リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
「ユーアーナンバーワン!」
それは突然告げられた。
ミサトのその声に虚をつかれ、シンジはエントリープラグでぼんやりとした。
「シンジ君、あなたシンクロ率でアスカの記録抜いたわ。こんな短い期間で大したものよ」
「あ、ありがとうございます…」
本来ならそれはアスカの居る場で言うことではないだろう。
この一件だけでもミサトは無神経と言われてもしかたがなかった。
当然言ってから後悔しても後の祭りで合って。
あちゃー、とミサトは内心で自分をしかりつけた。
アスカはエヴァのパイロットであることに誇りをもっている。
当然そのプライドは傷ついたはずだった。
モニターのアスカを見る。
一瞬驚いたように目と口を丸くし、それから、不機嫌に眉をひそめた。
その百面相を見ながら、でも言ってしまったものはしょうがない、と。
「あー、っと、アスカだってまだ参号機に慣れてないだけで、きっとすぐ記録更新するわよ」
そのやや無責任な誤魔化しに、アスカは目を光らせたままうんともすんとも言わなかった。
「ええと、じゃ、シンクロテスト終わり。二人ともご苦労様」
と言ってミサトは再び誤魔化すように笑った。
アスカは、最近ようやく男女別になった更衣室で一人着替えた。
すると突然、ロッカーを拳で叩いた。
驚くほど大きい音が響いた。
ぐしゃ、とロッカーの扉がゆがんだ。
彼女は肩で荒い息をしていた。
でも、それから、コン、と軽く頭をロッカーに押し当て。
ふ、と。
まるで何かに疲れてしまったかのように、肩を落とした。
青 《オウナⅠ》
・Ⅰ
空は澄んでいて、西日は輝いていた。
まだ空は青の面積が多く、だが斜陽はまぶしかった。
夕方に分類されるであろう、そのもう一つ手前の空であった。
シンジはアスカの数歩後を歩きながら、ぼんやりと思った。
アスカにシンクロ率で勝った。
確かに嬉しいような気持ちもする。
でもやっぱりいまだにエヴァそのものには思い入れのない彼にはいまいちぴんとこないのだった。
アスカはどう思ってるんだろ?
さっきから無言だった。
もしかして怒ってるんだろうか、と不安げに眉を下げた。
一瞬謝ろうかと口を開いて、でも謝るのも何か違う気がして。
何度かの逡巡の後、口を閉じた。
すると。
「四号機、もう配備はされてるんだってよ」
突然のその口調にはやや不機嫌な成分が含まれていた。
でも彼女から話しかけてくれたことに彼は少し安心した。
「そうなんだ?」
「うん」
「なんで知ってるの?」
「加持さんにたまたま会って聞いただけ」
「…ミサトさんは何にも言ってないけど」
「ミサトだからでしょ」
冷たいような、そっけないような口調だった。
その口調に少し眉を下げる。
それから気になってることを言った。
「新しいチルドレンって、どんな人なんだろ?」
「案外知ってる奴かもよ」
アスカがつぶやいたその言葉にシンジは思わずオウム返しで答えた。
「知ってる人?」
じゃあ。
「やっぱり、綾波が復帰するんじゃないの?」
なぜか、そこで会話が途切れた。
しばらく沈黙が続いた。
シンジはやっぱり手持無沙汰で、ずっと先まで続いてる金網にとててて、と指を走らせた。
彼女の髪色と斜陽の緋色が融和し始めていた。
艶やかに、光る様に彼女の髪を明るく輝かせていた。
彼女の後ろ髪を見ながら、やっぱりアスカの髪ってきれいだな、と、もはや何百回目かわからない感想を抱いた。
すると、ぼそりと彼女は呟いた。
あんたさ。
「今日、夕食作るの?」
「…うん。何がいい?」
「なんでいつもあたしに聞くのよ」
「え?なんでって」
すると、彼女はたまには、と言った。
「あんたの好きなもの作れば」
「僕の好きなもの?」
ううん、と彼は悩んだ。
しばらくのあと彼はつぶやいた。
「…どうしよう?」
「…どうしようってあんた」
何か呆れたような声で彼女は振り返った。
そのまま危なげなく後ろ向きに進みながら言う。
西日が彼女の片側だけ照らしていた。
その落差の分だけ彼女の顔立ちの端正な凹凸を際立たせた。
それを見ながら、アスカって美人さんなんだなあ、と彼は今更のほほんと思った。
「まさか好きな食べ物とかもないわけ?」
「うん、特に。嫌いなものもあんまりないけど」
すると、じっとアスカはシンジを見つめた。
相変わらず睨んでるような、でもどこか底の見えない目。
でも西日の光は、彼女の瞳を半分だけ赤く染めていた。
それから、ふ、とため息をついた。
「あんたってさ」
「うん」
「ほんと変な奴」
「…そうかな」
「そうよ。」
その断言する口調に何か感じるものがあって、彼はよくアスカを観察した。
でも、彼女はすぐに振り返って、また後姿しか見えなくなった。
ふさふさと、長い髪が斜陽に照らされて、艶やかに右に左に彩られた。
「…あんた、好きなもの何もないの?」
「うん…?」
彼は少し悩んで。
「よく、わかんないや」
「…空とかは?あんたそればっかり見てるじゃない」
「そう?」
彼は金網の向こうのオレンジっぽい空を見た。
入道雲は気のせいか昼間より固形ではなかった。
その分だけどこか薄く、透き通っているように思えた。
だが雲の輪郭だけは、まだここにいるよ、と主張するように斜陽で輝いていた。
確かに空や自然は好きかもしれなかった。
でも、シンジにとってそれは生きるために必須であって好き嫌い以前のものであり。
「好き、っていうのとは、少し違う気がする…」
「どう違うわけ?」
「どう、って言われても…わかんないや」
少し間があった。
それからアスカは少し不機嫌そうに。
「…他には?」
「他?」
「好きなゲームとか映画とか本とか女優とか、そういうの」
「…特に、ない、かなあ?」
一瞬ブレイク詩集が浮かぶが、やはりそれは好きという感覚とは少し違う。
でも、やっぱりその感覚を言語にすることはまだ少年にはできなかった。
すると、アスカは何事もないようにこうつぶやいた。
じゃあ。
「あたしの事、好き?」
一瞬、間ができた。
西日が相変わらず彼女をかぶるように光らせた。
でも彼女は振り向きもせず、後姿のまま歩いた。
シンジは迷うことなくアスカが好きだった。
でもそれがどんな成分で構成されてるかなど彼にはわからない。
友情か、恋愛か、家族か、仲間か、その他なのか。
あるいはそのごちゃまぜなのか、わかろうともしていない。
彼はそもそも感情や感覚に名前を付けるのが好きではなかった。
なにか無理やりな型を当てはめられて窮屈になる感覚があるからだ。
だって言葉の形に削られる残りカスだって、本当の感情や感覚に違いないのだ。
本物と偽物に区別されるのは、ただ型の内か外か、でしかないのだった。
ならそのままでいいじゃない、と彼は思うのだった。
彼はもうずっと感覚世界の住人だった。
グラデーションの幼子の海にまだ腰ぐらいまでは浸かっていた。
そんな彼にはその海水を別々の小瓶に仕分けるような区別と分別の言語世界は少々窮屈だった。
例えば彼は綾波が好きでしょうがないが、その感情の名も種類も知らない。
そして髪の毛一筋、また一粒子ですらも何かがこぼれ削られてしまうなら、彼は生涯それを言語にしないだろう。
だからどう答えるべきなのか少しだけ迷った。
でも、ただその返答に答えるだけなら、何も削られはしないと気付いて。
そっと、彼は答えた。
「…うん」
しばらく、間があった。
なんでそんなこと聞くんだろうと、さすがに少し恥ずかしくなってシンジは頬を染めた。
ずっと沈黙が続いた。
どうしたのかな、と彼女の後姿を見た。
すると、突然ばっと彼女が振り向いた。
目を瞬かせていると、乱暴に手首をつかまれる。
「あの、アスカ?」
彼女は答えずそのまま彼の腕を引っ張って走り出した。
シンジは一瞬転びそうになって、でもなんとか体勢を立て直した。
「ア、アスカ!」
何かの衝動にかられるように彼女は走った。
全速力に思えた。
そのまま引っ張られるように駆け出した。
だから彼はとうとう前から思っていたことを口にした。
「ねえアスカ!口で言ってよ!ちゃんと伝えてよ!」
「うっさいっ」
アスカはシンジの腕を引っ張ったまま全速力で駆けた。
彼はついていくのに必死だった。
青とオレンジが両立するような空を背景に二人の影が走った。
彼女はすぐ汗の玉が散って、それでも彼女は走るのをやめなかった。
空が明るく輝き始めていた。
まだ本格的に赤くはない、でも緋色に輝く、夕日の手前の空だった。
つまり、アスカの髪の色の時間だった。
その光に彩られ、彼女は何かの焦燥に駆られているかのように走った。
走った。
走った。
坂を下って、公園を横切って、ただ走りぬけた。
彼はただ手首を引かれたまま必死について行った。
でも、なんとなく、彼女がどちらの方向に向かおうとしてるのかわかり始めていた。
どうやら、学校のようだった。
もしそうなら、あの角を曲がるはずだった。
すると予想通り、彼女は曲がった。
手首を握られたままだったので、振り回されるように彼はアウトコースにそれた。
でもそれを予想していたので彼は危なげなくコースに戻った。
行き先が分かったのなら、彼女に引っ張られるまでもなかった。
彼は速度を上げた。
手首を握り合ったまま彼女の隣りまで並行する。
彼女が一瞬驚いたように彼を見た。
すると、怒ったように眉を吊り上げてさらに速度を上げた。
本来なら彼もついていくのがやっとの速度だった。
でも、彼も負けない様に速度を上げた。
訓練のおかげでずいぶん体力がついていた。
いつからか、彼も彼女の手首を握り返していた。
汗が湿ってそのしっとりとした感触と熱を彼に伝えた。
互いの手首を持ち合い、どちらが先か、というように走った。
もう手を握り合う必要もなかったのだが、どちらも気が付いていないようだった。
目の前に公園の進行ガードの手すりが見えた。
本来は横にそれるのだが、もし学校まで近道するなら公園を突っ切ったほうが早かった。
どうするだろうと思い、いや彼女はきっと、と彼は思った。
だから、二人は同時にジャンプしてガードを乗り越えた。
公園を抜けて道路を走った。
はあはあ、と彼は息を切らしていた。
彼女だってそうだった。
でもまだ彼より余力はあるようだった。
さすがに訓練に費やしてきた時間の差だった。
走る先に自転車駐輪禁止のポールがあった。
ちょうど両脇を二人は通って、同時に腕を上げた。
そのアーチの下をポールはなんなく通過した。
しばらくまっすぐな道が続いた。
空はますます斜陽でまぶしくなっていた。
青空の面積はまだ多かったが明白に赤が増えていた。
何よりも地面に走る斜陽の光がひどくまぶしかった。
つまり空ではなく、陸が一番輝く時間だった。
緋色の地面のまぶしさに目を細めた。
少しだけペースを落としつつ、でも二人は走り続けた。
握った彼女の腕は汗ばんで少しねっちりしていた。
彼を握る彼女の手からも汗ばんだ熱が伝わった。
走る先に二人の背丈ほどのフェンスがあった。
当然それるべきだが、学校に行くなら飛び越えてそこを突っ切ったほうが圧倒的に早かった。
でも、彼はこれはさすがに迂回すべきでは、と思い。
でも、手首から伝わる湿った彼女の手に、力が入ったのがわかった。
だから彼も一瞬迷って、でも彼女を握る手に力を入れた。
少しでもタイミングがずれたら大変だった。
どちらかに引っ張られてケガすること必須だった。
慎重にタイミングを計った。
彼女も図る気配がした。
3、
く、と手を引っ張られる感覚があった。
どうやらまだだったらしい。
ふ、と息継ぎをして彼はもう一度測った。
3、
2、
1。
二人は手首をつなぎ合ったままフェンスを登り、ぴょん、と飛び越えた。
明るく、まだ青が残る空に二人の影が残った。
斜陽の光はその二つの影の輪郭をオレンジに輝かせた。
危なげなく着地した。
見事な連携だった。
今のは結構な難易度のはずだった。
一歩間違えれば怪我してたっておかしくなかった。
彼は何か楽しくなってきて、息を切らしながらもっと駆け出した。
彼女の息も、気のせいか弾んでるように思えた。
つい彼女の表情を確認したくなって、でもその余裕はなかった。
次が最終コーナーだからだ。
ラストスパートだった。
ぽつりぽつり、と帰り路を歩く生徒が逆走する二人を何事かと振り返っていた。
先に校門に脚がついた方が勝ちだった。
相変わらず腕を握ったままお互いに、我先にと走り。
まったく同時に、校門を踏み越えた。
そのまま、ゆっくり速度を落とした。
一瞬、膝から崩れ落ちそうになった。
校庭に入って、もう二人はくたくただった。
びっしょりになって、激しく息を切らした。
ネルフ本部あたりからバスも使わず学校まで走ったのだから当然だった。
ふと、ようやく意味なく腕をつかみあったままなのに互いに気づいて、汗でねちょねちょの腕を離した。
二人はとにかく水分が欲しくって校庭の水道からごくごく飲んだ。
彼はついでに頭から水を浴びた。
全身が灼熱のようだった。
彼女も似たようなものだった。
さすがに頭からかぶったりはしなかったが、前髪を上げて顔に水をかぶり少しでも熱を冷やそうとしていた。
「いま、あたしが、先、だったわよ。」
すると突然アスカがそんな理不尽なことを息を切らし切らし言いだした。
さすがの少年もこの暴虐は無視できようはずもなかった。
彼は正々堂々と抗議の声を切れ切れ上げた。
「違う、よ、同時だった。」
「はあ!?あたしが、先に、脚、ついたわよ!」
すると彼女も眉を吊り上げ理不尽かつ猛然と言い返した。
だが彼もこのときばかりはその暴虐に一歩も引かなかった。
「同時、だった!」
「あたし、だった!」
「同時!」
「あたし!」
「同時。」
「馬鹿シンジ」
自分ではなく同時、と主張するのが少年らしかったのかもしれなかった。
だから彼女は何か言おうとして。
でも、まだ呼吸が落ち着かない様子で、しかたなく黙った。
二人はまだ息を切らして、よたよた歩いた。
それから水道のそばの、校舎のふちのあたりに隣り合って座ってぐったりした。
今更、セミの声が意識に入ってきた。
でも、そろそろ休む時間なので控えめな鳴き声が多かった。
校庭にはまだ生徒たちはぽつりぽつり残っていた。
運動部はまだまだこれからが本番らしかった。
明るいような、赤いような光が校庭と、運動部の生徒と、帰りゆく生徒たちの輪郭を光らせていた。
また少し、空の青が減っていた。
その分だけ地面はもうそれほど赤く光っていなかった。
どうやら予行練習を終えて活躍の場を陸から空に移し始めるようだった。
ゆるく風が吹いた。
でも、熱した体にはそれでも十分涼しかった。
そうやって二人はぼんやりと、空を見上げたまま体を休ませた。
「…そういえば、なんで学校来たの?」
ようやく息が落ち着いて、そう尋ねる。
無言だった。
なので横を見た。
彼女のシャツから下着が汗で透けて見えた。
肉が反応してしまったら困るので、すぐに目を反らした。
相変わらず彼の肉はアスカに過剰反応するのだった。
すると、彼女を立ち上がり、ぱしぱしとお尻についた砂をはたく。
それから改めて彼の腕を取り歩き出した。
「…アスカ?」
成すがまま引っ張られて、立ち上がる。
と、ふと。
彼は彼女の右の拳が何かにぶつけたように赤くなっているのに気づいた。
人差し指と中指の拳は少し変色すらしていた。
痛そうだった。なので彼はちょっと眉をひそめた。
でもとりあえず、黙ってついて行った。
校舎の中は赤と黒のコントラストが際立っていた。
雑に靴を放置して、靴下のまま廊下を進む。
まだそこそこ生徒は残っている様だった。
だから、汗びしょびしょで腕を引っ張ってる二人をすれ違う生徒が奇異の眼で見た。
彼は目立つのが恥ずかしくて頬を染めた。
でも、彼女はお構いなしだった。
他者の眼などどうでもいいようだった。
アスカラングレーの逸話がまた増えるのかもしれなかった。
それからどうやら目的の場所についたらしくて、彼はその部室のプレートを見上げた。
音楽室。
「あんたらどいて。」
部室のドアを開けるなりそう彼女は言い放った。
部室に残って、どうやら帰り支度をしていた数人は目が点になっていた。
え?とピアノに座っていた女学生も目を丸めた。
するとアスカはその生徒に近寄り。
「どいて。」
仁王立ちで見下ろして宣言した。
それから、あの、という女生徒と、他にも残っていた生徒を彼女は引っ張って部室から追い出した。
その一連のあまりの暴虐さにシンジはしばらく頭が空白になっていた。
「あ、あのアスカっ」
それはさすがにどうなのと思い、でも彼女は無視して。
鍵当番はあんた?と上級生らしい女生徒に聞いた。
は、はい、と返事した。なんか敬語だった。
あたしが代わりにやっとく、と言って鍵を奪うと、改めて追い出した。
生徒たちの抗議の声もついでに無視して、それから勢いよくドアを閉め。
それから、後ろ手にかちり、と鍵を閉めた。
「弾いて」
そのままアスカはドアに寄りかかったまま低く言った。
彼はもう、一体なにがなんだかで頭が上手く回らなかった。
「弾いて。」
囁く様なその呟きに。
なんとなくシンジはしどろもどろになりながら返した。
「…ピアノ、を?」
「当たり前でしょ」
あんた馬鹿?とでも言いそうな口調でそう言われた。
あ、ごめんと口にしそうになった。
「…最近弾いてないから、うまく弾けるかわからないけど…」
「いいから」
「…何の曲を?」
彼女は少し悩むような様子を見せた。
それから思いついたようにこう言った。
「ヒカリに聞かせた曲」
「え、洞木さん?」
彼は予想外の名前を聞いて目を瞬かせた。
「ピアノ聞かせたんでしょ、あんた。」
「いや…弾いてたらたまたま洞木さんが聞いてたというか…」
それに、ふうん?と鼻を鳴らした。
「じゃあ、それ」
「えっと」
「それ」
「あの「それ。」あっうん」
彼はちょこんとピアノの椅子に座った。
でも、こんな落ち着かない状態では弾けると思えなかった。
『貴方』を弾くのであればならなおさらだった。
「…少し、待ってて」
だから、彼はそっと窓から夕暮れの空を見た。
彼はいつまでたってもうんともすんとも言わなかった。
だから彼女はさすがに声をかけようとして、でもつぐんだ。
彼はずっと空を見ていた。
地平線は赤く、なのに空はまだ青い。
つまり、こいつが一番空を見たがる時間だった。
だから彼女は黙って待った。
すると、ようやく彼が視線を戻して鍵盤に目を落とした。
彼の横顔はあいかわらずひんやりしていた。
でも、いつにもましてそっけないような、冷たいような。
まるで自分の世界から全てを追い出す様に、彼は近寄りがたくなっていた。
そして、彼はそっと音を鳴らした。
それは、夕日が地平線に沈むときに鳴る音のように思えた。
もしくは空の色が移り変わる時に響く音なのかもしれなかった。
それとも黄昏から夕闇に移行するときを音にしたらその旋律になるのかもしれなかった。
あるいは、もしかすると、その夕闇の向こう側にいる誰かに届けようとする曲なのかもしれなかった。
彼女は気づかぬまま口を開いて、その音が聴覚を貫通して直接彼女の内面を揺らすのにまかせた。
そうして、彼女の奥の方に届いて、ぽい、と置かれていった。
演奏が終わった。
だから彼はしばらく演奏の余韻に浸ってから、おずおずと、たずねた。
「…どうだった?」
彼女はうんともすんとも言わなかった。
もう部室は大分赤黒く、薄暗かったので表情はよく見えなかった。
でも、どうやら何かの葛藤があるようだった。
激しい葛藤があるようだった。
するとしばらくの後絞り出すようにこう言った。
その声は少し、掠れていたが。
…そこ、そこ…
「…そっか」
部室を出て、鍵を閉めた。
それから暗くなり始めた廊下をぼんやり歩く。
なんか反応がいまいちで、彼は眉を下げた。
そもそも人前で演奏するつもりなんてない曲だった。
誰かに聞かせる気もなかった曲だった。
でも、それでもやっぱり。
せっかく弾いたのに鈍い反応の彼女に彼はしょんぼりとしてしまった。
先導する彼女が廊下の角を曲がったので追いしょんぼりで彼も曲がった。
すると、突然襟首を引っ張られた。
それから、どん、と背中を壁に押し付けられた。
いた、と呟く寸前。
唇に、痛みが走った。
アスカの唇と気付く前に、激しくかぶせる様に口をふさがれていた。
貪る様だった。
激しく舌を押し込まれ吸い付かれた。
どちらともなく、ごくと嚥下する音が鳴った。
彼女の荒い鼻息がこそばゆかった。
自分もそうだろうと、彼は思った。
とっさに彼は彼女の肩に手を置いた。
薄暗い廊下に、吸い付く様な、飲み込むような音がしばらく鳴り響いた。
次から次に唾液が出てきた。
どちらがどちらのかさっぱりわからないまま互いに絡ませ、ごく、と飲み込んだ。
呼吸が苦しくなった。
するとようやく唇が離れた。
むさぼるように呼吸を整えようとした。
と、思ったらもう一度かぶせる様に口づけをされた。
歯と歯が当たりそうなほど深かった。
三度四度、舌を絡め合った。ひどく熱い舌だった。
それから、今度こそ唇を離した。
唾液の橋が折れて、彼の口元にぺた、とかかった。
舌の熱の余韻がまだ口中に残っていた。
あまりに熱くて自分の舌が溶かされたようにも思えた。
と思ったら、また噛むように一、二度舌を絡め。
それから彼女はまるで自分自身から引き離すかの様に、彼をどん、と壁に押し付け。
「鍵、返してくる。」
低くそう言うと、だん、だんと足音を立てて階段を降りて行った。
遠ざかっていく荒っぽい足音を聞きながら、彼は荒い息のまましばらく放心した。
放心した。
放心した。
もっかい放心した。
「ア、アスカあ」
それから、情けない声を上げて、へなへなと壁に寄りかかったまま座り込んでしまった。
信じられないぐらいそこが固くなっていた。痛いほどだった。
少しでも動いたら溶けてあの液体が出てきそうで怖くて身じろぎもできなかった。
口の周りの唾液を手の甲でふき取った。
少し糸を引いた。やっぱりどこからどこまでが彼ので彼女のかわからなかった。
それから彼はつい舌を確認した。
どうやら、溶けてはいないようだった。
でも下唇が裂けたようで、少し血が出ていた。
彼はもう、ひどく翻弄されっぱなしで、くったりとした。
ぶつけられた肩と背中のひりひりした痛みと、ひどく熱かった舌の余韻でもうしっちゃかめっちゃかだった。
彼は思った。
わからないよアスカ。君はどうしたいの。僕にどうしてほしいの。
君が何を考えているのか教えてよ。
「ちゃんと伝えてよ…」
思わず独り言を呟いてしまって。
それから膝の間にうなだれた。
そうして、彼はただ、荒い息のまま少しでも早くそこが落ち着いてくれるのを待った。
地平線は青く輝いていたが、もう赤はどこにもなかった。
ずいぶんたってから彼女は戻ってきて、共に無言で校舎を出た。
彼のそこも何とかどうにか落ち着いてくれていた。
それに安堵する。
でも何か気まずいような空気があった。
何を話せばいいかわからなかった。
無言のまま二人で校庭に出て、ぼんやり青黒く光る空を見上げた。
シンジはふと、呟いた。
「…もしかして学校に来た用事って、これだったの?」
ピアノの演奏。
するとアスカは、ひどくそっけなく答えた。
…そうなら、どうだってのよ。
彼はただ、不思議そうに先を歩く彼女の後姿を見つめた。
でも、校門を出たところで、彼女が帰り道とは逆の方向に曲がった。
あれ、と思い。
彼は一瞬、帰り道の方を見た。
それから振り返って彼女の後姿を眺めた。
青暗くなり始めた空に彼女の緋色がうっすら浮かび上がってるようだった。
まるで、夜に何かが灯り始めるたのようだった。
綺麗だな。
やっぱりアスカの髪って綺麗だな、などと思ってしまった。
だから彼は少し目を伏せて。
それから彼女の香りをなぞるように、静かに彼女の後をついていった。
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次話 Ⅱ『まだ失われる前の一人の少女』(仮)