ながらふと、彼は思った。
どうして僕は綾波じゃないのだろう。
どうして綾波は僕ではないのだろう。
元は同じ存在のはずだった。一つの生命であるはずだった。
それこそ、あの分裂した使徒のように。
なんで今、二つに分かれてるんだろう?
あまりにもおかしい事が起こってる。
なにか、あまりにも不条理な、異常な事態が起こっていた。
常軌を逸した異常事態が起こってる。
彼の頭の中で、何かが鳴り始めた。
ありえないはずのことが、起こってる。
と、そこまで考えて、その感覚がにゅるりと逃げて行った。
さっきの夕日の赤みたいに。
今の自分の考えの不思議さに彼は首を傾げた。
…なんか、変なこと考えちゃったな。
僕は僕で、綾波は綾波なのに。
頭の中で鳴っていた何かは、もう静まった。
さっきまでの感覚がさっぱりわからなかった。
その感覚はすでにどこかへ去り、もうどんなだったかすら思い出せなくなっていた。
こんな夕日の時は、ふと、魔が差すかの様に、あるいは何かが舞い降りるかの様に、ひどく奇妙で、突飛な思惟が襲ってくることがある。
なのに、ふとした拍子や、少なくとも魔法の時間が終わった後にはその思惟は跡形もなく、なぜそんなことを考えたのかもわからず、溶ける様にどこかへ消えて行ってしまうのだった。
彼も、もうさっきの不思議な思惟と感覚はまるで最初から無かったかのように消えていた。
確かに思惟には夜行性のようなものがあるのだった。
あるいは、ひぐらしのような思惟も。
草が、夕日の側だけ真っ赤に、透明に輝いていた。
なのにその後ろは真っ黒だった。
おかげで赤だけが浮かび上がっているように見えた。
今日のように、青空が不甲斐ないと時にそういう鮮烈な赤が出来るのだった。
逆に夜が不甲斐ないときもあった。
あるいは夕日が元気ないときもあった。
そんな風に三つの空のバランスで、いつもできる影は違うのだった。
だから毎日見たって飽きるわけがないのだった。
シンジはただ考えた。
もしかすると綾波は、一切の命を奪うことなく生きられるのかな。
何も食べることなく、つまり奪う事もなく。刈り取ることもなく。
何を害することもなく。
そもそも綾波が意味もなく何かを害するとは思えなかった。
それどころか陰口を言ったり、何かを貶めようとしたり、そんな事すら想像が出来なかった。
そういった卑しさとは生涯無縁のように思えた。
それは、在り方の美しさではないのか。
世界に対する佇まいの、姿勢の、美しさではないのか。
彼は彼女を羨望した。
僕も綾波のようなヒレが欲しい、と思った。
なぜか遠い昔、自分も持っていた気がした。
もしかしたら綾波なら空も泳げるのかもしれなかった。
あり得る事だった。
うらやましい、と彼はまた羨望を覚えた。
空気のヒレがあれば、僕も空を泳げるだろうか。
彼は足元を見た。
彼を真似るような影は、まるで夜みたいに真っ暗だった。
なのに夕日が届くところは驚くほど透明な赤で彩られた。
こんな夕日が見れるなら、たまには青空が不甲斐ない日もいいのかもしれなかった。
ひどくない?知らんけど
と、青空が抗議を上げた。
とうとう夜と夕日とついでに雲に挟まれてちょっとしか見えなかった。
雲は夕日を添える様に赤を広げていた。
まさにMVP級の活躍だった。
つまり雲の活躍がなければ、こんな夕日は見れないのだった。
でも、雲にそんな意志はないはずだった。在るだけだから。
うん
在るだけの雲がそう答えた。
セミがまだ僅かに鳴いていた。
夏の空をいつも彩ってくれる声だった。
この声がなきゃ物足りないに決まっていた。
まるで夏を美しく見せるためだけに鳴いてくれているようですらあった。
でも、セミはきっと誰のためでなく、ただ鳴いてるだけなのだった。
いや交尾したいからだけど
そういやそうだった。そりゃもっともだった。
僕の考えが浅かった、ごめん、と彼は心で謝った。
いいよ、君のために鳴いてないのは確かだし
だよね。
うん
セミがまだ鳴いた。
もうひと頑張りするらしかった。
道端に野花が咲いていた。
控えめな面差しが赤く透明に照らされて、普段は隠されていた色気が垣間見えた。
すごく綺麗だ。と彼は心で囁いた。
べ、べつにあんたのためにそうしてるんじゃないんだからねっ
すると、風で抗議するように揺れた。
もしかしたら、勘違いされるのが嫌らしかった。
それはそうだ、と彼は思った。
だってただ存在してるだけなのだから。
確かにそんな勘違いされたら迷惑に違いなかった。
明白に貶める行為だった。
尊厳を侵していた。
だから咄嗟に恥じ入って、ごめん、と彼は心で囁いた。
わかったんならいいわよ
と、花は揺れるのをやめた。
この世界の何一つ、彼のためになんて存在していないようだった。
何一つ、誰かのためになんて存在してなかった。
彼も含めて、何もかもが、そこに在るだけだった。
それは別段、彼もまた誰かのために存在する必要がないという事だった。
…僕は許されてるのだろうか?
もしかしたら最初からずっと。
そして、最近は綾波の世界からも。
僕は、存在を許されてるんだろうか。
…僕は、この世界に居ても、いいのかな。
彼の中で何かが加速した。
何かが内側で組み立てられ始めた。
トンボがふとすぐ目の前を横切った。
四つの透明な羽がかっこよかった。
夕日の光を吸収して五割り増しぐらいでかっこよかった。
なので、君のこと好きになってもいい?と心で囁いた。
そう?僕は別に君が好きじゃないけど
知ってる。だってそこに在るだけだもんね。
うん
でも、僕は好きでいていいかな
いいよ~
トンボの羽がおっけいサインを出す様に揺れた。
それから、綾波の目みたいな夕日に飛んで見えなくなった。
痛いぐらいの赤を見ながら彼は思った。
綾波は、どうやらいつも絆を確認しようとしてる。
でもそれはもしかすると、絆がなくなることを恐れるよりも、むしろ絆がなくなったことを、確認しようとしてるのではないか。
だって、彼女も何処かに帰りたがってる。
でも、多分、絆がきっと彼女を縛り付けてる。
まるで漁の網にかかった魚みたいに。
きっと綾波は、海に帰りたがってる。
ふと、マグカップを買おう、と彼は唐突に思った。
綾波に許可をもらって、彼女の部屋においてもらおう。
今度からいつでも一緒に飲めるように。
そうやって少しでも、絆でがんじがらめになっちゃうように。
彼女がもう、何処にも帰れなくなっちゃうように。
綾波が生涯、決して、何があろうと、もう帰れなくなっちゃうように。
彼はじっと夕日を見た。
その分だけ彼のまだ幼なさを残す、端正な面差しを赤く照らした。
もう、涙の跡はとうに乾いていた。
でも、子犬の様なつぶらな瞳は少しだけ腫れていた。
その瞳に半分だけ、さすように鈍く赤い夕日の光が差していた。
ちろちろと、ちろちろと。
どん、どん、と彼の中で何かが鼓動するようだった。
それが脈打つ感覚にゆだねるまま彼は帰り道を歩いた。
まだ首も手足も細い少年の陰が、輪郭だけ赤く浮いていた。
どうやら世界は美しく、価値がある様だった。
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