リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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3-3 少年と巨人

 

 

 

 

 

 

 

 

日が暖かった。

 

レイはいつもの浜辺で黒い冬服のセーラー服のそでをまくった。

この気温では普段寒々としたその格好も暑苦しかった。

 

と、突然、その指先に何かがとまった。

 

モンシロチョウ。

 

まじまじと見て、だがその視線に怯えるように飛び去ってしまう。

思わず手を伸ばして、でも届かずに蝶はどこかへ行ってしまった。

 

ぼんやりとそれが去った先を見つめていると、さくり、と砂浜が鳴った。

 

「今日は暖かいね」

「そうね」

「まるで春みたいだ。いや、知らないけどさ」

 

彼はあたりまえのように彼女の隣に並ぶと、彼女の視線の先をなぞった。

 

「蝶を見たのは初めて?」

「うん、初めて」

「…ずっと冬だったのに、今までどこに居たんだろう?自然って凄いね」

「そうね…」

 

彼女はまだぼんやりと蝶が飛び去った空を見ていた。

彼も同じく空を見つめながらどこかのほほんとした口調で言った。

 

「ところで、この陽気は何時まで続くって?」

「一週間くらい」

「そっか。短い春を満喫できそうだね。しかし、ずいぶん海も遠くなったね。影響は?」

「多少、地図を書き直さないといけないだろうって。平均気温もこの先ずっと2、3度上がるかもしれないって」

「寒がりの僕には朗報だね。常夏の地域の人は可愛そうかもしれないけど」

 

そして彼はしみじみとこうのたまった。

 

「ちなみに今日は君タイツ履いてないんだね。眼福」

「どうして?」

「女子中学生の生足見れたんだもの。おかげでおじさん今日一日元気一杯」

「ロリコンだから?」

「うん、女子中学生と友達になれたから嬉しくてさ。おじさん年甲斐もなく最近うかれちゃって」

「変態さんね」

「変態だね」

「ねえ変態さん」

「ん?」

「さっきから聞きたかったんだけど」

「僕と君の仲じゃない。遠慮せず言いなよ」

「そう…じゃ聞くわね」

「うん」

「あのね」

「うん」

「つまりね」

「うん」

 

彼女はぞっとするほど平坦な声でこう言った。

 

「その肩車してる女の子、誰?」

 

彼はあっけらかんとこう答えた。

 

「ああ、この子?実は僕の隠し子なんだ。ほらミサトちゃんご挨拶」

「図らずも隠し子のミサトちゃんです。よっろしくう!」

 

ずっと彼に肩車してもらいながらぼへ~と海を眺めていたミサトちゃんは元気一杯に挨拶した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・Ⅲ 『少年と巨人』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ、流石の僕もこんな気合の入った平手打ちは初めてかも」

「私もこんな気合で人殴ったの初めてよ…」

 

彼は砂浜に座って、ひりひりと痛む頬を撫でながら苦笑いした。

 

「隠し子なんて冗談に決まってるじゃない。まさか信じるとは思わなかったよ」

 

波打ち際でミサトちゃんが凍った波の欠片を珍しそうにつんつん突いていた。

その少女の後姿を少し優しげに見ている彼を横目に、とてもとても平坦な声で彼女は囁いた。

 

「貴方なら隠し子が居てもおかしくないでしょ」

「えっ?そんな風に見える?」

「貴方意味不明だもの。何隠していても驚かない」

「いや、流石の僕でも隠し子なんて…」

 

居ない、よ、ねえ…?

 

彼は少しだけ不安そうに首を傾げた。

彼女はその様子を殺し屋のような冷徹な目で眺めた。

 

「それで…あの子一体誰なの」

「いやあ昨日知り合ってね」

「…昨日?どこで」

「ここで」

「…何をどこから突っ込めばいいの…?」

 

彼は少し微笑む。

 

「実を言うと古いなじみでね…昨日のあの戦いの後再会したの。まあ、込み入ってるから、機会があれば話すよ」

 

と、何かごそごそし始めた彼をじろっと睨む。

 

「貴方そればっかりね」

「確かに。そっちはどうだった?」

「…深夜までずっと検査とテスト」

「異常は?」

「私には無かったわ。最終号機の方と、第三眼の影響はまだ調査中」

「そっか…なら良かった」

 

彼は心底そんな風に言って、だから彼女は何か、ぷりぷりしてる自分が馬鹿らしくなってしまった。

大きく息を吸い、ふう、と吐く。

 

「…貴方、さっきから何ごそごそしてるの」

「いや煙草…ああ、まいった。ようやく補充したのに忘れたみたい…君煙草持ってる?わけな」

 

と彼女は彼の目の前に小さな箱を差し出した。

ショートホープ。

 

彼は目を丸くして本気の混じったトーンで言った。

 

「…驚いた。君煙草吸うんだ?」

「吸うわけないでしょ」

「あー…つまりわざわざ下の街で?」

「そうかもね」

 

その台詞に苦笑いしつつ。

 

「…ありがとう。じゃ、ご厚意に甘えちゃう」

 

慣れた手つきで火を点ける。やはりそんな仕草が妙に似合う男だった。

だが、煙草に意識を向けてるその横顔は無表情で。

全てを拒絶するようにすら見えて、だから彼女は思わず口走った。

 

「横顔…」

「うん?」

 

ぷか~と旨そうに煙を出す。

 

「…横顔、私に向けないで」

「どうして?」

「貴方の横顔…冷たくて、嫌い」

「そ…」

 

彼は困ったような顔で言った。

 

「それは…自分じゃ分からないなあ…」

「そうでしょうね」

「…僕は別にそんなつもりは無いよ?」

「知ってる。でも向けないで」

「ふうん?…りょーかい」

 

と彼が突然、ごろんと横になって、彼女の膝の上に頭を乗せた。

 

「これで良い?」

 

彼女はきょとんとし、でも拒絶せず静かな口調で囁いた。

 

「…ねえ、住所不定無職のロリコンおじさん」

「それはこの辺一帯じゃ僕しか居ない。呼んだ?」

「中学生に買ってもらった煙草、おいしい?」

「旨いからまいっちゃう」

「あまつさえ昼間から仕事もせず、女子中学生に生足で膝枕してもらいながら日向ぼっこするってどんな感じ」

「わが人生に一片の悔いも無いって感じだよねえ。」

 

彼はすっと目を細め割かし真面目な口調でそう言ってのけた。

 

彼女は太ももに彼の頭の重さを感じて、髪のさらりとした感触が少しくすぐったくて。

何となく、その短い一房を指で遊ばせた。

 

そしてそっと呟いた。

 

「…エヴァって、何?」

 

その唐突な質問に、彼は何事も無いように返した。

 

「それは使徒って何?って言うのと同義だね」

「使徒って何?」

「それは、人は何かと聞くのと同じだね」

「…人って、何?」

「それは、生命って何?と、同じ意味だね」

「生命って、何」

「それは宇宙は何って聞くのときっと同じだね」

「…理解出来ないと言う事しか、理解できないものなの?」

「そうかもしれないね…あるいは、この先もずっと、永遠に」

 

そのまま二人は口をつぐんで。

でも少しの間の後、彼は浮かんで消える煙を見ながら、まるで壊れ物に触れるように囁いた。

 

「…怖い?」

「…うん」

「当然だよ。あのエヴァ恐ろしく強かったからね…あれの残骸の調査は?」

「ようやく回収して今は解凍中」

「ああ…そりゃ左手もろだもんね」

「そうね。そっちも数日はかかるって」

「それまで調査はお預けか」

 

彼女はひっそりと言った。

 

「…あんな禍々しいエヴァ、資料じゃ見た事ない」

「そうだね。僕もあんなエヴァ初めて見たよ。邪悪の塊みたいな外装だった…怖かったろう?」

「…うん」

「その上信じられないくらい強かった。だから仕方ないよ。君のせいじゃない。

 むしろあれだけ使ってこの程度だったなら僥倖だよ。両手ってもっと凄いのかと思ってた」

「135%だったから」

 

彼女は平坦に言った。

彼も、同じくらい平坦に。

 

「…S2の出力?」

「そう」

「それって…」

「最終号機にはS2が十二機分搭載されてるんでしょ?

 でも、10年チルドレンをしていたのに、私今まで知らなかった。誰も教えてくれなかった…」

「するってーと、そういう事、かな」

「うん」

「そっか…」

「…たった二機分に満たない力ですら、地球にこんな影響が出てしまう。

 右手も左手も第三眼もマハのシミュレーターで何度も使ってるわ。でも…」

「うん」

「貴方の言った事、理解できるわ。…狂ってる。もし全部のS2使ったらどうなるの?」

「使い方が悪ければ半分だって多分、地球もたないね。下手すると三基起動とかでも…」

「欠陥兵器なんてものじゃないわ。強力過ぎて味方も巻き込むからまともに使えないなんて…」

「気が、狂ってるね」

「ええ、狂ってる」

「だから、よく勝てたね」

 

太陽のその柔らか味のある暖かさに目を細めながら、彼はこう続けた。

 

「よく頑張ったね。君は本当に…立派だ」

 

もちろんその台詞に演技じみた成分など欠片も無く、正真正銘の誠意とまごころが篭められていて。

だから彼女はそっと小さく、幼子のように囁いた。

 

「…うん」

 

 

 

空の青さは水色に近くて、確かに冬の空とははっきりと違う気配に満ちていた。

 

まるで優しく撫でてくるようなその気温と太陽の絶妙な眩しさに、これを春と呼ぶのか、と彼女は目を猫のように細める。

 

すると、うおおおおと遠くでミサトちゃんの声が聞こえた。

観察してみるとどうやら蟹的な何かに指を挟まれたようだった。

良い仕事ね、と彼女は蟹的なそれを心で賞賛した。

 

「…不思議」

「何が?」

「まだ一週間も経ってない」

「知り合ってから?」

「ええ…なのに、ずっと昔から知ってる気がする」

 

不思議ね、と彼女は独り言のようにもう一度呟いた。

 

「なら、きっと相性が良いんだよ」

「私と貴方が?」

「そう。人との間に時間なんて必ずしも関係ないさ。ゼロはいくつかけてもゼロだからね」

「…そうかもね」

「そういうものさ」

「ねえ」

「ん?」

「約束」

「どんなだったっけ?」

「まず…名前から、教えて」

「昨日教えたじゃない」

 

彼女は目を丸くした。

 

「いつ?」

「ほらほら、あれあれ」

「…はっきり言って」

「信じられないくらい怪しい変なおじさん、略して?」

 

彼女は少し思案して、それからゆっくりと、彼の名を呼んだ。

 

「…し、んじ?」

 

 

彼は、その深海のような青い瞳でそっと微笑んだ。

 

 

「僕を呼んだ?綾波。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジは、その子犬のような黒い瞳をうっすらと開いた。

 

 

最初に知覚したのは消毒液のつんとした匂い、ついで、知らない天井。

 

それから、遠くから聞こえる、蝉の声だった。

 

うめき声を上げながら上半身を起こした。

衣服のその滑らかな、あまりなじみの無い感触に視線を落とす。

 

水色の病院服。

 

状況がわからなくて、ぼんやりと窓を見た。

 

 

とてもとても綺麗な青空。

 

 

シンジはどうやら今日も生きていけそうだった。

 

 

 

 

ぼんやりと散策して、でもその白い病院には誰もいなかった。

 

もしかすると世界が滅んで、僕だけが取り残されてしまったんだろうか。

 

ふと、そんな事を考えた。

 

 

 

 

すると、あまりに人気が無く殺風景な廊下に人の足音が響いた。

 

どうやらただの杞憂のようだった。

 

 

それと、ごろごろ何か転がす音。

 

廊下の向こうで看護婦の人がベッドを運んでいた。

 

やたら白いベッドだった。

 

すると、近くに寄るにつれ、それが人の形に盛り上がっている事に気づく。

 

 

白い、少女だった。

 

 

ひんやりと心地のいい掌の感触を思い出して、シンジは自分の右手を見た。

 

別に、濡れてはいなかった。

 

視線を戻し、ふと、その少女と目が合った。

 

 

やっぱり紅かった。

 

 

 

 

ベッドに戻ってぼんやりしてると、コツコツと足音が聞こえた。

 

 

その足音はそのあまりに白く静かな病棟を彩るように響いて、それ自体がその足音の主を物語っているように思えた。

 

何の根拠も無く、ああ、あの背の高い女の人かな、と思った。

 

その通りだった。

 

 

「入るわね、シンジ君」

 

その明るい陽気な声は、やはり白い紙に一滴の暖色を落としたように目立った。

 

その女性は、とりあえず無事で安心した、とやさしく、でもどこかおずおずと言った。

 

「体には何の異常もないから、すぐにでも退院できるそうよ」

 

そうですか、とシンジはぼんやり答えた。

 

「あー、それでね…今後の事なんだけど…」

 

お父さんとは、一緒に住めないの、と彼女はすまなそうに言った。

そうですか、とシンジはぼんやり答えた。

 

…お父さん?

 

父、さん。

 

「…父さん?」

 

がんがんと何か鳴り響いた。

 

…れ…

 

 

父さん。

 

 

…の…は……れ…

 

 

そうだ。

 

 

…し…ろ…で……か…れ…

 

 

僕は、父さんに、会いに来たんだ。

 

 

『乗るなら早くしろ。でなければ帰れ。』

 

 

 

 

 

 

 

 

その低い声を聞いて。

 

その時全身を巡った感情が何だったのかシンジにも良く分からなかった。

だが少なくともそれは、ずっと自失していたシンジを少しだけ覚醒させるには十分だったのだ。

 

ぼんやりとしていて、ただ流されるままだったシンジは、ようやく自分の立ち位置を確認するように周りを見回した。

 

見上げれば、背の高い男性の影。まるで巨人のように見える影。父さん。

隣には背が高くて髪の長い…ああ、かつ…ミサトさん、だっけ。

その一歩向こうには白衣を着た、金髪のボブカットの、ええと?わからない…。

 

そして、目の前には、巨大な。

恐ろしいくらい巨大なロボット。

 

車のボディのように輝く、上品で美しい薄紫色の装甲に、蛍光色の緑とオレンジのポイント。

その一角獣のような頭部は人のように目があって、何故か口までが付いていた。

 

シンジは一瞬、その巨人にまるで深海魚みたいだ、という不思議な印象を持った。

 

何故かその鬼の様な、あるいは悪魔の様な顔が、神話や御伽噺の中に登場するような巨大な魚や、

あるいは神秘に包まれた未知の海洋生物のように見えたのだ。

 

そしてシンジはとうとう、そのエヴァ初号機という神話世界の巨人以上に、

自身の感性やイマジネーションを刺激してくれる存在に最後まで出会えなかった。

 

同時に何かの確信を持った。

その時の彼にはそれはまったく意味不明だった。

 

ただ漠然と直感したのだった。

 

 

ああ、『始まる』んだな、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15/7/6


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